2015年7月26日日曜日

ロンドン セントポールズチャーチヤード10番地(10 St. Paul's Churchyard) / 地下鉄ヒッコリーロード駅(Hickory Road Tube Station)

地下鉄ヒッコリーロード駅のセットが組まれた
セントポールズチャーチヤード10番地のオフィスビル裏側にある荷物搬入口

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

セントポールズチャーチヤード10番地の正面外壁

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

カーターレーンの西側から見たオフィスビル裏側
(荷物搬入口を含む)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ヒッコリーロード26番地の学生寮に滞在している学生2人がアムステルダムへの小旅行から戻って来た際、地下鉄ヒッコリーロード駅(Hickory Road Tube Station)で下車する。彼らは駅から出て来ると、すぐ近くに建つ学生寮へと入って行く。
地下鉄ヒッコリーロード駅は実在していないため、TV版では、英国の経済活動の中心地シティー(City)内にあるカーターレーン(Carter Lane)沿いに建つ建物の一部を使用して、地下鉄の駅のセットを組み、撮影を行っている。

カーターレーンの反対側から見た荷物搬入口

カーターレーンは、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の南側を通るセントポールズチャーチヤード(St. Paul's Churchyard)の一本南にある細い通りである。そこには、「コンドアハウス(Condor House)」というオフィスビルが建っていて、表玄関はセントポールズチャーチヤードに面しており、「セントポールズチャーチヤード10番地」がオフィスビルの住所となっている。カーターレーンはこのオフィスビルの裏通りに該り、ビルへの荷物搬入口がカーターレーン側に面している。

このオフィスビルは、通りを挟んで、
セントポール大聖堂の南側に面している

TV版では、この荷物搬入口を地下鉄ヒッコリーロード駅へと改装している。TV版の放映は1995年なので、撮影はもっと前の筈で、正確には、このコンドアハウスの前のビルの可能性がある。ただし、TV版を見る限りでは、地下鉄ヒッコリーロード駅のセットが組まれた場所は、現在のビルの荷物搬入口と全く同じ場所なので、ビルの外観だけをある程度残しつつ、ビルの内部だけを建て替えるといった大改装を行っているのかもしれない。実際調べてみると、ヴィクトリア朝時代の外壁を残して、建物の内部を改装の上、オフィスビルとして使用しているようである。

2015年7月25日土曜日

ロンドン ベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)

レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地

「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名なサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)は、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家である。シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルと同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。
1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。
彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。

ベイズウォーターロード100番地の入口は、
レンスターテラス側に面している

1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。

ベイズウォーターロード100番地の入口

1895年にバリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)からかなり距離があった。そのため、1900年にバリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road)沿いの家を購入して、移り住んだ。

サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。
元々、この家は1820年に建てられて、バリー夫妻が購入するまでの間、庭師が住んでいた。1900年に彼らが購入した後、インテリアデザインに興味を持っていた妻のメアリーが家の大改装を行い、地下階に大きな応接室を2つ、また、ロンドン最初と言われる(家に付属する)温室を設置している。

ベイズウォーターロード100番地の側面

ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。
・「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)ー第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。
・戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)
・「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)
・「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)
これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア・ルウェリン・ディヴィス(Sylvia Llewelyn Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)

1908年に妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に彼は妻と離婚する。
上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)

仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと個人的には思う。

イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター

1912年5月に彼はケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

ピーターパンの像(その1)

悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませた。

ピーターパンの像(その2)

現在、ザ・ロング・ウォーターの畔に設置されたピーターパンの像は、そういった事情も知らずに訪れる観光客に囲まれつつ、静かに湖面を見つめている。

2015年7月19日日曜日

ロンドン パークプレイス(Park Place)

パークプレイス沿いに建つフラットの一つ

最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚する。
当時、マックス・マローワンはブルームズベリー地区(Bloomsbury)にある大英博物館(British Museum)で考古学の研究を行っていたため、通勤の利便性を考慮して、二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Stationーセントラルライン(Central Line)一本で大英博物館の最寄駅である地下鉄トッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)へ行く事が可能)近辺で住む家を捜した。そして、同年にキャンプデンストリート47/48番地(47 & 48 Campden Street)の家を購入したものの、アガサ・クリスティーはこの物件に100%満足できなかった。そのため、1934年にキャンプデンストリートの2本南にある通りのシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入し、より良い物件を手に入れた。


アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの夫妻はシェフィールドテラス58番地の家を購入したものの、そこは賃貸して、デヴォン州(Devon)のグリーンウェイハウス(Greenway House)に住んでいた。しかし、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、グリーンウェイハウスは英国海軍省によって接収され、米軍の宿舎として使用されることになったため、彼らはデヴォン州からロンドンへ出て来ることになった。

セントジェイムズストリート側から見たパークプレイス

生憎と、シェフィールドテラス58番地には借家人がまだ入っていたので、彼らは借家を転々とする破目ととなったのである。
彼らがまずフラットを借りたのは、高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるハーフムーンストリート(Half Moon Street)であった。貴族、外科医、内科医や弁護士等が多く住む通りであったが、彼らが入ったフラットの状況はあまりにもひどく、1週間で転居することとなった。
次に、彼らがフラットを借りたのは、ハーフムーンストリートの割合と近くにあるパークプレイス(Park Place)であった。

パークプレイス奥に建つフラット

パークプレイスは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)を間にして、メイフェア地区とは反対側に位置するセントジェイムズ地区(St. James's)内にある通りである。ピカデリー通りの南側に建つリッツ(The Ritz)ホテルから少しピカデリーサーカス方面へ戻ったところに、セントジェイムズストリート(St. James's Street)が南北に延びている。このセントジェイムズストリートをセントジェイムズパーク(St. James's Park)方面へ南に下って行くと、通りを半分程下った進行方向右手にパークプレイスがあり、奥は行き止まりとなっている。
ハーフムーンストリートにあるフラットを1週間で出た後、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの夫妻はこの通りに1939年の短期間だけ滞在していた。

パークプレイス奥に建つフラットの外壁装飾

その後、シェフィールドテラス58番地の借家人が立ち退いたため、二人ははれて閑静なケンジントン地区(Kensington)に戻ることができたのである。しかし、ドイツ軍によるロンドン爆撃が激しくなり、1940年10月にはシェフィールドテラス58番地も被弾して、地下室、3階と屋根に大きな被害を蒙った。そのため、彼らはまたロンドン北部のハムステッド地区(Hampstead)へと引っ越すことになる。

2015年7月18日土曜日

ロンドン コンデュイットストリート(Conduit Street)

ニューボンドストリート側から見たコンデュイットストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「空き家の冒険(The Emputy House)」では、3年間の空白期間を経て、ロンドンへ無事に帰還したシャーロック・ホームズは、ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)の右腕セバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)に罠を仕掛け、ジョン・ワトスンとレストレード警部(Inspector Lestrade)と一緒に、ベーカーストリート221Bの真向かいにある空き家で彼を逮捕するに至った。その後、ワトスンと共にベーカーストリート221Bに戻ったホームズは椅子にもたれ、葉巻から煙を吐きながら、自分の人物索引のページをめくり始めた。


「僕のMのコレクションは素晴らしいな。」と、ホームズは言った。「モリアーティー教授だけで、他の文字のコレクションよりも遥かに輝かしいと言えるよ。ここには、毒殺魔のモーガン、思い出すのも忌まわしいメリデュー、チャリングクロス駅の待合室で僕の左犬歯を折ったマシューズ、そして、最後に今夜逮捕した我らが友人だ。」
ホームズは私に人物索引を手渡した。そこには、次のように書かれていた。
セバスチャン・モーガン、大佐、無職、元第一バンガロール工兵、1840年ロンドン生まれ、バース勲章を叙勲した元英国ペルシア大使だったオーガスタス・モラン卿の息子、イートンとオックスフォードで教育を受ける、ジョワキ戦役、アフガン戦役、チャラシアブ(派兵)、シェルプル、カブール、著作:「西ヒマラヤの猛獣」(1881年)と「ジャングルでの3ヶ月」(1884年)、住所:コンデュイットストリート、クラブ:アングロ・インディアン、タンカーヴィル、バガテル・カード・クラブ
人物索引の余白には、ホームズの几帳面な筆跡で、次のように書き込みがあった。
「ロンドンで2番目に危険な男」

コンデュイットストリートの中間辺りから
リージェントストリート方面を望む

'My collection of M's is a fine one,' said he. 'Moriarty himself is enough to make any letter illustrious, and here is Morgan of the poisoner, and Merridew of abominable memory, and Mathews, who knocked my left canine in the waiting-room at Charing Cross, and finally, here is our friend of tonight.'
He handed over the book, and I read: 'Moran, Sebastian, Col. Unemployed. Formerly 1st Bengalore Pioneers. Born London, 1840. Son of Sir Augustus Moran, C.B. (= The Order of Bath), once British Minister to Persia. Educated Eton and Oxford. Served in Jowaki Campaign, Afghan Campaign, Charasiab (despatches), Sherpur, and Cabul. Author of Heavy Game of the Western Himalayas, 1881; Three Months in the Jungle, 1884. Address: Conduit Street. Club: The Anglo-Indian, the Tankerville, the Bagatelle Card Club.'
On the margin was written, in Holmes's precise hand: 'The second most dangerous man in London.'

ニューボンドストリートとオールドボンドストリート(Old Bond Street)を繫ぐ歩道には、
第二次世界大戦時に両国を指揮した英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と
米大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)のブロンズ像が設置されている

セバスチャン・モラン大佐が住んでいたとされるコンデュイットストリート(Conduit Street)は、ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からオックスフォードサーカス(Oxford Circus)へと南北に延びるリージェントストリート(Regent Street)をオックスフォードサーカスの少し手前で左(=西)へ曲がったところにある通りである。コンデュイットストリートの東側はリージェントストリートから始まり、西側はニューボンドストリート(New Bond Street)と交差したところで終わっている。

タクシーやハイヤーが頻繁に到着するホテル「ザ・ウェストバリー」

東西にあるリージェントストリートとニューボンドストリートはショッピング街となっており、これら2つの通りを結ぶコンデュイットストリートの両側にも、各種店舗が軒を連ねている。また、コンデュイットストリートとニューボンドストリートが交差する南東の角に、「ザ・ウエストバリー(The Westbury)」という老舗のホテルが建っている。

2015年7月12日日曜日

ロンドン マウントストリート117番地(117 Mount Street)

ポワロとジャップ主任警部が肉を買った精肉店「アレンズ・オブ・メイフェア」(その1)

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。

ポワロとジャップ主任警部が肉を買った精肉店
「アレンズ・オブ・メイフェア」(その2)

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。

ポワロとジャップ主任警部が肉を買った精肉店
「アレンズ・オブ・メイフェア」(その3)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回において、物語の冒頭、ポワロとスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)が精肉店で肉を買う場面が出てくるが、これはロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるマウントストリート(Mount Street)で撮影されている。
具体的に言うと、マウントストリート117番地(117 Mount Street)にある「アレンズ・オブ・メイフェア(Allens of Mayfair)」という精肉店で、バークレースクエア(Berkeley Squareーシャーロック・ホームズシリーズ「高名な依頼人(The Illustrious Client)」に出てくる)のすぐ近くに位置している。TV版の放映は1995年であるが、20年経った今でも、当時と同じままである。
なお、クリスティーの原作では、ジャップ主任警部ではなく、シャープ警部(Inspector Sharpe)が登場する。

左右に延びるサウスオードレーストリートからマウントストリートを東方面に望む

マウントストリートの西側は、ハイドパーク(Hyde Parkーシャーロック・ホームズシリーズ「独身の貴族(The Noble Bachelor)」に出てくる)に並行して南北に延びるパークレーン(Park Laneーシャーロック・ホームズ「空き家の冒険(The Emputy House)」に出てくる)から始まり、東側はバークリースクエアから北へ延びるデーヴィスストリート(Davies Street)で終わる通りである。
マウントストリートは、メイフェア地区内にあるショッピング街の一つで、特に通りの中間部分、西側のサウスオードレーストリート(South Audley Street)/東側のカルロスプレイス通り(Carlos Place)と交差する辺りには、有名なブランド店舗が立ち並んでいる。この通り沿いの建物は、1階が店舗で、2階以上がフラット等の住居になっているケースが非常に多い。

コノートホテル全景

また、マウントストリートの西端には、グローヴナーハウスホテル(Grosvenor House)が、東端近くには、コノートホテル(The Connaught)が建っていて、このショッピング街の活気を支えている。

マウントストリートガーデンズの入口に
設置されているオブジェ

マウントストリートの南側には、マウントストリートガーデンズ(Mount Street Gardens)があり、日中でも、近くにショッピング街があるとは思えない程、静かな空間が提供されている。

2015年7月11日土曜日

ロンドン マンチェスターストリート / ブランドフォードストリート / カムデンハウス(Manchester Street / Blandford Street / Camden House)

ケンダルプレイス—
コナン・ドイルの原作に出てくる
カムデンハウスの裏口があると思われる

シャーロック・ホームズが犯罪界のナポレオンと呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスにあるライヘンバッハの滝壺にその姿を消してから、既に3年が経過していた。サー・アーサー・コナン・ドイル作「空き家の冒険(The Empty House)」は、そこから始まるのである。


1894年の春、メイヌース伯爵(Earkl of Maynooth)の次男である青年貴族ロナルド・アデア(Ronald Adair)がパークレーン427番地(427 Park Lane)の自宅で殺害された事件のニュースで、ロンドンは大騒ぎだった。彼は内側から扉に鍵がかけられた部屋で撃たれて亡くなっていたのだが、部屋の内には拳銃の類いは発見されなかったため、これが事件最大の謎であった。
ある晩、ケンジントン地区(Kensington)の自宅からハイドパーク(Hyde Park)へ散策に出かけたジョン・ワトスンは、そのついでに事件現場に立ち寄った。人混みの中で、ワトスンは本蒐集家と思われる背中の曲がった老人にうっかりぶつかってしまい、老人が持っていた本を数冊地面に落としてしまった。ぶつかったことを謝ろうとしたワトスンであったが、老人が不服そうな声を上げ、背を向けると、野次馬の中に姿を消してしまう。
ケンジントンの自宅に帰ったワトスンの元を、先程パークレーンでぶつかった本蒐集家の老人が訪ねて来た。その老人と本の話をしている間に、ワトスンが老人から少し目を離してから振り返ると、そこには老人の変装を解いたホームズその人が居た。生まれて初めて気を失うワトスンであったが、ホームズがライヘンバッハの滝壺から無事生還したことを喜ぶ。そんなワトスンに対して、ホームズは今夜危険な仕事が控えていると告げる。モリアーティー教授の右腕で、ライヘンバッハからホームズの命を付け狙っているセバスチャン・モーガン大佐(Colonel Sebastian Morgan)に罠を仕掛けて、捕えようと言うのだ。

ブランドフォードストリートから東方面を望む
ブランドフォードストリートから西方面を望む—
奥に見える左右に延びる通りが、ベーカーストリート

私達はベーカーストリートへ向かうのだと思っていたが、ホームズは辻馬車をキャヴェンディッシュスクエアの角で停めさせた。ホームズは辻馬車から外に出る際、非常に鋭い目付きを左右に向け、通りの角に着く度に、つけられていないことを確認するために最大限の努力を行った。私達の行程は確かに奇妙であった。ホームズはロンドンの裏道を驚く程熟知しており、今回、私がこれまでその存在すらも知らなかった路地や厩舎等、網目のようになった中を抜けて、素早く、そして、確信をもった足取りで進んで行った。私達は遂に古く、そして陰鬱な家が建ち並ぶ小さな道に出た。この道は、マンチェスターストリート、そして、ブランドフォードストリートへと通じていた。ここで、ホームズは急いで狭い小道へ入ると、木製の門を抜けて、荒びれた庭に入った。それから、ホームズはある家の裏扉を鍵を使って開け、私達が一緒にその家の内に入ると、彼はその扉を閉めた。
家の内は真っ暗だったが、この家が空き家であることは明白であった。


I had imagined that we were bound for Baker Street, but Holmes stopped the cab at the corner of Cavendish Square. I observed that as he stepped out he gave a most searching glance to right and left, and at every subsequent street corner he took the utmost pains to assure that he was not followed. Our route was certainly a singular one. Holmes's knowledge of the byways of London was extraordinary, and on this occasion he passed rapidly, and with an assured step, through a network of mews and stables the very existence of which I had never known. We emerged at last into a small road, lined with old, gloomy houses, which led us into Manchester Street, and so to Blandford Street. Here he turned swiftly down a narrow passage, passed through a wooden gate into a deserted yard, and then opened with a key the back door of a house. We entered together and he closed it behind us.
The place was pitch-dark, but it was evident to me that it was an empty house …

ブランドフォードストリートとケンダルプレイスの角にある建物—
左手奥にカムデンハウスの裏側がある

「ワトスン、僕達がどこに居るか判るかい?」と、ホームズは私に囁いた。
「間違いなく、あれはベーカーストリートだ。」と、私は曇った窓越しに外を見つめながら答えた。
「その通りだ。僕達は、懐かしい家(ベーカーストリート221B)の真向かいに建っているカムデンハウスの内に居るのさ。」
「でも、何故ここに来たんだい?」
「ここからだと、あの絵のような建物群をうまい具合に見通すことができるからさ。」

ブランドフォードストリートから見たケンダルプレイス

'Do you know where we are?' he whispered.
'Surely that is Baker Street,' I answered, stating through the dim window.
'Exactly. We are in Camden House, which stands opposite to our own old quarters.'
'But why are we here?'
'Because it commands so excellent a view of that picturesque pile. …'

カムデンハウスの裏口に該る候補地

マンチェスターストリート(Manchester Street)とブランドフォードストリート(Blandford Street)は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のマリルボーン地区(Marylebone)内にある。
マンチェスターストリートは、ホームズの祖母の兄に該るフランス人画家エミール・ジャン・オラース・ヴェルネ(Emile Jean-Horace Verne)の絵画が所蔵されているウォレスコレクション(Wallace Collection)が面しているマンチェスタースクエア(Manchester Square)から北側へ延びている通りで、この通りの中間辺りに東西に交差する通りがブランドフォードストリートである。マンチェスターストリートの両側の多くは住居となっているが、ブランドフォードストリートの両側には、近くにあるマリルボーンハイストリート(Marylebone High Street)からの流れで、パブ、レストランや美容室等の各種店舗やオフィスが建ち並んでいる。マンチェスターストリートを左(=西方面)へ曲がり、ブランドフォードストリートを少し進むと、ベーカーストリートに突き当たる。


ベーカーストリートの手前にあるケンダルプレイス(Kendall Place)という細い小道に入ったところが、コナン・ドイルの原作に出てくるカムデンハウス(Camden House)の裏口に該ると思われる。コナン・ドイルの原作上、狭い小道に入った後、ホームズとワトスンがカムデンハウスの裏口に至るまで、どの位進んだのかについては、明記されていないが、文脈的には、狭い小道に入ってすぐの場所に、カムデンハウスの裏口はあったのではないかと推測される。

ブランドフォードストリートと
ベーカーストリートの角にある建物
ベーカーストリート沿いに並ぶ建物—
真ん中にある黄土色の建物がベーカーストリート30番地で、
カムデンハウスの表側に該ると思われる

現在、ケンダルプレイス沿いには裏庭があるところはないが、ブランドフォードストリートからケンダルプレイスへ曲がってすぐの場所にある建物に、裏口と駐車場が並んでいる。ということは、この建物がホームズとワトスンが人目につかないように入り込んだカムデンハウスの裏側に該るのではないだろうか?
ベーカーストリートに面するカムデンハウスの表側(=ベーカーストリート30番地)には、キッチンやバスルーム等の内装を施工するオフィスが1階に入居しているが、ホームズとワトスンがベーカーストリート221Bを見張った2階を含めた上階は、住居として使用されているのかもしれない。