2015年8月30日日曜日

ロンドン ブラッシュフィールドストリート42番地 / スピタルフィールズ(42 Brushfield Street / Spitalfields)

ダイヤモンド密輸の共犯者であったジョルジョスが営む店舗の撮影が行われた
ブラッシュフィールドストリート42番地

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

ブラッシュフィールドストリートを西側から東方面に望む
ブラッシュフィールドストリートの東側の突き当たりにある
クライスト教会スピタルフィールズ
(Christ Church Spitalfields)

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

西側から見たブラッシュフィールドストリート42番地

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ポワロやスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)とは別個に、ダイヤモンド密輸の内偵を行っていた英国税関の捜査員達が、物語の終盤、密輸に関与していた共犯者を逮捕する。この逮捕劇の撮影が行われたのが、スピタルフィールズ(Spitalfields)にあるブラッシュフィールドストリート(Brushfield Street)である。
ヒッコリーロード26番地にある学生寮の経営者であるクリスティーナ・二コレティス(Mrs Christina Nicoletis)がダイヤモンド密輸犯の首謀者の一人で、ブラッシュフィールドストリート42番地(42 Brushfield Street)で店舗を営んでいるジョルジョス(Giorgios)が彼女の共犯者だった。

現在改装中のロンドン果物/羊毛取引所
(London Fruit and Wool Exchange)
ブラッシュフィールドストリート沿いに設置されているオブジェ
「洋梨とイチジク(A Pear and A Fig)」

ブラッシュフィールドストリートは、英国経済活動の中心地であるロンドン・シティー(City)の北東にあるロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)のショーディッチ地区(Shoreditch)内にある通りで、東側は地下鉄オルドゲートイースト駅(Aldgate East Tube Station)から北北西へ延びるコマーシャルストリート(Commercial Street)から始まり、西側はリヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)の前を走るビショップスゲート通り(Bishopsgate)に突き当たって終わる。

再開発後のビッショプススクエア
ビッショプススクエア内に設置されているオブジェ

ブラッシュフィールドストリートは、17世紀後半、スピタルフィールズマーケット(Spitalfields Market)の南側に既に存在していたが、当時まだ固有の名前はついていなかった。また、通りは、当時、東側の半分近くだけが存在していた。
その後、18世紀に入ると、リトルパタノスター(Little Paternoster)、そして、パタノスターロウ(Paternoster Row)と呼ばれるようになる。18世紀後半には、通りは西側へと延びて、ビショップスゲート通りまで達したが、西側の半分はユニオンストリート(Union Street)と呼ばれていた。
それから1世紀近くが経過した1870年2月25日に、診療所の評議員で、かつ教区の代表者でもあったトーマス・ブラッシュフィールド(Thomas Brushfield)にちなんで、ブラッシュフィールドストリートへと名前が反抗され、現在に至っている。
通り沿いの建物の多くは1920年代に改装されたが、18世紀に建てられた建物のいくつかは現在も残っており、レストランやカフェとして使用されている。また、通りの北側にあるスピタルフィールズマーケットの跡地は1990年代に取り壊され、2001年から2005年にかけて、オフィスや小売店舗等が入居する建物として再開発され、「ビショップススクエア(Bishops Square)」と呼ばれている。

東側から見たブラッシュフィールドストリート42番地

なお、ジョルジョスが営んでいた店舗の舞台となったブラッシュフィールドストリート42番地には、現在、食料品の小売店鋪が入居している。ただ、建物の外壁には、当時の名残で、「42 - A. Gold. French Milliner(女性用帽子製造販売業者)- 42」という看板が残っている。

2015年8月29日土曜日

ロンドン コヴェントガーデン / ロイヤルオペラハウス(Covent Garden / Royal Opera House)

ボウストリート(Bow Street)の南側から見たロイヤルオペラハウス

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤い輪(The Red Circle)」では、大英博物館(British Museum)の近くで下宿屋を営むウォーレン夫人(Mrs Warren)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、自分の家に不審な下宿人が居ると相談する。ウォーレン夫人によると、「(1)下宿の表玄関の鍵を一つ渡すことと(2)部屋の中へ絶対に立ち入らないことの二つの条件をのめば、週5ポンドの下宿代を支払う。」と交渉した男が、その後、10日間一度も外へ出ないで、一日中部屋の中を歩き回っている、とのことだった。また、その男との最初の取り決めでは、(3)ベルを鳴らした後、食事を部屋のドアの外にある椅子の上に置くこと、そして、(4)何か必要なものがある場合には、紙切れに活字体で書いて置いておくので、その指示に従うことになっていた。

オーケストラストール席(Orchestra Stalls)から見た
開演前の舞台正面

ウォーレン夫人の話に興味を覚えたホームズは、新聞の私事広告欄に謎の下宿人宛と思われる秘密のメッセージを発見する。ホームズとジョン・ワトスンがウォーレン夫人の下宿屋近辺を調査に行こうと話をしていると、ウォーレン夫人が猛烈な勢いで彼らの部屋に飛び込んで来る。大騒ぎするウォーレン夫人の話では、トッテナムコートロード(Tottenham Court Road)のモートン&ウェイライト商会(Morton and Waylight's)で働くウォーレン氏(Mr Warren)が今朝出勤のために出かけた際、家の前で謎の男2人に襲撃されて、辻馬車の中に押し込まれ、1時間もの間連れ回された挙げ句、ハムステッドヒース(Hampstead Heath)で放り出された、とのことだった。ウォーレン夫人の説明を受けたホームズとワトスンは、謎の下宿人を調べるため、早速ウォーレン夫人の下宿屋へと向かったところ、そこでスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)とピンカートン・アメリカ探偵社(Pinkerton's American agency)のレヴァートン氏(Mr Leverton)に出会う。レヴァートン氏は、ナポリの結社「赤輪党(Red Circle)」のジュセッペ・ゴルジアーノ(Giuseppe Gorgiano)をニューヨークから追って来ており、グレッグスン警部と協力して、この一週間彼を逮捕できる口実ができるのを待っていたのである。

ボウストリートを挟んで、
ロイヤルオペラハウスの反対側にある広場に設置されている
バレリーナ像(その1)

ウォーレン夫人の下宿屋に隠れていたのは、エミリア・ルッカ(Emilia Lucca)で、下宿を借りた日に彼女の夫であるジェンナロ・ルッカ(Gennaro Lucca)と入れ替わっていたのだった。若気の至りで、「赤輪党」に加入していたジェンナロであったが、組織を裏切って、妻エミリアと一緒にニューヨークからロンドンに逃げて来たが、ゴルジアーノ一味も彼らを追ってロンドンまでやって来たのである。
事件が解決した後、グレッグスン警部はホームズに次の様に話しかけた。

ロイヤルオペラハウス前のボウストリートは狭く、
上演の開始/終了時間前後は、
タクシーやハイヤー等の車で非常に渋滞する

「しかし、ホームズさん、私は皆目見当がつかないんですが、一体全体どうやって、あなたはこの事件に関わられるようになったのですか?」
「グレッグスン君、勉強だ。勉強のためさ。古い大学でいまだに知識を求めているんだ。さあ、ワトスン、悲劇的でかつ恐ろしい事件がもう一つ君のコレクションに加わった訳だ。まだ(午後)8時になっていない。今夜はコヴェントガーデンでワグナーをやっている。急げば、第二幕に間に合うかもしれないな。」

オーケストラストール席から見た観客席の天井

'But what I can't make head or tail of, Mr Holmes, is how on earth you got yourself mixed up in the matter.'
'Education, Gregson, education. Still seeking knowledge at the old university. Well, Watson, you have one more specimen of the tragic and grotesque to add to your collection. By the way, it is not eight o'clock, and a Wagner night at Covent Garden! If we hurry, we might be in time for the second act.'

バレリーナ像(その2)

ホームズが言う「コヴェントガーデン(Covent Garden)」とは、「ロイヤルオペラハウス(Royal Opera House)」の通称のことで、ロンドンのコヴェントガーデンにある歌劇場である。「コヴェントガーデン」の他に、「ROH」と略記される場合もある。現在、ロイヤルオペラ(The Royal Opera)、ロイヤルバレエ団(The Royal Ballet)およびロイヤルオペラハウスオーケストラ(The Orchestra of the Royal Opera House)がロイヤルオペラハウスを本拠地として使用している。

オーケストラストール席から見た観客席の側面

ロイヤルオペラハウスの起源は、1660年に英国王チャールズ2世(Charles Ⅱ:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)がサー・ウィリアム・ダヴェナント(Sir William Davenant:1606年ー1668年)に認可した特許状まで遡る。この特許状により、当時一つの劇団しか存在していなかったロンドンにおいて、サー・ダヴェナントは新しい劇団を創設することができたのである。

ガラス張りが目立つフローラルホール正面

現在のロイヤルオペラハウスの建物は3代目に該り、次のような変遷を経て、現在に至っている。

<1代目歌劇場>
1728年に俳優兼マネージャーだったジョン・リッチ(John Rich)が劇作家ジョン・ゲイ(John Gay)作「乞食オペラ(The Begger's Opera)」の上演成功で得た資金を元手に、建築家エドワード・シェファード(Edward Shepherd:?ー1747年)の設計でシアターロイヤル(Theatre Royal)が建設され、1732年12月7日に第1回公演が行われた。しかし、1808年9月20日に発生した火事により、ロイヤルシアターは焼失の憂き目に会ったのである。

入口横に展示されている舞台衣装

<2代目歌劇場>
上記後、建築家ロバート・スマーク(Robert Smirke:1780年ー1867年)の設計により、1808年12月に歌劇場の再建が開始し、1809年9月18日に第1回公演が行われている。その後、観客席の改装が実施されて、「ロイヤルイタリアンオペラ(Royal Italian Opera)」と改称した歌劇場は1848年4月6日に上演を再開したが、1856年3月5日に再度火事に見舞われてしまう。

ロビーの壁

<3代目歌劇場>
1857年に建築家エドワード・ミドルトン・バリー(Edward Middleton Barry:1830年ー1880年)の設計に基づき、歌劇場の再建が始まり、1858年5月15日に上演を再開した。そして、1892年に名称を「ロイヤルオペラハウス」へと変更している。
第一次世界大戦(World War Ⅰ:1914年ー1918年)中は建設省(Ministry of Works)に接収されて、家具の保管場所として使用されたり、また、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中はダンスホールとして利用されることはあったが、1946年2月20日に上演再開に至っている。

1960年代に小規模な改装は実施されていたが、根本的な大改装が必要となり、必要な資金の目処がついた1995年の翌年の1996年から2000年までの4年間に、ジェレミー・ディクソン(Jeremy Dixon:1939年ー)とエドワード・ジョーンズ(Edward Jones:1939年ー)の設計に基づき、大規模な改装工事が行われた。大改装後のロイヤルオペラハウスには、リハーサル用設備、オフィスや教育用施設等が新設された他に、地下には「リンブリーシアター(Linbury Theatre)」と呼ばれる小型の劇場が追加された。また、歌劇場に隣接するマーケットも建物の一部として取り込まれ、当時の名前にちなんで「フローラルホール(Floral Hall)」と呼ばれている。その結果、ロイヤルオペラハウスは、ヨーロッパにおいて最も近代的な設備を有する歌劇場と評価されているのである。

2015年8月23日日曜日

ロンドン モーゲート通り85番地(85 Moorgate)

ジョン・キーツが生まれたモーゲート通り85番地に建つ
パブ「キーツ・アット・ザ・グローヴ」

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。

パブ「キーツ・アット・ザ・グローヴ」の入口に架けられている看板

ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

ロンドンの東西にある鉄道網を
ロンドンの地下で結ぶクロスレールプロジェクト(Crossrail Project)工事が、
パブの右側で進行中である

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

モーゲート通り83番地に建つパブ「ザ・グローヴ」

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ポワロがヒッコリーロード26番地の学生寮で講演を行った後、心理学を専攻するコリン・マックナブ(Colin McNabb)に付き添われて、化学を専攻するシーリア・オースティン(Celia Austin)がポワロの元を訪ねる。シーリアは、「学生寮内でいろいろなものが紛失しているが、それは自分が盗った。」と、ポワロに告白する。ただし、彼女は、「電球は盗っていないし、リュックサックを切り裂いてもいない。」と主張する。それでは、学生寮には、もう一人別の不届き者が居るのだろうか?そんな最中、シーリアがモルフィネの過剰摂取により死亡しているのが発見されるのであった。
シーリアの自殺説に疑問を持つポワロは、学生寮に住む学生達に彼女のことを聞いて回る。英文学を専攻するサリー・フィンチ(Sally Finch)を訪問したポワロは、キーツの詩と見せかけて、シェリーの詩を彼女に暗唱して聞かせるが、彼女はキーツとシェリーの違いが判らず、アガサ・クリスティーの原作には書かれていないサリー・フィンチの素性と目的が明らかになるのであった。

モーゲート通り85番地の建物外壁に架けられている
「ジョン・キーツがここで生まれた」ことを示すプレート

ジョン・キーツ(John Keats:1795年ー1821年)は英国ロマン派の詩人で、ロンドンの金融街シティー(City)内のモーゲート(Moorgate)に馬丁の長男として出生した。
キーツが生まれた場所は、現在の住所表記上、「モーゲート通り85番地(85 Moorgate)」に該り、現在、「キーツ・アット・ザ・グローヴ(Keats at the Globe)」という名のパブが営業している。非常に珍しいケースであるが、左隣りの「モーゲート通り83番地(83 Moorgate)」にも、「ザ・グローヴ(The Globe)」というパブが並んでいる。モーゲート85番地のパブは、以前、「ジョン・キーツ・アット・ザ・モーゲート(John Keats at the Moorgate)」という名前で営業していたが、その後、現在の名前に変更している。
前のモーゲート通り(Moorgate)を通ってもなかなか気付き難いが、日本の2階と3階の間の外壁の真ん中に、ジョン・キーツがここで生まれたことを示すプレートが架けられている。
なお、モーゲート通り85番地にあるパブについては、ポワロシリーズには出てこないので、念の為。

地下鉄モーゲート駅(Moorgate Tube Station)の構内の壁装飾

ちなみに、キーツの詩だと言って、ポワロがサリー・フィンチに暗唱してみせた詩の作者であるパーシー・ビッシェ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年)は、ジョン・キーツと同じ英国ロマン派の詩人で、彼とは友人関係にあった。

また、シェリーの2番目の妻であるメアリー・ウルストンクラフト・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley:1797年ー1851年)は、ゴシック小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein; or the Modern Prometheus.)」(1818年)の作者として非常に有名である。

2015年8月22日土曜日

ロンドン グレートオームロード(Great Orme Road)

住居棟が建ち並ぶグレートオーモンドストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤い輪(The Red Circle)」では、大英博物館(British Museum)の近くで下宿屋を営むウォーレン夫人(Mrs Warren)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れ、自分の家に不審な下宿人が居ると相談する。ウォーレン夫人によると、「(1)下宿の表玄関の鍵を一つ渡すことと(2)部屋の中へ絶対に立ち入らないことの二つの条件をのめば、週5ポンドの下宿代を支払う。」と交渉した男が、その後、10日間一度も外へ出ないで、一日中部屋の中を歩き回っている、とのことだった。また、その男との最初の取り決めでは、(3)ベルを鳴らした後、食事を部屋のドアの外にある椅子の上に置くこと、そして、(4)何か必要なものがある場合には、紙切れに活字体で書いて置いておくので、その指示に従うことになっていた。


ウォーレン夫人の話に興味を覚えたホームズは、新聞の私事広告欄に謎の下宿人宛と思われる秘密のメッセージを発見する。ホームズとジョン・ワトスンがウォーレン夫人の下宿屋近辺を調査に行こうと話をしていると、ウォーレン夫人が猛烈な勢いで彼らの部屋に飛び込んで来る。大騒ぎするウォーレン夫人の話では、トッテナムコートロード(Tottenham Court Road)のモートン&ウェイライト商会(Morton and Waylight's)で働くウォーレン氏(Mr Warren)が今朝出勤のために出かけた際、家の前で謎の男2人に襲撃されて、辻馬車の中に押し込まれ、1時間もの間連れ回された挙げ句、ハムステッドヒース(Hampstead Heath)で放り出された、とのことだった。ウォーレン夫人の説明を受けたホームズとワトスンは、謎の下宿人を調べるため、早速ウォーレン夫人の下宿屋へと向かった。

クイーンスクエアガーデンズ(Queen Square Gardens)の看板
クイーンスクエアガーデンズの庭内

12時半に私達はウォーレン夫人が営む下宿屋の戸口のところに着いた。それは、大英博物館の北東側の狭い通りグレートオームストリートにある高くて細い黄色のレンガの建物だった。その建物はグレートオームストリートの角近くに建っていたので、そこからは見栄を張った家が建ち並ぶハウスストリートを見下ろすことができた。ホームズはほくそ笑みながら、建ち並ぶ家の中から一軒を指差した。その家は前方に張り出しており、人目につかない筈がなかった。
「ワトスン、あの家だ!」と、ホームズは言った。「『表面が石葺きの高く赤い家』だ。あの建物から信号を発信しているに違いない。僕達は場所も判っているし、信号の内容も判っている。だから、僕達の仕事は簡単だ。あの窓には、「貸部屋」の表示が出ている。明らかに、あそこが共謀者が連絡のために入り込む空き部屋だ。」

クイーンスクエアガーデンズ内から見上げた病院の建物
英国王ジョージ3世(George III:1738年—1820年
在位期間:1760年—1820年)の妻である
 シャーロット王妃(Queen Charlotte:1744年—1818年)のブロンズ像

At half-past twelve we found ourselves upon the steps of Mrs Warren's house - a high, thin, yellow-brick edifice in Great Orme street, a narrow thorough fare at the north-east side of the British Museum. standing as it does near the corner of the street, it commands a view down Howe Street, with its more pretentious houses. Holmes pointed with a chuckle to one of these, a row of residential flats, which projected so that they could not fail to catch the eye.
'See Watson!' said he, '"High red house with stone facings." There is the signal station all right. We know the place, and we know the code; so surely our task should be simple. There's a "to let" card in their window. It is evidently an empty flat to which the confederate has access.'

医療施設が建ち並ぶグレートオーモンドストリート(西側)

 ウォーレン夫人が営む下宿屋があったグレートオームストリート(Great Orme Street)やハウスストリート(House Street)は架空の住所で、大英博物館の北東側を含め、大英博物館近辺には存在していない。
グレートオームストリートの候補地としては、サウザンプトンロウ(Southampton Row)を間に挟んで、大英博物館やラッセルスクエア(Russell Square)の反対側にあるクイーンスクエア(Queen Square)から東へ延びるグレートオーモンドストリート(Great Ormond Street)が考えられる。通りの名前も非常に似通っているし、場所的にも大英博物館の正面玄関から見ると数ブロック離れているものの、北東側に位置していると言える。ただし、通りの両側に車を駐車すると、双方向に行き交うことはやや難しいが、狭い通りとは言えないかもしれない。

The Hospital for Sick Children
Royal London Homeopathic Hospital

西寄りのグレートオーモンドストリートの南側は、フラットが建ち並ぶ住居棟になっているが、北側には(1)Great Ormond Street Hospital、(2)National Hospital for Neurology and Neurosurgeryや(3)Royal London Hospital for Integrated Medicine 等の医療施設が集中している。この辺りは、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属している。

両側に住宅棟が建ち並ぶグレートオーモンドストリート(東側) 
住宅棟(その1)
住宅棟(その2)

 南北に延びるラムズコンデュイットストリート(Lamb's Conduit Street)と交差した後の東寄りのグレートオーモンドストリートの両側は住居棟である。
ただし、ハウスストリートはグレートオーモンドストリート近辺には存在していない。

2015年8月16日日曜日

ロンドン ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London)

UCL の入口から見た主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。



ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。


UCL 近辺の通りに設置されている案内板

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。


主要校舎ウィルキンスビルの近景

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ポワロがヒッコリーロード26番地の学生寮で講演を行った後、心理学を専攻するコリン・マックナブ(Colin McNabb)に付き添われて、化学を専攻するシーリア・オースティン(Celia Austin)がポワロの元を訪ねる。シーリアは、「学生寮内でいろいろなものが紛失しているが、それは自分が盗った。」と、ポワロに告白する。ただし、彼女は、「電球は盗っていないし、リュックサックを切り裂いてもいない。」と主張する。それでは、学生寮には、もう一人別の不届き者が居るのだろうか?そんな最中、シーリアがモルフィネの過剰摂取により死亡しているのが発見されるのであった。

主要校舎ウィルキンスビルの入口

主要校舎ウィルキンスビルから俯瞰した大学の校庭

コリン・マックナブとシーリア・オースティンが通う大学として、ロンドン中心部ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に本部を置くユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College Londonー以下、UCL)が撮影に使用された。


ガワーストリート(Gower Street)の反対側に建つ大学施設(その1)

ガワーストリート(Gower Street)の反対側に建つ
大学施設(その2)

UCLは、当初、1826年2月11日に「ロンドン・ユニヴァーシティー(London University)」という名称で設立された。哲学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham:1748年ー1832年)は、高等教育の大衆化を強く提唱し、「UCL建学の父」と一般的に言われているが、厳密には、彼がUCLの設立に直接関与した部分はそれ程大きくなく、どちらかと言うと、UCLの設立および発展にとって、彼の提唱が精神的に大きな支柱になったと言う方がより正確である。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学は、当時、入学条件として、
(1)男性
(2)英国教徒
(3)貴族出身者
という制限を設けていたが、UCLの場合、英国で初めて女性の受け入れを可能とした(実際に、女性の入学が受け入れられたのは、1878年)上、宗教や身分等による入学制限についても撤廃した。そのため、既得権益を失うことを危惧した上記の両大学はUCLに対して様々な圧力をかけたが、1836年にUCLが学位を授与するために必要な王立憲章(Royal Charter)を取得できた(=大学としての法的な資格を得た)ことに伴い、「ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College, London)」と改称した。その際、UCLは、設立間もないキングス・カレッジ・ロンドン(King's College, London)と一緒に、ロンドン大学(University of London)を構成した。そして、UCLは、1986年に再度改称を行い、カレッジの後ろのコンマを抜いて、現在の「ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London)」が大学の正式名となったのである。現在、多くのカレッジがロンドン大学に加盟して、巨大な大学連合を組成している。

ガワーストリート沿いに建つ UCL 生物科学部の建物

UCL の無宗教性は、英国の自然学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)が、当時のキリスト教思想を真っ向から否定する「進化論」をUCLで発表することにつながり、1859年11月の「種の起原(On the Origin of Species)」の出版へと至るのである。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)

UCL 生物科学部の建物外壁には、
チャールズ・ダーウィンがここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

現在も、UCL は自由主義や平等主義を尊ぶ大学として一般に知られている。この UCL の自由主義/平等主義は、英国で初めての学生自治会(Students' Union)を生み、2002年のUCLとインペリアル・カレッジ・ロンドン(Imperial College London)の合併提案に関しては、学生自治会の拒否権発動により阻止されている。