2017年6月25日日曜日

T.S.エリオット(Thomas Stearns Eliot)

T.S.エリオットが住んでいた住居が、
ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内の
ケンジントンコートプレイス通り(Kensington Court Place)沿いに建っている

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。


キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。
実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。

このフラットは、現在、
「ケンジントンコートガーデンズ
(Kensington Court Gardens)」と呼ばれている

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。

「ケンジントンコートガーデンズ」の入口

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作が第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態を物語の時代背景としたことに対して、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間に物語の時代設定を置いている関係上、第二次世界大戦前夜を時代背景として、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。また、物語の舞台も、サセックス州(Sussex)のクロウディーン(Crowdean)からケント州(Kent)のドーヴァー(Dover)へと変更されている。更に、コリン・ラムの名前は、コリン・レイス大尉(Liteunant Colin Race)となり、警察の公安部員ではなく、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)という設定に変えられている。

T.S.エリオットがここに住んでいたことを示す
ブループラークは、フラットの入口の左側の壁に架けられている

TV版では、目の不自由な老婦人のミリセント・ペブマーシュが住むウィルブラームクレッセント19番地の居間で身元不明の男性の死体が見つかったことについて、ポワロとMI6 のコリン・レイス大尉の二人は、右隣りのウィルブラームクレッセント20番地(20 Wilbraham Crescent)に住む老婦人のヘミング夫人(Mrs Hemmings)を訪れ、何か見たり聞いたりしたことはないかと尋ねる。
ヘミング夫人は非常な猫好きで、彼女と話をするポワロとコリン・レイス大尉の周りを数匹の猫がウロウロとする。猫の毛で鼻がムズムズとするポワロは、残念ながら、ヘミング夫人との話に集中することができない。
ヘミング夫人は二人に対して、「隣りのミリセント・ペブマーシュは目が不自由ではあるが、自分のことは自分で対処できている。」と語る。そして、ヘミング夫人は次のように評する。
「もしミリセント・ペブマーシュが猫だったら、きっと、彼女はT.S.エリオットの詩集に出てくる猫の一匹になれるわ。(I think if she were a cat, she’d be one of T. S. Eliot’s practical cats, don’t you?)」
更に、作者のT.S.エリオットについても、ヘミング夫人は次のような発言まで行った。
「(作者の)T.S.エリオットの名前を逆から書いたら、トイレの綴りになることを知っていましたか?(Have you realized that if you write ’T. S. Eliot’ backwards, it spells toilets?)」

T.S.エリオットは、1965年にこのフラットで死去した

ヘミング夫人の話に出てくるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年ー1965年)は、英国の詩人、劇作家で、かつ文芸批評家である。T.S.エリオットは、1888年9月26日に米国ミズーリ州セントルイスに誕生し、ハーバード大学を卒業した後、ソルボンヌ大学(フランス)、フィリップ大学マールブルク(ドイツ)やオックスフォード大学(英国)にも通った。彼は1917年から1925年までロイズ銀行の渉外部門で働いた後、1927年に英国に帰化し、英国国教会に入信。

ケンジントンコートプレイス通りを
北側から南方面へ見たところ

彼の作品は、主に以下の通り。
(1)評論「伝統と個人の才能(Tradition and the Individual Talent)」(1919年)
 →「4月は残酷極まる月(April is the cruellest month.)」で始まる。
(2)長詩「荒地(The Waste Land)」(1922年)
 →第一世界大戦後の荒廃した世界と救済への予兆を描き出した。
(3)詩劇「寺院の殺人(Murder in the Cathedral)」(1935年)
 →第2幕に登場する「誘惑者」と主人公の殉教者トマス・ベケット(Thomas Becket:1118年ー1170年 イングランドの聖職者で、カンタベリー大司教)の対話は、シャーロック・ホームズの「マスグレイヴ家の儀式書(The Musgrave Ritual)」(1893年)を真似たものとのこと。
(4)長詩「四つの四重奏」(1943年)
 →1935年から1942年にかけて発表した「Burnt Norton」、「East Coker」、「The Dry Salvages」と「Little Gidding」を一つにまとめたもの。
(5)詩劇「カクテルパーティー(Cocktail Party)」(1949年)
 →弁護士とその妻、映画脚本家と女性詩人の4人の恋愛関係を精神科医が解決するストーリーで、現代社会を喜劇的に描き出した。
(6)詩劇論「詩と劇(Poetry and Drama)」(1951年)

なお、T.S.エリオットは、1948年にノーベル文学賞を受賞している。

ケンジントンコートプレイスから眺めた
ケンジントンコートガーデンズ(Kensington Court Gardens)

TV版のポワロシリーズにおいて、ヘミング夫人がミリセント・ペブマーシュを猫に例えた話は、T.S.エリオットが1939年に発表した児童向けの詩「キャッツーポッサムおじさんの猫と付き合う方法(The Old Possum’s Book of Practical Cats)」がベースになっており、日本では他にも「おとぼけおじさんの猫行状記」、「袋鼠(ふくろねずみ)親爺の手練猫名簿」や「キャッツ ポッサムおじさんの実用猫百科」等の題名も使われている。
T.S.エリオットが1965年1月4日にロンドンのケンジントンにある自宅で死去した後、彼の詩「キャッツーポッサムおじさんの猫と付き合う方法」は英国の作曲家ロイド=ウェバー子爵アンドリュー・ロイド・ウェバー(Andrew Lloyd Webber, Baron Lloyd-Webber:1948年ー)によるミュージカル「キャッツ(Cats)」の原作となり、ロンドンのウェストエンドとニューヨークのブロードウェイでロングランを続け、大ヒットとなった。

そう考えると、英国のドラマは奥が深い。

2017年6月24日土曜日

ロンドン キャンバーウェルロード129番地(129 Camberwell Road)

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いに建ち並ぶ住居

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Roadー2017年5月20日付ブログで紹介済)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。

そして、ホームズの予想通り、午後8時を過ぎた頃、彼らの部屋を訪ねて来た人が居たが、ホームズの予想に反して、指輪を引き取りにやって来たのは、はハウンズディッチ(Houndsditchー2017年6月3日付ブログで紹介済)のダンカンストリート13番地(13 Duncan Street)に住むソーヤー(Sawyer)と名乗る老婆だった。犯人に頼まれて、老婆が代わりに指輪を引き取りに来たと考えたホームズは、ワトスンを部屋に残して、彼女の後を尾行すべく、出かけて行った。ところが、敵側の方が一枚上手で、残念ながら、ホームズは尾行をまかれてしまった。そして、翌朝の新聞には、「ブリクストンの謎」という記事であふれていた。その最中、グレッグスン警部がホームズの元を訪れる。


「どうやって手掛かりをつかんだのかい?」
「ええ、全部お話します。ワトスン先生、もちろん、これは本当に内密でお願いしますよ。まず難しかったのは、この米国人の経歴をどうやって調べるかでした。こちらが出した広告に対して、問い合わせがあったり、あるいは、関係者が名乗り出て、自発的に情報を提供してくれるまで待つという人も居るでしょうが、それは、トビアス・グレッグスンのやり方じゃありません。あなたは、死んだ男の側に落ちていた帽子を覚えていますか?」
「ああ。」と、ホームズは言った。「キャンバーウェルロード129番地の帽子屋ジョン・アンダーウッド&サンズ製だね。」
グレッグスンがかなりがっかりしたように見えた。
「あなたも気付いていたとは思ってもいませんでした。」と、彼は言った。「あなたは、その帽子屋へもう行かれたんですか?」
「いいや。」
「そうですか!」と、グレッグスンはホッとしたような声で叫んだ。「例えどんなに小さく見えても、チャンスを逃すべきではないですね。」
「偉大な心にとって、小さなもの等、決してない。」と、ホームズは教訓めいたように話した。
「ええ、私は帽子屋のアンダーウッドのところへ行ってきました。そして、このサイズと種類の帽子屋を売ったことがあるかどうか、彼に尋ねました。彼はその帽子をトーキーテラスにあるシャーペンティエ夫人の下宿屋に住むドレッバーという男に配達していました。そうして、私は彼の住所を探し当てたのです。」
「見事だ。ー実に見事だ!」と、シャーロック・ホームズは呟いた。

キャンバーウェルニューロードと
バサルロード(Vassall Road)が交差する角

“And how did you get your clue?”
“Ah, I’ll tell you all about it. Of course, Doctor Watson, this is strictly between ourselves. The first difficulty which we had to contend with was the finding of this American’s antecedents. Some people would have waited until their advertisements were answered, or until parties came forward and volunteered information. That is not Tobias Gregson’s way of going to work. You remember the hat beside the dead man?”
“Yes,” said Holmes; “by John Underwood and Sons, 129 Camberwell Road.”
Gregson looked quite crest-fallen.
“I had no idea that you noticed that,” he said. “Have you been there?”
“No.”
“Ha!” Cried Gregson, in a relieved voice; “you should never neglect a chance, however small it may seem.”
“To a great mind, nothing is little,” remarked Holmes, sententiously.
“Well, I went to Underwood, and asked him if he had sold a hat of that size and description. He looked over his books, and came on it at once. He had sent the hat to a Mr. Drebber, residing at Charpentier’s Boarding Establishment, Torquay Terrace. Thus I got at his address.”
“Smart - very smart!” Murmured Sherlock Holmes.

キャンバーウェルニューロード沿いに建つパブ「The Kennington」

テムズ河(River Thames)の南岸にあり、地下鉄ベーカールーライン(Bakerloo Line)の南側の終着駅である地下鉄エレファント&キャッスル駅(Elephant & Castle Tube Station)の辺りからウォルワースロード(Walworth Road)がほぼ南へと延びているが、キャンバーウェル地区(Camberwell)内に入ると、キャンバーウェルロード(Camberwell Road)へと名前を変える。このキャンバーウェルロードがキャンバーウェル地区のほぼ中央を南北に縦断して、地区を東側と西側に分けている。そして、キャンバーウェルグリーン(Camberwell Green)と呼ばれる緑地帯の角で、東西に延びるキャンバーウェル ニューロード / 西側(Camberwell New Road)とペッカムロード / 東側(Peckam Road)に交差すると、デンマークヒル通り(Denmark Hill)へと再度名前が変わる。

ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、特に1850年代以降、キャンバーウェルロード沿いにはミュージックホールが数多く建ち並び、非常に栄えたが、映画館やTVの登場により、次第に数が減っていき、最後のミュージックホールも1956年にその姿を消してしまった。

キャンバーウェルニューロード沿いに建つ
St. Mark's Church (その1)

イーノック・J・ドレッバーに帽子を配達した帽子屋ジョン・アンダーウッド&サンズの店があったとされるキャンバーウェルロード129番地は、キャンバーウェルロードとアディントンスクエア通り(Addington Square)が交差する北東の角に建っており、現在は住居になっている。

キャンバーウェルニューロード沿いに建つ
St. Mark's Church (その2)

ロンドン交通局(Transport for London)は、当初、地下鉄ベーカールーラインをキャンバーウェルロードの辺りまで延ばす計画であったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)のため、計画が頓挫。1950年代と1970年代にも延伸工事が一旦始まったものの、これらも途中で中止となっている。ロンドン交通局は未だに延伸を計画しているものの、具体的な日程は決まっていない、とのこと。

2017年6月18日日曜日

ロンドン デュークスロード / ウォバーンウォーク(Duke’s Road / Woburn Walk)

ミリセント・ペブマーシュが勤めるライト氏の写真館として撮影に使用された
デュークスロードとウォバーンウォークの角に建つ建物(その1)

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。


キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。
実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。

ミリセント・ペブマーシュが勤めるライト氏の写真館として撮影に使用された
デュークスロードとウォバーンウォークの角に建つ建物(その2)

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。

キャサリン・マーティンデールが所長を務め、
シーラ・ウェッブやノーラ・ブレントが所属するキャヴェンディシュ秘書紹介所として
撮影に使用されたデュークスロード沿いに建つ建物(その1)

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作が第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態を物語の時代背景としたことに対して、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間に物語の時代設定を置いている関係上、第二次世界大戦前夜を時代背景として、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。また、物語の舞台も、サセックス州(Sussex)のクロウディーン(Crowdean)からケント州(Kent)のドーヴァー(Dover)へと変更されている。更に、コリン・ラムの名前は、コリン・レイス大尉(Liteunant Colin Race)となり、警察の公安部員ではなく、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)という設定に変えられている。

キャサリン・マーティンデールが所長を務め、
シーラ・ウェッブやノーラ・ブレントが所属するキャヴェンディシュ秘書紹介所として
撮影に使用されたデュークスロード沿いに建つ建物(その2)

物語の舞台がサセックス州のクロウディーンからケント州のドーヴァーへと変更されたが、キャサリン・マーティンデールが所長を務め、シーラ・ウェッブが所属するキャヴェンディッシュ秘書紹介所は、ロンドンのデュークスロード(Duke’s Road)沿いに建つ西側の建物(ユーストンロード(Euston Road)の近く)を使用して撮影された。なお、TV版におけるキャヴェンディッシュ秘書紹介所の住所は、「Westport Parade, Dover」である。
また、アガサ・クリスティーの原作では、教師だった盲人のミリセント・ペブマーシュが勤めるライト氏(Mr. Wright)の写真館も、同じくデュークスロードとウォバーンウォーク(Woburn Walk)の角に建つ建物が撮影に使用されている。
ウィルブラームクレセント19番地の居間で死体として見つかった身元不明の男性に関する検死審問/死因審問(inquest)において、シーラ・ウェッブの同僚で、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に勤めるノーラ・ブレント(Nora Brent → アガサ・クリスティーの原作では、エドナ・ブレント(Edna Brent))は、ある非常に重要なことに気付く。そのことを察知された犯人によって、彼女はキャヴェンディッシュ秘書紹介所の近くにある電話ボックス内で絞殺されてしまう。このシーンも、デュークスロードとウォバーンウォークの角に電話ボックスのセットを置いて撮影されている。ちなみに、アガサ・クリスティーの原作では、彼女は、キャヴェンディッシュ秘書紹介所の近くにある電話ボックスではなく、ウィルブラームクレセントにある電話ボックス内で、彼女自身のスカーフを用いて、犯人に考察されている。

ユーストンロード側から見たデュークスロードー
ノーラ・ブレントが絞殺された電話ボックスは。
画面中央奥に設置された

デュークスロード / ウォバーンウォークは、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にある。
キングスクロス駅(King’s Cross Station) / セントパンクラス駅(St. Pancras Station)の前を通って、ユーストン駅(Euston Station)へ向かって西に延びるユーストンロードを、ユーストン駅の手前で左へ曲がったところにあるのが、デュークスロードである。地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)からユーストン駅へ向かって北上するアッパーウォバーンプイレス(Upper Woburn Place)とその一本東側に位置しているデュークスロードを東西に繋ぐ歩行者専用の通りが、ウォバーンウォークである。
この辺りには、オフィスやレストラン等もあるが、日中でもひっそりとした静かな通りである。

デュークスロードから見たユーストンロード(画面奥)ー
画面左手に見えるのは、St. Pancras Parish Church

なお、TV版ポワロシリーズの「エッジウェア卿の死(Lord Edgware Dies)」(2000年)の回において、米国からロンドン / パリ公演ツアーに来ている女芸人カーロッタ・アダムズ(Carlotta Adams)の友人であるペニー・ドライヴァー(Penny Driver)が営む帽子店の撮影も、デュークスロードで行われている(2016年5月8日付ブログで紹介済)。

2017年6月17日土曜日

ロンドン キャンバーウェル地区 / トーキーテラス(Camberwell / Torquay Terrace)

キャンバーウェル地区内を斜めに横切るキャンバーウェル ニューロード

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Roadー2017年5月20日付ブログで紹介済)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。


そして、ホームズの予想通り、午後8時を過ぎた頃、彼らの部屋を訪ねて来た人が居たが、ホームズの予想に反して、指輪を引き取りにやって来たのは、はハウンズディッチ(Houndsditchー2017年6月3日付ブログで紹介済)のダンカンストリート13番地(13 Duncan Street)に住むソーヤー(Sawyer)と名乗る老婆だった。犯人に頼まれて、老婆が代わりに指輪を引き取りに来たと考えたホームズは、ワトスンを部屋に残して、彼女の後を尾行すべく、出かけて行った。ところが、敵側の方が一枚上手で、残念ながら、ホームズは尾行をまかれてしまった。そして、翌朝の新聞には、「ブリクストンの謎」という記事であふれていた。


スタンダード紙は、この事件を次のように論評していた。この種の不法な暴力は、通常、自由党の政権下で発生する。不法な暴力は、大衆の不安定な精神から発生し、権威の弱体化という結果に繋がる。殺された男性は米国人で、ロンドンに数週間滞在していた。彼はキャンバーウェル地区のトーキーテラスにあるシャーペンティエ夫人の下宿屋に泊まっていた。彼には、私設秘書のジョーゼフ・スタンガーソン氏が同伴していた。今月4日の火曜日に、彼ら二人は女主人に別れを告げ、「リヴァプール行きの特急に乗るつもりだ。」と言い残して、ユーストン駅へ向かった。その後、彼らはユーストン駅のプラットフォームに一緒に居るのを目撃されている。ドレッバー氏の死体がユーストン駅から何マイルも離れたブリクストンロードにある空き家において発見されるまで、二人の消息は全く不明である。何故、彼はブリクストンロードの空き家へ行ったのか、そして、どうして、彼がそこで殺されることになったのかについては、依然として謎のままである。スタンガーソン氏の消息に関しても、全く不明である。スコットランドヤードのレストレード氏とグレッグスン氏の二人がこの事件を担当して居ることは、非常に喜ばしい。著名な警部二人がこの事件を迅速に糾明するものと、大きな期待が寄せられている。


The Standard commented upon the fact that lawless outrages of the sort usually occurred under a Liberal Administration. They arose from the unsettling of the minds of the masses, and the consequent weakening of all authority. The decreased was an American gentleman who had been residing for some weeks in the Metropolis. He had stayed at the boarding-house of Madame Charpentier, in Torquay Terrace, Camberwell. He was accompanied in his travels by his private secretary, Mr. Joseph Stangerson. The two bade adieu to their landlady upon Tuesday, the 4th inst., and departed to Euston Station with the avowed intention of catching the Liverpool express. They were afterwards seen together upon the platform. Nothing more is known of them until Mr. Drebber’s body was, as recorded, discovered in an empty house in the Brixton Road, many miles from Euston Station. How he came there, or how he met his fate, are questions which are still involved in mystery. Nothing is known of the whereabouts of Stangerson. We are glad to learn that Mr. Lestrade and Mr. Gregson, of Scotland Yard, are both engaged upon the case, and it is confidently anticipated that these well-known officers will speedily throw light upon the matter.


ブリクストンロードの空き家で死体となって発見されたイーノック・J・ドレッバーが私設秘書のジョーゼフ・スタンガーソンと一緒に滞在していたシャーペンティエ夫人(Madame Charpentier)が経営する下宿屋があったキャンバーウェル地区(Camberwell)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、大部分はロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)に属しているが、一部がロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内に入っている。
ちなみに、キャンバーウェル地区は、ブリクストンロードの東側に位置している。


地下鉄ベーカールーライン(Bakerloo Line)の南側の終着駅である地下鉄エレファント&キャッスル駅(Elephant & Castle Tube Station)の辺りからウォルワースロード(Walworth Road)がほぼ南へと延びているが、キャンバーウェル地区内に入ると、キャンバーウェルロード(Camberwell Road)へと名前を変える。このキャンバーウェルロードがキャンバーウェル地区のほぼ中央を南北に縦断して、地区を東側と西側に分けている。そして、キャンバーウェルグリーン(Camberwell Green)と呼ばれる緑地帯の角で、東西に延びるキャンバーウェル ニューロード / 西側(Camberwell New Road)とペッカムロード / 東側(Peckam Road)に交差すると、デンマークヒル通り(Denmark Hill)へと再度名前が変わる。


ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、特に1850年代以降、キャンバーウェルロード沿いにはミュージックホールが数多く建ち並び、非常に栄えたが、映画館やTVの登場により、次第に数が減っていき、最後のミュージックホールも1956年にその姿を消してしまった。


現在の住所表記上、シャーペンティエ夫人の下宿屋があったトーキーテラス(Torquay Terrace)は、キャンバーウェル地区内に存在しておらず、架空の住所である。

2017年6月11日日曜日

ロンドン ソーンヒルクレッセント(Thornhill Crescent)

TV版のポワロシリーズにおいて、
ウィルブラームクレッセント19番地は英国南東岸のドーヴァー市内に設定されているが、
実際には、ロンドンのソーンヒルクレッセントで撮影されている

アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。


ャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。


ソーンヒルクレッセントがブリッジマンストリートと交差する角

実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。


ブリッジマンストリートからソーンヒルクレッセントを見たところ

クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。


ソーンヒルクレッセントの中間辺り

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作が第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態を物語の時代背景としたことに対して、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間に物語の時代設定を置いている関係上、第二次世界大戦前夜を時代背景として、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。また、物語の舞台も、サセックス州(Sussex)のクロウディーン(Crowdean)からケント州(Kent)のドーヴァー(Dover)へと変更されている。更に、コリン・ラムの名前は、コリン・レイス大尉(Liteunant Colin Race)となり、警察の公安部員ではなく、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)という設定に変えられている。


ソーンヒルスクエア内に咲き誇る花(芍薬)

キャヴェンディッシュ秘書紹介所から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブが、派遣先の居間で身元不明の男性の死体を発見することになる。その住所は、アガサ・クリスティーの原作上、ウィルブラームクレッセント19番地と設定されているが、その場面の撮影は、実際には、ドーヴァー(Dover)ではなく、ロンドンのソーンヒルクレッセント(Thornhill Crescent)において行われている。


ソーンヒルクレッセントの中間辺りからブリッジマンストリートを望む

ソーンヒルクレッセントは、ロンドン・イズリントン区(London Borough of Islington)のバーンズバリー地区(Barnsbury)内に所在している。バーンズバリー地区は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の東側に位置している。


ソーンヒルスクエア内に建つセントアンドリュー教会(その1)

キングスクロス駅(King’s Cross Station)から延びるカレドニアンロード(Caledonian Road)を北上した東側に、ソーンヒルクレッセントは所在している。中央にはソーンヒルスクエア(Thornhill Square)という広場があり、東西に横切るブリッジマンロード(Bridgeman Road)がソーンヒルスクエアを北側の約1/3部分と南側の約2/3部分に分けている。なお、ブリッジマンロードによって分けられたソーンヒルスクエアの北側の約1/3部分内には、セントアンドリュー教会(Church of England St. Andrew’s)が建っている。


ソーンヒルスクエア内に建つセントアンドリュー教会(その2)

南側の約2/3部分を囲む通りはソーンヒルスクエア通り(Thornhill Square)と呼ばれ、北側の約1/3部分を囲む通りがソーンヒルクレッセントで、TV版のポワロシリーズでは、ここがウィルブラームクレッセント(19番地)として撮影に使用されている。

ソーンヒルスクエア内に建つセントアンドリュー教会(その3)

TV版の画面上、ソーンヒルクレッセントをベースにしたウィルブラームクレッセントの地図が表示されるが、ソーンヒルクレッセント(=ウィルブラームクレッセント)から北へ延びるクレッセントストリート(Crescent Street)の角が12番地で、そこから東へ7軒進んだ家が、シーラ・ウェッブが身元不明の男性の死体を発見したウィルブラームクレッセント19番地に該る。