2016年9月25日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手1「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」


今年は、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Dame Agatha Mary Clarissa Christie:1890年9月15日ー1976年1月12日)の没後40周年に該るため、彼女の誕生日である9月15日に合わせて、記念切手が発行されたので、今週から6週にわたって、記念切手6種類を紹介したいと思う。

(1)「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」(1934年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第14作目、また、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては第8作目に該る。

中東のシリア(Syria)での仕事を終えて、イスタンブール(Istanbul)のホテル(The Tokatlian Hotel)に到着したエルキュール・ポワロは、そこで「直ぐにロンドンへ戻られたし。」という電報を受け取る。早速、ポワロはホテルにイスタンブール発カレー(Calais)行きのオリエント急行(Orient Express)の手配を依頼するが、通常、冬場(12月)は比較的空いている筈にもかかわらず、季節外れの満席だった。

とりあえず、駅へ向かったポワロであったが、ベルギー時代からの友人で、ホテルで再会した国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons Lits)の重役ブック氏(Mr. Bouc)が、ポワロのために、二等寝台席を確保してくれる。なお、ブック氏は、仕事の関係で、スイスのローザンヌ(Lausanne)へと向かう予定だった。

なんとかヨーロッパへの帰途についたポワロは、米国人のヘクター・ウィラード・マックイーン(Hector Willard MacQueen)と同室になる。


季節外れにもかかわらず、オリエント急行には、様々な国と職業の人達が乗り合わせていた。

その中の一人で、イスタンブールのホテルで既に見かけていた米国人の実業家であるサミュエル・エドワード・ラチェット(Samuel Edward Ratchett)が、ポワロに対して、話しかけてくる。彼は、最近脅迫状を数回受け取っていたため、身の危険を感じており、ポワロに自分の護衛を依頼してきたのであった。彼の狡猾な態度を不快に思ったポワロは、彼の依頼を即座に断る。


翌日の夜、ベオグラード(Belgrade - 現在のセルビア共和国の首都)において、アテネ(Athens)発パリ(Paris)行きの車輌が接続され、ブック氏はその車輛へと移り、自分の一等寝台席(1号室)をポワロに譲ったため、ポワロはカレーまでゆっくりと一人で過ごせる筈だった。ところが、ポワロの希望とは裏腹に、列車は、ヴィンコヴツィ(Vinkovciー現在のクロアチア(Croatia)共和国領内)近くで積雪による吹き溜まりに突っ込んで、立ち往生しつつあった。


その夜、隣室(2号室)のラチェットの部屋での出来事や廊下での騒ぎ等により、ポワロは、何度も安眠を邪魔された。そして、翌朝、車掌が、ポワロの隣室において、ラチェットが死んでいるのを発見する。彼は、刃物で全身を12箇所もメッタ刺しの上、殺害されていたのである。

ブック氏は、会社の代表者として、ポワロに対し、事件の解明を要請し、それを受諾したポワロは、別の車輛に乗っていたギリシア人の医師コンスタンティン博士(Dr. Constantine)と一緒に、ラチェットの検死を行う。ラチェットが殺害された現場には、燃やされた手紙が残っていて、ポワロは、その手紙からデイジー・アームストロング(Daisy Armstrong)という言葉を解読した。サミュエル・エドワード・ラチェットという名前は偽名であり、彼は、5年前に、米国において、幼いデイジー・アームストロングを誘拐して殺害した犯人カセッティ(Cassetti)で、身代金を持って海外へ逃亡していたのである。


ラチェットの正体を知ったポワロは、ブック氏/コンスタンティン博士と一緒に、列車の乗客の事情聴取を開始する。積雪のため、立ち往生した列車の周囲には足跡がなく、外部の人間が犯人とは思えなかった。列車には、


*1号室(一等寝台席):エルキュール・ポワロ

*2号室(一等寝台席):サミュエル・エドワード・ラチェット

*3号室(一等寝台席):キャロライン・マーサ・ハバード夫人(Mrs. Caroline Martha Hubbard)- 陽気でおしゃべりな中年女性(米国人)

*4号室(二等寝台席):エドワード・ヘンリー・マスターマン(Edward Henry Masterman)- ラチェットの執事(英国人)

*5号室(二等寝台席):アントニオ・フォスカレリ(Antonio Foscarelli)- 自動車のセールスマン(米国に帰化したイタリア人)

*6号室(二等寝台席):ヘクター・ウィラード・マックイーン - ラチェットの秘書(米国人)

*7号室(二等寝台席):空室(当初、ポワロが使用していた)

*8号室(二等寝台席):ヒルデガード・シュミット(Hildegarde Schmidt)- ドラゴミロフ公爵夫人に仕える女中(ドイツ人)

*9号室(二等寝台席):空室

*10号室(二等寝台席):グレタ・オルソン(Greta Ohisson)- 信仰心の強い中年女性(スウェーデン人)

*11号室(二等寝台席):メアリー・ハーマイオニー・デベナム(Mary Hermione Debenham)- 家庭教師(英国人)

*12号室(一等寝台席):エレナ・マリア・アンドレニ伯爵夫人(Countess Elena Maria Andrenyi / 旧姓:エレナ・マリア・ゴールデンベルク(Elena Maria Goldenberg))- ルドルフ・アンドレニ伯爵の妻(ハンガリー人)

*13号室(一等寝台席):ルドルフ・アンドレニ伯爵(Count Rudolf Andrenyi)- 外交官(ハンガリー人)

*14号室(一等寝台席):ナタリア・ドラゴミロフ公爵夫人(Princess Natalia Dragomiroff)- 亡命貴族の老婦人(フランスに帰化したロシア人)

*15号室(一等寝台席):アーバスノット大佐(Colonel Arbuthnot)- 軍人(英国人)

*16号室(一等寝台席):サイラス・ベスマン・ハードマン(Cyrus Bethman Hardman)- セールスマンと言っているが、実はラチェットの身辺を護衛する私立探偵(米国人)


ポワロと被害者のラチェット以外に、12名の乗客とオリエント急行の車掌で、フランス人のピエール・ポール・ミシェル(Pierre Paul Michel)が乗っていた。

果たして、ラチェットを惨殺した犯人は、誰なのか?ところが、何故か、乗客達のアリバイは、互いに補完されていて、容疑者と思われる者は、誰も居なかった。

捜査に難航するポワロであったが、最後には驚くべき真相を明らかにするのであった。


本作品において、犯行動機の重要なファクターとなるデイジー・アームストロング誘拐殺人事件については、初の大西洋単独無着陸飛行(1927年5月20日ー同年5月21日)を成功したことで有名な米国人飛行家チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh:1902年ー1974年)の長男チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ・ジュニア(当時1歳8ヶ月)が、1932年3月1日にニュージャージー州(New Jersey)の自宅から誘拐され、約2ヶ月後に邸宅付近で死亡しているのが発見されるという実際の事件があり、アガサ・クリスティーは、この事件から着想を得たものとされている。


今回、アガサ・クリスティーの没後40周年の記念切手として採用されたのは、ラチェットが殺害された深夜、オリエント急行列車の廊下を外側から見た場面である。画面左手には、車掌のミシェルが立っており、画面中央には、ポワロの部屋を突然ノックして、彼の安眠を妨害し、立ち去って行く赤い着物を羽織った女性が描かれている。そして、積雪による吹き溜まりの中に立ち往生したオリエント急行の煙突から立ち上った煙は、帽子をかぶったポワロの形となって、ラチェットの殺害現場を見ているのである。更に、画面の一番下には、ラチェットを殺害したと思われる容疑者13名(12名の乗客と車掌)の名前が列挙されている。

2016年9月24日土曜日

ロンドン ホルボーン(Holborn)

ホルボーン通り(Holborn)沿いに建つホルボーンバーズ(Holborn Bars)―
1879年から1901年にかけて建設され、
Prudential Assurance の本社が入居していた

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。


1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍することになる。アフガニスタンの戦場マイワンド(Maiwand)において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負ってしまう。献身的で勇気ある看護兵マレー(Murray)に助けられ、ワトスンは英国の防衛ラインまで無事運ばれたが、ペシャワル(Peshawar)の兵舎病院での入院中、彼は更に腸チフスに罹患し、死線を彷徨う。そのため、彼は軍隊輸送船オロンテス号(Orontes)で戦地を離れ、英国へ送還されるのであった。

地下鉄チャンセリーレーン駅(Chancery Lane Tube Station)から出た辺りの
ホルボーン通り(その1)
地下鉄チャンセリーレーン駅(Chancery Lane Tube Station)から出た辺りの
ホルボーン通り(その2)

英国に戻ったワトスンは、健康を回復するための9ヶ月間の休暇が認められ、ストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)のホテルに滞在する。彼には英国内に親類縁者がなく、限られた恩給を遥かに超える浪費をしながら、無意味な生活を送っていた。財政状態が非常に逼迫してきた彼は、さすがに生活態度を変える必要性を感じていた。

ホルボーン通り沿いにあるパブ
ホルボーン通りの東側から西方面を見たところ

この結論に至った正にその日、私はクライテリオンバーに居た。その時、誰かが私の肩を叩くので、振り返ると、そこにはセントバーソロミュー病院で私の外科助手をしていた若きスタンフォードが立っていたのである。ロンドンという名の広大な荒野において懐かしい顔に出会うのは、孤独な人間にとって本当に嬉しいことだった。セントバーソロミュー病院に在籍していた頃、スタンフォード青年は私にとって親友だったという訳ではないが、その時は本当に喜んで、彼を歓迎したし、彼の方も私に会えて嬉しそうだった。スタンフォード青年に再会できて非常に嬉しかったので、私は彼をホルボーンでの昼食に誘い、辻馬車に同乗して、ホルボーンへと向かった。
「ワトスン、今まで一体どうしてたんだい?」馬車が混雑したロンドンの通りをガタガタと通り過ぎている時、彼は驚きも隠さずに尋ねた。「とても痩せこけているし、皮膚も浅黒くなっているじゃないか!」
私は彼に自分の体験談を簡単に説明したが、馬車が目的地に着いた時、話はまだ終わっていなかった。
「ひどい目に会ったな!」彼は私の不幸な体験談を全て聞き終わると、気の毒そうに言った。「今はどうしているんだい?」
「実を言うと、住む場所を探しているんだ。」と私は答えた。「そこそこの家賃で快適な部屋を見つけるという難題に取り組んでいるところさ。」
「不思議だな!」と彼は言った。「僕に部屋探しの話をしたのは、今日君で二人目だ。」

ホルボーンサーカス(Holborn Circus)の南西の角に建つビルに
セインズベリーズの本社が入居している
セインズベリーズの本社が入居しているビルのG階裏側では、
同社の小売店が営業している

On the very day that I had come to this conclusion, I was standing at the Criterion Bar when someone tapped me on the shoulder and, turning around, I recognised young Stamford, who had been a dresser under me at Barts. The sight of a friendly face in the great wilderness of London is a pleasant thing indeed to a lonely man. In old days Stamford had never been a particular crony of mine, but now I hailed him with enthusiasm, and he, in his turn, appeared to be delighted to see me. In the exuberance of my joy, I asked him to lunch with me at the Holborn, and we started off together in a hansom.
'Whatever have you been doing with yourself, Watson?' he asked in undisguised wonder, as we rattled through the crowded London streets, 'You are as thin as a lath and as brown as a nut.'
I gave him a short sketch of my adventures, and had hardly concluded it by the time that we reached our destination.
'Poor devil!' he said commiseratingly, after he had listened to my misfortunes. 'What are you up to now?'
'Looking for lodgings,' I answered. ' Trying to solve the problem as to whether it is possible to get comfortable rooms at a reasonable price.'
'That's a strange thing,' remarked my companion. 'You are the second man today that has used that expression to me.'

ホルボーンサーカス内に建つアルバート公(Albert, Prince Consort)のブロンズ像―
アルバート公は、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年―1901年
在位期間:1837年ー1901年)の夫君である
手前にはアルバート公のブロンズ像が建ち、
奥にはセインズベリーズの本社が入居するビルが聳え、
英国の新旧がうまい具合に同居している

クライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)で再会した後、ワトスンがスタンフォード青年を昼食に誘った場所ホルボーン地区(Holborn)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の北側に位置するロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある。
「ホルボーン」の名前は、古製英語で(1)「窪地/盆地(hollow)」を意味する「hol」と(2)「小川(brook)」を意味する「bourne」が合わさったものに由来すると言われている。実際、ホルボーン地区辺りには、昔フリート川(River Fleet)が流れていたことに起因してる。一方で、フリート川に流れ込んでいた古い川を意味する「Old Bourne」に由来するという説もある。
ホルボーン地区は、「Holborn District」(1855年)→「Metropolitan Borough of Holborn」(1900年)→「London Borough of Camden」(1965年)という変遷を辿っている。

ホルボーンサーカスの南東の角に建つ
St. Andrew Holborn 教会
St. Andrew Holborn 教会の入口アップ

ホルボーン地区の真ん中を、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)とシティー(City)を結ぶハイホルボーン通り(High Holborn)/ホルボーン通り(Holborn)が東西に貫いている。
19世紀頃には、ハイホルボーン通り/ホルボーン通りには宿屋や居酒屋(パブ)等が多く建ち並んでいたが、現在はオフィスビルやホテル等が増えてきている。スーパーマーケットのセインズベリーズ(Sainsbury's)の本社が入居しているビルも、上記の中に含まれる。近年、シティー内に流入する企業が増加しており、シティー内におけるオフィス供給に限界があるため、シティーに隣接するホルボーン地区内での不動産開発(特にオフィスビル)が進んでいる。オフィスビルやホテル等が建ち並ぶに従って、レストランや小売業のチェーン店等も通り沿いに集まってきている。

2016年9月18日日曜日

ロンドン ロシア正教会/エニスモアガーデンズ(Russian Orthodox Cathedral / Ennismore Gardens)

ロシア正教会の外観全景―現在、右側に建つ鐘楼の外観を補修中

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。


暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際、姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。

教会の入口右側にある英語の表示

教会の入口左側にあるロシア語の表示

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、アメリア・バロウビーをストリキニーネで毒殺したと疑われ、姿を消してしまったコンパニオンのロシア人カトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)の居所を突き止めたポワロは彼女に対して、警察への出頭を勧める。この場面は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベイズウォーター地区(Bayswater)内にあるモスクワロード(Moscow Road)沿いに建つ聖ソフィア大聖堂(St. Sophia Cathedral)の内部で撮影されている。その後、教会の外でポワロが彼女をスコットランドヤードのジャップ主任警部に引き渡す場面では、聖ソフィア大聖堂ではなく、ロシア正教会(Russian Orthodox Cathedral)の外観が使用されている。

ロシア正教会の建物外観

ロシア正教会は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内に所在しており、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)へ向かってハイドパーク(Hyde Park)の南側を東西に延びるナイツブリッジ通り(Knightsbridge)から少し南下したところにあるエニスモアガーデンズ(Ennismore Gardens)に面して建っている。

教会の入口(その1)

教会の入口(その2)

ITV1 で放映されたポワロシリーズでは、カトリーナが身を寄せていたのは「ロシア正教会」という設定であり、内部の撮影に使われた聖ソフィア大聖堂は「ギリシア正教会」の建物であるが、外観の撮影に使用されたのは、設定通り、ロシア正教会となっている。にもかかわらず、ポワロがカトリーナを連れて、教会の建物から出て来る場面では、教会の入口辺りしか写っていない。

教会の内部天井

教会内に架けられている聖母マリアとキリストのモザイク画

当教会は、元々、「Anglican Church of All Saints」として、英国の建築家であるルイス・ヴァリアミー(Lewis Vulliamy:1791年ー1871年)によって設計され、1848年から1849年にかけて建設された。また、ルイス・ヴァリアミーの設計図をベースにして、同じく英国の建築家ロバート・ルイス・ルミュー(Robert Lewis Roumieu:1814年ー1877年)が1860年に鐘楼を建設した。鐘楼の高さは約40m。

教会の建物を入口から見上げたところ

当教会は、ロシア正教会としても使用され、1978年にロシア正教会側に正式に購入され、現在の正式名は「Cathedral of the Dormition of the Mother of God and All Saints」である。
当教会の建物は、現在、「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。

2016年9月17日土曜日

ポーツマス(Portsmouth)

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口への向かう地下道に描かれている
「トラファルガーの海戦」のタイル画

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

トラファルガーの海戦前に作戦を練るネルソン提督

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍することになる。アフガニスタンの戦場マイワンド(Maiwand)において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負う。献身的で勇気ある看護兵マレー(Murray)に助けられ、ワトスンは英国の防衛ラインまで無事運ばれるのであった。

トラファルガーの海戦における英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とネルソン提督―
地下鉄チャリングクロス駅のベーカールーラインのプラットフォームの壁に描かれている

負傷した肩の痛みと長い間の苦役によって身体が衰弱していたため、私は戦線を離れて、多くの負傷兵と共に、ペシャワルの兵舎病院へ送られた。そこで、私は体力を回復して、入院病棟周辺を歩いたり、ベランダでちょっと日光浴ができる程に良くなっていたが、我が英国インド領の呪いとも言うべき腸チフスに襲われたのである。何ヶ月もの間、私の命は絶望視されていた。やっとのことで、私の意識が戻り、回復期に入った時、私が非常に衰弱し、異常な程痩せ衰えていることを理由に、医事委員会は即刻私を英国へ送還する決定を下した。従って、私は軍隊輸送船オロンテス号で戦地を離れ、1ヶ月後にはポーツマス桟橋に上陸した。その際、私の健康は取り返しがつかない程害されていたが、寛大な政府によって、健康を回復するために9ヶ月間の休暇が認められた。

トラファルガーの海戦中、敵艦隊からの狙撃を受け、
戦死するネルソン提督

Worn with pain, and weak from the prolonged hardships which I had undergone, I was removed, with a great train of wounded sufferers, to the base hospital at Peshawar. Here I rallied, and had already improved so far as to be able to walk about the wards, and even to bask a little upon the verandah, when I was struck down by enteric fever, that curse of our Indian possessions. For months my life was despaired of, and when at last I came to myself and became convalescent, I was so weak and emaciated that a medical board determined that not a day should be lost in sending me back to England. I was despatched, accordingly, in the troopship Orontes, and landed a month later on Portsmouth jetty, with my health irretrievably ruined but with permission from a paternal government to spend the next nine months in attempting to improve it.

ネルソン提督は、当時、君主以外では初となる国葬を経て、
セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)に葬られた

ワトスンが第二次アフガン戦争の戦地を離れ、軍隊輸送船オロンテス号で戻ったポーツマス(Portsmouth)は、英国ハンプシャー州(Hampshire)内の南岸に位置する歴史的な軍港である。ポーツマスの大部分はソレント海峡(The Solent)に面したポートシー島(Portsea Island)内にあり、英国では唯一のアイランドシティーとなっている。

ネルソン記念柱(Nelson's Column)を制作する
英国の彫刻家エドワード・ホッジェス・ベイリー
(Edward Hodges Bailey:1788年ー1867年)―
ネルソン記念柱は、1840年から1843年にかけて制作された

英国の歴史上、ポーツマスは、以下のような場面で登場する。
(1)獅子王リチャード(Richard the Lionheart)としても知られる英国王リチャード1世(Richard I:1157年ー1199年 在位期間:1189年ー1199年)は、第3回十字軍(1189年ー1192年)に参加するため、艦隊と兵士をポーツマスに招集してから出発している。
(2)リチャード1世の後を継いだ英国王ジョン(John:1167年ー1216年 在位期間:1199年ー1216年)は、フランス国王フィリップ2世(Phillippe II:1165年ー1223年 在位期間:1180年ー1223年)との戦争を進めるため、フランス側に面する英国南岸の海軍基地の強化に乗り出し、ポーツマスに最初のドックが建設された。
(3)百年戦争(Hundred Year's War:1337年ー1453年)の勃発により、ポーツマスはフランス艦隊による攻撃を何度も受けたため、英国王ヘンリー5世(Henry V:1387年ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)はポーツマスで要塞の建設を進めた。時代は下り、英国王ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の時に、要塞としてサウスシー城(Southsea Castle)が建設されている。
(4)英蘭戦争(第一次:1652年ー1654年/第二次:1665年ー1667年/第三次:1672年ー1674年)と英西戦争(1654年ー1660年)において、英国海軍提督ロバート・ブレーク(Robert Blake:1599年ー1657年)がポーツマスを母港として使用した。
(5)フランス生まれの技術者マーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)が、軍艦の装具で使用する滑車の大量生産化に世界で初めて成功し、ポーツマスは世界最大の造船業拠点となった。ちなみに、鉄道施設や鉄道車輛等の設計で有名なイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)は、彼の息子である。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)内に建つ
ネルソン記念柱

(6)1805年、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)率いる旗艦HMSヴィクトリー(HMS Victory)を含む英国艦隊は、ポーツマスを出航し、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でフランスとスペインの連合艦隊を打ち破っている。ただし、ネルソン提督は、この海戦において命を落としている。
(7)第一次世界大戦(1914年ー1918年)中は、ドイツの飛行船ツェッペリンの、そして、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中は、ドイツ空軍の爆撃を受けて、ポーツマスは甚大な被害を蒙っているが、1944年6月6日に始まったノルマンディー上陸作戦(Invasion of Normandy)に参加した連合軍は、ポーツマス港から出撃している。

ネルソン記念柱のアップ

近年、ポーツマスは、軍事拠点としての位置付けが小さくなっているものの、引き続き、英国海軍と英国海兵隊の基地と造船所は残っており、英国海軍司令部も所在している。一方で、欧州大陸との間の貨物輸送や旅客輸送等の商業港としても、ポーツマス港は栄えている。

2016年9月11日日曜日

ロンドン 聖ソフィア大聖堂/モスクワロード(St. Sophia Cathedral / Moscow Road)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール全景

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。

聖ソフィア大聖堂の外観全景


暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際、姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。

聖ソフィア大聖堂の外観(その1)

聖ソフィア大聖堂の外観(その2)

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、アメリア・バロウビーをストリキニーネで毒殺したと疑われ、姿を消してしまったコンパニオンのロシア人カトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)の居所を突き止めたポワロは彼女に対して、警察への出頭を勧める。この場面は、聖ソフィア大聖堂(St. Sophia Cathedral)の内部で撮影されている。

聖ソフィア大聖堂の右側入口―
英語で表示されている

聖ソフィア大聖堂の左側入口―
ギリシア語で表示されている

聖ソフィア大聖堂は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベイズウォーター地区(Bayswater)内に所在しており、地下鉄ベイズウォーター駅(Bayswater Tube Station)の前を南北に延びるクイーンズウェイ通り(Queensway)の中間辺りから西に延びるモスクワロード(Moscow Road)沿いに建っている。

聖ソフィア大聖堂の正面外観全景

聖ソフィア大聖堂の右側入口ドア

ITV1で放映されたポワロシリーズでは、カトリーナが身を寄せていたのは「ロシア正教会」という設定であるが、実際には、聖ソフィア大聖堂は「ギリシア正教会」の建物である。

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その1)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その2

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その3

聖ソフィア大聖堂は、ギリシアからロンドンのパディントン地区(Paddington)、ベイズウォーター地区(Bayswater)やノッティングヒル地区(Notting Hill)に移住したギリシア人コミュニティーのために、その建設が計画され、英国の建築家であるジョン・オルドリッド・スコット(John Oldrid Scott:1841年ー1913年)が設計を担当した。彼は英国の協会建設に数多く携わり、聖ソフィア大聖堂にはネオビザンティン建築様式を用いた。
ネオビザンティン建築様式は、5世紀から11世紀にかけて東ローマ帝国内で用いられたビザンティン様式の流れを組むもので、19世紀中頃から20世紀初頭に発展し、特にロシアや東ヨーロッパにおいて当様式を用いた大聖堂や教会が多く建設されている。ネオビザンティン建築様式は、主に円形のアーチ(梁)、ヴォールト(かまぼこ型を特徴とする天井)やドーム(屋根)等にその特徴が見い出される。
なお、ジョン・オルドリッド・スコットの父親であるサー・ジョージ・ギルバート・スコット(Sir George Gilbert Scott:1811年ー1878年)も英国の有名な建築家で、外務省(Foreign Commonweath Officeー2016年1月2日付ブログで紹介済)やアルバート公記念碑(Albert Memorialー2016年3月13日付ブログで紹介済)等の設計で知られている。
聖ソフィア大聖堂は、ジョン・オルドリッド・スコットによる設計に基づき、1878年から1879年にかけて建設された。

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その4)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その5)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その6)

聖ソフィア大聖堂の外観は控えめな印象を受けるが、大聖堂の内部に一歩入ると、壁全面が多色彩の大理石で覆われていて、非常に絢爛豪華である。ITV1で放映されたポワロシリーズにおいても画面上アップになったが、ドーム天井から吊り下げられている十字架が更に見る者を圧倒する。聖ソフィア大聖堂を訪れた日は、内部で結婚式が行われていたため、残念ながら、その十字架の写真を撮ることはできなかった。

入口ホールから撮った天井から吊り下げられている十字架

2006年に、大聖堂の地下に博物館がオープンしている。