2014年8月25日月曜日

ロンドン テンプル(Temple)

テンプルの、と或る弁護士事務所の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」において、アイリーン・アドラー(Irene Adler)と結婚した弁護士のゴドフリー・ノートン(Godfrey Norton)は、ロンドン市内のテンプル(Temple)に事務所を構えていた。

テンプル内の静謐な空間

ロンドン市内には、政治活動の中心地であるウェストミンスター(Westminster)と経済活動の中心地のシティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))が存在している。この2つの中心地が接する境界がホルボーン(Holborn)地区であり、この地区には、「公正中立を保つ」という意味から、司法関係の施設が数多く集中している。特に、フリートストリート(Fleet Street)とテムズ河(River Thames)沿いのヴィクトリアエンバンクメント(Victoria Embankment)に挟まれた場所に、「テンプル」という独特の静謐な空間が形成されている。

弁護士のゴドフリー・ノートンが事務所を構えていた「テンプル」には、現在、「ミドルテンプル(Middle Temple)」/「インナーテンプル(Inner Temple)」と呼ばれる2つの法曹院や法廷弁護士(Barrister)の事務所等が集中している。ちなみに、ロンドン内には4つの法曹院があり、他の2つは「リンカーン法曹院(Lincoln's Inn)」と「グレイ法曹院(Gray's Inn)」である。なお、「テンプル」は、現在の住所表記上、シティー・オブ・ロンドン(City of London)内に含まれており、その西端に位置して、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の東端と接している。

テンプルの名前の由来となったテンプル教会

この場所には、テンプルの名前の由来となったテンプル教会(Temple Church)がある。この教会は、エルサレムの教会にヒントを得たロマネスク様式の建物で、1185年に十字軍のテンプル騎士団が本拠地として建設したものである。

ゴシック様式の王立裁判所

フリートストリートを間にして、テンプルの反対側には、王立裁判所(Royal Court of Justice)がある。1862年に建設されたゴシック様式のこの裁判所は、イングランドとウェールズの最高法廷である。

フリートストリートの真中に立つテンプルバー

また、テンプルと王立裁判所が面するフリートストリートの真中には、テンプルバー(Temple Bar)と言う記念碑がある。これは、ウェストミンスターとシティーを分けていた関所跡である。

2014年8月24日日曜日

ロンドン セントマーク教会(Church of St. Mark)/ セントモニカ教会(Church of St. Monica)の候補地

セントマーク教会の塔を下から見上げたところ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」によると、ボヘミア国王(King of Bohemia)がシャーロック・ホームズが住むベーカー街221Bを訪ねた翌日(=1888年3月21日)、ボヘミア国王の元愛人であるアイリーン・アドラー(Irene Adler)は、エッジウェアロード(Edgware Road)にあるセントモニカ協会(Church of St. Monica)で、テンプル(Temple)に事務所を持つ弁護士のゴドフリー・ノートン(Godfrey Norton)と秘密裡に結婚式を挙げる。変装をしたホームズは、アイリーン・アドラーの自宅があるセントジョンズウッド(St. John's Wood)から教会まで彼女を追跡して、彼女の結婚式の立会人を務めるのである。


コナン・ドイルの原作では、エッジウェアロードは 'Edgeware Road' と表記されているが、現在の住所表記では、'Edgware Road' となっていて、「g」と「w」の間の「e」が抜けている。エッジウェアロードは、ハイドパーク(Hyde Park)の北東角にあるマーブルアーチ(Marble Arch)から北西に延びる道路で、セントジョンズウッドの西側にあるメイダヴェール(Maida Vale)まで続いている。現在、エッジウェアロードの両側には、中東のレストラン、カフェや店舗等が一杯並んでおり、ロンドン市内でも独特の雰囲気がある通りとなっている。


セントマーク教会の入口上にある装飾

現時点では、エッジウェアロード沿いには、教会は一つしか存在していない。地下鉄エッジウェアロード駅(Edgware Road Tube Station)の近辺で、エッジウェアロードからオールドマリルボーンロード(Old Marylebone Road)へ50m程横にそれたところに、セントマーク教会(Church of St. Mark)がある。マーブルアーチから北西に延びるエッジウェアロードのちょうど中間辺りである。物語中では架空の名前に変更されてはいるものの、今のところ、このセントマーク教会が、アイリーン・アドラーがゴドフリー・ノートンと結婚式を挙げた教会の候補地と言える。

オールドマリルボーンロード沿いに建つ
セントマーク教会の全景

なお、「ボヘミアの醜聞」には、もう一つ矛盾点がある。アイリーン・アドラーとゴドフリー・ノートンは、午前中に急いで結婚式を行ったが、英国では、1886年5月に法律が改正されて、結婚式は午後3時まで挙げられるように、時間が延長された。そうであれば、アイリーン・アドラー達は、セントジョンズウッドからエッジウェアロードのセントモニカ教会まで、それ程急いで行く必要はなかったのではないか?そして、結婚する相手のゴドフリー・ノートンは弁護士であり、専門分野は異なるのかもしれないが、直近の法律改正を認識していてもおかしくないのでは、と思われる。それに加えて、ホームズ一人が結婚式の立会人を務めているが、英国の法律では、結婚式の立会人は最低二人必要であるので、厳密には、アイリーン・アドラー達の結婚は法律上成立していないことになる。

2014年8月17日日曜日

ロンドン セントジョンズウッド地区(St. John's Wood)

セントジョンズウッド ハイストリート(St. John's Wood High Street)と
プリンス アルバート ロード(Prince Albert Road)が交差する角のフラット

スカンディナヴィア国王の第二王女との婚約発表を数日後に控えていたボヘミア国王(King of Bohemia)は、フォン・クラム伯爵(Count von Kramm)と名のり、シャーロック・ホームズが住むベーカー街221Bを訪ねる。彼の依頼は、昔の愛人であるアイリーン・アドラー(Irene Adler)から、彼と彼女の二人が撮影された写真を取り返すことであった。アイリーン・アドラーは、コントラルト歌手で、かつ、オペラのプリマドンナであり、ミラノのスカラ座(La Scala)等で活躍し、現在はロンドンに居住している。ボヘミア国王は、既に五度にわたり、彼女の自宅の捜索や待ち伏せ等を配下の者に行わせたが、いずれも結果は無駄に終わった。そこで、ジョン・ワトスンを助手に、ホームズは変装の上、写真の隠し場所を探るべく、一計を案じて、アイリーン・アドラーの自宅に潜入する。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」において、アイリーン・アドラーの自宅は、セントジョンズウッド地区(St. John's Wood)のサーペンタインアベニュー(Surpentine Avenue)沿いのブライオニーロッジ(Briony Lodge)と記されている。

奥に見える建物は、セントジョンズウッド教会(St. John's Wood Church)

セントジョンズウッド地区は、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)の北に広がるロンドン最大の公園リージェンツパーク(Regent's Park)とプリムローズヒル(Primrose Hill)に南と東を囲まれた高級住宅街である。19世紀初めにロンドンの郊外として開発され、現在では、不動産の地価が非常に高い地区の一つとなっている。現在の郵便番号上、セントジョンズウッド地区は「NW8」に属しており、住んでいる場所として「NW8」と言えば、セントジョンズウッド地区辺りに住んでいるということが判る。

地下鉄のセントジョンズウッド駅(St. John's Wood Tube Station)

セントジョンズウッド地区には、地下鉄ジュビリーライン(Jubliee Line)が通っていて、ベーカーストリート駅経由、ロンドン中心部やシティー等との接続も便利である。そのため、ロンドン市内へのアクセスを考慮して、日本企業のロンドン支店長や英国現地法人の社長を初めとして、このセントジョンズウッド地区に居を構えている日本人も多い。

ローズ・クリケット会場にある記念碑

セントジョンズウッド地区には、有名なクリケット場のローズクリケット会場(Lord's Cricket Ground)があり、毎年クリケットの試合が開催される頃(春~夏)になると、毎週末、地下鉄ジュビリーラインのセントジョンズウッド駅からクリケット場に向かう観客で歩道は一杯になる。

その他に、ザ・ビートルズ(The Beatles)のアルバム「アビーロード(Abbey Road)」のジャケット撮影に使われた横断歩道が、セントジョンズ駅から徒歩5分程のアビーロード沿いにある。そして横断歩道のすぐ近くにEMIスタジオが建っている。残念ながら、アビーロード沿いの建物が建て替えられたため、当時の面影はあまり残っていないが、横断歩道近辺は、いつも多くの観光客で賑わっている。

現在の住所表記上、セントジョンズウッド地区には、アイリーン・アドラーの自宅があったとされているサーペンタインアベニューは存在していない。ベーカーストリート221Bと同様に、ドイルが架空の通りを設定したものと思われる。ロンドン市内のハイドパーク(Hyde Park)内に、夏場にはボート遊びが出来る位大きなサーペンタイン池(The Serpentine)があり、もしかしたらここから通りの名前を採ったのかもしれない。

セントジョンズウッド ロード(St. John's Wood Road)沿いにあるフラット

ドイル原作の「ボヘミアの醜聞」には、矛盾点がある。
(1)ボヘミア国王がホームズを訪ねて来た1888年3月20日は火曜日である。ところが、ボヘミア国王がホームズに対して、「自分とスカンディナヴィア国王の第二王女との婚約発表が来週の月曜日に行われる。(That will be next Monday.)」と話したところ、ホームズは「それでは、我々にはまだ3日間あります。(Oh, then we have three days yet.)」と答えている。火曜日から3日後は金曜日であり、曜日の矛盾が発生している。
(2)ホームズ達に簡単な食事を用意してくれたベーカーストリート221Bの下宿女主人はターナー夫人(Mrs. Turner)となっているが、果たして、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)はどうなっているのだろうか?ターナー夫人がホームズ作品に登場するのは、本作品のみである。

それから、一つ気になることがある。物語の記述者であるワトスンは、事件の発生日として「1888年3月20日」と明確に記している。この物語の中では、ワトスンは既に結婚していて、ホームズと一緒にはベーカーストリート221Bでの共同生活を送ってはいない。しかしワトスンは、1888年9月の「四つの署名(The Sign of the Four)」の事件が発生したときは独身で、この事件の依頼者メアリー・モースタン(Mary Morstan)と出会って恋人となる。その後のいくつかの物語中で、「私の妻(My wife)」との記述があるが、これがメアリー・モースタンかどうかははっきりと記述はされていない。ボヘミアの醜聞」事件発生時に、ワトスンは1回目の結婚をしていて、「四つの署名」が発生するまでの約半年の間に離婚もしくは死別し、独身に戻っていたことになる。ホームズの物語の中に、ワトスンの結婚や離婚については、はっきりとは書かれていない。後の研究者によるとワトスンは少なくとも3回結婚しているとのことだが、コナン・ドイルの作品が、事件の発生年月順に発表されている訳ではないので、執筆の段階で、コナン・ドイル自身、物語・登場人物の設定をそこまで厳密にコントロールしていなかったのだろう。

2014年8月10日日曜日

ロンドン セントマーティンズ劇場(St. Martin's Theatre)ーその1

セントマーティンズ劇場の建物全景

地下鉄レスタースクエア駅(Leicester Square Tube Station)の北側に、セントマーティンズ劇場(St. Martin's Theatre)があり、この劇場で、アガサ・クリスティーの戯曲「ねずみとり(The Mousetrap)」が、1952年11月25日にロンドン・ウェストエンドのアンバサダーズ劇場(Ambassador's Theatre)で初演されて以来、60年を超える最長不倒のロングラン上演を続けている。1974年3月25日にアンバサダーズ劇場から隣りのセントマーティンズ劇場に上演の舞台が移り、上演50周年を迎えた2002年11月25日には、エリザベス2世陛下とエディンバラ公フリップ殿下が特別公演を楽しまれた。2012年11月18日には、上演回数が25千回を超え、2012年11月25日には、遂に上演60周年を迎えた。

「ねずみとり」の公演が50周年を迎えたことを示すプレート

クリスティーファンには周知の通り、「ねずみとり」は最初から戯曲として書かれた訳ではなく、早川書房クリスティー文庫の「愛の探偵たち(Three Blind Mice and Other Stories)」(1950年)という短編集におさめられている中編「三匹の盲目のねずみ(Three Blind Mice)」を脚色したものである。より正確に言うと、王太后メアリー・オブ・テックの80歳の誕生日を祝うため、BBCの依頼により、クリスティーが1947年にラジオドラマとして執筆したものが、上記の中編の基となっている。

小説では、物語は第一の殺人の場面からいきなり始まる。場所は、ロンドンのパディントン駅(Paddington Station)近くの名もない下宿で、ライアン夫人と名乗っているモーリン・グレッグが何者かに殺害される。殺人犯は、お得意の歌として、「三匹の盲目のねずみ」(英国の有名な伝承童謡で、マザーグースの一つ)を口ずさむ。
そして、物語の舞台は、ロンドンからバークシャーのハープレーデンという町の近くにあるモンクスウェル館に移る。戯曲の「ねずみとり」では、ロンドンでの殺人シーンはなく、モンクスウェル館(Monkswell Manor Guest House)から物語が始まる。その代わりに、モンクスウェル館のラジオから「ロンドンで殺人事件が発生し、殺人犯が逃走中である。」というニュースが流される。

(ここからの登場人物は、戯曲の「ねずみとり」をベースにしている。)
モンクスウェル館は、モリーとジャイルズの若きロールストン夫妻(Mollie and Giles Ralston)が経営する、小さいがオープンしたてのゲストハウスで、雪が降る中、かねてからの予約客4名が次々に到着する。

(1)若い男性建築家のクリストファー・レン(Mr. Christopher Wren):この名前を聞くと、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)、ロンドン大火記念塔(Monument)やグリニッジ王立天文台(Royal Greenwich Observatory)等を設計施工した英国の著名建築家のクリストファー・レン卿(Sir Christopher Wren:1632年ー1723年)思い出すが、同姓同名の別人物。
(2)年輩の女性ボイル夫人(Mrs. Boyle)
(3)中年男性のメトカーフ少佐(Major Metcalf)
(4)若い女性のミス・ケースウェル(Miss Casewell)


雪がなおも激しく降り続く中、(5)外国人風の男性パラヴィチー二氏(Mr. Paravicini)が現れ、玄関をノックする。パラヴィチー二氏は、車がスリップしてしまったと言い、モンクスウェル館に急遽宿泊することになる。その直後、記録破りの大雪によって、館に続く道も埋まり、モンクスウェル館は外界から完全に孤立してしまう。その後、雪で閉ざされて孤立したモンクスウェル館に警察から電話連絡が入り、警官を1名差し向けると言う。その連絡に基づいて、ロンドン訛の若い男性のトロッキー部長刑事(Detective Sergeant Trotter)がスキーでモンクスウェル館までやってくるのである。

ロンドンで発生した殺人事件の犯人は、大雪で不運にもモンクスウェル館に閉じ込められた滞在客の中に紛れ込んでいるのだろうか?登場人物達の間に疑惑が深まって行き、ロールストン夫妻も、もしかして自分の夫が(妻が)殺人犯なのではと疑い始める。そして疑惑と緊張が頂点に達したとき、第二の殺人が発生する。不気味な「三匹の盲目のねずみ」の童謡が流れ、我々の目の前に驚くべき殺人犯がその姿を現す。クリスティーお得意の大どんでん返しである。


日頃、セントマーティンズ劇場の前を買い物や用事の際に通る度に「ねずみとり」を観劇したいと思いながら、何故かいまだに果たせていない。

2014年8月9日土曜日

ロンドン バーリーストリート12番地(12 Burleigh Street)

バーリーストリート12番地の建物全景

ストランド通り(Strand)から北に延びるバーリーストリート(Burleigh Street)の12番地にある建物は、シャーロック・ホームズファン(=シャーロキアン)にとっての聖地と言える。サー・アーサー・コナン・ドイル作のホームズ物語が掲載されていた「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」は、ここで創刊されたのである。この場所は、「四つの署名(The Sign of the Four)」事件の舞台となったライシアム劇場(Lyceum Theatre)のすぐ裏手に位置している。

「ストランドマガジン」は、英国で出版されていた月刊誌で、ジョージ・ニューンズ(George Newnes:1851年ー1910年)により一般大衆向けに創刊され、1891年1月から1950年3月までの約60年間の長きにわたって発刊された。
創刊当時、全てのページに挿絵を付して、「6ペンスの値段で、1シリングの価値がある月刊誌(A monthly magazine costing six pence but worth a schilling)」というキャッチフレーズで販売を行った。

ホームズ物語の第1作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(長編)は1887年11月発行の「ビートンのクリスマス年間」に、第2作「四つの署名」(長編)は「リピンコット・マンスリー・マガジン」(1890年2月発行)に掲載されたが、これらは当時あまり評判にならなかった。その後、他誌との差別化を図っていた「ストランドマガジン」からの依頼を受けて、コナン・ドイルは第3作の「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」(短編)を執筆し、これが同誌の1891年7月号に掲載された。するとホームズ物語は読者の間で爆発的な人気となり、以降、同誌で連載が続いた。最終的には、1927年4月号「ショスコム・オールド・プレイス(Schoscombe Old Place)」までの35年以上の期間にわたって、計58作(長編2作+短編56作)が同誌に掲載され、コナン・ドイルとホームズは今に至る不動の人気を勝ち得たのである。

北側からバーリーストリート12番地の建物を見たところ

彼らの人気を支えた陰の功労者として、挿絵画家のシドニー・パジェット(Sidney Paget:1860年 - 1908年)が挙げられる。彼が描く、鹿撃ち帽(ディアストーカー)を頭にかぶり、インヴァネスコートを両肩にはおり、そして、右手にパイプを持ったおなじみのホームズ像が、コナン・ドイルとホームズの人気を決定付けたと言っても、過言ではない。残念ながら、彼は、ホームズ物語の連載の途中で、若くして世を去り、連載が終わるまでの間、何人かの挿絵画家達が彼の跡を引き継いで挿絵を描いた。

の後、「ストランドマガジン」は、第二次世界大戦中に紙の配給制限を受けたため、雑誌のサイズを縮小する等の対処を行うものの、紙のコストアップの影響を大きく受けて、資金調達が立ち行かなくなり、惜しまれつつ1950年3月廃刊に至った。

2014年8月3日日曜日

ロンドン クレーヴンストリート(Craven Street)

クレーヴンストリートを北側から見たところ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の終盤、11月末の霧深い夜、ベーカーストリート221Bの赤々と燃える暖炉の前で、シャーロック・ホームズはジョン・ワトスンに対して、事件の謎解きをしてみせる。

「証拠捜索に向かった僕の配下からの情報によると、彼ら(=犯人達)はクレーヴンストリートのメクスバラ・プライヴェート・ホテルに宿をとったことが判った。彼は付け髭で変装して、モーティマー医師をベーカーストリート、その後、駅やノーサンバーランドホテル(ヘンリー・バスカヴィル卿が宿泊)まで尾行する間、細君をホテルの部屋に軟禁していたんだ。」
(They lodged, i find, at the Mexborough Private Hotel, in Craven Street, which was actually one of those called upon my agent in search of evidence. Here he kept his wife imprisoned in her room while he, disguised  in a beard, followed Dr. Mortimer to Baker Street and afterwards to the station and to the Northumberland Hotel.)

ヘンリー・バスカヴィル卿(Sir Henry Baskerville)が宿泊したノーサンバーランドホテル(Northumberland Hotel:現在は、ここでシャーロック・ホームズパブ(Sherlock Holmes Pub)が営業中)が建っているノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)の一本東側に、クレーヴンストリートがほぼ並行して走っている。クレーヴンストリートは、チャリングクロス駅(Charing Cross Station)と幹線道路のノーサンバーランドアヴェニュー(Northumberland Avenue)に挟まれているため、人通りが少なく、裏通りの雰囲気である。

犯人達が宿泊したメクスバラ・プライヴェート・ホテルは実在のホテルではなく、残念ながら、コナン・ドイルの作品中、メクスバラ・ファミリー・ホテルの正確な住所は、明らかにされていない。が、シャーロック・ホームズ博物館で購入したシャーロック・ホームズ ウォーキングガイド(The Sherlock Holmes Walk)によれば、そのモデルとなったのは、43-46番地に建っていたクレーヴン・ファミリー・ホテル(Craven Family Hotel)だったと言われている。

クレーヴンストリートを歩いていくと、歴史上の著名人が住んでいたことを示す銘盤を見つけることができる。

ベンジャミン・フランクリンがここに住んでいたことを示すプレート

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者かつ気象学者であるベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年)は、36番地に居を構えていた。彼は、政治家としては、1776年にアメリカ独立宣言を起草した委員の一人として有名である。一方、物理学者・気象学者という面では、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしており、その他にも、避雷針、フランクリンストーブ、ロッキングチェアーや遠近両用眼鏡等を発明している。彼はまだ若い頃(1724年ー1726年)、フィラデルフィア知事の勧めにより、ロンドンに来て、植字工として働いたという経歴がある。

ハインリヒ・ハイネがここに住んでいたことを示すプレート

2人目は、ドイツの詩人、作家、ジャーナリストかつ評論家であるクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johan Henrich Heine:1797年ー1856年)で、一時期クレーヴンストリート32番地に住んでいた。掲げられた銘板には、ハインリヒ・ハイネの生誕年が1799年になっているが、1797年が正当と思われる。彼は英国を旅行で巡った後、「イギリス断章(Englische Fragmente)」(1827年)を発表している。

ハーマン・メルヴィルがここに住んでいたことを示すブループラーク

3人目は、アメリカ合衆国の作家かつ小説家であるハーマン・メルヴィル(Herman Melville:1819年ー1891年)で、25番地に一時期(1849年)住んでいた。1851年に発表された「白鯨(Moby-Dick)」が最も有名である。

ロンドン パディントン駅(Paddington Station)

午後4時50分を指すパディントン駅コンコース上の時計

ロンドンでのクリスマスショッピングを済ませた老齢のエルスペス・マクギリカディは、午後4時50分のパディントン駅(Paddington Station)発ブラッカムプトン行きの列車に乗車する。座席に腰を下ろし、一息ついたマクギリカディ夫人は、この後、恐ろしいものを目撃することになる。

パディントン駅を出たブラッカムプトン行きの列車は、間もなく、同じ速度で同じ方向に進む列車と並走する。並走する列車の、ある車輛の仕切り客室に目を向けたマクギリカディ夫人は、まるで舞台のような殺人劇を見かけてしまう。背の高い男が女性の首を締めつけており、女性の顔がみるみると紫色になっていく。マクギリカディ夫人は、自分が目撃した殺人を列車の車掌や駅長に知らせるものの、まともに取り合ってもらえなかった。落胆した彼女は、セントメアリーミード村に住む旧友ミス・ジェーン・マープルを訪ね、事件の内容を聞かせた。

これが、アガサ・クリスティー作「パディントン発4時50分(4:50 from Paddington)」(1957年)のプロローグである。

この物語の幕が開くのは、パディントン駅で、ロンドン北西のパディントン地区にある。ナショナルレール(National Rail)とロンドン地下鉄の鉄道駅で、オックスフォード(Oxford:ケンブリッジと並ぶ大学都市)やストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford upon Avon:シェイクスピアの生誕地)等への近郊路線と、バース(Bath)、ブリストル(Bristol)やコンウォール(Cornwall)方面への長距離路線を運行するファーストグレートウェスタン(First Great Western)や、パディントン駅とヒースロー空港を結ぶヒースローエクスプレス(Heathrow Express)等がターミナル駅として使用している。

パディントン駅で発車を待つヒースローエクスプレス

当駅は1854年に開設され、駅舎は建築家であるイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)により設計された。彼の偉業を讃えるため、駅のコンコース脇に、彼の銅像が設置されている。

パディントン駅コンコース脇に設置されているブルネルの銅像

駅の天井は練鉄の柱に支えられた3連のガラス屋根で、開設当時の雰囲気を今に伝えている。1906年から1915年の駅拡張時に、ホームの北側に4つ目のガラス屋根が平行して追加されている。クリスティーが「パディントン発4時50分」を執筆した頃に、思いを馳せるのも一興である。現在、ロンドン東部とロンドン西部の鉄道網をロンドン市内に新たに削岩する地下トンネルで一本に結ぶための一大プロジェクトである「クロスレールプロジェクト(Crossrail Project)」が、英国政府のサポートを受けて進められており、クロスレールのルートに該るパディントン駅も大改修の真最中である。駅のガラス屋根は長年の列車運行による影響により薄汚れて、昼間でも駅構内はどこか薄暗い印象が否めなかったが、順次クリーニングを終えて、駅構内は以前に比べてかなり明るくなったように思う。

パディントン駅コンコース上のガラス屋根

他のクリスティー作品で言うと、エルキュール・ポワロシリーズの「プリマス行き急行列車(The Plymouth Express)」では、同駅発の列車が犯行現場となっている。

同駅は、ホームズシリーズの中でも一番人気がある長編にも登場している。シャーロック・ホームズシリーズの「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」(1901年ー1902年)において、ダートムーア(Dartmoor)にあるバスカヴィル家に向かうジョン・ワトスンを見送るべく、ホームズは「土曜日にパディントン駅発午前10時30分発の列車で待ち合わせよう。(Then on Saturday, unless you hear to the contrary, we shall meet at the ten-thirty train from Paddington.)」とワトスンに話している。その他にも、「ボスコム谷の謎(The Boscombe Valley Mystery)」や「名馬シルヴァーブレイズ(Silver Blaze)」等で、ホームズはワトスンと一緒にパティントン駅から旅立っている。だが、個人的には、パディントン駅と言うと、やはりクリスティー作「パディントン発4時50分」の印象が一番強い。

パディントン駅構内の待合エリアに設置されている「くまのパディントン」

また、探偵小説ではないが、マイケル・ボンド(Michael Bond:1926年ー)の児童文学作品のキャラクターで、皆に愛されている「くまのパディントン(Paddington Bear)」(1958年)の名前は、登場人物のくまが、パディントン駅で見つけられたことに由来している。同駅構内の待合エリアには「くまのパディントン」の銅像が置かれていて、近くには関連グッズを販売するお店も出店している。