2016年8月28日日曜日

ロンドン カーゾンストリート9番地(9 Curzon Street)

トランパー化粧品店が営業しているカーゾンストリート9番地の建物

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。
暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際,
姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。


英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、物語の冒頭、アメリア・バロウビーの話相手(コンパニオン)であるカトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)の(旧)ソビエト連邦の大使館との繋がりが描かれる。それに続いて、王立園芸協会(Royal Horticultural Society)主催のチェルシーフラワーショー(RHS Chelsea Flower Show)において、自分の名前を冠したピンクローズが披露される際にスピーチを行うことになったポワロは張り切って、ある店でコロンを買い入れる。このコロンが、物語の間ずーっと、アーサー・ヘイスティングス大尉に謎の花粉症状を引き起こすことになる。

トランパー化粧品店の右側には、
Third Church of Christ Scientist が建っている

ポワロがコロンを買い入れるシーンは、トランパー化粧品店(Geo F Trumper)において撮影されている。トランパー化粧品店は、理髪店を兼ねた男性用化粧品店で、1875年創業の老舗である。

トランパー化粧品店の全景

トランパー化粧品店は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイフェア地区(Mayfair)にある。バークリースクエア(Berkeley Squareー2014年11月29日付ブログで紹介済)からパークレーン(Park Laneー2015年6月27日付ブログで紹介済)へ向かって西に延びるカーゾンストリート(Curzon Streetー2015年9月12日付ブログで紹介済)に対して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Stationー2015年6月14日付ブログで紹介済)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)が地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)を過ぎた辺りから北に延びるハーフムーンストリート(Half Moon Streetー2014年12月21日付ブログで紹介済)が突き当たったところが、「カーゾンストリート9番地(9 Curzon Street)」に該り、トランパー化粧品店は現在もここで営業を続けている。

2016年8月27日土曜日

ロンドン クリミア戦争碑(Crimean War Memorial):フローレンス・ナイチンゲールーロンドンでの所縁の地(その2)

夕闇に浮かぶクリミア戦争碑

(2)クリミア戦争碑(Crimean War Memorial)
   住所: ウォーターループレイス(Waterloo Place)


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)方面へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mallー2016年4月30日付ブログで紹介済)の途中にウォーターループレイスと呼ばれる広場があり、ここにクリミア戦争碑が建っている。

昼間のクリミア戦争碑

パル・マル通り側から見て、中央にクリミア戦争碑が、左側にフローレンス・ナイチンゲール像が、そして、右側にシドニー・ハーバート像が建っている。

クリミア戦争碑の正面
クリミア戦争碑の裏面

クリミア戦争碑は、セヴァストポールの戦い(Siege of Sevastopol)で使用された大砲からとったブロンズで、英国の彫刻家であるジョン・ベル(John Bell:1811年ー1895年)により制作され、1861年に除幕された。

フローレンス・ナイチンゲール像
フローレンス・ナイチンゲール像の台座正面
フローレンス・ナイチンゲール像の台座左面
フローレンス・ナイチンゲール像の台座右面
フローレンス・ナイチンゲール像の台座裏面

フローレンス・ナイチンゲール像は、英国の彫刻家アーサー・ジョージ・ウォーカー(Arthur George Walker:1861年ー1939年)によって制作されている。

初代ハーバート・オブ・リー男爵
シドニー・ハーバート像

ちなみに、右側に建つブロンズ像のモデルになった初代ハーバート・オブ・リー男爵シドニー・ハーバート(Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea:1810年ー1861年)は、ピール派(Peelite)とホイッグ党(Whig Party)によって組閣された第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトンーゴードン(George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen)率いる連立政権(1852年12月ー1855年1月)に、ピール派から閣僚の一人として戦時大臣として入閣した。

シドニー・ハーバート像の台座正面
シドニー・ハーバート像の台座左面
シドニー・ハーバート像の台座右面

クリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)をめぐって、彼は他のピール派閣僚と一緒に平和派に属して、参戦に反対したが、ホイッグ党閣僚に押し切られる形となり、英国はクリミア戦争に参戦することになった。そういった経緯に基づいて、クリミア戦争碑の右側にシドニー・ハーバート像が設置されたものと思われる。

2016年8月21日日曜日

ロンドン シャーロック・ウェンロック(Sherlock Wenlock)

「シャーロック・ウェンロック」を正面から見たところ

いよいよ、リオ・オリンピックが今日(正確には、時差の関係で明日)閉会式を迎えるので、昔の話ではあるが、オリンピックとシャーロック・ホームズのことをここに御紹介したい。

「デッキ椅子・ウェンロック(Deckchair Wenlock)」―
屋根付き野外ステージの周りに置かれているデッキ椅子を
テーマにしている

2012年7月~8月に開催されたロンドン・オリンピック&パラリンピックに先立って、「ウェンロック(Wenlock)」と「マンデヴィル(Mandeville)」という2体がマスコットに選ばれた。ロンドン・オリンピック&パラリンピックを盛り上げるため、ロンドン市内から6つの地域が抽出され、ロンドンの名所・旧跡に有名人等によるペイント(例:セントポール大聖堂、ビッグベン、ウェストミンスター寺院、ウィリアム・シェイクスピア、バッキンガム宮殿衛兵、2階建てバスやアフターヌーンティー等)が施された80体を超えるウェンロック像とマンデヴィル像がそれらの地域に設置された。

「アニマル・ウェンロック(Animal Wenlock)」―
ロンドン動物園(London Zoo)をテーマにしている
「鳥類・ウェンロック(Birdy Wenlock)」―
リージェンツパークに集う鳥類をテーマにしている

当然のことながら、英国が世界に誇るシャーロック・ホームズも選ばれ、「シャーロック・ウェンロック(Sherlock Holmes)」としてリージェンツパーク(Regent's Park)内に配置された。これは、ホームズがジョン・ワトスンと一緒に共同生活を送っていたベーカーストリート221Bがリージェンツパークに近いからだと思われる。

「リージェンシー・マンデヴィル(Regency Mandeville)」―
リージェンツパークを造園した摂政(Regent)で、
後のジョージ4世(George IV)をテーマにしている

ウェンロックとマンデヴィルという2体のマスコットは可愛らしくないと、当初、ロンドン市民には不評で、私も正直あまり興味がなかった。ところが、日系の週刊コニュ二ティー紙上で、シャーロック・ウェンロックの写真を見た瞬間、俄然興味がわいてきて、わざわざリージェンツパークまでシャーロック・ウェンロックを探しに行った。生憎と、日系の週刊コニュ二ティー紙には、シャーロック・ウェンロックが設置されている正確な場所は示されていなかったため、とりあえず、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)近くのシャーロック・ホームズ博物館(Sherlock Holmes Museum)の前を通過して、リージェンツパーク内へ入った。リージェンツパークはロンドンでも最大の公園で、果たして、シャーロック・ウェンロックを見つけられるかどうか、若干不安であったが、偶然入った場所がよく、Boating Lake(リージェンツパークの南西にある大きな池)の対岸にシャーロック・ウェンロックを発見。

「シャーロック・ウェンロック」を左側から見たところ

シャーロック・ウェンロックは、写真の通り、「シャーロック・ホームズであれば、これ!」という定番の鹿撃ち帽子(Deer Stalker)にインヴァネスコートという出で立ちで、コートの右ポケットにはパイプや鍵が、また、左ポケットにはルーペ等が入っている。そして、シャーロック・ウェンロックが立つ台座には、「What could this be ? Elementary my dear Watson. I can solve this case in no time. (あまりにも初歩的なことさ、ワトスン。直ぐにこの事件は解決できるよ。)」というおなじみのホームズのセリフが刻まれている。ウェンロックとシャーロック・ホームズの合体ではあるものの、この像を見た時、非常に良いものを見たという気持ちになった。

「シャーロック・ウェンロック」が立つ台座のアップ

リージェンツパーク内には、他にも、(1)屋根付き野外ステージの周りを囲むデッキ椅子、(2)夏場にオープンエアシアター(Open Air Theare)で上演されるシェイクスピアの「真夏の夜の夢」や(3)中央にある薔薇園(Rose Garden)等のペイントが施されたウェンロック像やマンデヴィル像が全部で10体以上設置されていた。

「真夏の夜の夢・ウェンロック(Midsummer Night's Dream Wenlock)」―
ウィリアム・シェイクスピア作「真夏の夜の夢」をテーマにしている
「ローズガーデン・マンデヴィル(Rose Garden Mandeville)」―
リージェンツパーク中央にある薔薇園をテーマにしている

私がシャーロック・ウェンロックを見に行ったのは、ロンドン・オリンピックが始まる2週間程前だったので、ウェンロックやマンデヴィルに興味を持つ人はあまり居なかったが、実際にロンドン・オリンピックが始まると、6つの地域内で、ロンドンに因むペイントが施されたウェンロック像やマンデヴィル像を探して、徒歩や自転車で廻っているロンドン市民や観光客をよく見かけたので、最終的には、ウェンロックやマンデヴィルはかなりの人気を得たものと言える。

「ヴィクトリア朝公園・マンデヴィル(Victorian Park Mandeville)」―
ヴィクトリア朝時代の人々をテーマにしている

ウェンロック像やマンデヴィル像は2012年8月末まで設置され、ロンドン・オリンピック&パラリンピックを盛り上げた後、オークションが実施され、確か、競売金はチャリティー団体へ寄付されたと記憶している。

2016年8月20日土曜日

ロンドン ハーリーストリート90番地(90 Harley Street):フローレンス・ナイチンゲールーロンドンでの所縁の地(その1)

ハーリーストリート90番地の建物―
フローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争に看護婦として従軍する前に、
この病院に勤務していた

2016年8月13日付ブログにおいて述べた通り、英国はフランスと一緒にクリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)に参戦し、クリミア半島においてロシア軍と戦いを繰り広げたが、戦地の兵舎病院での不衛生さが大きな問題となった。戦争での負傷と言うよりも、兵舎病院における不衛生さが原因で亡くなる兵士が非常に多かったのである。この事態を重くみたヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の提言を受け、クリミア戦争に看護婦として従軍したフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale:1820年ー1910年)とクリミア戦争を終結させた自由党初の首相である第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston:1784年ー1865年)の助けの下、軍病院開設の気運が高まった。そして、英国南部のネトリー(Netleyーサウザンプトン水道(Southampton Water)に面する)の土地が収用され、1863年3月11日にネトリー軍病院(Netley Hospital)が開院した。

ハーリーストリート90番地の建物外壁に彫られた
通り名の表示

ロンドン大学(University of London)で医学博士を取得したジョン・H・ワトスンは、軍医として従軍する前に、このネトリー軍病院で必要な研修を受けている。

ハーリーストリート沿いに置かれた植栽

ネトリー軍病院開院に大きく寄与した人物の一人として、上記の通り、フローレンス・ナイチンゲールが挙げられる。ロンドンには、フローレンス・ナイチンゲール所縁の地として、以下の場所がある。

ハーリーストリート90番地の反対側に建つ建物

(1)Institute for the Care of Sick Gentlemen
住所: ハーリーストリート90番地(90 Harley Street, Marylebone, London W1G 7HS)

フローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争に看護婦として従軍する前、この病院に1853年8月から1854年10月まで勤務していた。このことを示す内容が建物の外壁に彫られている。

フローレンス・ナイチンゲールが1854年10月までこの病院に勤務していたことを示す表示が
ハーリーストリート90番地の建物外壁に彫られている

この建物は、南北に延びるハーリーストリート(Harley Street)と東西に走るウェイマウスストリート(Weymouth Street)が交差する北東の角に所在している。

2016年8月14日日曜日

ロンドン アルバート橋(Albert Bridge)

東側のチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)から見たアルバート橋―
夜間は、LEDの電球でライトアップされている

アガサ・クリスティー作「黄色いアイリス(Yellow Iris)」は、1939年に刊行された短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録されている短編の一つである。

エルキュール・ポワロの元に、女性の声で危機を訴える匿名の電話がかかってくるところから、物語の幕が上がる。女性に指定されたレストラン「白鳥の園」にポワロが急いで到着したが、肝心の女性の姿がその場にはなかった。唯一黄色いアイリスが置かれたテーブルがあり、気になったポワロがそのテーブル客達に話しかけると、4年前ニューヨークのレストランで青酸カリの入った飲み物で不審な死を遂げたアイリス・ラッセル(Iris Russell)を偲んでいると言う。そのテーブルには、以下の5人の客が居た。

(1)バートン・ラッセル(Barton Russell)ーアイリスの夫
(2)ポーリン・ウェザビー(Pauline Wetheby)ーアイリスの妹
(3)アンソニー・チャペル(Anthony Chapell)ーポーリンの婚約者
(4)スティーヴン・カーター(Stephen Carter)ー外務省で極秘事項に関係している噂の男
(5)ローラ・ヴァルデス(Lola Valdez)ーダンサー

皆、アイリスが衆人の面前で自殺をする理由で思い当たらないと、ポワロに告げる。ポワロがテーブル客達の話を聞いている間に、4年前と全く同じ状況下、ポーリンが青酸カリの入った飲み物を飲んで、アイリスと同様に、不審な死を遂げたのである。
ポワロの面前で発生した謎の不審死!果たして、4年前、そして、今回の事件は単なる自殺なのか?それとも、殺人なのか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出すのであった。

オークリーストリート(Oakley Street)と
チェルシーエンバンクメント通りが交差した角から
アルバート橋を見たところ(その1)

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「黄色いアイリス」(1993年)の回では、ロンドンのジャーミンストリート(Jermyn Streetー2016年7月24日付ブログで紹介済)に開店したレストラン「白鳥の園(Le Jardin des Cygnes)」において、2年前のアイリス・ラッセルに続いて、彼女の妹ポーリン・ウェザビーまでが青酸カリの入った飲み物で殺害されるのを未然に防いだポワロであったが、生憎と、そのために夕食を食べそこなってしまう。お腹をすかせたポワロを見かねたアーサー・ヘイスティングス大尉は彼をまだ営業している店へと連れて行く。物語のエンディングで、フィッシュ&チップスを食するポワロとヘイスティングス大尉の場面があるが、物語の前半、「英国には、美味しい食べ物はない。」とヘイスティングス大尉に文句行っていたポワロが、フィッシュ&チップスを美味しそうに頬張る姿が可笑しい。この場面は、バタシーパーク(Battersea Parkー2016年7月10日付ブログで紹介済)の北西の角で撮影していると思われるが、ポワロとヘイスティングス大尉の後ろには、ライトアップされたアルバート橋(Albert Bridge)が美しく輝いてる。

オークリーストリート(Oakley Street)と
チェルシーエンバンクメント通りが交差した角から
アルバート橋を見たところ(その2)

アルバート橋はテムズ河(River Thames)に架かる橋で、北岸にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)と南岸にあるロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)を結んでいる。アルバート橋の上流にはバタシー橋(Battersea Bridge)が、そして、下流にはチェルシー橋(Chelsea Bridge)が架かっている。

ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)内に設置されている
アルバート公記念碑(Albert Memorial)

18世紀後半に架けられたバタシー橋は木製のため、19世紀後半には劣化が進み、安全な通行に懸念が呈されるようになった。また、1851年に建設が開始され、1858年に竣工したヴィクトリア橋(Victoria Bridge → 後にチェルシー橋と改名)は、そのため、深刻な交通渋滞に悩まされる。そこで、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)を結婚した夫君アルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)がバタシー橋とヴィクトリア橋の間に新たな橋の建設を1860年代初期に提唱した。

シティー地区(City)に近いホルボーンサーカス(Holborn Circus)内に
設置されているアルバート公像

アルバート公が腸チフスが原因で急逝した後の1864年、英国議会によって新たな橋の建設が承認される。そして、橋の設計者として、英国の技術者であるロウランド・メイソン・オーディッシュ(Rowland Mason Ordish:1824年ー1886年)が任命された。ちなみに、ロウランド・メイソン・オーディッシュは、ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hallー2016年2月20日付ブログで紹介済)、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)やクリスタルパレス(Crystal Palace)等の建設で有名である。
紆余曲折を経て、1870年に建設工事がスタートし、表立った式典もなく、1873年8月27日に新しい橋は正式に開通を迎えた。そして、橋の建設を提唱したアルバート公に因んで、アルバート橋と名付けられた。

西側のチェルシーエンバンクメント通りから見たアルバート橋

アルバート橋は、建設当初から通行時の揺れが激しく、「The Trembling Lady」という愛称で呼ばれる。そのため、1884年から1887年にかけて、英国の土木技師であるサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バゾルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)が橋の補強工事を行うものの、完全な補強には至らず、橋を通行する車輛に対して、5トンの重量制限が課せられることとなった。それは、更に、1935年に2トンまで下げられた。

アルバート橋は、いつも車の往来が激しい

1957年にロンドン・カウンティー・カウンシル(London County Council)がアルバート橋の架け替えを検討したが、英国の詩人であるジョン・ベッチェマン(John Betjeman:1906年ー1984年)等による反対のため、計画が流れる。
また、1973年には、アルバート橋を歩行者専用の橋に変更する案も検討され、ジョン・ベッチェマン等の付近住民の賛同を得るものの、今度は王立自動車クラブ(Royal Automobile Club)が反対して、またも実現しなかった。
上記のように、計画が二転三転している間の1975年に、アルバート橋は「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受け、保存対象となる。

夕闇に浮かぶライトアップされたアルバート橋

その後も、アルバート橋の経年劣化は進み、ケンジントン&チェルシー王立区が改修工事を計画するものの、必要な資金が集まらなかった。そして、遂に2000年2月15日から22ヶ月間にわたって、アルバート橋を閉鎖の上、約7.2百万ポンドの資金を投入して、補強を含む痔改修工事が実施され、2011年12月2日に再オープンを迎えた。その際、夜間、アルバート橋を照らす4千を超えるタングステンのハロゲン電球は、温暖化対策のため、全てLEDの電球に変更された。

2016年8月13日土曜日

ネトリー ネトリー軍病院(Netley Hospital)

ウォーターループレイス(Waterloo Place)内にあるクリミア戦争碑(Crimean War Memorial)―
一番左に見えるのは、フローレンス・ナイチンゲール像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。物語の冒頭、ワトスンは、1878年にロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、「ネトリー軍病院で軍医になるために必要な研修を受けた。(… and proceeded to Netley to go through the course prescribed for surgeons in the army.)」と述べている。

クリミア戦争碑の台座右側に
「クリミア(Crimea)」の文字が刻まれている

ワトスンが軍医になるために必要な研修を受けたネトリー軍病院(Netley Hospital)は実在の場所で、英国南部ハンプシャー州(Hampshire)の都市サウザンプトン(Southampton)の近くにあるネトリー(Netley)内にある軍病院である。

クリミア戦争勃発時におけるヨーロッパ大陸の勢力図―
クリミア半島はロシア領(黄色)内にあり、
黒海(Black Sea―画面右中央のやや下辺り)に面している

英国はフランスと一緒にクリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)に参戦し、クリミア半島においてロシア軍と戦いを繰り広げたが、戦地の兵舎病院での不衛生さが大きな問題となり、戦争での負傷と言うよりも、兵舎病院における不衛生さが原因で亡くなる兵士が非常に多かった。この事態を重くみたヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の提言を受け、クリミア戦争に看護婦として従軍したフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale:1820年ー1910年)とクリミア戦争を終結させた自由党初の首相である第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston:1784年ー1865年)の助けの下、軍病院開設の気運が高まった。

フローレンス・ナイチンゲール博物館(Florence Nightingale Museum)内に架けられている
フローレンス・ナイチンゲールの写真

ネトリーはサウザンプトン水道(Southampton Water)に面しており、スコットランド出身の軍医、探検家、民俗学者かつ動物学者でもあるサー・アンドリュー・スミス(Sir Andrew Smith:1797年ー1872年)により軍病院設立の場所として選定された。1856年1月に軍病院開設に必要な土地が収用され、同年5月から工事が始まった。そして、1863年3月11日にネトリー軍病院は開院した。
ネトリー軍病院の開院に伴い、1866年3月にネトリーとサウザンプトンの間が鉄道で結ばれ、ヴィクトリア女王からの提言に基づき、1900年4月に鉄道がネトリー軍病院の地まで延長された。更に、1903年には発電所も設置された。

クリミア戦争時に看護活動を行うフローレンス・ナイチンゲール

実際に、ヴィクトリア女王はネトリー軍病院を頻繁に訪問している。特に、夫君であるアルバート公(Albert, Prince Consort:1819年ー1861年)の死後、ヴィクトリア女王はサウザンプトンの沖合いにあるワイト島(Isle of Wight)のオズボーンハウス(Osborne House)に引き蘢っていて、ワイト島からネトリー軍病院まで船で訪れている。

リミア戦争時、英国やフランスと一緒に、
ロシアと戦ったオスマントルコ帝国内で使用されていた
ランタン(手提げランプ)

ネトリー軍病院は、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年ー1902年)、第一次世界大戦(1914年ー1918年)や第二次世界大戦(1939年ー1945年)で活躍したが、その後、維持費用の関係で、次第に使用されなくなり、1958年に閉鎖された。

そして、1963年に発生した大火事により軍病院の施設の大部分が被害を蒙り、1966年には取り壊されてしまった。現存しているのは、チャペルのみで、現在、跡地はロイヤル ヴィクトリア カントリー パーク(Royal Victoria Country Park)として一般に開放され、チャペルはネトリー軍病院の歴史を今に伝えるビジターセンターとして使用されている。