2018年8月27日月曜日

ロンドン ジャック・ストローの砦(Jack Straw’s Castle)

「ジャック・ストローの砦」の建物全景

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、「ジャック・ストローの砦(Jack Straw’s Castle)」と呼ばれる建物がある。


ノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を延びるヒースストリート(Heath Street)の坂を北上して、しばらく進むと、ヒースストリートは、地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)へと向かうノースエンドウェイ(North End Way)とハイゲート地区(Highgate)へと向かうスパニアーズロード(Spaniards Road)の二手に分かれる。ヒースストリートが二手に分かれるところの、ノースエンドウェイの左手沿いに、「ジャック・ストローの砦」は建っている。

ヒースストリートの北端から見た
「ジャック・ストローの砦」

1381年にイングランドのケント州(Kent)やエセックス州(Essex)を中心にして全国的規模で起きた農民反乱(Peasant’s Revolt)の際、エセックス州の農民を率いてロンドンに入った指導者ジャック・ストロー(Jack Straw)がこの地に住んでいたと言われており、ここにパブが建てられた時、それに因んで、「ジャック・ストローの砦」と呼ばれるようになった。

現在、「ジャック・ストローの砦」は、パブではなく、高級フラットへと改装されてしまったが、
パブとして営業していた際の「JACK STRAWS CASTLE」という文字が建物外壁に残されている

そのパブは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の際、ドイツ軍が行ったロンドン大空襲(1940年ー1941年)により破壊されてしまった。
その後、1963年に英国の建築家であるレイモンド・エリス(Raymond Erith:1904年ー1973年)が現在の建物を再建している。ちなみに、レイモンド・エリスは、1958年に英国首相官邸を含むダウニングストリート10番地 / 11番地 / 12番地を建て替えたことでも有名である。

地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至る
ノースエンドウェイ–
画面左手に「ジャック・ストローの砦」の建物外壁一部が見える

レイモンド・エリスによる再建後、「ジャック・ストローの砦」は、以前のようにパブとして営業を続けたが、今から数年前にジムが入った高級フラットに改装されてしまった。現在も、建物の外壁に「JACK STRAWS CASTLE」の文字は残っているものの、パブの営業はしていない。

ノースエンドウェイの反対側から見た
「ジャック・ストローの砦」

なお、1381年の農民反乱の際、最終的には、別の農民反乱指導者が英国王リチャード2世との会見を果たしたのに対して、ジャック・ストローの働きは曖昧だったため、現在、「ジャック・ストロー」と言うと、「つまらない人物」を意味する、とのこと。

2018年8月26日日曜日

ロンドン ハムステッド地区(Hampstead)

アークライトロード(Arkwroght Road)沿いの家並み

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外のハムステッド地区(Hampstead)内にあるという設定になっている。ニコラス・ヤング邸の二階の窓からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)が見えるという描写がされているが、ニコラス・ヤング邸がどこに建っているのかについて、具体的な記述はなく、明確にはされていない。

フィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn's Avenue)と
ハムステッドハイストリートを結ぶ小道(その1)
フィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn's Avenue)と
ハムステッドハイストリートを結ぶ小道(その2)

ハムステッド地区は、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある地区で、広大な公園のハムステッドヒースとハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)を中心とした緑が非常に多い場所である。また、古くから文化人が多く住んでいて、現在は高級住宅街の一つとして知られている。

ヒースストリート(Heath Street)沿いにある
画廊の店頭の窓には、シャガールの絵が展示されている
ヒースストリート沿いにある
画廊の入口前に設置されているオブジェ

ハムステッドの語源は、古語に該るアングロ・サクソン語の「ham-stead」で、「敷地」を意味している。
ハムステッド地区は、17世紀末から18世紀にかけて、鉱泉で有名になり、スパができ、訪問客で賑わった。

ヒースストリートから東側に入った路地沿いに
建つ住宅

1860年代に鉄道が敷設されると、1870年代から1880年代にかけて、今も残っている豪華な家屋が次々と建てられ、1907年には地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)がオープンした。

ヒースストリートとウェストヒースロード(West Heath Road)に
囲まれた敷地内にある池
ヒースストリートから見たハムステッドヒース

ハムステッド地区には、現在、以下のような博物館や歴史的建造物等が保存されており、今も多くの観光客を集めている。
(1)フロイト博物館(Freud Museum)
(2)キーツハウス博物館(Keats House Museum)
(3)ウィローロード2番地(2 Willow Road)
(4)バーグハウス / ハムステッド博物館(Burgh House & Hampstead Museum)
(5)フェントンハウス(Fenton House)
(6)ケンウッドハウス(Kenwood House)
(7)イソコンビルディング(Isokon building→2015年3月22日 / 9月20日付ブログで紹介済)
(8)カムデンアートセンター(Camden Arts Centre)

2018年8月25日土曜日

ロンドン セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)–その2

カーターレーン(Carter Lane)から見たセントポール大聖堂の大ドームと建物側面

セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)は、7世紀初めに教会として建てられた後、次のような変遷を辿る。
・1代目ー7世紀初めに建設(木造)→その後、焼失
・2代目ー7世紀後半に再建(石造)→10世紀後半、ヴァイキングによって焼き払われた
・3代目ーサクソン人によって再建→1087年に焼失

ピーターズヒル(Peter’s Hill)から見上げた
セントポール大聖堂の大ドーム

1066年のヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)を経て、イングランドを征服し、ノルマン朝を開き、現在の英国王室の開祖となったウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)により、ロンドン主教に任ぜられたモーリスが再建を始め、約150年を経た13世紀中頃に、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)が遂に完成。

セントポール大聖堂内の庭園(北東部分)にある
聖パウロ像(その1)
セントポール大聖堂内の庭園(北東部分)にある聖パウロ像(その2)

奥行き:約200m / 幅:約100mという大規模な大きさを誇る旧セントポール大聖堂は、建物中央に高さ:約160mの尖塔を有し、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)のシンボルとなっていたが、1447年に落雷によって尖塔が破壊される。その後、尖塔は修復されたものの、1561年に再び落雷があり、尖塔を含む屋根全体が火災により大きな被害を蒙ってしまった。

セントポール大聖堂内の庭園(南東部分)に設置されているオブジェ

スペインの無敵艦隊を打ち破り、イングランド繁栄の基礎を築いたデューダー朝第5代にして、最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)は復旧に努めたが、資金難のため、屋根の復旧のみに終わってしまった。

セントポールズチャーチヤード
(St. Paul's Churchyard→2015年7月26日付ブログで紹介済)から見た
セントポール大聖堂の建物背面

17世紀に入ると、旧セントポール大聖堂の再建計画が持ち上がり、英国の建築家であるイニゴ・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1652年)やクリストファー・マイケル・レン(Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)等が再建案をまとめている最中、1666年に発生したロンドン大火(The Great Fire of London)によって、旧セントポール大聖堂は完全に焼失してしまったのである。

英国の建築家であるクリストファー・マイケル・レンが完成させた
セントポール大聖堂の大ドーム

英国の建築家であるクリストファー・マイケル・レンが完成させた
セントポール大聖堂の建物正面と2つの塔

その後、クリストファー・マイケル・レンが、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)の命により、1675年から旧セントポール大聖堂の再建に着手した。35年の歳月をかけて、クリストファー・マイケル・レンは、1710年にバロック建築を取り入れた新セントポール大聖堂を完成させた。新セントポール大聖堂は、奥行き:約160m / 幅:約80mで、中央に高さ:約110mの大ドームを、そして、西側正面に2つの塔を有する特徴を持っている。

セントポール大聖堂の正面前の広場に設置されている
アン女王像(その1)

セントポール大聖堂の正面前の広場に設置されている
アン女王像(その2)

西側正面前の広場には、新セントポール大聖堂が竣工した1710年当時の君主で、最初のグレートブリテン王国君主となったアン女王(Ann Stuart:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)の像が設置され、現在、セントポール大聖堂を訪れる観光客による撮影スポットとなっている。

2018年8月19日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage by John Dickson Carr)–その2

ハムステッド地区ではないが、
ハムステッド地区とウェスト ハムステッド地区(West Hampstead)の中間辺りにある
Alvanley Gardens 沿いのテニスコート

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説「テニスコートの殺人」The Problem of the Wire Cage)」において、謎の殺人事件が発生する。

ある日の午後、ハムステッド地区(Hampstead)にあるニコラス・ヤング邸内にあるテニスコートでは、ブレンダ・ホワイト(Brenda Whiteーニコラス・ヤングが後見人となった女性)とフランク・ドランス(Frank Dorranceージェリー・ノークスの養子)対キティ・バンクロフト(ニコラス・ヤング邸の近所に住む30代初めの寡婦)とヒュー・ローランド(ローランド&ガーデスリーヴ法律事務所に勤める事務弁護士)の混合ダブルスの試合が行われていたが、午後6時過ぎ、日没と突然の雷雨のため、彼らはテニスを途中で中断せざるを得なかった。
彼ら4人が散会し、雷雨が通り過ぎた後、テニスコートの中央付近に、問題児のフランク・ドランスが仰向けになって倒れているのが発見される。彼が巻いていた絹のスカーフが首にきつく食い込んでいた。彼は、何者かに絞殺されたのである。

彼の絞殺死体を発見したのは、彼の婚約者であるブレンダ・ホワイトだった。非常に不思議なことには、雷雨でぬかるんだテニスコートの上には、フランク・ドランスの足跡が片道分(コート外→コート中央付近)と、ブレンダ・ホワイトの足跡が往復分(コート外→コート中央付近+コート中央付近→コート外)が残されているだけで、他の足跡は何もなかったのである。
その場に、ブレンダ・ホワイトに思いを寄せるヒュー・ローランドが通りかかる。彼女の説明によると、テニスコートの上に倒れているフランク・ドランスを見つけて、慌てて彼に駆け寄ったが、テニスコートの上には、彼以外の足跡はなかった、とのこと。そして、彼女は、「断じて、自分は彼を殺していない。」と主張する。しかし、ブレンダ・ホワイトは、フランク・ドランスの死によって、単独で5万ポンドという莫大な遺産を相続できる立場にあるため、このままでは、彼女は彼を殺害した容疑者として、真っ先に疑われることは間違いなかった。
なんとか彼女を窮地から救おうとするヒュー・ローランドは、いろいろと画策を施して、テニスコートの上に残っている足跡をブレンダ・ホワイトのものではないように見せかけた。そんな二人の前に立ちふさがったのが、ニコラス・ヤング邸の近所に住む名探偵のギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)であった。

ブレンダ・ホワイトが、テニスコートの中央付近に倒れているフランク・ドランスの絞殺死体に近づかなければ、これは、「足跡のない殺人」というミステリーファン垂涎の不可能犯罪であったが、彼女が死体が近づいてしまったために、探偵側から見ると、ごく普通の「足跡のある殺人」に変わってしまった。名探偵ギディオン・フェル博士としては、まず最初に、ヒュー・ローランドとブレンダ・ホワイトの二人が行なった偽装工作を見抜いて、ごく普通の「足跡のある殺人」という表面を取り除かなければならない。そして、ギディオン・フェル博士は、その内側にある「足跡のない殺人」という不可能犯罪をも見抜いて、本当の真犯人に辿り着く必要があるという二段構えの謎が、ジョン・ディクスン・カーから提示されるのである。

2018年8月18日土曜日

ロンドン セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)–その1

セントポールズチャーチヤード(St. Pau's Churchyard→2015年7月26日付ブログで紹介済)から見た
セントポールポール大聖堂の大ドームと側面(その1)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。

二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ホームズは、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベーカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)を使って、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船の隠れ場所を捜索させたものの、うまくいかなかった。独自の捜査により、犯人達の居場所を見つけ出したホームズは、ベーカーストリート221Bへスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出す。ホームズは、呼び出したアセルニー・ジョーンズ警部に対して、バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達を捕えるべく、午後7時にウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs / Wharf→2018年3月31日 / 4月7日付ブログで紹介済)に巡視艇を手配するよう、依頼するのであった。

巡視艇がウェストミンスター船着き場を離れると、ホームズはアセルニー・ジョーンズ警部に対して、巡視艇をロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)方面へと向かわせ、ジェイコブソン修理ドック(Jacobson’s Yard)の反対側に船を停泊するよう、指示した。

セントポールズチャーチヤードから見た
セントポールポール大聖堂の大ドームと側面(その2)

「彼らが本当に真犯人かどうかは判りませんが、ホームズさん、あなたは全てを非常に見事に計画されましたね。」と、ジョーンズ警部は言った。「もし私がこの事件を担当していたら、ジェイコブソン修理ドックの周りに警察官を配置して、彼らがやって来たところで逮捕しますね。」
「それは、絶対にうまくいかないさ。真犯人のスモールは、かなり抜け目のない男だ。奴は、前以って偵察を送り、何か怪しいと感じることがあれば、もう一週間身を潜めているだろう。」
「しかし、モルディカイ・スミスを尾行すれば、犯人達の隠れ家に辿り着けたかもしれない。」と、私が言った。
「ワトスン、君が言う通りにしていたら、僕は一日無駄にしていたに違いない。スミスが犯人達の居場所を知っている確率は、百分の一だと、僕は思っている。スミスにとって、酒と割と良い報酬がある限り、あれこれと詮索する必要があると思うかい?犯人達は、伝言を使い、スミスに対して指示をしている。いいや、僕はあらゆる可能な手段を検討したが、これが最善の策なんだ。」
こういった話をしている間に、私達が乗った巡視艇は、テムズ河に架かる橋の長い列を抜けて行った。シティーを過ぎた時、沈みゆく太陽の最後の光が、セントポール大聖堂の頂に建つ十字架を金色に染めていた。ロンドン塔に着く頃には、既に黄昏時だった。

セントポールズチャーチヤードから見た
セントポールポール大聖堂の大ドームと側面(その3)

‘You have planned it all very neatly, whether they are the right men or not, said Jones. ‘But if the affair were in  my hands I should have had a body of police in Jacobson’s Yard, and arrested them when they came down.’
‘Which would have been never. This man Small is a pretty shrewd fellow. He would send a scout on a head, and if anything made him suspicious he would lie snug for another week.’
‘But you might have stuck to Mordecai smith, and so been led to their hiding-place,’ said I.
‘In that case I should have wasted my day. I think that it is a hundred to one against smith knowing where they live. As long as he has liquor and good pay, why should he ask questions? They send him messages what to do. No, I thought over every possible course, and this is the best.’
While this conversation had been proceeding, we had been shooting the long series of bridges which span the Thames. As we passed the City the last rays of the sun were gilding the cross upon the summit of St Paul’s. It was twilight before we reached the Tower.

セントポール大聖堂の正面を下から見上げたところ

ホームズ、ワトスンとスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部の三人が警察官達と一緒に乗った巡視艇がウェストミンスター船着き場を出発して、テムズ河(River Thames)に架かる橋を次々と抜けた後、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)を通り過ぎた。次に彼らの目に入ったのは、沈み行く太陽の最後の光が金色に染めた十字架を頂に持つセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)だった。
セントポール大聖堂は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン内にあるイングランド国教会ロンドン教区の主教座聖堂であり、聖パウロを記念している。

三菱地所が再開発した
パタノスタースクエア(Paternoster Square)近辺から見上げた
セントポール大聖堂

2018年8月12日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「テニスコートの殺人」の表紙−
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏
カバーイラスト:榊原 一樹氏

「テニスコートの殺人(The Problem of the Wire Cage)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る。米国では、ハーパー社(Harper)から1939年に、英国では、ヘイミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から翌年の1940年に出版されている。

創元推理文庫「テニスコートの殺人」の旧訳版の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

大学の同窓で、兄弟同然だったボブ・ホワイト、ジェリー・ノークスとニコラス・ヤングの三人は、その後、数奇な人生を歩む。
大学卒業後、ジェリー・ノークスとニコラス・ヤングの二人は、経済的に成功をおさめたが、唯一出世しなかったボブ・ホワイトは、ニューヨークで放蕩の限りを尽くして、ピストル自殺を遂げてしまう。父親のボブをピストル自殺で、その後、母親のネリーをアルコールの過剰摂取で失った娘のブレンダ・ホワイト(Brenda White)は、ボブ・ホワイトの友人ニコラス・ヤングが後見人となって、引き取られる。
一方、金融街で並外れた出世をしたジェリー・ノークスは、甥のフランク・ドランス(Frank Dorrance)を養子にした。昨年の11月、当時猛威を奮っていた流感に罹って、亡くなる直前に、ジェリー・ノークスは遺言書を書き換えた。彼が書き換えた遺言書の内容とは、彼が養子にした甥のフランク・ドランスとニコラス・ヤングが後見人となったボブ・ホワイトの娘のブレンダ・ホワイトが将来結婚した場合、二人は共同で5万ポンドを相続できるというものだった。
そのため、27歳のブレンダ・ホワイトは、5歳年下のフランク・ドランスと婚約することになったが、残念ながら、相手のフランク・ドランスは尊大かつ無礼な若者で、ブレンダ・ホワイトと結婚することで得られる5万ポンドというお金にしか興味がない問題児であった。
そして、そんな最中、不可解な事件が発生する。

ある日の午後、ハムステッド地区(Hampstead)にあるニコラス・ヤング邸内にあるテニスコートでは、ブレンダ・ホワイトとフランク・ドランス対キティ・バンクロフト(ニコラス・ヤング邸の近所に住む30代初めの寡婦)とヒュー・ローランド(ローランド&ガーデスリーヴ法律事務所に勤める事務弁護士)の混合ダブルスの試合が行われていた。以前よりブレンダ・ホワイトに思いを寄せるヒュー・ローランドは、彼女に対して、フランク・ドランスとの婚約を解消するよう、懇願する。ブレンダ・ホワイトは、ヒュー・ローランドへの好意を示すものの、後見人であるニコラス・ヤングに世話になっている手前、フランク・ドランスとの婚約解消について、彼女の態度はハッキリしなかった。

午後6時過ぎ、日没と突然の雷雨のため、彼らはテニスを途中で中断せざるを得なかった。彼らが去った後のテニスコートにおいて、謎の殺人事件が起きたのである。

2018年8月11日土曜日

ロンドン シティー・オブ・ロンドン(City of London)–その2

地下鉄バンク駅の近くに建つイングランド銀行

御存知の通り、ロンドンはテムズ河(River Thames)の河畔に位置しており、約2千年前にローマ帝国がロンディニウム(Londinium)を創建したのが、ロンドンという都市の起源であり、ロンディニウム当時の中心部が、現在のシティー・オブ・ロンドン(City of London)に該る地域にあったのである。

地下鉄バンク駅の近くに建つ旧ロンドン証券取引所

その後、シティー・オブ・ロンドンは拡大を続けていくが、中世以降、その範囲はほとんど変わっていない。

パタノスタースクエア(Paternoster Square)内に建つ
現ロンドン証券取引所(右側の建物)

パタノスタースクエアは、三菱地所(Mitsubishi Estate Company)によって開発された

ロンドン(正確には、大ロンドン(Gretaer London))は、現在、シティー・オブ・ロンドンの他に、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)やロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)等、32の(特別)区を抱えており、ロンドンとしての自治体の行政トップは、ロンドン市長(Mayor of London)である。

ロイズ保険の本社ビル

しかし、シティー・オブ・ロンドンの行政は、シティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行し、行政のトップはロンドン市長(シティー・オブ・ロンドン)(Lord Mayor of London)が務めるという独立した組織となっている。ただし、ロンドン市長(シティー・オブ・ロンドン)は名誉職的な色合いが強く、実質的には、ロンドン市長がトップである。ロンドン市長(シティー・オブ・ロンドン)の公務は、地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)の近くに建つマンションハウス(Mansion House)で行われている。

フライデーストリート(Friday Street)沿いに建つブラッケンハウス(Bracken House)
–1980年代後半から1990年代初めにかけて。
日本の大手ゼネコン社である大林組(Obayashi Corporation)が開発し、
数年前まで日本の3大メガバンクの一つが入居していた

ブラッケンハウスは、以前、フィナンシャルタイムズ紙(Financial Times)の本社ビルで、
旧 FT ビルの玄関口の上には、星座を司った時計盤が設置されている
–時計盤の中央にある顔は、英国の元首相であるサー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1894年ー1965年→2017年8月6日付ブログで紹介済)

シティー・オブ・ロンドン内には、イングランド銀行(Bank of England)、ロンドン証券取引所(London Stock Exchange)やロイズ保険本社(Lloyds of London)等が所在して、ニューヨークのウォール街と共に、世界経済活動を主導している。

裏面から見たセントポール大聖堂の全景

左の建物がギルドホールで、
右側の建物がギルドホール・アートギャラリー

日本の3大メガバンクも、シティー・オブ・ロンドン内にオフィスを構えて営業している。

オールドベイリー通り(Old Bailey)沿いに建つ
中央刑事裁判所

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」によると、
シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンは、
セントバーソロミュー病院において、初めて出会った

上記以外にも、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)、ギルドホール(Guildhall)、中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)やシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会った場所であるセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital→2014年6月14日付ブログで紹介済)等も、シティー・オブ・ロンドン内に所在している。

インナーテンプル内の庭園

早朝のミドルテンプル内

また、シティー・オブ・ウェストミンスター区と接するシティー・オブ・ロンドンの西端には、ロンドン市内に4つある法曹院のうち、インナーテンプル(Inner Templeー東側)とミドルテンプル(Middle Templeー西側)の2つが置かれている。