2016年6月26日日曜日

ロンドン リッチフィールドコート(Litchfield Court)

シーンロードの反対側から見たリッチフィールドコートー
一雨降る直前で、ポワロシリーズの雰囲気にうまくマッチしている

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。


ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

リッチフィールドコートの左側のフラット

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

リッチフィールドコートの反対側にある建物前の庭園

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、行方不明になったメイベル・セインズベリー・シールが死体となって発見されるアルバート・チャップマン夫人のフラット外観として、リッチフィールドコート(Litchfield Court)が撮影に使用されている。

リッチフィールドコートの右側のフラット

リッチフィールドコートは実在の建物で、テムズ河(River Thames)の南岸にあるリッチモンド(Richmondーロンドンの南東部)内に所在しており、リッチモンド駅(Richmond Station)を中心にして発展している街の中心部のすぐ近くに建っている。北方面(キューガーデンズ(Kew Gardens)の方)からザ・クワドラント通り(The Quadrant)を南下してきて、リッチモンド駅を過ぎたところで左折し、東方面へ進むと、通りは一旦ザ・スクエア通り(The Square)となるが、すぐにシーンロード(Sheen Road)という名前に変わる。リッチモンド駅手前で右折した後、数百m進んだ左手に、リッチフィールドコートは位置している。住所は、「Litchfield Terrace, Sheen Road, Richmond, London TW9 1AU」である。

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォーム壁に貼られている
サー・クリストファー・マイケル・レンとセントポール大聖堂

現在、リッチフィールドコートが建っている場所には、以前、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)やハンプトンコート(Hampton Court)等の建設で有名な英国を代表する建築家サー・クリストファーマイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren :1632年ー1723年)が設計したリッチフィールドハウス(Litchfield House)があった。
英国の保守党の政治家である初代ブロードブリッジ男爵ジョージ・トーマス・ブロードブリッジ(George Thomas Broadbridge, 1st Baron of Broadbridge:1869年ー1952年)が1933年に当地を取得して、英国の建築家であるジョージ・バートラム・カーター(George Bertram Carter)が設計した二棟のフラット(=リッチフィールドコート)が1935年に建設された。そして、2004年にリッチフィールドコートはグレードⅡ(Grade II)の指定を受けている。

リッチフィールドコートの入口門に架けられているフラット名

TV版のポワロシリーズの場合、全作品の時代設定を第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦(1939年ー1945年)の間に置いており、当時流行したアールデコ様式(Art Deco)の建築物、内装や小物等が画面にしばしば登場する。リッチフィールドコートが竣工したのは1935年であり、TV版のポワロシリーズの時代設定に非常にうまくマッチしていたため、撮影場所として使用されたものと思われる。リッチフィールドコートの入口に該る門の上に架けられているフラット名「リッチフィールドコート」の文字も、アールデコ風である。

2016年6月25日土曜日

ロンドン 地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)

ケンジントンハイストリートの反対側から見た地下鉄ハイストリートケンジントン駅

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

地下鉄ハイストリートケンジントン駅の入口
最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレード警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。

地下鉄ハイストリートケンジントン駅のプラットフォーム(その1)
続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。更に、今回は殺人事件まで発生したのだ。レストレード警部に呼び出されたホームズとジョン・ワトスンに対して、ハーカー氏は事の経緯を説明する。

地下鉄ハイストリートケンジントン駅のプラットフォーム(その2)
「私が約4ヶ月前この部屋に置くために購入したあのナポレオン胸像が目当てのようです。私はあの胸像をハイストリートケンジントン駅の二軒隣りにあるハーディングブラザーズの店で安く購入しました。私は新聞記者として夜間に多くの仕事をし、早朝まで記事を書くこともしばしばです。事件が起きたのは、今日です。午前3時頃、私は一番上の階の奥にある仕事部屋に居た時、階下で何か物音を聞いた気がしました。私は耳をすませましたが、物音はもうしませんでした。それで、私は外の物音だったと結論づけました。その約5分後、突然、物凄く恐ろしい叫び声が...ホームズさん、私が今までに聞いた中でも最も恐ろしい叫び声がしたのです。私が生きている限り、あの叫び声は私の耳の中でこだまし続けるでしょう。恐怖のあまり、私は1~2分程固まっていました。それから、私は火掻き棒を手にして、階下へ降りて行きました。私がこの部屋に入ると、窓が大きく開け放たれているのに気付き、そして、直ぐに胸像が暖炉の上からなくなっているのが判りました。何故、強盗があんなものを盗って行くのか、私には理解できませんよ。というのも、あの胸像は単なる石膏像で、全く価値がないものだったからです。」

'It all seems to centre round that bust of Napoleon which I bought for this very room about four months ago. I picked it up cheap from Harding Brothers, two doors from the High Street Station. A great deal of my journalistic work is done at night, and I often write until the early morning. So it was today. I was sitting in my den, which is at the back of the top of the house, about three o'clock, when I was convinced that I heard some sounds downstairs, I listened, but they were not repeated, and I concluded that they came from outside. Then suddenly, about five minutes later, there came a most horrible yell - the most dreadful sound. Mr Holmes, that ever I heard. It will ring in my ears as long as I live. I sat frozen with horror for a minute or two. Then I seized the poker and went downstairs, When I entered this room I found the window wide open, and I at once observed that the bust was gone from the mantelpiece. Why any burglar should take such a thing passes mu understanding, for it was only a plaster cast and of no real value whatever.'

地下鉄ハイストリートケンジントン駅前を通る
ケンジントンハイストリートー
バスやタクシー等、車の往来が激しい

地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)はロンドンの中心部ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区 内にある駅で、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)の2線が乗り入れている。サークルラインの場合、ハイストリートケンジントン駅はグロースターロード駅(Gloucester Road Tube Station)とノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の間に、また、ディストリクトラインの場合は、アールズコート駅(Earl's Court Tube Station)とノッティングヒルゲート駅の間に位置している。

ケンジントンアーケード内ー
奥に地下鉄ハイストリートケンジントン駅の改札口が見える

1868年にオープンしたハイストリートケンジントン駅は、ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)に面しており、ケンジントンアーケード(Kensington Arcade)を抜けると、駅の改札口に到達する。

地下鉄ハイストリートケンジントン駅(入口)の二軒左隣りには、
「Accessorize」が営業している

現在、ハイストリートケンジントン駅の二軒隣りには、ハーディングブラザーズの店は見当たらず、左側には「Accessorize(アクセサリー等の小物店)」が、右側には「Wasabi(テイクアウト中心の食べ物屋)」が営業している。

地下鉄ハイストリートケンジントン駅(入口)の二軒右隣りには、
「Wasabi」が営業しているー
左側のビルの屋上には、2016年2月28日付ブログで紹介した
「ケンジントンルーフガーデンズ(Kensington Roof Gardens)」がある

2016年6月19日日曜日

ロンドン トリニティースクエア10番地(10 Trinity Square)

トリニティースクエア10番地の建物正面全景

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

トリニティースクエア10番地の正面玄関ー
現在、ホテルが入居している

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

トリニティースクエア10番地の玄関右側に置かれている彫刻

トリニティースクエア10番地の玄関左側に置かれている彫刻

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

トリニティースクエア内から見上げた
トリニティースクエア10番地の建物

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回において、マーティン・アリステア・ブラントが率いるアーンホルト財閥が経営する銀行の外観として、トリニティースクエア10番地(10 Trinity Square)の建物が使用されている。
トリニティースクエア10番地は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内にあり、地下鉄タワーヒル駅(Tower Hill Tube Station)の直ぐ近くである。建物の前に広がる広場/公園越しに、ロンドン塔(The Tower)を望むことができる。
トリニティースクエア10番地に建つビルには、以前、ロンドン港湾局(Port of London Authority = PLA)が入居していた。

トリニティースクエア10番地の玄関全景

英国では、18世紀から19世紀にかけて発した産業革命(Industrial Revolution)以降、経済の発展に伴って、濫立するドック会社や貿易商人等が港湾施設を運営してきたが、その運営管理はバラバラな上、相互の利害関係調整が非常に難しく、港湾経営の一元化が強く求められていた。
1900年にそのための「ロイヤル委員会」が発足し、1908年には議会の承認を経て、「ロンドン港湾法(Port of London Act 1908)」が成立した。そして、翌年の1909年にロンドン港湾局が設立され、港湾施設の経営に関する権限がここに一元化されたのである。ロンドン港湾局は、テムズ河(River Thames)流域における船舶の運行管理や河川の環境維持等も、その役目として担っている。


トリニティースクエア10番地へ移転する前に
ロンドン港湾局が入居していたチャーターハウスストリート沿いの建

同建物の反対側にあるスミスフィールドマーケット

ロンドン港湾局の本部は、当初、スミスフィールドマーケット(Smithfield Market)を間に挟んで、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンが初めて出会った場所として有名なセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)とは反対側にあるチャーターハウスストリート(Charterhouse Street)沿いにあったが、1922年に地理的にテムズ河により近いトリニティースクエア10番地の建物に移転した。
トリニティースクエア10番地の建物へロンドン港湾局の本部移転を行ったのは、当時の英国首相である初代(ドワイフォーの)ロイド・ジョージ伯爵デイヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl of Lloyd George of Dwyfor:1863年ー1945年 首相在任期間:1916年ー1922年)である。

トリニティースクエア10番地の建物を真下から見上げたところ

その後、1946年に、国際連合(United Nations)の最初の会合も、トリニティースクエア10番地の建物で開催されている。
現在、同建物には、ホテルが入居している。

テムズ河を見守る Father Thames

トリニティースクエア10番地の建物上部にある塔部分には、テムズ河を司る「Father Thames」なる彫刻が設置され、ロンドン塔越しにテムズ河を今も見守っている。錨の上に乗った彫刻の左手は東を指差している。

2016年6月18日土曜日

ロンドン ピットストリート131番地(131 Pitt Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。
最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレード警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。これで、ナポレオンの石膏胸像が合計で3体壊されたことになる。続いて、3番目の事件が起きたのであった。


私の友人(ホームズ)が依頼していた展開は、彼が想像していた以上に速く、そして、非常に悲劇的な形でやって来た。翌朝、私が寝室でまだ服を着ていたところ、寝室のドアがノックされ、ホームズが電報を手にして入って来た。彼は電報の内容を読み上げた。「ケンジントンのピットストリート131番地へ至急来られたし。 レストレード」
「何が起きたのかな?」と、私が尋ねた。
「判らない。ー多分、何かが起きたんだろう。しかし、あの胸像の話の続きでないかと、僕は思っている。そうだとすると、あの偶像破壊者は、ロンドンの別の地区で犯行を開始したことになるな。ワトスン、テーブルの上にコーヒーがあるよ。既に家の前に辻馬車を呼んである。」
30分で私達はピットストリートに到着した。そこは、ロンドンの生活の最も活発な流れの一つのすぐ脇にある静かで水が澱んだような場所だった。131番地の建物は、屋根の低い、立派ではあるものの、あまり夢のない家並みの一つであった。私達が辻馬車で131番地へ近づくと、家の前の手摺りは野次馬で溢れかえっているのが見えた。ホームズは口笛を吹いた。


The development for which my friend had asked came in a quicker and an infinitely more tragic form than he could have imagined. I was still dressing in my bedroom next morning when there was a tap at the door and Holmes entered, a telegram in his hand. He read it aloud: 'Come instantly, 131 Pitt Street, Kensington. Lestrade.'
'What is it, then?' I asked.
'Don't know - may be anything. But I suspect it is the sequel of the story of the statues. In that case our friend, the image-breaker, has begun operations in another quarter of London. There's coffee on the table, Watson, and I have a cab at the door.'
In half an hour we had reached Pitt Street, a quiet little backwater just beside one of the briskest currents of London life. Number 131 was one of a row, all flat chested, respectable, and most unromantic dwellings. As we drove up we found the railings in front of the house lined by a curious crowd. Holmes whistled.



レストレード警部から受け取った電報の要請を受けて、ホームズとジョン・ワトスンが辻馬車で向かったピットストリート(Pitt Street)は実在の通りで、ロンドンの高級住宅街の一つであるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内にある。ピットストリートは、北側の地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)、東側のケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)、南側の地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)、そして、西側のホーランドパーク(Holland Park)に囲まれている。地下鉄ノッティングヒルゲート駅の前を通るノッティングヒルゲート通り(Notting Hill Gate)と地下鉄ハイストリートケンジントン駅の前を通るケンジントンハイストリート(Kensington High Street)を南北に結ぶケンジントンチャーチストリート(Kensington Church Street)があり、この通りの南寄りのところから西へ入った通りがデュークスレーン(Dukes Lane)で、これが途中でピットストリートと名前を変え、ホーントンストリート(Horntorn Street)に突き当たる。



ピットストリートはそれ程長い通りではなく、残念ながら、ホームズとワトスンが向かったピットストリート131番地は架空の住所で実在しない。

2016年6月12日日曜日

ロンドン サヴォイホテル(Savoy Hotel)

ストランド通りの反対側から見たサヴォイホテル

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

ストランド通りに面したサヴォイホテルの玄関上部

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

ストランド通り沿いに建つサヴォイホテル(その1)

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

ストランド通り沿いに建つサヴォイホテル(その2)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回において、歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により、アムバライオティス氏が死亡しているのが発見されるが、彼の宿泊先のホテルであるアストリアホテル(Astoria Hotel)の入口外観として、フリーメイソンズホール(Freemaison's Hall)が撮影に使用されている。一方、アガサ・クリスティーの原作では、アムバライオティス氏の宿泊先はサヴォイホテル(Savoy Hotel)と設定されている。

サヴォイホテルの玄関
サヴォイホテルの玄関脇に置かれている
猫の形をした植栽

アガサ・クリスティーの原作において、アムバライオティス氏が宿泊していたサヴォイホテルは実在のホテルで、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)に向かって東に延びるストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)沿いに建っている。

サヴォイホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテが
以前住んでいていた家ー残念ながら、現在改装中
リチャード・ド・オイリー・カルテが以前住んでいた家は、
ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の
ダートマスパーク地区(Dartmouth Park)内の
ダートマスパークロード2番地(2 Dartmouth Park Road)に建っている

サヴォイホテルは、興行主/プロデューサーであるリチャード・ド・オイリー・カルテ(Richard D'Oyly Carte:1844年ー1901年)によって建設された。彼は、米国へ興行で何度も出かけており、米国のホテルに滞在した経験に基づいて、英国の地方や外国からロンドンを訪れる旅行者のために、英国で最も豪華なホテルを建設しようという意図の下、興行で得た資金で現在の土地を取得した。1881年の時点で、当地にはサヴォイ劇場(Savoy Theatre)が既に建っており、当初は、同劇場用の自家発電機を設置するために、同劇場に隣接する土地を取得したのである。

ダートマスパークロードの両側は、閑静な住宅街となっているー
奥へ進むと、かなりの坂道となる
リチャード・ド・オイリー・カルテがここに住んでいたことを示す
ブループラークは、建物改装中のため、現在外されている

リチャード・ド・オイリー・カルテは、英国の建築家であるトーマス・エドワード・コルカット(Thomas Edward Collcutt:1840年ー1924年)に設計を依頼した。トーマス・エドワード・コルカットは、シティー・オブ・ウェストミンスター区のメイフェア地区(Mayfair)にあるウィグモアホール(Wigmore Hallー音楽ホール)を設計したことでも有名である。
ホテルの建設には5年を要し、1889年8月6日に正式にオープンした。

サヴォイホテルとテムズ河の間は、サヴォイプレイス(Savoy Place)と呼ばれ、
ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)という公園がある

フランスに在住するサヴォイ家のピーター伯爵(Peter II, Count of Savoy:1203年ー1268年)は、姪が英国王ヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)と結婚したことに伴い、英国に移住し、1246年にヘンリー3世からリッチモンド伯爵(Earl of Richmond)に叙せられて、現在のストランド通りとテムズ河(River Thames)の間の土地を与えられた。1263年、彼はそこにサヴォイパレス(Savoy Palace)を建設した。
サヴォイパレスの跡地にホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテは、サヴォイパレスに因んで、当ホテルを「サヴォイホテル」と名付けたのである。
サヴォイホテイルは、世界で初めて、ホテル内に電灯と電動エレベーター(リフト)が導入されたホテルとなった。また、同ホテルは、当時としては珍しく、268室ある客室の大部分に浴室を設け、かつ、温水と冷水が常時行き渡るようにしたのである。

サヴォイプレイス側に面した
サヴォイホテルの裏玄関

リチャード・ド・オイリー・カルテは、1890年に同ホテルの初代支配人として、スイス人のシーザー・リッツ(Cesar Ritz:1850年ー1918年)を採用した。彼は1898年にサヴォイホテルを解雇された後、リッツホテル(Ritz Hotel)を立ち上げた人物で、パリのリッツホテルは1898年に、また、ロンドンのリッツホテルは1906年にオープンしている。

手前がヴィクトリアエンバンクメントガーデンズで、
奥がサヴォイホテルの裏玄関
サヴォイホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテを讃える記念碑が
サヴォイホテルの裏玄関前のヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内に設置されている

サヴォイホテルには、フレッド・アステア(Fred Astaire)、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)、チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)、H. G. ウェルズ(H. G. Wells)、ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)、ローレンス・オリヴィエ(Lawrence Olivier)、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)、ジョン・ウェイン(John Wayne)、ハンフリー・ボガート(Humprey Bogart)、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)、リチャード・バートン(Richard Burton)やソフィア・ローレン(Sophia Loren)等、数々の著名人が宿泊している。


ナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵されている
クロード・モネ作「テムズ河とウェストミンスター寺院(La Tamise a Westminster)」
(1871年頃)

特に、印象派を代表するフランスの画家であるオスカー・クロード・モネ(Oscar-Claude Monet:1840年ー1926年)は、1871年以降、ロンドンを数度にわたって訪れており、1899年、1900年、そして、1901年の3回、サヴォイホテルに滞在し、自室のバルコニーに画架を据えて、国会議事堂(House of Parliament)、ウォータールー橋(Waterloo Bridgeー2014年10月24日付ブログで紹介済)とチャリングクロス橋(Charing Cross Bridge)という3つのモティーフを描いている。

パリの美術館で撮影したクロード・モネ作の国会議事堂

サヴォイホテルの建物は、現在、「グレードII(Grade II)」の指定を受けている。