2015年5月31日日曜日

ロンドン バルダートンストリート / ボーモントホテル(Balderton Street / The Beaumont Hotel)

ボーモントホテルの正面全景

アガサ・クリスティー作「イタリア貴族殺害事件(The Adventure of the Italian Noble Man)」(「ポワロ登場(Poirot Investigates)」(1924年)に収録)は、エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が、自分達のフラットで隣人のホーカー医師(Dr Hawker)と話をしているところから始まる。そこにホーカー医師の家政婦が飛び込んで来る。彼女によると、患者であるフォスカティーニ伯爵(Count Foscatini)から助けを求める変な電話があったと言う。そこで、ポワロ、ヘイスティングス大尉とホーカー医師の3人は、リージェンツコート(Regent's Court)にあるフォスカティーニ伯爵のフラットへと駆け付ける。
フォスカティーニ伯爵のフラットのドアが施錠されていたため、彼らはフラットの管理人に事情を説明して、フラットのドアを開けてもらう。そして、彼らがフラット内に入ると、フォスカティーニ伯爵が大理石の像で頭を撲られて殺されているのを発見する。テーブルの上には、3人分の食事の席が整えられていたが、既に食事は終わった後のようである。


警察が到着する最中、フォスカティーニ伯爵の従者グレーヴス(Graves)が戻って来る。グレーヴスによると、前日、アスカニオ伯爵(Count Ascanio)ともう1人の男性が夕食に招待された際、フォスカティーニ伯爵と彼らの間に何か脅迫めいた会話が交わされたのを耳にしたと言う。今夜も、フォスカティーニ伯爵は同じ2人を夕食に招待し、食事が終わると、グレーヴスは急に休みを与えられたと彼は証言した。警察は、フォスカティーニ伯爵の殺害犯として、アスカニオ伯爵を逮捕する。

建物横面にあるホテル名の表示

ポワロが建物のキッチンスタッフに確認すると、メインコースのサラは3人分ともきれいになくなっていたが、サイドメニューは少ししか手がつけられておらず、更にデザートに至っては全く手がつけられていなかったことが判る。そこにポワロは違和感を抱く。ポートワインに加えて、食後のコーヒーが出されているが、撲殺されたフォスカティーニ伯爵の歯は全く汚れておらず、真っ白だった。その上、ホーカー医師に電話で助けを求めた際に撲殺されたにもかかわらず、フォスカティーニ伯爵は普通に受話器を元に戻しているのである。果たして、警察が疑う通り、脅迫行為が嵩じて、フォスカティーニ伯爵はアスカニオ伯爵に撲殺されたのか?
そして、ポワロの灰色の脳細胞が真実を導き出すのであった。

ホテル正面の車寄せ近景

英国の TV 会社 ITV1 が放映し、世界的に人気があるポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「イタリア貴族殺害事件」(1993年)の回は、ヘイスティングス大尉が、新車購入のため、ポワロを連れて、イタリア車販売店エリスコ・フレッチア(Elisco Freccia)を訪れるところから始まる。TV のストーリー上、この販売店の経営者がフォスカティーニ伯爵から脅迫を受けており、また、ヘイスティングス大尉がここで購入する新車が物語終盤の犯人追跡劇やそのオチにうまく関わってくる。

バルダートンストリートを南側から望む―
奥に見えるのは、オックスフォードストリート

ヘイスティングス大尉がポワロを伴って新車の購入にやって来た Elisco Freccia の撮影場所となったのは、ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、オックスフォードストリート(Oxford Street)を間にして、デパートのセルフリッジズ(Selfridges)の正面入口の反対側にあるバルダートンストリート(Balderton Street)に面している。オックスフォードストリート側から見た右側で、以前はレンタカーの店舗であったが、建物が全面的に改装されて、今はボーモントホテル(The Beaumont Hotel)が営業している。
オリジナルの建物は1926年の建築ということなので、「イタリア貴族殺害事件」が収録されている短編集「ポワロ登場(Poirot Investigates)」が発表された1924年とほぼ同じ頃である。
現在、ホテルの正面左手には、英国の彫刻家サー・アントニー・マーク・デイヴィッド・ゴームリー(Sir Antony Mark David Gormley:1950年ー)による3階建ての高さのオブジェが設置されている。

サー・ゴームリー作のオブジェ

アガサ・クリスティーの原作では、フォスカティーニ伯爵の殺害現場には、3人分の食事の席が整えられているが、ITV1 で放映されたポワロシリーズでは、3人分ではなく、2人分の食事の席しか準備されていないという違いがある。

2015年5月30日土曜日

ロンドン ロウザーアーケード(Lowther Arcade)

ストランド通り側から見たロウザーアーケード跡地に建つ建物群

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」の冒頭、ベーカーストリート221Bを突然訪れた「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)に、自分から手を引くように告げられたシャーロック・ホームズはこれをキッパリと断った。そのため、ホームズはモリアーティー教授配下の者に2度命を狙われた。
1891年4月24日の昼間、オックスフォードストリート(Oxford Street)へある仕事を済ませに出かけたホームズであったが、一度目はベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、暴走して来た二頭立て馬車にあやうく轢き殺されそうになった。二度目はヴェアストリート(Vere Street)を歩いていると、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、ホームズの足下で粉々に砕け散ったのであった。
スコットランドヤードがモリアーティー教授を含めた一味全員を逮捕する態勢が整うまでの数日の間、ホームズはジョン・ワトスンと一緒に欧州大陸へ身を隠すことにした。ホームズはワトスンに対して、その計画を説明し始める。

ロウザーアーケード跡地の真ん中に建つクーツ銀行のビル

「明日の朝、出発することはできるかい?」
「必要であれば。」
「そうだ。どうしても必要なんだ。それでは、こうしてほしい。ワトスン、僕の指示に忠実に従ってくれ。何と言っても、君は僕と二人一組になって、ヨーロッパで一番頭脳が優れた悪党と強力な犯罪組織に対して、ゲームをしているんだ。それでは、僕の指示を言うよ。君が欧州大陸へ持って行く荷物については、今夜、信頼できる配達員を使って、宛先なしでヴィクトリア駅へ発送してほしい。朝、君はハンサム型馬車(二人乗り一頭立二輪の辻馬車)を呼ぶんだ。ただし、使用人には、やって来た馬車のうち、最初と二番目の馬車は捕まえないように依頼してくれ。君は馬車に飛び乗って、ロウザーアーケードのストランド通り側へ行くんだ。そして、御者にその住所を書いた紙を渡して、その紙を捨てないように頼んでほしい。料金は事前に用意しておき、馬車が停まったら直ぐにアーケードを駆け抜けて、9時15分にアーケードの反対側に着くよう、時間を調整するんだ。縁石の側に小型のブルーム型馬車(一頭立四輪箱馬車)が君を待っているはずだ。御者は赤い襟付きの黒いコートを着ている。この馬車に乗れば、大陸特急に間に合う時間に、ヴィクトリア駅に到着することができるはずだ。」

クーツ銀行のガラス張りの外壁に、
ストランド通りの反対側に建つビルが綺麗に映り込んでいる

'And to start tomorrow morning?'
'If necessary.'
'Oh yes, it is most necessary. Then These are your instructions, and I beg, my dear Watson, that you will obey them to the letter, for you are now playing a double-handed game with me against the cleverest rogue and the most powerful syndicate of criminals in Europe. Now listen! You will dispatch whatever luggage you intend to take by a trusty messenger undresses to Victoria tonight. In the morning you will send for a hansom, desiring your man to take neither the first nor the second which may present itself. Into this hansom, you will jump, and you will drive to the Strand end of the Lowther Arcade, handing the address to the cabman upon a slip of paper, with a request that he will dash through the Arcade, timing yourself to reach the other side at a quarter-past nine. You will find a small brougham waiting close to the curb, driven by a fellow with a heavy black cloak tipped at the collar with red. Into this you will step, and you will reach Victoria in time for the Continental express.'

アデレード通り側から見たロウザーアーケード跡地に建つ建物外壁

ロウザーアーケード(Lowther Arcade)はストランド通り(Strand)沿いにあり、チャリングクロス駅(Charing Cross Station)やチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)とはストランド通りを間にして反対側に位置している。
ロウザーアーケードは1831年に建設されたが、現在の建物の大部分には、クーツ銀行(Coutt's and Co Bank)が入居している。クーツ銀行は1962年に創設された英国内最大のプライベートバンクである。エリザベス2世をはじめとする英国王室がクーツ銀行の顧客であり、これが同銀行を有名にしている。

ストランド通り側からアデレード通りを望む
アデレード通りに設置されているオスカー・ワイルドのオブジェ

ワトスンはストランド通り側からロウザーアーケードに入り、同内を駆け抜けて、反対側のアデレードストリート(Adelaide Street)、もしくは、ウィリアム5世ストリート(William V Street)で彼を待っていた四輪馬車に乗り込んで、ヴィクトリア駅へ向かった訳である。

2015年5月24日日曜日

ロンドン タイトストリート34番地(34 Tite Street)

真ん中の建物が、オスカー・ワイルドが住んでいた
タイトストリート16番地(現在の34番地)

「幸福な王子その他(The Happy Prince and Other Tales)」(童話ー1888年)、「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」(小説ー1890年)、「サロメ(Salome)」(戯曲ー1893年)や「ウィンダミア卿夫人の扇(Lady Windermere's Fan)」(戯曲ー1893年)等の作者で知られるオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)は、アイルランドのダブリン生まれの詩人、作家かつ劇作家である。
ダブリン大学トリニティーカレッジやオックスフォード大学モードリンカレッジに進学し、1878年にオックスフォード大学を首席で卒業すると、1879年にロンドンへ住まいを移した。大学在学中から既にロンドンの社交界へ顔を出し始めていたワイルドは、1878年に「ラヴェンナ(Ravenna)」という詩集を発表しただけであったが、持ち前の警句やウィットに富んだ話術で、この頃には社交界の人気者になっていた。


タイトストリート沿いに建つ住宅の外壁を覆う藤の花

1881年に、ロンドンにおいて、アイルランドの名士で、女王付弁護士(Queen's Counsel)のホレース・ロイド(Horace Lloyd)の娘コンスタンス・メアリー・ロイド(Constance Mary Lloyd:1859年ー1898年)に紹介されたワイルドは、1883年11月に彼女と婚約した。彼女は、耽美主義者で、ロンドンの社交界においてダンディーで鳴らすワイルドの大ファンであったが、彼女の家族はワイルドの生活態度に懸念を抱き、2人の結婚に難色を示していた。しかし、コンスタンスの熱意が彼女の家族の反対を押し切り、ワイルドとコンスタンスの2人は1884年5月に結婚して、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)内にあるタイトストリート16番地(16 Tite Street)に新居を構えた。2人が住んだタイトストリート16番地は、現在の住所表記上、タイトストリート34番地(34 Tite Street)に該る。1885年に、2人の間に長男のシリル(Cyril)が、そして、1886年には次男のヴィヴィアン(Vyvyan)が生まれ、ワイルドは講演で飛び回る日々をロンドンに定住した執筆生活へと変えたのである。そして、上記に述べたような童話、小説や戯曲等を発表していく。

タイトストリート16番地(現在の34番地)の外壁には、
オスカー・ワイルドがここに住んでいたことを示す
London County Council のプラークが架けられている

ワイルドが妻コンスタンスと新居を構えたタイトストリート16番地は、テムズ河(River Thames)沿いのチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)とサークルライン(Circle Line)やディストリクトライン(District Line)が通る地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)方面から南西へ延びるロイヤルホスピタルロード(Royal Hospital Road)の2本の通りに囲まれた三角地帯内にあり、上記の通りを結ぶ閑静な住宅街内に位置している。この辺りは、場所柄、王立病院(Royal Hospital)や国立陸軍博物館(National Army Museum)等、英国陸軍関連の施設が多く存在している。また、ワイルドと同じく、アイルランドのダブリン生まれで、「ドラキュラ(Dracula)」(1897年)の作者であるブラム・ストーカー(Bram Stoker:1847年ー1912年)が住んでいたセントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)は、ワイルドが住んでいたタイトストリート16番地の割合と近くである。

タイトストリートは閑静な住宅街の内にあり、
日中でもほとんど人通りがない

ワイルドが結婚し、タイトストリート16番地に定住して執筆した作品のうち、シャーロック・ホームズシリーズと関連があるのは、1890年に発表された小説「ドリアン・グレイの肖像」である。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

ベーカールーライン(Bakerloo Line)、セントラルライン(Central Line)やヴィクトリアライン(Victoria Line)が通る地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel)において、1889年8月、3人のアイリッシュ系の男性が食事会を行った。この食事会には、
(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン」のエージェント ジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(アイルランド生まれの米国人)
(2)オスカー・ワイルド(アイルランド/ダブリンの名士に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・コナン・ドイル(アイルランドの血をひくスコットランド人)
この食事会で、ストッダートは、ワイルドとドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。ドイルは早速執筆に取りかかり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート宛に送付。このタイトルが「四つの署名(The Sign of the Four)」で、行方不明となったモースタン大尉の宿泊先として、ランガムホテルが使用されたのである。「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、同時に掲載されたワイルドの作品が「ドリアン・グレイの肖像」であった。
なお、ドイルの原稿料は、4万5千語の小説で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたワイルの原稿料は倍の200ポンドだったとのこと。ドイルは「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」で爆発的な人気を得るかなり前であり、残念ながら、売れっ子のワイルドとは、それ位の開きがあったのである。

ロンドン・ブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある
ゴードンスクエア(Gordon Square)の近くに以前設置されていたブックベンチ

このブックベンチの題材は、ワイルド作の喜劇
「真面目が肝心(The Importance of Being Earnest)」(1895年)

前述の通り、今にも残る有名な作品を次々に発表したワイルドであったが、1891年に、第9代クイーンズベリー侯爵の次男で、16歳年下の「ボウジー(Bosie)」こと、アルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年→当時、「オックスフォード大学在学中の学生で、ドリアン・グレイの肖像」を読み、大いに気に入った)と親しくなり、息子を気遣う第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラス(John Douglas, 9th Marquess of Queensberry)から告訴を受け、最終的には男色行為を咎められた。そして、彼は、1895年5月に懲役2年の有罪判決を受け、投獄された上、更に破産を宣告されてしまった。英国当局に収監されるまで、ワイルドはタイトストリート16番地に住んでいたのである。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
アデレイドストリート(Adelaide Street)に設置されているオブジェ
「オスカー・ワイルドとの対話(Conversation with Oscar Wilde)」

服役後、1897年5月にワイルドは出所し、ダグラス卿と一緒にフランスとイタリアの各地を転々としたあげく、最後は、ダグラス卿にも去られてしまったワイルドは、1900年11月にパリ6区のホテルで梅毒による大脳髄膜炎で息を引き取ったのである。46歳という若さであった。

2015年5月23日土曜日

ロンドン ヴェアストリート(Vere Street)

ヘンリエッタプレイス(Henrietta Place)側からヴェアストリートを望む
―奥に見えるのは、オックスフォードストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」では、物語の冒頭、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、彼に自分から手を引くように告げる。しかし、ホームズはモリアーティー教授の忠告を拒否する。
間髪を入れず、ホームズはモリアーティー教授配下の者に襲撃を受け、命を狙われるのである。ある仕事を済ませるため、徒歩でオックスフォードストリート(Oxford Street)へ向かったホームズは、その途中、ベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリート(Welbeck Street)の角で、モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車にすんでのところで轢き殺されそうになった。歩道に飛び退いて、間一髪難を逃れたホームズは、引き続き、徒歩でオックスフォードストリートへと向かった。


ホームズによるジョン・ワトスンへの話は続く。
「ワトスン、それ以降、僕は歩道を通るようにしたんだ。しかし、ヴェアストリートを(オックスフォードストリートへ向かって)下って行くと、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、僕の足下で粉々に砕け散った。そこで、僕は警官を呼んで、その家の屋根を調べてもらったんだ。屋根には、修繕の準備のため、スレートとレンガが堆く積まれていたので、警官達は、風でレンガの一つが転がり落ちただけだと、僕を納得させようとした訳だ。もちろん、僕の方が実情をよりよく判ってはいたが、警官達には何も証明できなったけどね。」

オックスフォードストリート側から見たヴェアストリート
―奥に見えるのは、ヘンリエッタプレイス

I kept to the pavement after that, Watson, but as I walked down Vere Street a brick came down from the roof of one of the houses, and was shattered to fragments at my feet. I called the police and had the place examined. There were slates and bricks piled up on the roof preparatory to some repairs, and they would have we believe that the wind had topped over one of these. Of course I knew better, but I could prove nothing.

ヴェアストリート沿いに建つセントピーターズ教会

ヴェアストリート(Vere Street)は、オックスフォードストリートから北へ延びる通りで、更に北へ上がると、ホームズが二頭立て馬車に襲撃されたウェルベックストリートへとつながる。
なお、この通りは、通りが出来た当時、この辺りを所有していたオックスフォード伯爵(Earls of Oxford)の家族の名前から名付けられたとのこと。


ヴェアストリートはそれ程長い通りではなく、オックスフォードストリート側からみて、右側にはセントピーターズ教会(St. Peters Church)/ マリルボーンチャペル(Marylebone Chapel)が、そして、左側にはデパートのデベナム(Debenhams)が建っている。

2015年5月17日日曜日

ロンドン フレミングス メイフェア ホテル(Flemings Mayfair Hotel)


アガサ・クリスティー作「バートラムホテルにて(At Bertram's Hotel)」(1965年)の舞台となるバートラムホテル(Bertram's Hotel)は架空のホテルで、ロンドン市内には実在していない。ただし、ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、作者のアガサ・クリスティーがロンドン滞在の際の宿としていたブラウンズホテル(Brown's Hotel)がそのモデルであったと一般的に言われている。


一方で、遺族公認の伝記「アガサ・クリスティーの生涯(Agatha Christie : A biography)」を執筆したジャネット・モーガン(Janet Morgan)が、バートラムホテルのモデルになったのは、ブラウンズホテルではなく、フレミングス メイフェア ホテル(Flemings Mayfair Hotel)であると主張しており、現在、2説に分かれている。アガサ・クリスティーはブラウンズホテルとフレミングス メイフェア ホテルの両方に宿泊したことがあるようなので、バートラムホテルのモデルとなったのが本当はどちらなのかは定かではない。また、ジャネット・モーガンはフレミングス メイフェア ホテルを推す理由についても、今のところ明らかになっていない。


フレミングス メイフェア ホテルも、ブラウンズホテルと同じように、ロンドンの高級地区メイフェア内で営業している。
ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)を、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の辺りで曲がって北上すると、そこはハーフムーンストリート(Half Moon Street)と呼ばれる通りである。この通りの角にあったパブにちなんで、通り名がつけられている、とのこと。ピカデリー通り側からみて、ハーフムーンストリートの右手中間辺りに、フレミングス メイフェア ホテルが建っている。


フレミングス メイフェア ホテルは、1851年にロバート・フレミング(Robert Fleming)によって創業された。1820年生まれのロバート・フレミングはエンジェルシー侯爵/侯爵夫人(Marquis and Marchioness of Angelsey)の従者として仕えて、高級ホテルを運営する極意を会得した上での創業であった。ロバート・フレミングがホテルを創業したハーフムーンストリート沿いには、貴族、外科医、内科医や弁護士等が住んでおり、高級ホテルを始めるにはうってつけの場所だったと言える。
黄土色したホテルの外壁(2階と3階の間)には、「FLEMINGS MAYFAIR」というサインが架けられ、また、1階正面入口の上や脇は植栽で飾られ、今も宿泊客を迎えているのである。

フレミングス メイフェア ホテルが面しているハーフムーンストリート―
フレミングス メイフェア ホテルの向かい側には、現在、ヒルトンホテルが建っている
ヒルトンホテルの前から
ハーフムーンストリートの北側(カーゾンストリート方面)を望む
カーゾンストリートから望むハーフムーンストリート全景―
突き当たりにあるのは、ピカデリー通り

ハーフムーンストリートは、南側のピカデリー通りから北側のカーゾンストリート(Curzon Street)への一方通行で、ピカデリー通りからバークレースクエア(Berkeley Square)やグローヴナースクエア(Grosvenor Square)経由、マーブルアーチ(Marble Arch)へと至るショートカットになっている。そのため、フレミングス メイフェア ホテルが面するハーフムーンストリートをタクシー等が頻繁に走り抜けて行く。

2015年5月16日土曜日

ロンドン ベンティンクストリート/ウェルベックストリート(Bentinck Street/Welbeck Street)

オックスフォードストリートへと向かうシャーロック・ホームズが
ジェイムズ・モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車に轢き殺されそうになった
ベンティンクストリートとウェルベックストリートの角

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」では、物語の冒頭、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、彼に自分から手を引くように告げる。しかし、ホームズはモリアーティー教授の忠告を拒否する。間髪を入れず、ホームズはモリアーティー教授配下の者に襲撃を受け、命を狙われるのである。1891年4月24日の夕刻、ジョン・ワトスンの診察室を訪れたホームズは次のような話をする。

ベンティンクストリートは東西に、また、
ウェルベックストリート南北に延びている

「ワトスン、モリアーティー教授は自分の足下に草(=自分に反抗する者)が生えるのをみすみす許すような輩ではないんだ。僕は昼間オックスフォードストリートへある仕事を済ませに行ったのだが、ベンティンクストリートからウェルベックストリートへと横切ろうとした時、二頭立ての馬車が角を曲がり暴走して来て、電光石火の如く僕に向かって来たのさ。咄嗟に、僕は歩道に飛び退いて、間一髪で難を逃れたんだ。その馬車は猛烈な勢いでマリルボーンレーンへと曲がり込んで、そのままアッと言う間に走り去ってしまったよ。」

'My dear Watson, Professor James Moriarty is not a man who lets the grass grow under his feet. I went out about midday to transact some business in Oxford Street. As I passed the corner which leads from Bentinck Street on to the Welbeck Street crossing a two-horse van furiously driven whizzed round and was on me like a flash. I sprung for the footpath and saved myself by the fraction of a second. The van dashed round by Marylebone Lane and was gone in an instant !'

ウェルベックストリートの北側から南側を望むー
ホームズが二頭立ての馬車に轢き殺されそうなったのは、右手前の角で、
馬車は画面手前から南下して来た後、
ベンティンクストリート(右手の通り)へと曲がり、
奥のマリルボーンレーンへと姿を消した

マリルボーンレーン(Marylebone Lane)は、ロンドンのマリルボーン地区(Marylebone)内にあるウェルベックストリート(Welbeck Street)と同じように南北に走る通りで、モリアーティー教授配下の者が乗った二頭立ての馬車はベンティンクストリート(Bentinck Street)とウェルベックストリートの角でホームズを轢き殺しそこねた後、ベンティンクストリートを駆け抜けて、マリルボーンレーンへと姿を消したのである。
ドイルの原作によると、ホームズはベーカーストリート221Bからオックスフォードストリート(Oxford Street)へ徒歩で向かっていたのでウェルベックストリートに向かって、ベンティンクストリートを西側から東側へと歩いていたことになる。よって、ホームズが間一髪で二頭立ての馬車に轢き殺されるのを逃れた場所は、ベンティンクストリートがウェルベックストリートにぶつかるT字路の北側の角と言える。おそらく、二頭立ての馬車はホームズの跡をつけて、ウェルベックストリートとクイーンアンストリート(Queen Anne Street)の角辺りで待機していたのではないだろうか?そして、ウェルベックストリートを一気に南下して、ホームズを轢き殺そうとしたものと思われる。

左手の通りがウェルベックストリートで、
右手の通りがクイーンアンストリートー
ジェイムズ・モリアーティー教授配下の者が乗った
二頭立ての馬車はこの角で待機していたものと思われる

ウェルベックストリートは、北側にニューキャヴェンディッシュストリート(New Cavendish Street)に、南側にヘンリエッタプレイス(Henrietta Place)に接していて、レストランやショップ等が立ち並ぶマリルボーンハイストリート(Marylebone High Street)から一本奥(東側)に入ったところなので、割合と静かな通りである。ただ、ウェルベックストリート沿いには、立地の関係で、家賃の高いマリルボーンハイストリートに進出できないホテルが数軒あるため、タクシー等の往来はまあま多い。ウェルベックストリートは、現在、北側から南側への一方通行になっており、マリルボーンハイストリートの混雑を避けるタクシーや一般車がウィグモアストリート(Wigmore Street)やその先のオックスフォードストリートへの抜け道として利用している。
また、ウェルベックストリートは、開業医や歯科医が多いハーレーストリート(Harley Street)にも近いため、医療関係の施設(ロンドン・ウェルベック病院(London Welbeck Hospital)等)もいくつか点在している。

2015年5月10日日曜日

ロンドン ブラウンズホテル(Brown's Hotel)

ブラウンズホテルの表玄関
(アルベマールストリート側)

アガサ・クリスティー作「バートラムホテルにて(At Bertram's Hotel)」(1965年)では、ミス・ジェーン・マープルが古き良きエドワード朝時代の面影を今なお残しているバートラムホテル(Bertram's Hotel)を訪れるところから、物語の幕が上がる。
彼女は、まだ14歳の時に、伯父夫妻に連れられて、バートラムホテルに宿泊したことがあった。今回、甥のレイモンドと彼の妻ジョーンが、ミス・マープルのために、ここに2週間程滞在する費用を出してくれたのだ。昔を懐かしむミス・マープルは、半世紀ぶりにバートラムホテルを再訪することになるが、昔と全く変わっていないことに驚く。しかし、その裏で事件の影が蠢いていたのである。
宿泊客のキャノン・ペニーファザー牧師(Cannon Pennyfather)が消息不明になり、そして、ある霧深い夜、ホテルのドアマンであるマイケル・ゴーマン(Michael Gormanー宿泊客の女性冒険家レディー・ベス・セジウィックの元夫)が射殺される。レディー・ベス・セジウィック(Lady Bess Sedgwick)と彼女の娘エルヴァイラ・ブレイク(Elvira Blake)の周囲で、何か不穏な動きがあるのだが、一体それは何か?


アルベマールストリートを北側から望む―
画面右手奥にブラウンズホテルの表玄関がある

バートラムホテルは架空のホテルで、ロンドン市内に実在していないが、ロンドンン高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、作者のアガサ・クリスティーがロンドン滞在の際の宿としていたブラウンズホテル(Brown's Hotel)がそのモデルだと一般に言われている。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ延びるパル・マル通り(Pall Mall)は、セントジェイムズパレス(St. James's Palace)に至ったところで垂直に曲がり、セントジェイムズストリート(St. James's Street)と名前を変えて、北へ向かって延びる。このセントジェイムズストリートは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)と交差した後、アルベマールストリート(Albemarle Street)と名前が変わり、更に北上する。この33番地(ピカデリー通り側からみた左手)に、ブラウンズホテルは建っている。

旧ブラウンズホテルとセントジョージホテルが統合したことを示す
モザイクがホテル外壁に架けられている

ブラウンズホテルは、1837年にジェイムズ・ブラウン(James Brown)とサラ・ブラウン(Sarah Brown)によって、アルベマールストリートの一本西側にあるドーヴァーストリート(Dover Street)側で創業された。1889年にブラウンズホテルは(背中を接し、アルベマールストリート側にあった)セントジョージホテル(St. George's Hotel)を買収し、2つのホテルを1つに統合するとともに、最上階を新たに増築の上、アルベマールストリート側を表玄関として改装した。現在のブラウンズホテルが旧ブラウンズホテルとセントジョージホテルが統合したものであることを示すモザイクが、アルベマールストリート側のホテル外壁に、左右3つずつ架けられている。

アルベマールストリートを南側から望む

ブラウンズホテルには、以下の著名人が宿泊したり、利用したりしている。
(1)ナポレオン3世(Napoleon III:1808年ー1873年)
フランス第2共和制の大統領(1848年ー1852年)/フランス第2帝政の皇帝(1852年-1870年)で、第2帝政崩壊に伴い、英国へ亡命した後、1871年に元皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugenie de Montijo)と一緒にブラウンズホテルに宿泊している。
(2)アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell:1847年ー1922年)
スコットランド生まれの科学者、発明家かつ工学者で、世界初の実用的電話の発明で知られているが、1876年にブラウンズホテルで英国初の電話実験に成功している。
(3)セオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年)
米国の第25代副大統領(1901年)/第26代大統領(1901年ー1909年)で、最初の夫人アリス・ハサウェイ・リーが1884年に死去した後、2番目の夫人イーディス・カーミット・カーロウと1886年に再婚する前に、ブラウンズホテルに宿泊している。また、ここで結婚式を挙げている。


ドーヴァーストリートを南側から望む―
画面右手奥にブラウンズホテルの裏玄関がある

上記以外にも、アガサ・クリスティーに加えて、以下の作家がブラウンズホテルを利用している。
(4)サー・アーサー・コナン・ドイル
(5)エイブラハム・”ブラム”・ストーカー(Abraham "Bram" Stoker:1847年ー1912年)ー「ドラキュラ(Dracula)」(1897年)等で有名。
(6)ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson:1850年ー1894年)ー「宝島(Treasure Island)」(1883年)と「ジキル博士とハイド氏(Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)」(1886年)等で有名。
(7)オスカー・フィンガル・オフラハティー・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)ー「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」(1890年)や「サロメ(Salome)」(1893年)等で有名。
(8)サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)ーピーターパン(Peter Pan)シリーズ等で有名。
(9)ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1860年ー1936年)ー「ジャングルブック(The Jungle Book)」(1894年)等で有名。1907年に英国初のノーベル文学賞を受賞。

なお、ドイル、スティーヴンソンおよびバリーはスコットランド生まれ、ストーカーとワイルドはアイルランド生まれ、そして、キップリングは英国領インド帝国のボンベイ(ムンバイ)生まれである。こうして並べると、19世紀末から20世紀初めにかけて、英国で活躍した作家は、本人自身の名前は覚えていられないとしても、今でも世界で愛されている作品を生み出した訳で、改めてこの当時の凄さが実感させられる。

ブラウンズホテルの裏玄関
(ドーヴァーストリート側)

ブラウンズホテルは、2012年に創業175年周年を迎えている。
ブラウンズホテルの表玄関が面しているアルベマールストリートは、オックスフォードストリート(Oxford Street)からピカデリー通りへ向かって南に下るニューボンドストリート(New Bond Street)/オールドボンドストリート(Old Bond Street)の一本西側にあり、ブランドショップが軒を連ねるショッピング街に非常に近く、利便性が高い。
アルベマールストリート(ブラウンズホテルの表玄関側)とドーヴァーストリート(ブラウンズホテルの裏玄関側)は、共に南から北への一本通行で、トラファルガースクエア方面からバークレースクエア(Berkeley Square)やグローヴナースクエア(Grosvenor Square)経由、マーブルアーチ(Marble Arch)へと至る近道に該るため、ブラウンズホテル前の通りは必ずしも閑静とは言えず、ロンドン市内の通りに詳しいタクシーや一般車が割合と頻繁に通り抜けて行く。