2019年10月20日日曜日

カーター・ディクスン作「白い僧院の殺人」(The White Priory Murders by Carter Dickson)–その4

東京創元社が発行する創元推理文庫「白い僧院の殺人」内に付されている
「白い僧院」と「王妃の鏡」の位置関係図
                                        地図原案:高沢 治氏
                                        地図作成:TSスタジオ

英国の陸軍省情報部長の要職にある伯父のヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)のオフィスを訪ねた後、米国の外交官であるジェイムズ・ボイントン・ベネットは、義理で招待を受けたパーティーを途中で退席すると、早朝、サリー州(Surrey)エプサム(Epsom)へと車を走らせた。迷路のようなロンドン市街を抜け出した後、道に迷ってしまい、午前6時半頃、寒さに震えながら、小さな地図を頼りにして、雪で滑る道を車を飛ばしていた。間もなく、東の空が白み始め、星の明かりも薄らいで、夜が明けてきた。

灰色の景色の中に、白い道標が見えたので、ジェイムズ・ベネットは、ギアをローに入れなおすと、両側に木々が鬱蒼と生い茂る狭い道を進み、「白い僧院」左手の近代的な屋根付き車寄せに自分の車を駐めた。すぐ近くには、女優のマーシャ・テイト(Marcia Tait)が主演する新作芝居の製作を務めるジョン・ブーンの車ヴォクスホールが既に停まっていた。
屋根付き車寄せからは、三本の道が出ていて、右側の一本目は、屋敷の裏へと回り、真ん中の二本目は、常緑樹の並木道が見える緩斜面へと繋がっていた。そして、左側の三本目は、厩舎らしい低い屋根が見える辺りへと続いていた。その方角から、犬の遠吠えが聞こえた。

馬丁の呼ぶ声に対して、ジョン・ブーンの声が答える。真ん中の二本目の道の方からだった。ジェイムズ・ベネットは、常緑樹の狭い並木道をカーブしながら下って行くと、その先には、円形の低木林が広がっていた。その中央には、マーシャ・テイトが宿泊している別館「王妃の鏡(Queen’s Mirror)」があった。足許の積雪は半インチ程で、ジェイムズ・ベネットの前には、「王妃の鏡」へと一筋の足跡が続いていた。

ジェイムズ・ベネットが「王妃の鏡」に近付くと、戸口からぬっと人影が現れた。彼が予想した通り、ジョン・ブーンだった。ジョン・ブーンに連れられて、ジェイムズ・ベネットが「王妃の鏡」内に入ると、そこには、頭を強打されたマーシャ・テイトの死体が横たわっていたのである。
別館「王妃の鏡」の周囲は、氷った人工池と深夜に降り積もった雪に覆われていて、その新雪の上に残されていたのは、死体の発見者であるジョン・ブーンと、たった今到着したばかりのジェイムズ・ベネットの二人の足跡だけで、他には何もなかった。

ところが、死体を検死したところ、マーシャ・テイトの死亡推定時刻は午前3時から午前3時半の間と判明したが、それでは、雪が止んだ午前2時から1時間以上も後ということになる。そうなると、マーシャ・テイトを殺害した犯人は、どのようにして自分の足跡を全く残さないで、別館「王妃の鏡」内に侵入の上、マーシャ・テイトを殺害した後、そこから脱出できたのか?ジェイムズ・ベネットには、皆目見当がつかなかった。
「雪の密室」という謎に対して、ジェイムズ・ベネットのことを案じて、「白い僧院」へとやって来たヘンリー・メリヴェール卿が挑む。

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、「別冊宝石」(1950年8月)で行った「カー問答」において、カーの作品を第1グループ(最も評価が高い作品群)から第4グループ(最もつまらない作品群)までグループ分けしていて、「白い僧院の殺人(The White Priory Murders)」(1934年)を第2グループ(7作品)の2番目に位置付けている。本作品について、江戸川乱歩は、「犯人の足跡がないという不思議を変なメカニズムなんか使わないで、心理的に巧みに構成している。私はこれはカーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つと考えている。」と高く評価している。

2019年10月13日日曜日

ロンドン プライオリーロード(Priory Road)


1900年(明治33年)5月、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、英語教育法研究のため、文部省より英国への留学を命じられ、同年9月10日に日本を出発して、同年10月28日、英国に辿り着いた。晩秋の倫敦(ロンドン)で、彼は留学生活を始めることとなった。


夏目漱石は、当初、ロンドン中心部のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内のガウワーストリート(Gower Street)沿いの下宿に入り、一旦荷を解いたが、下宿代が非常に高かったため、もっと安い下宿を早急に探す必要があった。
夏目漱石が2番目の下宿に決めたのは、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内にあるプライオリーロード(Priory Road)の高台にあった。そして、同年11月12日、彼はガウワーストリートの下宿から新しい下宿へと移って来た。


夏目漱石がプライオリーロードの下宿に移って来て、少し経った同年12月初旬のある夜、彼が寝床でうとうとしていると、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いたのである。最初はごく小さな音だったが、次第に大きくなってくるように聞こえた。当初は不審な物音だけだったが、息遣いのような音が更に聞こえてきて、次の夜には、「出て行け…。この家から出て行け…」という囁くような声に変わった。


これが、日本の推理小説家 / 小説家である島田荘司(1948年ー)氏が1984年に発表した推理小説「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)の冒頭の話である。
物語では、その後、恐ろしい呪いをかけられた弟キングスレイ・ホプキンスが一夜にしてミイラになってしまうという奇怪な事件が発生するが、その事件が発生した姉のメアリー・リンキイが住む屋敷が、プライオリーロード沿いに所在している。


プライオリーロードは、実在する通りで、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内に所在している。
プライオリーロードの北側は、ジュビリーライン(Jubilee Line)が通る地下鉄フィンチリーロード駅(Finchley Road Tube Station)と地下鉄ウェストハムステッド駅(West Hampstead Tube Station)を東西に結ぶブロードハーストガーデンズ通り(Broadhurst Gardens)から始まり、サウスハムステッド地区内を南下。プライオリーロードは、ビートルズ(Beatles)が発表したアルバム「アビーロード(Abbey Road)」のカバー写真でも有名なアビーロード(Abbey Road)を横切った後、同じくジュビリーラインが通る地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)から西方面へ延びるベルサイズロード(Belsize Road)と交差したところで、プライオリーロードの南側は終わっている。


現在、プライオリーロードの両側には、一軒家やフラットが建ち並び、住宅街となっている。島田荘司氏作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」では、夏目漱石により、リンキイ邸について、「行く手の霧の中に、いかにも貴族の館であるといったような、金属細工の装飾も派手派手しい鉄の門が近づいてきた。」や「門をくぐると邸内は広大な敷地である。上野のお山全部ほどもありそうだ。」と記述されている。残念ながら、プライオリーロードの両側には、現在、そういった広大な敷地を有する邸宅は存在していない。


夏目漱石は、「リンキイ邸は以前の自分の下宿のすぐ近所である。歩けば十分もかからぬと思われる。」と述べている通り、彼は、英国留学中(1900年ー1902年)、1900年11月中旬に、最初の下宿(ガウワーストリート)から2番目の下宿(プライオリーロード)へと移って来たが、同年12月には、テムズ河(River Thames)南岸のキャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)内にあるフロッデンロード(Flodden Road)沿いにある下宿へと、また引っ越している。

2019年10月12日土曜日

カーター・ディクスン作「白い僧院の殺人」(The White Priory Murders by Carter Dickson)–その3

女優のマーシャ・テイト宛に送られた毒入りチョコレートを食べた
ハリウッドの広報担当者であるティム・エメリーが担ぎ込まれた
小さな病院があるサウスオードリーストリート(South Audley Street)

皆で昼食を食べた後、2時間程して、ハリウッドの広報担当者であるティム・エメリーがバーで倒れたのである。医者の診断によると、ストリキニーネ中毒であったが、幸いにして、致死量を摂取していなかったため、死んだり、重体にならず、なんとか危険な状態を脱した。

以下の5人のうちの誰かが、女優マーシャ・テイト(Marcia Tait)の命を狙って、毒入りチョコレートを送って寄越したのだろうか?
(1)マーシャ・テイトが主演する新作の芝居の製作担当であるジョン・ブーン
(2)マーシャ・テイトと一緒に、新作の芝居に主演する俳優のジャーヴィス・ウィラード
(3)マーシャ・テイトを連れ戻すために、ハリウッドからやって来た映画監督のカール・レインジャー
(4)マーシャ・テイトを連れ戻すために、ハリウッドからやって来た広報担当のティム・エメリー
(5)英国の陸軍省情報部長の要職にあるヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)の甥で、米国の外交官であるジェイムズ・ボイントン・ベネット


ジョン・ブーンがチョコレートを分析させた結果、次のことが判明した。
(1)ストリキニーネが仕込んであったのは、チョコレートの箱の上段に入っていた2個のみ。
(2)ティム・エメリーが食べたのは、そのうちの1個で、残りの1個は少し潰れていた。
(3)毒入りの2個分を合わせても、致死量には足りない。
(4)毒入りの2個は、離れて入っていて、余程運が悪くない限り、一度に両方を食べる可能性は低い。

サウスオードリーストリートの南側から
北方面を望む(その1)

その場に居合わせたジェイムズ・ベネットは、ある種の警告ではないかと考えていた。幸い、ティム・エメリーが死亡したり、重体になったりしなかったこともあり、警察沙汰にはしたいと思う者は、誰もいなかった。特に、カール・レインジャーとティム・エメリーの二人にとって、警察が取り調べを始めた場合、ハリウッドのシネアーツ社から与えられた期限までに、マーシャ・テイトを米国へ連れ戻すことが、非常に難しくなるため、あまり乗り気ではなかった。ストリキニーネが入ったチョコレートを食べたティム・エメリーが病院に担ぎ込まれた話を聞いたマーシャ・テイトは、怖がるどころか、どちらかと言うと、むしろ面白がっているようだった。

サウスオードリーストリートの南端の角

そんな中、マーシャ・テイト一行は、クリスマス休暇を兼ねて、サリー州(Surrey)エプソム(Epsom)の近くにあるブーン家の屋敷(ジョン・ブーンの兄で、当主のモーリス・ブーンが所有)へと向かうことになっていた。マーシャ・テイトが主演する新作の芝居「チャールズ2世の私生活」の脚本の手直しもする計画だった。
その屋敷は、「白い僧院(White Priory)」と呼ばれていて、チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年 王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランドおよびアイルランドの王)の時代に、ブーン家が所有していた。ブーン家の当主は、チャールズ2世の覚えがめでたく、王は競馬見物でエプソムに来ると、数多くの愛妾と一緒に、「白い僧院」に滞在していた。「白い僧院」には、離れ家があり、先祖のジョージ・ブーンが海外から大理石を輸入の上、寺院を模して、チャールズ2世の愛妾の一人であったバーバラ・パーマー(1641年ー1709年:カースルルメイン伯爵ロジャー・パーマーの妻)の栄華を称え、彼女の便宜を図って、1664年に建てられた。離れ家は小さな人工池の中にあるため、「王妃の鏡(Queen’s Mirror)」と呼ばれていた。マーシャ・テイトは、「白い僧院」に滞在中、「王妃の鏡」に宿泊する予定となっていた。

サウスオードリーストリートの南側から
北方面を望む(その2)

ジェイムズ・ベネットが伯父のヘンリー・メリヴェール卿を訪ねた日の午後、モーリス・ブーンがエプソムからロンドンへと出て来て、マーシャ・テイトを「白い僧院」へ列車で連れて行くことになっていた。マーシャ・テイトと一緒に、「チャールズ2世の私生活」に主演する俳優のジャーヴィス・ウィラードは、二人に同行する予定だった。ジョン・ブーンについては、ロンドンで仕事の約束があるため、当日の夜遅く、自分の車で「白い僧院」へ直接向かうことになった。「白い僧院」に到着できるのは、夜更けになるとのことだった。ジェイムズ・ベネットに関しても、当日の夜、パーティーへの招待を受けていたため、同じく、夜遅くでないと、パーティーから抜け出せなかった。

翌朝の6時半過ぎ、道に迷いながら、なんとか車で「白い僧院」へと辿り着いたジェイムズ・ベネットであったが、「王妃の鏡」において、マーシャ・テイトが殺害されている場面に遭遇するのであった。

2019年10月6日日曜日

東京 新宿区立漱石山房記念館(Natsume Soseki Memorial Museum)

夕暮れ時の新宿区立漱石山房記念館

日本の小説家、評論家で、英文学者でもあった夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、1867年、江戸の牛込馬場下横町(現:新宿区喜久井町)に、町方名主を務める夏目小兵衛直克の五男として出生。
1893年、帝国大学(現:東京大学)文化大学英文科を卒業した後、大学院まで進み、大学院後は、松山(愛媛県尋常小学校)や熊本(第五高等学校)で教師を務めた。そして、彼は、1900年に文部省から命じられて、1902年までの2年間(なお、日本への帰国は、1903年1月)、英文学研究のために、英国への留学を経験。
英国留学から戻った後、東京英国大学講師となったが、留学中から神経衰弱に悩まされていた夏目漱石は、気晴らしのために、文章を書くよう、友人の高浜虚子(1874年ー1959年)に勧められ、「我輩は猫である」(1905年ー1906年)を執筆して、雑誌「ホトトギス」に発表。当作品により世間の人気を博した彼は、作家としての道を歩み始める。
そして、1907年、大学講師を辞め、専業作家として朝日新聞社に入社すると、新聞紙上で「虞美人草」、「三四郎」、「それから」や「門」等を連載。1910年、「門」の執筆中に胃潰瘍を患って、大量の吐血をし、危篤状態となるも、一命をとりとめ、その後も、「彼岸過迄」、「こころ」や「道草」等を発表するが、1916年、長年患っていた胃潰瘍が悪化しえ、執筆中だった「明暗」を未完のまま、49歳の若さで亡くなった。

新宿区立漱石山房記念館の玄関ホール

夏目漱石が1916年に亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房(Soseki-Sanbo)」と呼ばれた新宿区早稲田南町の家の跡地には、現在、新宿区立漱石山房記念館(Natsume Soseki Memorial Museum)が建っている。

夏目漱石と所縁がある新宿区内の場所が表示されている

「漱石山房」は、夏目漱石が1907年に専業作家として朝日新聞社に入社した後、数々の名作を生み出す場となった他に、彼の弟子や知人等、多くの文人が集うサロンの様相を呈していた。残念ながら、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1945年、東京大空襲の際に焼失。戦後、「漱石山房」の跡地の半分は「漱石公園」に、そして、残りの半分は(新宿)区営住宅(元:都営住宅)になっていた。

新宿区立漱石山房記念館内に再現されている夏目漱石の書斎(その1)
<記念館の展示スペース内では、ここだけ写真撮影が可能>

2011年、この区営住宅の建替移転が契機となり、新宿区では、隣接する「漱石公園」の敷地と併せて、日本初の本格的な漱石記念館を建設することを決定。そして、夏目漱石の生誕150周年を記念して、新宿区立漱石山房記念館は、2017年9月24日に開館したのである。

新宿区立漱石山房記念館内に再現されている夏目漱石の書斎(その2)

新宿区立漱石山房記念館には、
・「道草」、「明暗」や「ケーベル先生の告別」の草稿
・夏目漱石が弟子である松根東洋城(本名:松根豊次郎)宛に送った葉書
・夏目漱石の書籍初版本
等が所蔵展示されている他、夏目漱石が数多くの名作を執筆した「漱石山房」の書斎が再現されている。

漱石公園の入口前に設置されている夏目漱石像

<新宿区立漱石山房記念館>
休館日: 月曜日
開館時間: 10時ー18時(なお、入館は17時半まで)
<漱石公園>
年中無休
開館時間: 4月ー9月 8時ー19時 / 10月ー3月 8時ー18時


2019年10月5日土曜日

カーター・ディクスン作「白い僧院の殺人」(The White Priory Murders by Carter Dickson)–その2

ハミルトンプレイスの北側から南方面を見たところ

定期航路船ベレンガリア号でニューヨークからロンドンへとやって来た米国の外交官であるジェイムズ・ボイントン・ベネットであったが、米国大使館やホワイトホール地区(Whitehall → 2015年10月3日付ブログで紹介済)での用事は2時間程度で済んでしまい、あっという間に手持ち無沙汰になってしまった。


次の日の朝、女優のマーシャ・テイト(Marcia Tait)の元を訪ねるかどうか迷いながら、当てもなくピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)を彷徨いていると、シャフツベリーアベニュー(Shaftsbury Avenue→2016年5月15日付ブログで紹介済)への入口で、ジェイムズ・ベネットは、シネアーツ社のロゴが入った黄色の派手な車に乗ったティム・エメリーに声をかけられた。ジェイムズ・ベネットを乗せたティム・エメリーの車は、ピカデリー通り(Piccadilly)を西へと向かい、ハイトパークコーナー(Hyde Park Corner)のところで、白い石造りのフラットの中庭へと滑り込んだ。
そこは、ロンドン西1区ハミルトンプレイス16番地Aのハートフォード荘で、マーシャ・テイトはその12号室に逗留していたのである。

ハミルトンプレイスの西側には、
Intercontinental Hotel が建っている(その1)
ハミルトンプレイスの西側には、
Intercontinental Hotel が建っている(その2)

ティム・エメリー、そして、ジェイムズ・ベネットの順に、12号室の客間に入ると、そこには、3人の男性が既に居た。
(1)マーシャ・テイトが主演する新作の芝居の製作担当であるジョン・ブーン
(2)マーシャ・テイトを連れ戻すべく、ハリウッドからやって来た映画監督のカール・レインジャー
(3)マーシャ・テイトと一緒に、新作の芝居に主演する俳優のジャーヴィス・ウィラード
の3人だった。
そして、室内は、剣呑な雰囲気に満ちており、マーシャ・テイトをめぐって、一触即発の状態だった。

ハミルトンプレイスの東側には、
Four Seasons Hotel London at Park Lane が建っている(その1)
ハミルトンプレイスの東側には、
Four Seasons Hotel London at Park Lane が建っている(その2)

ジョン・ブーンとカール・レインジャーが向かい合う間にあるテーブルの上には、茶色の包装紙が解かれた小包が置かれていた。中から、チョコレート入りの箱が見えていた。
カール・レインジャーは、「このチョコレートには、おかしなところがある。」と言う。疑問を呈する他の者に対して、カール・レインジャーは続けた。「マーシャ・テイトがハートフォード荘に逗留することは、新聞には載っておらず、知っていたのは、わずか数名に過ぎない。その上、チョコレートの箱は、彼女が居ない昨夜に届いた。チョコレートの箱を送って寄越したのは、見ず知らずの一ファンではなく、我々のうちの誰かだ!」と。
「ある種の警告なのでは?」と言うジャーヴィス・ウィラードに対して、ジョン・ブーンは「チョコレートに毒が入っていると言うのか?」と噛み付く。それを受けて、カール・レインジャーは、「それでは、一つ食べてみたらどうか?」とけしかけるのであった。カール・レインジャーの発言に、ジョン・ブーンは、「皆でチョコレートを一つずつ食べよう!」と応じた。



その場の雰囲気に流された5人は、箱からチョコレートを一つずつ取って、口に入れた。ちょうどその時、マーシャ・テイトが帰宅したので、ジョン・ブーンがチョコレートの箱を自分のコートの下に慌てて隠した。

皆で昼食をとったその場では、特に何も起こらなかったものの、その日の夕方(午後6時頃)、ジェイムズ・ベネットが宿泊しているホテルに、ジョン・ブーンから電話がかかり、サウスオードリーストリート(South Audley Street)にある病院へと呼び出されたのである。

ハミルトンプレイスの北側から南方面を望む