2015年9月27日日曜日

ロンドン アンバサダーズ劇場(Ambassadors Theatre)

アンバサダーズ劇場の全景—現在、「ストンプ」の公演がロングランを続けている

現在、63年目のロングランに入っているアガサ・クリスティー作の戯曲版「ねずみとり(The Mousetrap)」が上演されている場所としては、セントマーティンズ劇場(St. Martin's Theatre)が有名であるが、「ねずみとり」が初演されたのは、セントマーティンズ劇場ではなく、その隣に建つアンバサダーズ劇場(Ambassadors Theatre)である。

アンバサダーズ劇場とセントマーティンズ劇場の間の小道
タワーコート(Tower Court)

アンバサダーズ劇場は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区(Soho)内にあり、ウェストストリート(West Street)沿いに建っている。その収容人数は約450名で、ウェストエンド内でも規模が小さい劇場の一つである。
アンバサダーズ劇場は、隣に建つセントマーティンズ劇場と一緒に、劇場の設計者であるウィリアム・ジョージ・ロバート・スプラーグ(William George Robert Sprague:1863年ー1933年)によって建設され、1913年6月5日にオープンした。一方、セントマーティンズ劇場の場合、第一次世界大戦(1914年ー1918年)の勃発により工事が遅延して、オープンを迎えたのは、約3年半後の1916年11月23日であった。

タワーコートを間にして、アンバサダーズ劇場と
セントマーティンズ劇場は隣り合っている

1939年の映画「風と共に去りぬ(Gone with the Wind)」のケイティー・スカーレット・オハラ(Katie Scarlett O'Hara)役で有名な英国女優のヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh:1913年ー1967年)は、アンバサダーズ劇場で上演された「美徳の仮面(The Mask of Virtue)」(1935年)に出演して、ウェストエンドでのデビューを果たしている。この演技が、彼女の後の夫となるローレンス・オリヴィエ(Laurence Olivier:1907年ー1989年)の目に留まり、賞賛を受けている。
アガサ・クリスティー作の戯曲版「ねずみとり」は、アンバサダーズ劇場において、1952年11月25日に初演され、1974年11月3月23日(土)までの21年間強にわたり、公演が行われた。翌週の同年3月25日(月)からは、隣のセントマーティンズ劇場へと、「ねずみとり」はその公演の場を移したのである。公演の場が移った理由としては、「ねずみとり」がロングランを続け、アンバサダーズ劇場よりも収容人数が多いセントマーティンズ劇場が選ばれたようである。
その後、アンバサダーズ劇場において、各種の演目が行われ、現在は、本来楽器ではないものを使って行うアクロバティクなコンサート「ストンプ(Stomp)」が2007年10月4日からのロングランを続けている。

ウェストストリートを南側から見たところ—
右手前がセントマーティンズ劇場、その奥がアンバサダーズ劇場、
また、左手奥が有名なレストラン「The Ivy」

アンバサダーズ劇場は、1975年3月にイングリッシュヘリテージ(English Heritage)によって「グレードⅡ(Grade Ⅱ)」の指定を受け、建物保護の対象となっている。

2015年9月26日土曜日

ロンドン ミノリーズ通り(Minories)

ミノリーズ通り沿いには、新しい建物と古い建物が混在している

サー・アーサー・コナン・ドイル作「マザリンの宝石(The Mazarin Stone)」では、ある夏の晩7時頃、ジョン・ワトスンがベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。


給仕のビリー(Billy)によると、ホームズは現在ある事件にかかりきりだと言う。ホームズは、昨日、職探しの職人に、そして、今日は老婆に変装して出かけた、とのこと。ビリーがワトスンにこっそり教えてくれたところでは、「マザリンの宝石(Mazarin Stone)」という10万ポンドもする王冠のダイヤモンド盗難事件のためのようだ。また、窓辺には、(「空き家の冒険(The Empty House)」でも使われた)ホームズの蝋人形が置かれていた。一体何のために?
その時、寝室のドアが開いて、ホームズが姿を見せる。ホームズ曰く、「『マザリンの宝石』を盗んだのは、ネグレット・シルヴィウス伯爵(Count Negretto Sylvius)で、彼と彼の部下のサム・マートン(Sam Merton)が自分の命を付け狙っている。」と言うのであった。

ミノリーズ通り沿いに建つパブ

「そのシルヴィウス伯爵はどこに居るんだい?」
「僕は午前中ずーっと彼に張り付いて尾行していた。ワトスン、老婆の格好をしていたんだ。これ以上はない位、素晴らしい変装だったよ。実際に、彼は一度僕に日傘を拾ってくれたしね。『マダム、日傘をお忘れですよ。』と、彼は言った。彼は半分イタリア人の血を引いているから、機嫌が良い時は、イタリア南部の上品な態度を崩さないが、機嫌が悪くなると、悪魔の化身になるのさ。ワトスン、人生というのは、風変わりな出来事で満ちているね。」
「ホームズ、そうは言うが、大変なことになったかもしれないじゃないか!」
「そうだね、もしかすると、そうなったかもしれない。僕は彼をミノリーズ通りにあるストラウベンザの工房までつけて行った。ストラウベンザは空気銃を製造していた。ーかなり見事な出来栄えだった、あの出来栄えを考慮すると、今この瞬間にも、あの空気銃が向かいの窓にあっても、おかしくないな。君は人形をもう見たかい?もちろん、ビリーが君にそれを見せたんだな。そうさ、いつ何時、あの空気銃の弾丸があの見事な人形の頭を貫くかもしれない。」

ミノリーズ通りから南方面を望む

'Where is this Count Sylvius?'
'I've been at his very elbow all the morning. You've seen me as an old lady, Watson. I was never more convincing. He actually picked up my parasol for me once. "By your leave, madame," said he - half-Italian, you know, and with the Southern graces of manner when in the mode, but a devil incarnate in the other mood. Life is full of whimsical happenings, Watson.'
'It might have been tragedy.'
'Well, perhaps it might. I followed him to old Straubenzee's workshop in the Minories. Straubenzee made the air-gun - a very pretty bit of work, as I understand, and I rather fancy it is in the opposite window at the present. Have you seen the dummy? Of course, Billy showed it to you. Well, it may get a bullet through its beautiful head at any moment!'

ミノリーズ通りから北方面を見たところ

シルヴィウス伯爵のために、空気銃を製造したストラウベンザ(Straubenzee)の工房があったミノリーズ通り(Minories)は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内の東端に位置しており、地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Station)と地下鉄タワーヒル駅(Tower Hill Tube Station)を南北に結ぶ通りである。ミノリーズ通りを越えて、更に東へ進むと、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」事件でも有名なホワイトチャペル地区(Whitechapelーロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)に属する)へと入る。

ミノリーズ通りの裏側に新築のビルが聳え建っている

マイノリーズ通りの名前は、13世紀末にこの地に建てられた修道院で神に仕える修道女を意味する「minoress」から採られたと言われている。
その後、この辺りはセントボトルフ(St. Botolph)教区として発展したが、1895年にホワイトチャペル教区に統合される。

ガーキン等の近代的なビルがシティー方面には建ち並んでいる—
その手前では、建設用クレーンが稼働中

ミノリーズ通りを含めたシティーとホワイトチャペル地区の境界辺りは、以前から未開発地域として残されており、治安上の懸念もあったが、シティー内に流入する外国企業等が大幅に増加したことに伴い、シティー内で供給可能なオフィスビルが不足するようになった。そのため、近年、この辺り、特にシティー内に属するエリアの開発が積極的に行われて、新しいオフィスビルが数多く建設されている。

2015年9月20日日曜日

ロンドン アガサ・クリスティーが住んだ家々

ロンドンにおいて、アガサ・クリスティーは生涯で9件の場所に移り住んだ。今までに全ての場所を1件毎に紹介してきたが、今回1つにまとめてみたい。

(1)ノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace):1918年-1919年


ロンドン北西部のセントジョンズウッド地区(St. John's Wood)とリッソングローヴ地区(Lisson Grove)の中間辺り、セントジョンズウッドロード(St. John's Wood Road)とエッジウェアロード(Edgware Road)が交差した角の近くにある。
第一次世界大戦(1914年ー1918年)のため、フランスの前線に赴いていた夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)が、戦争終結に伴い、英国に帰国し、空軍省に転属になった。それまで故郷のトーキー(Torquay)で母親と一緒に暮らしていたアガサ・クリスティーは、実家を離れて、ここに新居を構えたのである。

(2)アディソンマンションズ(Addison Mansions):1919年ー1922年


ロンドン西部ケンジントン地区(Kensington)内、ケンジントン(オリンピア)駅(Kensington Olympia Station)の近くにあるオリンピア展示場(Olympia Exhibition Centre)の裏手にあったが、今は現存していない。
1919年にトーキーの実家アッシュフィールド(Ashfield)で一人娘ロザリンド(Rosalind)を出産した後、アガサ・クリスティー一家はこのマンションの25号室に引っ越した。その後、違う棟の96号室へ移り住んでいる。

(3)クレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place):1929年ー1976年



ロンドン南西部サウスケンジントン地区(South Kensington)内で、地下鉄サウスケンジントン駅(South Kensington Tube Station)と地下鉄グロースターロード駅(Gloucester Road Tube Station)の近くにある。
夫アーチボルドの不貞行為(浮気)、そして、彼女自身の記憶喪失による失踪事件等を経て、1928年4月にアーチボルドとの離婚が成立したアガサ・クリスティーは、一人娘ロザリンドと友人で秘書のカーロ・フィッシャーと一緒に暮らすため、この家を購入した。

(4)キャンプデンストリート47/48番地(47-48 Campden Street):1930年ー1934年


ロンドン西部ケンジントン地区内で、北側の地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Tube Station)、東側のケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)、南側の地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)、そして、西側のホーランドパーク(Holland Park)に囲まれた一帯内にあり、閑静な高級住宅地の一つである。
1928年に夫アーチボルドと離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚した。2番目の夫マックスは大英博物館(British Museum)で考古学の研究を行っていたため、通勤の利便性を考慮し、この物件を購入したようである。

(5)シェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace):1934年ー1941年


シェフィールドテラス58番地は、1930年に購入したキャンプデンストリート47/48番地の2本南の通りにある建物である。
マックス・マローワンと再婚したアガサ・クリスティーは、キャンプデンストリート47/48番地の物件には100%満足できなかったため、彼女の好みに合致するシェフィールドテラス58番地の物件が不動産市場に出たので、この物件を購入の上、移り住んだ。しかし、マックス・マローワンが発掘調査のため海外へ出かけることが多かったため、シェフィールドテラス58番地の物件は賃貸して、アガサ・クリスティーはデヴォン州(Devon)にあるグリーンウェイハウス(Greenway House)の家で暮らすことになった。

(6)ハーフムーンストリート(Half Moon Street):1939年


1939年に第二次世界大戦が勃発して、グリーンウェイハウスが米国海軍省によって接収され、米国軍の宿舎として使用されることになったため、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンはデヴォン州からロンドンへ出て来た。生憎と、シェフィールドテラス58番地には、借家人がまだ入っていたので、彼らは借家を転々とする破目になった。
一つ目は、ロンドン中心部の高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるハーフムーンストリートで、貴族、外科医、内科医や弁護士等が多く住む通りであったが、彼らが入居したフラットの状況はあまりにもひどく、1週間で転居した。

(7)パークプレイス(Park Place):1939年


彼らが移った二つ目の借家は、ロンドン中心部のセントジェイムズ地区(St. James'sーメイフェア地区の南側にあり)内にあるパークプレイスで、リッツ(The Ritz)ホテルの裏手に位置している。
彼らがこの通りに滞在していたのは短期間で、シェフィールドテラス58番地の借家人が立ち退いたため、二人ははれて閑静なケンジントン地区に戻ることができたのである。

(8)ローンロード3番地 ローンロードフラッツ(3 Lawn Road / Lawn Road Flats):1941年ー1946年


彼らはやっとのことでシェフィールドテラス58番地の家に戻ることができたが、ドイツ軍によるロンドン爆撃が続き、1940年10月にアガサ・クリスティーの家も被弾し、地下室、3階と屋根に大きな被害を蒙ってしまった。幸いにして、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの二人は、その時在宅していなかったため、命拾いをした。
ドイツ軍によるロンドン爆撃が更に激しくなる中、戦火を避けるべく、二人はエジプト学者スティーヴン・グランヴィルの勧めに従い、彼が住むロンドン北部ハムステッド(Hampstead)にあるローンロードフラッツ(イソコンビルディング - Isokon Building)の17号室に移り住んだ。

(9)スワンコート(Swan Court):1948年ー1976年


1945年2月に英軍海軍省による接収が終わり、グリーンハウスは返還されたが、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの二人は、ロンドンではクレスウェルプレイス22番地の家をベースにして暮らしていた。そして、1948年にロンドン中心部の高級地区チェルシー(Chelsea)にあるスワンコートの一室を購入した。

その後、クレスウェルプレイス22番地の家を賃貸して、ロンドンでの生活の場をスワンコートに移して、1976年に亡くなるまで、アガサ・クリスティーはスワンコートの一室とクレスウェルプレイス22番地の家を所有し続けたのである。

2015年9月19日土曜日

ロンドン 北西区ムーアサイドガーデンズ136番地

画面中央のアベニューロード(Avenue Road)を間にして、
左側がロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に、
右側がロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属している

サー・アーサー・コナン・ドイル作「マザリンの宝石(The Mazarin Stone)」では、ある夏の晩7時頃、ジョン・ワトスンがベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。



給仕のビリー(Billy)によると、ホームズは現在ある事件にかかりきりだと言う。ホームズは、昨日、職探しの職人に、そして、今日は老婆に変装して出かけた、とのこと。ビリーがワトスンにこっそり教えてくれたところでは、「マザリンの宝石(Mazarin Stone)」という10万ポンドもする王冠のダイヤモンド盗難事件のためのようだ。また、窓辺には、(「空き家の冒険(The Empty House)」でも使われた)ホームズの蝋人形が置かれていた。一体何のために?その時、寝室のドアが開いて、ホームズが姿を見せたのであった。ホームズ曰く、「自分には危険が迫っている。」と言う。



「ホームズ、しかし、その危険とは一体何なんだ?」
「ああ、そうだ。もし本当にそうなった場合に備えて、手数をかけるが、君に殺人犯の名前と住所を覚えておいてもらいたい。本当にそうなった時には、僕の愛と別れの挨拶を添えて、スコットランドヤードに教えてほしい。名前はシルヴィウス ー ネグレット・シルヴィウス伯爵だ。書き留めてくれ。書き留めるんだ。住所は、北西区ムーアサイドガーデンズ136番地。書き留めたかい?」
思ったことがすぐに表に出るワトスンの顔が心配で引きつっていた。彼はホームズが直面する計り知れない危険について知り過ぎていた。また、ホームズが言う危険について、大げさと言うよりも、控えめな表現であることが多いこともよく判っていた。ワトスンは常に行動の人だったので、彼は咄嗟に反応した。
「ホームズ、私も仲間に入れてくれ。ここ一日二日することがないんだ。」
「ワトスン、君はあいかわらず素行が良くないな。他の悪行に嘘が加わったぞ。君が忙しい医者であることは、君の体全体が発している。毎時間、往診患者を抱えている。」
「大して重要なものはないよ。」



'But this danger, Holmes?'
'Ah, yes; in case it should come off, it would perhaps be well that you should burden your memory with the name and address of the murderer. You can give it to Scotland Yard, with my love and a parting blessing. Sylvius is the name - Count Negretto Sylvius. Write it down, man, write it down! 136 Moorside Gardens, NW. Got it?'
Watson's honest face was twitching with anxiety. He knew only too well the immerse risks taken by Holmes, and was well aware that what he said was more likely to be understatement than exaggeration. Watson was always the man of action, and he rose to the occasion.
'Count me in, Holmes. I have nothing to do for a day or two.'
'Your morals don't improve, Watson. You have added fibbing to your other vices. You bear every sign of the busy medical man, with calls on him every hour,'
'Not such important ones.'



ネグレット・シルヴィウス伯爵が住んでいる場所として、ホームズがワトスンに話した「北西区ムーアサイドガーデンズ136番地」は、残念ながら、実在の場所ではなく、架空の住所である。
シルヴィウス伯爵が住んでいるということ、そして、ロンドン北西区内にあるということから考えると、北西8区(NW8)のセントジョンズウッド地区(St. John's Wood)、あるいは、北西4区(NW4)のハムステッド地区(Hampstead)といった高級住宅街に、ムーアサイドガーデンズ136番地はあったのではないかと思われる。

なお、写真は、セントジョンズウッド地区内で撮影したものを添付している。

2015年9月13日日曜日

ロンドン 大英博物館 / ラムセス2世像(British Museum / Statue of Ramesses Ⅱ)


アガサ・クリスティー作「エジプト墳墓の謎(The Adventure of the Egyptian Tomb)」(→「ポワロ登場(Poirot investigates)」(1925年)に収録)では、考古学者サー・ジョン・ウィラード(Sir John Willard)の未亡人であるレディー・ウィラード(Lady Willard)からエルキュール・ポワロは事件の相談を受ける。


レディー・ウィラードによると、亡き夫えあるウィラード卿は、エジプトでファラオ(王)のメン・ハー・ラ(Men-her-ra)の墳墓を発掘調査中、王の墳墓を掘り起こした直後に、心臓麻痺で死亡したと言う。また、発掘隊の一員だったアメリカ人富豪のブライブナー氏(Mr Bleibner)も、敗血症(blood poisoning)が原因で、ウィラード卿の後を追うことになる。更に、その数日後、ブライブナー氏の甥であるルパート・ブライブナー(Rupert Bleibner)が、ニューヨークにおいてピストル自殺を遂げる。ルパートは、伯父のブライブナー氏に金の無心をするために、エジプトの墳墓を訪れたばかりであった。これらの連続する3件の死は、墳墓を暴かれたメン・ハー・ラの呪いによるものではないかという噂が一気に広まる。


レディー・ウィラードの息子であるガイ・ウィラード(Guy Willard)が、父親ウィラード卿の跡を継いで、エジプトへ向かい、発掘現場の指揮を執ることになった。彼女としても、3件の死が相次いだため、単なる偶然で済ますことができず、不幸が次に自分の息子に降りかかるのではないかと心配し、ポワロに助けを求めてきたのである。そこで、ポワロはヘイスティングス大尉を連れて、事件の捜査のため、早速エジプトへと向かうのであった。


英国のTV会社ITV1が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「エジプト墳墓の謎」(1993年)の回において、息子のガイ・ウィラードをメン・ハー・ラの呪いから守ってほしいというレディー・ウィラードの依頼を受けて、ポワロはヘイスティングス大尉と一緒にエジプトへ行く準備を始める。エジプトへと赴く前に、ポワロは大英博物館を訪れる。そして、大英博物館の展示室で、ポワロはラムセス2世の胸像の前に立ち、黙って胸像を見つめるのであった。

ラムセス2世の胸像が出土された
ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)

「ラムセス2世の胸像 ”若きメムノン”(Colossal bust of Ramesses Ⅱ the 'Younger Memnon')」と呼ばれる巨像は、大英博物館内にあるエジプトコレクションの展示室ルーム4の中でも、最も目を引く像である。
ラムセス2世は古代エジプト第19王朝のファラオで、当時ファラオであった父セティ1世(Seti Ⅰ)の次男として出生して、父の跡を継いで即位し、紀元前1279年から紀元前1213年までの約67年間(年代については諸説あり)にわたって、エジプトを統治した。彼の治世中、エジプトはリビア、ヌビアやパレスチナ等へその勢力を拡大し、繁栄を享受した。一方、彼はアブ・シンベル神殿やラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)(Mortuary Temple of Ramesses Ⅱ- Ramesseum)の建設、また、カルナック神殿やルクソール神殿等の増築も手がけ、記念碑を含む多くの建造物を残している。

ナポレオン1世のエジプト遠征軍が掘り出そうとした際に
つけられたと思われる穴が胸像の右胸のところに見える

ラムセス2世の胸像は、7トンを超える重さの花崗岩で、紀元前1250年頃のものと考えられている。
胸像は、英国人女性と結婚したイタリア人ジョヴァンニ・バティスタ・ベルツォーニ(Giovanni Battista Belzoni:1778年ー1823年)によって、1816年にテーベ(Thebes)のナイル河西岸にあるラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)で出土され、1818年に英国へ運ばれてきた。ベルツォーニによると、この胸像を運び出すのは、技術的にも、そして、政治的にも困難を極めた、とのこと。

また、胸像の右胸のところにある穴は、ナポレオン・ボナパルト / ナポレオン1世(Napoleon Bonaparte / Napoleon Ⅰ:1769年ー1821年)によるエジプト遠征(1798年ー1801年)時、遠征軍によって胸像を掘り出そうとした際(この時は、不成功に終わった)につけられたと言われている。

2015年9月12日土曜日

ロンドン カーゾンストリート(Curzon Street)

カーゾンストリートの中間辺りから西側を望む—
右側の通りはクイーンストリート(Queen Street)

発表時期で言うと、一番最後のシャーロック・ホームズ物語となるサー・アーサー・コナン・ドイル作「ショスコム オールドプレイス(Shoscombe Old Place)」の冒頭、シャーロック・ホームズは、ジョン・ワトスンにサー・ロバート・ノーバートン(Sir Rober Norberton)のことを尋ねる。


彼(ホームズ)は、イライラしながら、自分の時計に目をやった。「新しい依頼者が来ることになっているんだが、遅れているようだな。ところで、ワトスン、君は競馬のことには明るいかい?」
「当たり前さ。何故なら、傷痍年金の半分位を競馬につぎ込んでいるからね。」
「それでは、君に僕の『競馬案内』になってもらおう。サー・ロバート・ノーバートンとは、何者なんだい?この名前を聞いて、何か思い当たることはあるかい?」
「ああ、知っているよ。彼はショスコムオールドプレイスに住んでいる。僕は、夏の間、そこで一度過ごしたこおtがあるから、その土地のことはよく知っているんだ。ノーバートンは、一度あやうく君の担当領域に足を踏み入れかけたのさ。」
「どんな風にだい?」
「彼はニューマーケットヒースでサム・ブルーワーを馬の鞭でしたたかに打ち据えたんだ。サム・ブルーワーは、有名なカーゾンストリートの金貸しだ。彼はもう少しでサム・ブルーワーを殺すところだったよ。」
「成る程、面白そうな男だな!」

カーゾンストリート沿いに置かれた植栽
カーゾンストリート沿いに建つサウジアラビア大使館の裏側

He looked impatiently at his watch. 'I had a new client calling, but he is overdue. By the way, Watson, you know something of racing?'
'I ought to. I pay for it with about half my wound pension.'
'Then I'll make you my Handy Guide to the Turf. What about Sir Robert Norberton? Does the name recall anything?'
'Well, I should say so. He lives at Shoscombe Old Place, and I know it well, for my summer quarters were down there once. Norberton near came within your province once.'
'How was that ?'
'It was when he horsewhipped Sam Brewer, the well-known Curzon Street moneylender, on Newmarket Heath. He nearly killed the man.'
'Ah, he sounds interesting!'

ハーフムーンストリート(Half Moon Street)が
カーゾンストリートに交差したところから西側を望む
ハーフムーンストリートから見た
カーゾンストリート沿いに建つ
Third Church of Christ Scientist

サー・ロバート・ノーバートンに馬の鞭で打ち据えられた金貸しサム・ブルーワー(Sam Brewer)の店があったカーゾンストリート(Curzon Street)は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア(Mayfair)内に位置している。カーゾンストリートは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通りハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)の北側に並行して走っており、東側はバークリースクエア(Berkeley Squareー「高名な依頼人(The Illustrious Client)」で紹介済)から始まり、西側はパークレーン(Park Laneー「空き家の冒険(The Empty House)」で紹介済)で終わる通りである。

ハーフムーンストリートが
カーゾンストリートに交差したところから東側を望む
ボルトンストリート(Bolton Street)が
カーゾンストリートに交差したところから東側を望む

カーゾンストリートは、当初、メイフェアロウ(Mayfair Row)と呼ばれ、貴族階級が多く住んでいた。第3代ハウ子爵(3rd Viscount Howe)で、のちの第2代ハウ伯爵ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイス・カーゾン・ハウ(George Augustus Frederick Louis Curzon-Howe, 2nd Earl Howe:1821年ー1876年)の名前を採って、のちにカーゾンストリートと名付けられたと言われている。

カーゾンストリートとハートフォードストリート(Hertford Street)が交差した角に建つ
カーゾンメイフェア映画館(Curzon Mayfair Cinema)

現在は、立地上、ホテル、クラブや高級フラット等の他、映画館、レストランや製本屋等が建ち並んでいるが、他の通りにあるようなチェーン店舗はほとんどなく、高級地区内にあるため、非常に落ち着いた通りである。

カーゾンストリート沿いの建物に入居している製本屋「シェファーズ(Shepherds)」
製本屋の窓には、通りの反対側に建つ
建物が映り込んでいる

なお、金貸しサム・ブルーワーの店があった場所については、コナン・ドイルの原作上、明確になっていない。

また、アガサ・クリスティー作「青列車の秘密(The Mystery of the Blue Train)」において、青列車内で殺害される米国富豪の娘ルース・ケタリング(Ruth Kettering)と容疑者として疑われる別居中の夫デレック・ケタリング(Derek Kettering)も、カーゾンストリートに住んでいるという設定になっている。