2019年8月31日土曜日

コンウォール州(Cornwall) ジャマイカ・イン(Jamaica Inn)

宿屋「ジャマイカ・イン」のブローシャー(表側)

「ジャマイカ・イン(Jamaica Innー邦題:埋もれた青春)」は、英国の小説家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)が1936年に発表した小説で、1930年に彼女が英国コンウォール州(Cornwall)のボドミンムーア(Bodmin Moor)内に所在する宿屋「ジャマイカ・イン(Jamaica Inn)」に滞在した際に、本作品の着想を得ている。

宿屋「ジャマイカ・イン」のブローシャー(裏側)

宿屋「ジャマイカ・イン」は、1750年に建てられ、その後、1778年に拡張されて、現在のL字型の建物となった。

宿屋「ジャマイカ・イン」の看板

密輸業者がジャマイカから英国内に運び込んだ密輸品を当宿屋に保管していたことから、「ジャマイカ・イン」という宿屋名が付けられたものと一般に考えられているが、実際には、宿屋が建つ場所の所有者で、18世紀に一族の者(2名)がジャマイカ総督(Governor of Jamaica)を務めたトレローニー家(Trelawney family)に因んで、宿屋名が付けられたと言われている。

Daphne du Maurier's Smugglers Museum 内に再現されている
ダフニ・デュ・モーリエの書斎–
画面中央奥の壁には、彼女の肖像画が架けられている

18世紀半ばから19世紀にかけて、宿屋「ジャマイカ・イン」は、密輸業者が英国外から運び込んだ密輸品をロンドンを初めとする英国各地へと運搬するための「中継地」として使用された。当時、ロンドンから遠く離れたコンウォール州は、「密輸業者の安息所(haven of smugglers)」と呼ばれており、難破船略奪者(wreckersー略奪目的で船舶を難破させる輩)が数多く暗躍していたのである。宿屋「ジャマイカ・イン」は、コンウォール州からロンドンを初めとする英国各地へと向かう幹線道路沿いに経っていることに加えて、ボドミンムーアという荒涼地内にポツンと所在しているため、密輸業者が密輸品を中継する上で、絶好の立地条件に適していた。

画面中央の上の写真は、ダフニ・デュ・モーリエ本人である

宿屋「ジャマイカ・イン」は、現在、レストランやバー(The Smugglers’ Bar)等を備えたホテルとして営業を行っており、Daphne du Maurier’s Smugglers Museum が併設されている。

博物館内には、ダフニ・デュ・モーリエが発表した数多くの作品が展示されている

宿屋「ジャマイカ・イン」は、1988年11月23日に、Grade II listedbuilding に指定されて、保存されている。

博物館内には、ダフニ・デュ・モーリエのサインが入った
小説「ジャマイカ・イン(邦題:埋もれた青春)」も展示されている


2019年8月28日水曜日

ジョン・ディクスン・カー作「緑のカプセルの謎」(The Problem of the Green Capsule by John Dickson Carr)–その3

東京創元社が発行する創元推理文庫「緑のカプセルの謎」の表紙−
カバーイラスト:榊原 一樹氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

桃栽培を営む実業家で資産家でもあるマーカス・チェズニー(Marcus Chesney)が、自宅のベルガード館(Bellegarde)において、青酸により毒殺されたという彼の弟であるジョーゼフ(ジョー)・チェズニー医師(Dr. Joseph (Joe) Chesney)からの電話連絡を受け、ロンドン警視庁犯罪捜査部(スコットランドヤード CID)のアンドルー・マッカンドルー・エリオット警部(Inspector Andrew MacAndrew Elliot)は、地元警察のクロウ本部長(Major Crow) / ボストウィック警視(Superintendent Bostwick)と一緒に、至急、ベルガード館へと駆け付けた。時計の針は、真夜中の12時25分を指していた。

その日の夕食の席上、犯罪研究を趣味としているマーカス・チェズニーは、「100人中、99人は証人として全く役に立たない。」と発言する。他の全員が「自分の目は欺かれない。」と返すと、マーカスは「いかに人間の観察力があてにならないものであるかを実証するために、ちょっとした心理学の実験をしたい。」と言い出した。そして、夕食後、マーカスは、チェズニー家の果樹園の責任者であるウィルバー・エメットを自分の助手に指名して、実験用の寸劇の打ち合わせを始めた。

実験は、真夜中の12時から、マーカスの事務室と折れ戸を挟んで隣りの音楽室を使用して、行われることになった。マーカスの姪であるマージョリー・ウィルズ、マージョリーの婚約者であるジョージ・ハーティング(George Harding)と、マーカスの親友で、引退した大学教授であるギルバート・イングラム(Professor Gilbert Ingram)が、音楽室へと通された。マーカスの弟で、医師でもあるジョーゼフ・チェズニーは、生憎と、往診のため、不在で、午後11時45分までに戻らなければ、彼なしで実験が進められることになっていた。マージョリー、ジョージとギルバートの3人は、これから事務室で行われる寸劇を見て、それが終わった後、彼らの観察力を試すマーカスからの質問に答える流れであった。寸劇の様子は、ジョージが一部始終撮影することになった。

12時になると、問題の寸劇が開始された。マーカスは、事務室と音楽室を隔てる折れ戸を全開にすると、事務室中央にある机に、3人に向かい合わせに座った。マーカスが、まず鉛筆で、それから万年筆を手にして書く仕草をしている。すると、事務室のフランス窓が開いて、シルクハットを頭に、そして、汚れた長いレインコートを着て、襟を立てた男性が、サングラスとマフラーで顔を隠したまま、表の芝生から室内へと入って来た。その男性は、光沢のある手袋をはめ、往診鞄みたいなものを手にしていた。そして、カバンを机の上に置き、3人に背を向けて立つと、レインコートのポケットから小さな厚紙の箱を取り出して、その中に入っていた緑色のカプセルを掴み、マーカスの口に無理やり入れた後、その男性は、机の上の鞄を手にして、フランス窓から外へと姿を消した。謎の人物に緑色のカプセルを飲まされたマーカスは、いきなり机に突っ伏して、死んだふりをしていたが、直ぐに笑いながら起き上がって、折れ戸に近付き、それを閉めた。寸劇の幕が下りた、という合図である。

マーカスが再び折れ戸を開けて、「フランス窓から事務室へと入って来た謎の人物は、ウィルバー・エメットだ。」と、種明かしをする。ただし、マーカスが何度呼んでも、ウィルバーからの返事がないため、マーカスがウィルバーを捜しに、フランス窓から外へ出ると、家と栗の木の間の芝生の上に、シルクハット、サングラスや往診鞄等が放り出してあった。そして、栗の木の向こう側には、火搔き棒で後頭部を殴られたウィルバーが気絶して、うつ伏せに倒れていたのである。寸劇に出てきた謎の人物は、ウィルバーではなかったのだ。更に悪いことに、急に具合が悪くなったマーカスは、フランス窓から事務室へと駆け込むと、机の横で膝の力が抜けたようになった。そして、部屋中にビターアーモンドの匂いを漂わせたまま、マーカスは息を引き取った。マーカスの死因は、寸劇中に謎の人物に無理やり飲まされた緑色のカプセルの中に入れられていた青酸による中毒死だったのである。

エリオット警部、クロウ本部長とボストウィック警視は、早速、事情聴取を始めるが、寸劇を全て見ていた筈のマージョリー、ジョージとギルバートの3人による証言内容は、マーカスの予言通り、かなりの食い違いを見せる。そして、諸々の出来事により、徐々に、マージョリーにとって不利な状況へと向かい始める。イタリアのポンペイ(Pompeii)廃墟において初めて遭遇して以来、マージョリーに恋心を抱いていたエリオット警部は、ソドベリークロス村(Sodbury Cross)の近くのバース(Bath)に湯治に来ていたギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)を訪ねて、助力を求めるのであった。

当作品の主題は、「緑のカプセルの謎(The Problem of the Green Capsule)」(1939年)であるが、物語の内容に因んで、作者のジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)は、副題として、「心理学的殺人事件(Being the psychologist’s murder case→直訳すると、「心理学者の殺人事件」となる)」を使用している。

日本の著述家 / 奇術研究家で、推理作家協会会員でもあった松田道弘氏(1936年ー)は、「新カー問答ーディクスン・カーのマニエリスム的世界」の中で、「緑のカプセルの謎」について、第1位グループの6作品のうち、2番目に挙げて、高く評価している。
なお、1番目の作品は、「火刑法廷(The Burning Court)」(1937年)である。

2019年8月25日日曜日

アニメーション「名探偵ホームズ(Sherlock Hound)」–その1

英国で発売されている「名探偵ホームズ」の DVD パッケージ写真–
左側がシャーロック・ホームズで、右側がジョン・ワトスン

アニメーション「名探偵ホームズ(Sherlock Hound)」は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)原作のシャーロック・ホームズシリーズをベースにしたテレビアニメである。

イタリアの国営放送局であるイタリア放送協会(RAI)が、イタリアの民間制作会社である REVER 社に「名探偵ホームズ」の制作を発注し、それを受けた REVER 社が日本の東京ムービー新社に共同政策を持ちかけて、日伊合作作品んが実現した。
当初は、日伊で同時に放送する予定で、1981年4月に制作が開始され、東京ムービー新社傘下のテレコム・アニメーションフィルムにおいて、実際の政策が行われた。スタジオジブリのアニメーション映画の監督として非常に有名な宮崎駿氏(1941年ー)は、当初、制作の主体となったテレコム・アニメーションフィルムの若手をバックアップする予定で参加したが、最終的には、6話について、監督 / 演出等を担当している。

「名探偵ホームズ」の制作にあたって、コナン・ドイルの原作から登場人物と舞台等を借りているものの、一部を除き、ほぼオリジナルのストーリーとなっている。登場人物については、全て擬人化した犬というキャラクター設定になっている。また、主要な登場人物に関しては、少数のメンバーに固定され、毎回、モリアーティー教授と彼の2人の部下が悪事(盗難事件が多く、殺人事件は発生しない)を企み、シャーロック・ホームズが、ジョン・ワトスン、ハドスン夫人やスコットランドヤードのレストレード警部等の助けを借りて、モリアーティー教授達の悪巧みを阻止するという判りやすいストーリーが、主に展開している。

1982年に6話分の作業を進めたところで、「名探偵ホームズ」の制作は、一時中断する。制作中断の理由としては、

(1)イタリア側において、コナン・ドイルの遺族との間で、著作権獲得の交渉が難航したこと
(2)「名探偵ホームズ」制作の過程で、制作の主体となったテレコム・アニメーションフィルムが、別のアニメーション映画(米国との共同制作となる「ニモ(NEMO)」→最終的には、1989年に公開)に作業を注力する必要があったこと
(3)制作の依頼主であるイタリア側からの送金が途絶えたこと

等と言われている。

2019年8月24日土曜日

ダフニ・デュ・モーリエ作「ジャマイカ・イン」(Jamaica Inn by Dame Daphne du Maurier)

Virago Press 社から出版されている
ダフニ・デュ・モーリエ作「ジャマイカ・イン」

「ジャマイカ・イン(Jamaica Innー邦題:埋もれた青春)」は、英国の小説家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)が1936年に発表した小説で、英国ではヴィクター・ゴランクズ社(Victor Gollancz Ltd.)から、そして、米国ではダブルディ・ドラン社(Doubleday Dorun)から出版された。

1930年、ダフニ・デュ・モーリエは、英国コンウォール州(Cornwall)のボドミンムーア(Bodmin Moor)内に所在する宿屋「ジャマイカ・イン(Jamaica Inn)」に滞在した際に、本作品の着想を得た、とのこと。
現在、宿屋「ジャマイカ・インは、レストランやバー等を備えたホテルであるが、18世紀中頃から19世紀にかけて、英国外からの密輸品をロンドンを初めとする英国各地へと運搬するための中継地として使用された歴史がある。

物語は、史実に合わせて、1820年のコンウォール州が舞台として設定されている。
母親を亡くして孤児となった23歳のメアリー・イェーラン(Mary Yellan)は、彼女にとって唯一の身寄りである叔母のペーシェンス・マーリン(Patience Merlyn)が経営する辺境の宿屋「ジャマイカ・イン」へと行くことにした。
しかし、メアリーがやっとの思いで辿り着いたその宿屋は荒れ果てている上に、叔母のペーシェンスはすっかりと老け込んでいて、幽霊のような状態だった。彼女の夫であるジョス・マーリン(Joss Merlyn)は、宿屋内で怪しげな仲間達と一緒に酒宴を開き、呑んだくれていた。叔母のペーシェンスは、夫や彼の仲間達に対して、何も言えないようである。
メアリーが見たところ、宿屋には宿泊客が誰も居らず、その上、今まで一度も客を泊めたことがないみたいで、何か怪しげな雰囲気だった。
メアリーは、実質的に宿屋を牛耳っている叔母の夫であるジョス・マーリンの正体を探ろうとする。そして、ジョスと彼の仲間達が、この辺一帯を荒らし回っている海賊であることが判明するのであった。

「ジャマイカ・イン」は、英国の映画監督 / 映画プロデューサーであるアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock:1899年ー1980年)によって、1939年に映画が制作され、邦題「巌窟の野獣」として公開されている。

2019年8月18日日曜日

パークロード35番地 / ルドルフ・シュタイナーハウス(35 Park Road / Rudolf Steiner House)

パークロード沿いに建つルドルフ・シュタイナーハウスの建物外観

リージェンツパーク(Regent’s Park→2016年11月19日付ブログで紹介済)に沿って、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station→2014年4月18日 / 4月21日 / 4月26日 / 4月27日 / 5月3日 / 5月10日 / 5月11日 / 5月18日付ブログで紹介済)からセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood→2014年6月17日付ブログで紹介済)へと向かって北上するパークロード(Park Road)沿いの35番地(35 Park Road, Marylebone, London NW1 6XT)に、ルドルフ・シュタイナーハウス(Rudolf Steiner House)が建っている。

ルドルフ・シュタイナーハウス内から
パークロードを見たところ

現在、舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの(Sherlock Holmes and The Invisible Thing→2019年8月10日 / 8月11日付ブログで紹介済)」が上演されているルドルフ・シュタイナー劇場(Rudolf Steiner Theatre)は、約220人を収容可能で、ルドルフ・シュタイナーハウス内に所在している。

ルドルフ・シュタイナーハウス内のG階ロビー(その1)–
画面奥にあるのが、カフェ
ルドルフ・シュタイナーハウス内のG階ロビー(その2)–
カフェは、土曜日のみ営業
ルドルフ・シュタイナーハウス内のG階ロビー(その3)–
画面奥にあるのが、本屋

ルドルフ・シュタイナーハウスやルドルフ・シュタイナー劇場は、19世紀末から20世紀前半にかけて、オーストリアやドイツで活動した哲学者、教育者、建築家、経済学者で、神秘思想家でもあったルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner:1861年ー1925年)の名前を冠している。

ルドルフ・シュタイナーハウス内のG階ロビーの壁には、
ルドルフ・シュタイナーの写真が架けられている

ルドルフ・シュタイナーハウス内には、劇場の他に、
・本屋ールドルフ・シュタイナーによる著作等を主に販売
・図書室ールドルフ・シュタイナーによる著作等を主に所蔵
・セラピー室
・会議室
・カフェ(土曜日のみ営業)
等があり、劇場や会議室は、舞台劇、コンサート、講演、セミナーや会合等のため、一般にも貸し出されている。

ルドルフ・シュタイナーハウス内の階段(その1)
ルドルフ・シュタイナーハウス内の階段(その2)
ルドルフ・シュタイナーハウス内の階段(その3)

建築家としての顔も有するルドルフ・シュタイナーは、「ゲーテアヌム(Goetheanum)」と呼ばれる独特の形容を持つ建物の設計を行っているが、それは、ルドルフ・シュタイナーハウスのうち、本屋入居スペースの窓ガラス上部にある庇部分にも使用されている。

本屋入居スペースの窓ガラス上部にある庇部分に、
建築家でもあったルドルフ・シュタイナーが用いた「ゲーテアヌム」という独特の形容が見受けられる

2019年8月17日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「緑のカプセルの謎」(The Problem of the Green Capsule by John Dickson Carr)–その2

創元推理文庫「緑のカプセルの謎」の旧訳版の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

ロンドン警視庁犯罪捜査部(スコットランドヤード CID)の上司であるハドリー警視(Superintendent Hadley)から命じられて、アンドルー・マッカンドルー・エリオット警部(Inspector Andrew MacAndrew Elliot)が愛車でロンドンを後にして、バース(Bath)に近いソドベリークロス村(Sodbury Cross)へと向かった10月3日は、天気も良く、暖かい日だった。
生憎と、愛車が途中でパンクしたため、エリオット警部がソドベリークロス村に到着したのは、午後11時半を過ぎていた。遅く時間にもかかわらず、地区警察本部長のクロウ少佐(Major Crow)とボストウィック警視(Superintendent Bostwick)の2人が、署内の警視の部屋で、エリオット警部の到着を待っていた。時間を無駄にせず、エリオット警部は、早速、彼らからソドベリークロス村での毒殺事件にかかる説明を受ける。

ソドベリークロス村には、煙草店兼菓子店が3軒あるが、ミセス・テリー(Mrs. Terry)が営む店が一番人気だった。ミセス・テリーは陽気な人物で、テキパキしている上に、夫に先立たれた後、5人の子供を一人で養育していることもあって、人情的に、村の人達はミセス・テリーの店を贔屓にしていたのである。

事件当日の6月17日は金曜日で、市が立つ日だったため、村には沢山の人が集まって来ていた。午後4時頃、マージョリー・ウィルズ(Marjorie Wills)は、伯父であるマーカス・チェズニー(Marcus Chesney)の車で、村の肉屋まで買い物にやって来た。肉屋での買い物を終えたところで、彼女はお気に入りの子供であるフランキー・デール(Frankie Dale - 8歳)に偶然出会った。そして、彼女は、フランキーに「ミセス・テリーの店へ行って、チョコレート・ボンボンを3ペンス分買って来て。」と頼み、6ペンス銀貨を渡した。
フランキーは、マージョリーから頼まれた通り、肉屋から50ヤード程離れたところにあるミセス・テリーの店へとお使いに行き、3ペンス分のチョコレート・ボンボン6個を小さな紙袋に入れてもらって、マージョリーの元へと走って戻って来た。
その日は雨が降っていて、マージョリーは大きなポケットが付いたレインコートを着ていた。彼女はフランキーから受け取った紙袋をレインコートのポケットに一旦入れた後、考え直したように取り出し、紙袋を開けて、中を見た。すると、マージョリーは、「白いクリームが詰まったチョコレート・ボンボンではなく、ピンククリームのものが良いので、ミセス・テリーに交換してもらってほしい。」と言って、フランキーを再度ミセス・テリーの店へと行かせた。ミセス・テリーは親切に交換に応じ、ピンククリームが詰まったチョコレート・ボンボンが入ったチョコレート・ボンボンが入った紙袋を持って、フランキーはマージョリーの元に戻り、3ペンスの釣り銭をお駄賃にもらったのである。

お茶の時間のため、一度自宅に戻り、お茶を済ますと、フランキーは再度ミセス・テリーの店へ向かい、白いクリームが詰まったチョコレート・ボンボンを2ペンス分、そして、グミを1ペンス分購入した。
その後、午後6時15分頃、アンダーソン夫妻のところで働くメイドのロイス・カーテンが、夫妻の子供二人(トミー・アンダーソンとドロシー・アンダーソン)を連れて、ミセス・テリーの店にやって来て、様々な味のチョコレート・ボンボンを重さ半ポンド分買ったのである。

ドロシー・アンダーソンとトミー・アンダーソンが一口かじったチョコレート・ボンボンが変な味がすると言うので、メイドのロイス・カーテンがそれぞれ一口かじってみると、苦い味がするため、不良品と判断して、バックに入れ、折を見て、ミセス・テリーの店へ苦情を言いに行くことにした。その後、3人とも、チョコレート・ボンボンに混入されていたストリキニーネによる中毒症状に陥ったが、幸いなことに、誰も命を落とすことはなかった。

一方、マージョリーからお駄賃にもらった釣り銭でチョコレート・ボンボンを2ペンス分購入したフランキーは、全部飲み込むように食べてしまった結果、一時間程すると苦痛に襲われ、ひどくもがき苦しみながら、その日の夜11時に息を引き取った。

警察が分析した結果、以下のチョコレート・ボンボン10個に、それぞれ2グレイン(約130ミリグラム)を超えるストリキニーネが混入されていたことが判明。1グレインでも、致死量に達することがある。
(1)フランキー・デールが食べたチョコレート・ボンボン4個
(2)メイドのロイス・カーテンとアンダーソン夫妻の子供二人が一口ずつかじったチョコレート・ボンボン2個
(3)ロイス・カーテンがバックの中に入れた紙袋内に残っていたチョコレート・ボンボン2個
(4)ミセス・テリーの店に並べてあるチョコレート・ボンボン2個

クロウ本部長とポストウィック警視は、以下の3つの可能性を考えていた。
(1)ミセス・テリーが故意に毒入りのチョコレート・ボンボンを販売した可能性 → 当初、村人はこの可能性に反射的に反応して、大きな騒ぎになったが、それも2日程で落ち着き、今では誰も信じていない。
(2)当日の昼間、ミセス・テリーの店へ行った何者かが、ミセス・テリーが背を向けた隙に、毒入りのチョコレート・ボンボンを無害のチョコレート・ボンボンの中に加えた可能性
(3)マージョリー・ウィルズが、フランキー・デールから受け取った無害なチョコレート・ボンボン入りの紙袋を、自分のレインコートのポケット内で、予め準備しておいた毒入りのチョコレート・ボンボン入りの紙袋と取り替えた後、フランキーに渡して、ミセス・テリーの店へ戻らせた可能性

当時の昼間、マーカス・チェズニーとジョーゼフ(ジョー)・チェズニー医師(Dr. Joseph (Joe) Chesney)の2人は、ミセス・テリーの店を訪れていた。一方、ギルバート・イングラム教授(Professor Gilbert Ingram)とウィルバー・コメット(Wilbur Emmet)の二人は、ミセス・テリーの店へは行っていなかった。

クロウ本部長とポストウィック警視が、マージョリー・ウィルズを含むマーカス・チェズニーとその関係者を疑う中、ジョーゼフ・チェズニー医師から緊急の電話があった。マーカス・チェズニーが、自宅のベルガード館(Bellegarde)において、青酸により毒殺されたとの一報がもたらされたのである。

2019年8月11日日曜日

舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの(Sherlock Holmes and The Invisible Thing)」–その2

舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」のプログラム

現在、ルドルフ・シュタイナーハウス(Rudolf Steiner House)において上演されている舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」の配役は、以下の通り。

(1)シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes): Mr. Stephen Chance
(2)ジョン・H・ワトスン(John H. Watson): Mr. Philip Mansfield
(3)ルーシー・グレンドル嬢(Miss Lucy Grendle): Ms. Vanessa-Faye Stanley
(4)ベティー・ロチェスター(Betty Rochesterーメイド): Ms. Imogen Smith
(5)ピーコック警部(Inspector Peacock): Mr. Doug Cooper

シャーロック・ホームズ(中央)、ジョン・H・ワトスン(右側)と
ルーシー・グレンドル嬢(左側)

Mr. Stephen Chance は、以前、舞台で二度(「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」と「最後の事件(The Final Problem)」)、シャーロック・ホームズを演じている。また、米国の小説家であるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年ー1849年→2017年1月28日付ブログで紹介済)が原作の「モルグ街の殺人(Murders in the Rue Morgue)」の舞台劇において、ホームズの先駆者であるC・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin→2017年2月4日付ブログで紹介済)も演じている。

シャーロック・ホームズ(右側)とルーシー・グレンドル嬢(左側)

舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」は、8月18日(日)まで、

月曜日: 休み
火曜日: 午後7時30分
水曜日: 午後3時+午後7時30分
木曜日: 午後7時30分
金曜日: 午後7時30分
土曜日: 午後3時+午後7時30分
日曜日: 午後3時

という日程で上演中である。

2019年8月10日土曜日

舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの(Sherlock Holmes and The Invisible Thing)」–その1

舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」のポスター

リージェンツパーク(Regent’s Park→2016年11月19日付ブログで紹介済)に沿って、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station→2014年4月18日 / 4月21日 / 4月26日 / 4月27日 / 5月3日 / 5月10日 / 5月11日 / 5月18日付ブログで紹介済)からセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood→2014年6月17日付ブログで紹介済)へと向かって北上するパークロード(Park Road)沿いの35番地(35 Park Road, Marylebone, London NW1 6XT)に、ルドルフ・シュタイナーハウス(Rudolf Steiner House)が建っている。

パークロード越しに、反対側の歩道から見た
ルドルフ・シュタイナーハウス

ルドルフ・シュタイナーハウス内にあるルドルフ・シュタイナー劇場(Rudolf Steiner Theatre)において、2019年7月17日(水)から同年8月18日(日)までの約1ヶ月間、舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの(Sherlock Holmes and The Invisible Thing)」が上演されている。

ルドルフ・シュタイナーハウスの窓に架けられた舞台劇の場面(その1)–
シャーロック・ホームズ(左側)とジョン・H・ワトスン(右側)
ルドルフ・シュタイナーハウスの窓に架けられた舞台劇の場面(その2)–
シャーロック・ホームズ(左側)とピーコック警部(右側)

同舞台劇は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)による原作に基づいたものではなく、英国の劇作家 / 脚本家であるグレッグ・フリーマン(Greg Freeman)による飜案である。

ルドルフ・シュタイナーハウスの窓に架けられた舞台劇の場面(その3)–
シャーロック・ホームズ
ルドルフ・シュタイナーハウスの窓に架けられた舞台劇の場面(その4)–
シャーロック・ホームズ(右側)とピーコック警部(左側)

グレッグ・フリーマンは、2014年にシャーロック・ホームズの記念すべき第1作「緋色の研究(A Study in Scarlet→2016年7月30日付ブログで紹介済)」の舞台劇をサザーク劇場(The Southwark Playhouse)で上演した後、2016年に舞台劇「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」をタバード劇場(Tabard Theatre)で既に上演している。

ルドルフ・シュタイナー劇場内に設置されている
ルーシー・グレンドル嬢が住む屋敷の写真

シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、地元警察のピーコック警部(Inspector Peacock)に請われて、ある事件の捜査のため、ルーシー・グレンドル嬢(Miss Lucy Grendle)が住む屋敷へとやって来た。
同席したピーコック警部によると、屋敷に隣接する湖から男性の溺死体が上がった、とのこと。複数の証人が目撃したところでは、当該男性は、自ら湖へと身を投げた訳ではなく、目に見えない何かに数回押されて、湖へと突き落とされたように見えたそうである。
そうだとすると、単なる自殺ではなく、殺人ということになる。しかし、どのような方法によれば、他の人達から見えないまま、その男性を湖へと突き落とすことができたのだろうか?

「シャーロック・ホームズと目に見えないもの」が上演される舞台セット

不思議な謎に挑もうとするホームズとワトスンであったが、彼らが滞在するルーシー・グレンドル嬢の屋敷内で、奇妙な音が聞こえてきたり、天井から吊り下げられた燭台が風もないにもかかわらず大きく揺れたり、また、壁に架かった絵画が突然落ちたりと、怪異な現象が何度も発生する。
一方で、ルーシー・グレンドル嬢の亡くなった父親アルフレッド・グレンドル(Alfred Grendle)には、良くない噂があり、どうやら人身売買を生業にしていたことが判ってくる。

果たして、ホームズとワトスンの二人は、この謎を解明することができるのだろうか?

2019年8月4日日曜日

ロンドン ウェルロード24番地 / キャノンコテージ(24 Well Road / Cannon Cottage)–その2

ウェルロードから見たウェルロード24番地の「キャノンコテージ」

1931年に小説第1作「愛は全ての上に(The Loving Spirit)」を出版し、小説家デビューの翌年の1932年に英国陸軍少佐(Major)のサー・フレデリック・アーサー・モンタギュー・ブラウニング(Sir Frederick Arthur Montague Browning:1896年ー1965年→後に中将(Lieutenant-General)まで昇進)と結婚したディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)は、2人の娘(長女:テサ(Tessa:1933年生まれ)と次女:フラヴィア(Flavia:1937年生まれ))と1人の息子(長男:クリスチャン(Christian:1940年生まれ))を育てながら、作家として、

(1)「埋もれた青春(Jamaica Inn)」(1936年)
(2)「レベッカ(Rebecca)」(1938年)
(3)「情炎の海(Frenchman’s Creek)」(1941年)
(4)「レイチェル(My Cousin Rachel)」(1951年)
(5)「鳥(The Birds)」(1952年ー短編集)
(6)「いま見てはいけない(Don’t Look Now)」(1971年ー短編集)

等の代表作を出版して、ベストセラー作品となった。


ディム・ダフニ・デュ・モーリエが執筆した作品群

また、英国の映画監督 / 映画プロデューサー / 脚本家であるアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock:1899年ー1980年)が、

・「埋もれた青春」→「巌窟の野獣」(1939年)
・「レベッカ」(1940年)ーアカデミー作品賞を獲得
・「鳥」(1963年)

を映画化して、ダフニ・デュ・モーリエは、小説の映像化でも、成功を納めた。



ダフニ・デュ・モーリエは、子供の時に遊びに行ったコンウォール州(Cornwall)を一目で気に入って、人生の大半を主にコンウォール州のフォーイ(Fowey)で過ごし、彼女の作品の多くが、コンウォール州を物語の舞台としている。
小説や映画等で自分が有名になっていくにつれて、あまり社交的ではなかった彼女は、逆に世間を避けて、隠遁生活へと入っていった。
そして、夫のフレデリックが1965年に亡くなると、直ぐに彼女はコンウォール州のキルマース村へと転居し、そこを舞台にして、1969年、「わが幻覚の時(The House on the Strand)」を発表した。
同年、彼女は大英帝国勲章(The Order of the British Empire)のナイト・コマンダー(Dame Commander)の爵位を受けているので、以降、正式には「Lady Browning, Dame Daphne du Maurier」と呼ばれるが、彼女がこの称号を使用したことは、一度もない。



1989年4月19日、ダフニ・デュ・モーリエは、キルマース村の自宅において、81歳の生涯を終えた。そして、彼女の遺志により、遺体は火葬された後、遺灰はキルマースに撒かれた。



ダフニ・デュ・モーリエが、1932年から1934年までの間住んでいたウェルロード24番地(24 Well Road)の建物である「キャノンコテージ(Cannon Cottage)」について、2008年6月、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)は、ブループラークの認定を行わず、その対応は世間から批判された。

ダフニ・デュ・モーリエが、1932年から1934年までの間、ここに住んでいたことを記す
プラークが、ヒース&ハムステッド ソサイエティーによって設置されている

その代わりに、ヒース&ハムステッド ソサイエティー(Heath & Hampstead Society)が、2011年にウェルロード(Well Road)に面したキャノンコテージの塀に、ダフニ・デュ・モーリエがここに住んでいたことを記すプラークを設置したのである。