英国の Corsair 社から 2017年に出版された ガイルズ・ブランドレス作 「切り裂きジャック事件 / 解決」の裏表紙 (Cover Images : ARCANGEL) |
英国の TV 司会者 / 演劇プロデューサー / ジャーナリスト / 作家 / 元政治家であるガイルズ・ドーベニー・ブランドレス(Gyles Daubeney Brandreth:1948年ー)作「切り裂きジャック事件 / 解決(Jack the Ripper : Case Closed - 米題:Oscar Wilde and the Return of Jack the Ripper)」(2017年)の場合、1924年になって、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、諸事情により公開できなかった1894年の事件記録を発表すると言う形式を採っている。
1893年12月31日の夜に、事件は始まった。
ある場所において、彼は女性を煉瓦塀に押さえ付け、右手に小さな肉斬り包丁を握ると、彼女の喉を真横に切り裂いた。
彼女が壁に沿って地面に倒れると、彼は前屈みになって、彼女の身体の至るところを滅多刺しにした。実に、合計で39回も、彼は刺したのである。
切り裂きジャック(Jack the Ripper → 2024年5月22日付ブログで紹介済)の再来だった。
翌日の1894年1月1日、アーサー・コナン・ドイルは、ロンドン市内のオックスフォードサーカス(Oxford Circus → 2015年4月26日付ブログで紹介済)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在しているアイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、彼の友人でもあるオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)の元を訪ねた。
ランガムホテルの建物正面 <筆者撮影> |
1889年8月30日、ランガムホテルにおいて、以下のアイリッシュ系の男性3人が食事会を行った。
(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott’s Monthly Magazine)」のエージェントであるジョセフ・マーシャル・ストッダート博士(Dr. Joseph Marshall Stoddart → アイルランド生まれの米国人)
(2)新進気鋭の若い作家として売り出し中のオスカー・ワイルド(ダブリンの名門に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)アーサー・コナン・ドイル(アイルランドの血をひくスコットランド人)
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている オスカー・ワイルドの写真の葉書 (Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card 305 mm x 184 mm) |
この食事会で、ストッダート博士は、オスカー・ワイルドとアーサー・コナン・ドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。
アーサー・コナン・ドイルは、早速執筆に取り掛かり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート博士宛に送付。その作品が、ホームズシリーズの長編小説第2作目に該る「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月12日付ブログで紹介済)」である。
ロンドンの Metro Media Ltd. から Self Made Hero シリーズの一つとして出版されているグラフィックノベルの シャーロック・ホームズシリーズ「四つの署名」の表紙 |
事件の依頼人であるメアリー・モースタン嬢(Mary Morstan)の父親で、約10年前の1878年12月、インドから帰国した後、行方不明になったアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の宿泊先として、アーサー・コナン・ドイル達が食事会を行なったランガムホテルが使用された。
英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、 2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、 9 ❤️「メアリー・モースタン(Mary Morstan)」 |
「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、同時に掲載されたオスカー・ワイルドの作品は、あの有名な「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray → 2022年9月18日 / 10月8日付ブログで紹介済)」であった。
なお、アーサー・コナン・ドイルの原稿料は、4万5千語の作品で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたオスカー・ワイルドの原稿料は、アーサー・コナン・ドイルの倍の200ポンドだった、とのこと。
アーサー・コナン・ドイルが「ストランドマガジン(Strand Magazine)」の1891年7月号にホームズシリーズの短編小説第1作目に該る「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia → 2022年12月18日+2023年8月6日 / 8月9日付ブログで紹介済)」を発表して爆発的な人気を得る前のことであり、残念ながら、売れっ子のオスカー・ワイルドとは、それ位の開きがあったのである。
英国の Metro Media Ltd. から、 Self Made Hero シリーズの一つとして、2008年に出版されている オスカー・ワイルド作「ドリアン・グレイの肖像」のグラフィックノベル版の表紙 - 画家のバジル・ホールウォード(Basil Hallward)が描いた ドリアン・グレイ(Dorian Gray)の肖像画が表紙となっている。 |
アーサー・コナン・ドイルは、当初、作品の題名として「四つの署名」と「ショルト家の問題」という2つの候補を考えていて、「リピンコット・マンスリー・マガジン」のストッダート博士に最終判断を委ねた。
同誌の1890年2月号に掲載された際には、2つの候補を使用した「四つの署名、あるいは、ショルト家の問題(The Sign of the Four, or, The Problem of the Sholtos)」という題名が採用されたのであった。
それから4年以上の歳月が経過したが、その出会いを機にして、アーサー・コナン・ドイルとオスカー・ワイルドの2人は、友人関係を続けていたのである。
丁度そこに、ランガムホテルのベルボーイであるジミー(Jimmy)が、オスカー・ワイルド宛の電報を届けに来た。
オスカー・ワイルドは、アーサー・コナン・ドイルに対して、自分の代わりに、電報の内容を読むように頼む。
電報の差出人は、ロンドン警視庁(Metropolitan Police)、即ち、スコットランドヤード(Scotland Yard)の犯罪捜査課(Criminal Investigation Department)の本部長(Chief Constable)であるメルヴィル・マクナーテン(Melville Macnaghten)で、
「午後2時に、ロンドン警視庁へ来てほしい。できれば、君の友人であるアーサー・コナン・ドイル氏も、一緒に連れて来てほしい。(Come at two o’clock. Bring friend Doyle if you can.)」
と言う内容だった。
メルヴィル・マクナーテン本部長からの電報を受けたオスカー・ワイルドとアーサー・コナン・ドイルの2人は、どんな要件なのか、判らなかった。
一体、どう言った事件が発生したのだろうか?
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