2022年1月30日日曜日

蜜蜂 - その1

シャーロック・ホームズは、諮問探偵業から引退した後、ロンドンを離れて、サセックス州(Sussex)の丘陵(South Downs)での暮らしを始め、手記を書いたり、蜜蜂の世話をしたりして、毎日を過ごしたとされている。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)は、2015年8月15日、「蜜蜂(Bees)」をテーマにした記念切手6枚を発行しているので、今回、最初の3枚について紹介したい。


(1)Andrena hattorfiana (Scabious Bee)



ヒメハナバチ科(Hymenoptera)アンドレナ属(Andrena)に属する蜜蜂の一種。

黒茶色の体と赤みがかった腹部が特徴。

成虫になると、約15mm の長さに成長。

欧州大陸のほとんどの地域に生息しているが、英国では、絶滅危惧種で、現在、主にイングランド南部の砂質の土壌に生息するのみ(通常、雌が砂質の土壌の地下につくった巣に産卵するため)。

特に、同種が見られるのは、ソールズベリー(Salisbry)周辺で、これは、広大な軍事演習場内に、同種が生息する砂質土のエリアが含まれているからである。


(2)Bombus distinguendus (Great Yellow Bumblebee)



ヒメハナバチ科(Hymenoptera)ボンバス属(Bombus)に属する蜜蜂の一種。

黄色と黒色の縞状の体が特徴。

成虫になると、約20mm の長さに成長。

欧州大陸のほとんどの地域に生息しているが、英国では、イングランドとウェールズにおいて、既に絶滅しており、現在、スコットランドのアウターへブリディーズ諸島(Outer Hebrides)やオークニー諸島(Orkney)等で生息するのみ。


(3)Colletes floral (Northern Colletes Bee)



ヒメハナバチ科(Hymenoptera)コレット属(Colletes)に属する蜜蜂の一種。

黄褐色の毛が覆った胸部と白い帯をした黒い腹部が特徴。

成虫になると、約10mm の長さに成長。

砂質の土壌の地下に巣をつくるため、沿岸の砂丘や草原等に営巣することが多い。

同種は珍しい蜜蜂で、スコットランドのアウターへブリディーズ諸島やアイルランドの海岸等に生息するのみ。


2022年1月29日土曜日

アンソニー・ホロヴィッツ作「絹の家」(The House of Silk by Anthony Horowitz) - その1

英国の The Orion Publishing Group 社から2011年に出版された
アンソニー・ホロヴィッツ作「絹の家」の表紙(ハードカバー版)


本作品「絹の家(The House of Silk)」は、英国の小説家で、推理 / サスペンスドラマの脚本家でもあるアンソニー・ホロヴィッツ(Anthony Horowitz:1955年ー)が、コナン・ドイル財団(Conan Doyle Estate Ltd.)による公認(公式認定)の下、シャーロック・ホームズシリーズの正統な続編として執筆の上、2011年に発表された。


アンソニー・ホロヴィッツは、ITV1 で放映された「名探偵ポワロ(Agatha Christie's Poirot)」(1991年ー2001年)、「バーナビー警部(Midsomer Murders)」(1997年ー2000年)や「刑事フォイル(Foyle's War)」(2002年ー2015年)等の脚本を担当していることで有名である。


1890年11月も終わりに近付いた頃、ジョン・H・ワトスンは、古巣ベーカーストリート221B(221B Baker Street)のシャーロック・ホームズの元を訪れていた。

ワトスンの妻(旧姓:メアリー・モースタン(Mary Morstan))は、ちょうどその時、以前家庭教師をしていたセシル・フォレスター夫人(Mrs. Cecil Forrester)の子息リチャード(Richard)がインフルエンザに罹患したので、見舞いの為、キャンバーウェル地区(Camberwell → 2017年12月9日付ブログで紹介済)へと出かけて、ケンジントン地区(Kensington)の自宅を留守にしていたのである。ワトスンがホームズを訪ねたのは、妻がキャンバーウェル地区へ出発するのを見送った駅からの帰りであった。


そんな中、ウィンブルドン(Wimbledon)に住むエドムンド・カーステアーズ(Edmund Carstairs)が、ホームズのところへ事件の相談にやって来る。

彼は美術商で、共同経営者であるトバイアス・フィンチ(Tobias Finch)と一緒に、アルベマールストリート(Albemarle Street - ロンドンの高級地区メイフェア(Mayfair)内にあり)沿いでカーステアーズ・アンド・フィンチ画廊(Gallery Carstairs and Finch)を営んでいると言う。

彼は、米国人の妻キャサリン(Catherine)と一緒に、ウィンブルドンにあるリッジウェイホール(Ridgeway Hall)に住んでいるが、2週間程前から自宅の周囲に不審な男が出没して、自分を見張っていることに気付いたと話す。それだけにとどまらず、彼が妻を伴ってロンドンのサヴォイ劇場(Savoy Theatre → 2021年7月7日付ブログで紹介済)へ出かけた際にも、その不審な男が通りの反対側に立って、自分達を見ていたと怯える。彼には、心当たりがあり、米国においてある事件に巻き込まれたことが原因ではないかと推測していた。

ホームズは、彼に詳しい話を求めるのであった。


今から1年半前に、エドムンド・カーステアーズは、知人経由、ロンドンに来ていた裕福な米国人コーネリアス・スティルマン(Cornelius Stillman)を紹介された。

ボストンに美術館を建設する計画に着手していたスティルマン氏に、エドムンドとトバイアスの二人は、英国の風景画家ジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)が湖水地方(Lake District)を描いた連作4点他を買い取ってもらった。

絵画は、梱包された後、リヴァプール(Liverpool)からニューヨークまで船で運ばれ、ニューヨークからボストンまでは、彼らの米国代理人であるジェイムズ・デヴォイ(James Devoy)が列車に積み替えて、自ら目的地まで付き添う予定であった。ところが、同じ列車でマサチューセッツ・ファースト・ナショナル銀行(Massachusetts First National Bank)へ運ばれる10万ドルの現金強奪を狙ったベルファスト(Belfast - 北アイルランド)出身の双子ルーク・オドナヒュー(Rourke O’Donaghue - 大柄で気性が荒い)とキーラン・オドナヒュー(Keelan O’Donaghue - 小柄で物静か)が率いるギャング集団「フラットキャップ(Flat Cap Gang)」による襲撃を受けて、ジョン・コンスタブルの絵画は、爆薬で粉々に吹き飛んでしまったのである。ジェイムズ・デヴォイも、襲撃の巻き添えに会い、ギャング達に射殺されてしまった。


事件の知らせを受けて、エドムンドは急いで米国へと向かった。ボストンでエドムンドを出迎えたスティルマン氏は、早速、ピンカートン探偵社(Pinkerton’s)に連絡をとり、て探偵ビル・マクパーランド(Bill McParland)を雇い入れる。

数週間にわたる捜査の結果、ボストンのアイルランド移民が大勢住む地区の安アパートにギャング達が隠れていることを突き止めたマクパーランド探偵は、武装した数十名の部下を率いて、急襲をかけた。激しい銃撃戦の上、ピンカートン探偵社の2名が射殺され、マクパーランド探偵も負傷するが、ルーク・オドナヒューを含む5人のギャング達は、全身蜂の巣となった。しかし、双子の一人キーランド・オドナヒューは、床下の排水溝を通って、辛くも脱出していたのだ。


ボストンから英国へ戻るべく、乗船しようとしていたエドムンドは、新聞の第一面見出しを見て、驚く。スティルマン氏が、別荘での散歩中に、射殺されたのである。

生き残ったキーラン・オドナヒューによる報復なのか?

自分にも危険が迫っているのではないかと心配し、心労で体調を崩すエドマンドであったが、同じ船に乗っていたキャサリン(暴力的な夫が亡くなり、財産を処分して、英国へ向かう途中)の看病を受け、無事体調を回復する。そして、英国に戻ったエドムンドは、キャサリンと結婚したのであった。


2022年1月23日日曜日

ミッチ・カリン作「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件」<映画版>(Mr Holmes by Mitch Cullin

2015年に Cannongate Books 社から出版された
ミッチ・カリン作「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件」の表紙 -
2005年に米国で、また、2014年に英国で出版された際、
「A Slight Trick of the Mind」という原題であったが、
2015年の映画公開に伴って、題名が変更された。


BBC (British Broadcasting Corporation) の iPLAYER を通じて、久し振りに映画「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件(Mr Holmes)」を視聴したので、本映画について紹介したい。


原作は、米国の作家であるミッチ・カリン(Mitch Cullin:1968年-)が2005年に発表した「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件(Mr Holmes → 2020年8月15日 / 8月22日付ブログで紹介済)」で、ビル・コンドン(Bill Condon)を監督にして、英国 / 米国が映画化している。

2014年7月から、ロンドンやイングランド南部を中心にして、7週間にわたって撮影が行われ、2015年2月7日に「第65回ベルリン国際映画フェスティバル(65th Berlin International Film Festival)」に出品された後、英国では、2015年6月19日に、また、米国では、2015年7月17日に一般公開された。


ミッチ・カリンの原作は、元々、2005年に米国で、また、2014年に英国で出版された際、「A Slight Trick of the Mind」というタイトルであったが、2015年の映画公開に伴い、「Mr Holmes」へと変更された。

New Observations on the Natural History of Bees
by Mr. Francis Huber (その1)

映画版は、ミッチ・カリンの原作通り、以下の3つの話が並行して展開する。


<1つ目の話>

1947年、シャーロック・ホームズ(93歳)は、諮問探偵業から引退し、サセックス州(Sussex)丘陵の農場で暮らしており、手記を書いたり、蜜蜂の世話をしたりして、毎日を過ごしていた。未亡人のムンロ夫人(Mrs. Munro)が家政婦としてホームズの世話をし、彼女の息子であるロジャー・ムンロ(Roger Munro)が助手として蜜蜂の世話を手伝っていた。

ホームズは、日本の広島への旅から英国へと丁度戻ったところであった。広島での出来事を振り返り、ホームズは、若い頃のような絶対的な知力が自分にはもうないと思い、知力の衰えと格闘していたのである。

そんな中、彼が思い出すのは、彼が諮問探偵業から引退する引き金となったある事件であった。


<2つ目の話>

第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わった約30年前、ジョン・H・ワトスンは3度目の結婚をしており、ベーカーストリート221Bには、ホームズ一人であった。そこへ、トーマス・ケルモット(Thomas Kelmot)と名乗る青年が、ホームズの元を相談に訪れる。

ケルモット氏は、ホームズに対して、「2年前に結婚してから、妻のアン(Ann)が2回連続して流産し、医者からは「今後、子供を授かることは難しい。」と言われた。」と語った。ケルモット氏は、妻の気持ちを落ち着かせる精神的なケアの意味もあって、アンにドイツ人のマダム シルマー(Madame Shirmer)のところへアーモニカ(Armonicaー金属やガラス片を長い順に並べて、スティックで打つ楽器)を習いに行かせた。それ以降、妻の様子がおかしくなったと言うのだ。妻の案は、マダム シルマーのところから戻って来ると、屋根裏部屋で楽器の練習をしているのだが、彼女以外、部屋には誰も居ないにもかかわらず、誰かと会話をしていると、ケルモット氏は語った。彼は、マダム シルマーが妻のアンを精神的に操っているのではないかと心配していた。

ケルモット氏の依頼を受けたホームズは、早速、アン・ケルモットの後をつける。彼女は、夫名義で小切手を振り出して、それを現金化したり、また、薬局で毒薬を購入したりと、非常に怪しい行動を繰り返している。

果たして、彼女は、夫のケルモット氏を殺害しようと計画しているのだろうか?


<3つ目の話>

ホームズは、知り合いのタミキ・ウメザキ(Tamiki Umezaki)を訪ねて、神戸に居た。

ホームズがウメザキ氏を訪ねたのは、知力の衰えを防ぐために、ウメザキ氏から煮ごこりを手に入れる必要があったからである。一方で、ウメザキ氏の方にも、ホームズに尋ねたい重要なことがあった。

ホームズは、ウメザキ氏によって、広島を案内される。その際、ホームズは、ウメザキ氏から次のような話を聞かされる。ウメザキ氏の父親は日本政府で働いていたが、政府内での権力闘争に敗北して、失脚。その後、ウメザキ氏の父親は、単身ロンドンへと向かう。そして、ウメザキ氏が父親から受け取った手紙には、「ロンドンにおいて、著名な探偵であるシャーロック・ホームズ氏に相談した結果、暫くの間、英国に留まることに決めた。」ということが書かれてあった。ウメザキ氏は、ホームズに対して、「自分の父親の居場所を知らないか?」と尋ねるが、ホームズは「君の父親に会った記憶はない。」と答えるだけであった。


そして、また、1つ目の話へと戻る。


<1つ目の話>

そんなある日、ムンロ夫人は、養蜂場の近くで、彼女の息子であるロジャーが意識不明の状態で倒れているのを見つけた。彼には、蜂に何度も刺された痕があった。

果たして、ホームズとロジャーが世話していた蜜蜂の仕業なのだろうか?

New Observations on the Natural History of Bees
by Mr. Francis Huber (その2)

映画版における主な配役は、以下の通り。


<1つ目の話>

・シャーロック・ホームズ - イアン・マッケラン(Ian Mckellen)

・ムンロ夫人 - ローラ・リニー(Laura Linney)

・ロジャー・ムンロ - マイロ・パーカー(Milo Parker)


<2つ目の話>

・シャーロック・ホームズ - イアン・マッケラン

・アン・ケルモット - ハティー・モラハン(Hattie Morahan)

・トーマス・ケルモット - パトリック・ケネディー(Patrick Kennedy)

・マダム シルマー - フランシス・デ・ラ・トゥーア(Frances de la Tour)


<3つ目の話>

・シャーロック・ホームズ - イアン・マッケラン

・タミキ・ウメザキ - 真田 広之



映画版の場合、概ね、ミッチ・カリンの原作通りに制作されているが、原作対比、以下の点が変更されている。


<2つ目の話>

・映画版では、この事件が発生するのは、第一次世界大戦が終わった後に設定されているが、原作では、1902年の春となっている。

・映画版では、主要な登場人物は、アン・ケルモットとトーマス・ケルモットの夫婦であるが、原作では、アン・ケラー(Ann Keller)とトーマス・R・ケラー(Thomas R. Keller)となっている。


<1つ目の話>

・映画版では、ムンロ夫人の息子であるロジャーは、病院に搬送され、命を取りとめるが、原作では、ムンロ夫人が発見した段階で、ロジャーは既に死亡しており、非常に後味が悪く、かつ、救いのない終わり方を迎えている。

New Observations on the Natural History of Bees
by Mr. Francis Huber (その3)

映画版において、タミキ・ウメザキを真田 広之が演じているが、原作に比べると、出番が限定されており、彼が登場するのは、物語の前半の3場面位で、非常に残念である。

また、タミキ・ウメザキの母親や、シャーロック・ホームズとタミキ・ウメザキが外食をしているシーンに登場する女性の髪型や服装、更に、ホームズとウメザキが食事をしている建物やその内装等、全てが全く日本的ではなく、中国のようであり、英国 / 米国が制作とは言っても、全然駄目な感じである。



2つ目の話において、イアン・マッケラン演じるシャーロック・ホームズが、映画館において、ジョン・H・ワトスンによる原作に基づいたシャーロック・ホームズの映画を観ているが、劇中劇のシャーロック・ホームズを演じているニコラス・ロウ(Nicholas Rowe)は、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)制作総指揮「ヤング・シャーロック ピラミッドの謎(Young Sherlock Holmes Pyramid of Fear)」(1985年)において、当時19歳で、シャーロック・ホームズを演じている。


2022年1月22日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「カー短編全集2 妖魔の森の家」(The Third Bullet and Other Stories by John Dickson Carr) - その5

ハヤカワ文庫で出版されている
カーター・ディクスン作「第三の銃弾〔完全版〕」
(カバー装画: 山田 維史氏)


「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet and Other Stories)」には、今までに4回にわたって紹介した妖魔の森の家(The House in Goblin Wood)」(1947年)の他に、以下の4短編が収録されている。


(1)「軽率だった夜盗(The Incautious Burglar)」(1947年) → 原題「A Guest in the House」


ケント州(Kent)内の荒涼した平原を見下ろす丘の上に建つクランレイ荘の持ち主であるマーカス・ハントは、莫大な値打ちの絵画(レンブラントの作品2枚とヴァン・ダイクの作品1枚)を所蔵していた。彼は、それらの絵画に保険もかけないで、階下の庭に面した部屋に掛けていた。今まで山荘内に設置してあった夜盗避けの警報装置についても、のこらず取り除いてしまっていて、まるで盗みに入られるのを待っていると言わんばかりである。

その日、マーカス・ハントは、美術商のアーサー・ロルフと美術批評家のデリク・ヘンダーソンを山荘に招いていた。彼らの他に、マーカス・ハントの姪であるハリエット・ディヴィスの知り合いであるルイス・バトラーも、山荘に滞在していた。実は、ルイス・バトラーは、スコットランドヤード犯罪捜査課(CID)の警部補で、マーカス・ハントの要請に基づき、山荘に派遣されていた。ただし、ルイス・バトラー自身、その理由に関して、マーカス・ハントから説明を受けていなかったのである。

果たして、その夜(2時過ぎ)、クランレイ荘は、夜盗に襲われた。

階下の物音に気付いたみんなが駆け付けてみると、食堂内で、夜盗が胸を刺されて殺されていた。ルイス・バトラーが死体に歩み寄って、帽子や黒布のマスクを取り去ったところ、夜盗の正体は、山荘の主人であるマーカス・ハントであることが判明したのである。

マーカス・ハントは、自分自身の山荘内の絵画を盗み出す最中に、何者かに殺害されたということか?

ルイス・バトラーの依頼を受けたギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が、この矛盾した謎に挑む。


当作品は、ジョン・ディクスン・カーが、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で、1942年に長編として発表した「仮面荘の怪事件(The Gilded Man)」の短編版である。なお、長編「仮面荘の怪事件」では、ギディオン・フェル博士ではなく、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務めている。


(2)「ある密室(The Locked Room)」(1943年)


書籍収集家のフランシス・シートンが、自分の書斎において、凶漢に襲われ、頭部を強打された。

隣りの部屋には、秘書兼タイピストのアイリス・レインと図書係のハロルド・ミルズの二人が居て、フランシス・シートンの呻き声を聞き付けて、書斎へ通じる扉を破ったところ、フランシス・シートンは、半死半生の状態で、デスクの後ろの床の上で昏倒していた。

アイリス・レインとハロルド・ミルズの二人が、フランシス・シートンの書斎を調べたが、外から第三者が入り込んだ形跡は見当たらず、また、書斎内の二つの窓は、外からは開かない状態だった。

当然のことながら、アイリス・レインとハロルド・ミルズの二人による凶暴という線が疑われたが、命をとりとめたフランシス・シートンによると、使用人である二人の証言は全て事実で、書斎内に誰かが忍び込んで来て、自分を殴打したのだと認めたのである。

スコットランドヤードのハドリー警視の依頼を受けたギディオン・フェル博士が、完全な密室状況で発生するした事件の謎に挑む。


(3)「赤いカツラの手がかり(The Clue of the Red Wig)」(1948年)


ベイズウォーター地区(Bayswater)内の住宅地ヴィクトリアスクエア(Victoria Square)の中央に、居住者だけが出入りできる小公園(communal garden)があり、ある日の午後11時頃、ヘイゼル・ローリングが、裸同然の格好で死んでいるのを、巡回中の警官が発見した。

彼女は、把手に鉛を詰めた散歩用のステッキにより、数回殴打されて、頭蓋骨骨折の状態だった。その後、ベンチに腰掛けるような格好で置き去りにされていた。実際、ベンチの後ろには、格闘した形跡が残されていた。

不思議なことは、ヘイゼル・ローリングが、下着だけを着けており、その他の服については、全部畳んで、ベンチに腰掛けた状態の彼女の隣りに置かれていたことである。

彼女は、「デイリー・バナー」紙において、毎週、「微笑で、スマートになろう」という署名入りの囲み記事を連載しており、世の主婦から絶大な支持を受けていた。

この謎に対して、デイリー・バナー」紙の対抗紙である「デイリー・レコード」紙のフランス人女性記者であるジャックリーヌ・デュボアによる示唆を受けつつ、スコットランドヤード犯罪捜査課のアダム・ベル警部が挑む。


(4)「第三の銃弾(The Third Bullet)」(1947年)


本作品は、短編と言うよりは、中編の長さであるが、詳細については、2019年12月22日 / 12月29日、そして、2020年1月4日 / 1月26日 / 2月2日付ブログで既に紹介済なので、そちらを御参照願います。


2022年1月16日日曜日

英国海軍艦(その4) - HMS ビーグル(Royal Navy Ship 4 - HMS Beagle)

英国海軍の500周年を記念して、
2019年に英国のロイヤルメールが発行した8種類の記念切手のうち、
4番目に紹介するのは、
英国の自然学者 / 生物学者であるチャールズ・ロバート・ダーウィンが乗艦したことで
有名な
「HMS ビーグル」。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に王立海軍こと英国海軍の500周年を記念して発行した8種類の切手のうち、4番目に紹介するのは、「HMS ビーグル(HMS Beagle)」である。


「HMS ビーグル」は、1817年2月16日の発注に基づき、テムズ河(River Thames)沿いのウールウィッチ造船所(Woolwich Dockyard)において、1818年6月に着工され、約4年後の1820年5月11日に進水式を迎えた。建造費用は、当時の換算で、7,803ポンドであった。

そして、野兎狩りに使われる猟犬のビーグルに因んで、当艦は「HMS ビーグル」と名付けられた。


「HMS ビーグル」は、英国海軍のチェロキー級ブリッグで、


全長: 約28m

重量: 約 235t(第2次航海時 - 約 242t)

兵装: 10門 → 6門(第1次航海時) → 7門(第2次航海時)


そして、乗組員は約120名にのぼる。


進水式を迎えた後、同年7月、「HMS ビーグル」は、ハノーヴァー朝の国王ジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年-1830年)の戴冠式を祝う観艦式に参加したが、その後の5年間は、予備艦となっていた。


その後、「HMS ビーグル」は、ブリッグ船から調査用のバーク船へと改装され、3度の探検航海に参加した。


<第1次航海>

・期間: 1826年5月22日 - 1830年10月14日

・目的: パタゴニアとティエラ・デル・フエゴ諸島の水路調査

・船長: プリングル・ストークス(鬱病のため、1828年8月2日、拳銃で自殺 → 副長のW・G・スカイリングとパーカ・キングがストークス船長の後を引き継いだ) → ロバート・フィッツロイ(1828年12月15日、南米方面の司令官であるロバート・オットウェイ少将の部下で、彼の指名を受けて、船長に就任)


<第2次航海>

・期間: 1831年12月27日 - 1836年10月2日

・目的: 2度目の南米調査

・船長: ロバート・フィッツロイ


自然史博物館(Natural History Museum)内の中央大階段の途中に設置されている
チャールズ・ダーウィン像


第2次航海には、英国の自然学者 / 生物学者であるチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2017年4月15日付ブログで紹介済)も参加している。第2次航海等で学んだ彼は、「自然選択」と呼ぶプロセスを通して、「全ての生物種は、共通の祖先から長い間をかけて分岐し、常に環境に適応するように変化して、多様な種が生じる。」と主張し、1859年11月に進化論についての著作「種の起源(On the Origin of Species)」を出版したのである。


バーリントンハウス(Burlington House)内に入居している
リンネ式動植物分類学協会(Linnean Society)内に架けられている
チャールズ・ダーウィンの肖像画


<第3次航海>

・期間: 1837年4月 - 1843

・目的: オーストラリア沿岸の調査

・船長: ジョン・クレメンツ・ウィッカム → ジョン・ロート・ストークス(ジョン・クレメンツ・ウィッカムが病気になったため、1841年3月に指揮を引き継いだ)


1845年、「HMS ビーグル」は退役し、常設沿岸警備監視船として改装された後、エッセクス州(Essex)の沿岸からテムズ河北岸にかけて行わている密輸を監視するため、関税消費税庁へと移管された。

その後、「HMS ビーグル」は、ローチ川の中流に係留されたが、1870年に売却され、解体された。

2022年1月15日土曜日

ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」(Closed Casket by Sophie Hannah) - その3

英国の HarperCollinsPublishers 社から2016年に出版された
ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」のタイトルページ(ハードカバー版) -
著者であるソフィー・ハナによるサイン付き
Jacket Design : Heike Schussler / HarperCollinsPublishers 
Other Jacket Images : Shutterstock.com (interior elements)
                        Lonely Planet / Getty (angel)


読後の私的評価(満点=5.0)


(1)事件や背景の設定について ☆☆☆半(3.5)


遺言書の内容が変更された途端、その受益者が殺害される。ただし、その受益者は、重い肝臓病を患っており、余命数週間の命で、遺贈者よりも長生きできる可能性はゼロに近いという変わった設定である。しかも、検死審問において、彼の肝臓は健全で、全く何の問題もなかったというどんでん返しがある。

事件に関しても、目撃者がゴルフクラブで撲殺したと証言した人物は、エルキュール・ポワロやスコットランドヤードのエドワード・キャッチプール警部(Inspector Edward Catchpool)達よりも後から、一つしかない階段を降りて来ており、彼らとすれ違わないで、上階へは戻れないという不可能状況にある。

更に、実際の死因は、撲殺ではなく、毒殺だったというどんでん返しが続く。


(2)物語の展開について ☆☆半(2.5)


背景や事件の設定は、非常に面白い。

ただ、事件が発生するのが、全体の約 1/3 を過ぎたところで、上記の2つのどんでん返しが明らかになるのが、全体の6割近くを過ぎた辺りとなっていて、残りの4割位の部分に、更に重要な過去の経緯等の話が詰め込まれている。そのため、事件発生後から検死審問までの展開が停滞してしまっている。登場人物の数名が「検死審問でハッキリとするまでは、何も話せない。」等と言って、詳しい説明を拒否したりと、中弛みとなっている。

実際、解決編には、かなりのページが割かれていることもあって、検死審問以降の話が、かなり駆け足の展開になってしまっている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」の表紙(ペーパーバック版)


(3)ポワロ / キャッチプール警部の活躍について ☆☆半(2.5)


ポワロの若き友人であるキャッチプール警部が物語の記述者になっていることもあるが、ポワロが結構別行動をしたりしているので、ポワロが活躍しているという感じが非常に弱い。

また、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)のような民間人であれば、まだしも、キャッチプール警部はスコットランドヤードの本職であるにもかかわらず、ポワロに言われた通りに、事件の関係者に証言を求めたり、相手の言うことを黙って聞くだけで、自分の推理を展開しない。正直ベース、物語の記述者として、警察関係者を使うのは、逆に、当人の業務遂行能力を疑われることになるので、あまり宜しくない。


(4)総合評価 ☆☆半(2.5)


背景の設定は面白いものの、実際には、あまりうまく生かしきれていない。

詳細には書けないが、殺害のタイミングとして、犯人は「この時しかなかった。」と言うが、「本当になかったのか?」と、犯人に対して問いたい位である。更に言えば、「ストリキニーネは、即効性の毒物ではないのか?」と、著者に対して問いたい。

また、事件の設定も面白いが、慣れた読者であれば、ある程度の推測は可能である。目撃者による錯誤があるのだが、正直、著者の書き方として、あまりフェアではないと思う。


良い背景や事件の設定をしているにもかかわらず、その設定をうまく活用できていない。これらの設定をうまく生かしきれば、物語のトーンは重くなるものの、もっと心に残る悲劇的な話にできたような気がする。

探偵小説について、こういう言い方をしては良くないのかもしれないが、容疑者の数名は単に居るだけの存在になっていて、物語の展開上、あまり面白くない。

主要な容疑者に関しても、設定をもっとうまくリンクさせれば、もっと厚みのある物語にできたのではないかと考える。



2022年1月9日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「カー短編全集2 妖魔の森の家」(The Third Bullet and Other Stories by John Dickson Carr) - その4

クラリッジズホテルの正面玄関―
正面玄関の上には、「くるみ割り人形」をテーマとしたクリスマス用の装飾が為されている

1970年に東京創元社から創元推理文庫として出版されているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet and Other Stories)」の冒頭を飾るのは、短編「妖魔の森の家(The House in Goblin Wood)」であるが、同作品内には、ロンドン市内の場所がいくつか出てくるので、引き続き、写真と一緒に、紹介したい。

なお、同作品内の文章については、上記の「カー短編全集2 妖魔の森の家」(宇野 利泰訳)から引用している。



(7)

『車内に積みこんだ三個の大型バスケットは、フォートナム・アンド・メイスンの店で仕込んだピクニック用の料理で、藤細工の蓋がもちあがっていた。』


ピカデリー通りの対岸から見た「フォートナム&メイソン」本店の正面玄関とその外壁


「フォートナム&メイスン(Fortnum & Mason)」は、ロンドンを拠点とする老舗百貨店である。同百貨店は、一般に「フォートナムズ(Fortnum’s)」と略される。


「フォートナム&メイソン」本店の外壁(その1)


フォートナム&メイスンは、1707年にウィリアム・フォートナム(William Fortnum)とヒュー・メイスン(Hugh Mason)により創業され、本店は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)内にあるピカデリー通り181番地(181 Piccadilly)に所在している。


「フォートナム&メイソン」本店の外壁(その2)


食料品雑貨店として創業したフォートナム&メイスンは、高品質の食品を提供し、急速に世間の評判を高め、最終的には、総合百貨店にまで発展した。現在、フォートナム&メイスンは、外国の食材や特産品等を含めた様々な食料品を揃えているが、特に、紅茶の販売で有名である。また、英国王室から王室御用達の店舗として認定され、既に150年以上が経過している。


フォートナム&メイスンは、今のところ、ウィッティントン投資会社(Wittington Investments Limited)が保有している。



(8)

『H・Mはクラリッジ・レストランに立ちよって、海老の皿をつつき、ピーチ・メルバのデザートを味わい、』

クラリッジズホテルの建物正面の外壁


ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が食事のために立ち寄った「クラリッジズホテル(Claridge's Hotel)」は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)にあるブルックストリート(Brook Street)とディヴィスストリート(Davies Street)が交差する南東の角に建っている。

(詳細については、2014年12月31日付ブログを御参照。)


クラリッジズホテルの正面玄関―
正面玄関の上には、クリスマス用の装飾が為されている


クラリッジズホテルは、元々1812年にフランス人ミヴァール(Mivart)によって「ミヴァールズホテル(Mivart's Hotel)として創業された。当時、ロンドンには豪華な宿泊設備を有するホテルがまだなかったため、彼のホテル業は大成功をおさめた。

1854年、ミヴァールズホテルの隣のホテルを所有していたクラリッジ夫妻(Mr. and Mrs. Claridge)に売却され、両ホテルの経営が一つになったのである。そして、ホテルの名前も、現在の「クラリッジズホテル」として通用するようになった。

クラリッジ夫妻の死後、サヴォイホテル(Savoy Hotel)の創業者であるリチャード・ドイリー・カルト(Richard D'oyly Carte)が1894年にクラリッジズホテルを買い取り、サヴォイホテルグループに編入させた。当時、リフトをはじめとする現代的な設備を設置するニーズがあり、1895年に古い建物が取り壊されて、203の客室を擁する現在の壮大な建物が建設され、1898年に再オープンした。外観はヴィクトリア様式で、ロビーはアール・デコ様式の重厚な構えとなっている。


クラリッジズホテルを囲む柵に施されたクリスマス用装飾


以降、クラリッジズホテルは、英国の王族や貴族をはじめ、世界各国のVIPや名士等に多く利用され、その中にはケリー・グラント(Cary Grant)、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)、アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)、ブラッド・ピット(Brad Pitt)、U2やマライア・キャリー(Mariah Carey)等が含まれている。



(9)

『時間ハズレの食事をとってから、ブルック・ストリートの屋敷へ帰って、不快な眠りについた。』

ブルックストリート沿いの街並み

ブルックストリート(Brook Street)は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)内にある通りで、東側はハノーヴァースクエア(Hanover Square → 2015年2月28日付ブログで紹介済)から始まり、西側はグローヴナースクエア(Grosvenor Square → 2015年2月22日付ブログで紹介済)まで続いている。オックスフォードサーカス(Oxford Circus)とマーブルアーチ(Marble Arch)を結ぶ幹線道路であるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)から南へ少し下ったところを、ブルックストリートは走っている。

(詳細については、2015年4月4日付ブログを御参照。)


この通りは18世紀前半に開発され、その名前は近くにあったパブ「タイバーン・ブルック(Tyburn Brook)」に由来している、とのこと。

ブルックストリート沿いには、ハノーヴァースクエアとグローヴナースクエアが、また、「ソア橋の謎(The Problem of Thor Bridge →2021年6月5日 / 6月13日 / 6月27日付ブログで紹介済)」の舞台となったクラリッジズホテル等がある。

ジミ・ヘンドリックスのブループラークの青色と
ヘンデルハウス博物館の旗の赤色が建物の外壁にうまくマッチしている


ハノーヴァースクエアの近くには、米国人のミュージシャン/シンガーであるジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix:1942年ー1970年 → なお、本名はジェイムズ・マーシャル・ヘンドリックス(James Marshall Hendrix))が住んでいた「ブルックストリート23番地」とドイツ人(後に英国に帰化)の作曲家であるゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel:1685年ー1759年)が住んでいた「ブルックストリート25番地」が隣り合っている。ちなみに、「ブルックストリート25番地」は、現在、ヘンデルハウス博物館(Handel House Museum)となっているが、ブルックストリート側ではなく、建物の裏側から入館する扱いである。


2022年1月8日土曜日

ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」(Closed Casket by Sophie Hannah) - その2

英国の HarperCollinsPublishers 社から2016年に出版された
ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」の
カバーを外した本体の表紙(ハードカバー版)
Jacket Design : Heike Schussler / HarperCollinsPublishers 
Other Jacket Images : Shutterstock.com (interior elements)
                        Lonely Planet / Getty (angel)


シュリンプ・セドン(Shrimp Seddon)という女性を主人公とする子供向けの探偵小説シリーズを執筆する有名な作家であるレディー・アテリンダ・プレイフォード(Lady Athelinda Playford)から、彼女の新たな遺産相続人として指名された秘書のジョーゼフ・スコッチャー(Mr. Joseph Scotcher)は、椅子から立ち上がって、茫然自失状態になった。看護師のソフィー・ブゥーレット(Miss Sophie Bourlet)経由、ランダル・キムプトン医師(Dr. Randall Kimpton - レディー・アテリンダ・プレイフォードの長女クラウディア・プレイフォードの婚約者)は、ジョーゼフ・スコッチャーに対して、グラスを渡し、水を飲んで落ち着くように諭した。

ハリー・プレイフォード子爵(Viscount Harry Playford - レディー・アテリンダ・プレイフォードの長男)の兄弟で、若くして亡くなったニコラス・プレイフォード(Nicholas Playford)の面影をジョーゼフ・スコッチャーに見たドロシー・プレイフォード子爵夫人(Viscountess Dorothy Playford - ハリー・プレイフォード子爵の夫人)が彼のことを糾弾するに及ぶと、レディー・アテリンダ・プレイフォードは怒って、内輪のパーティーはまだこれからなのにもかかわらず、自室へと戻ってしまう。


レディー・アテリンダ・プレイフォードに取り残された10名はそのまま夕食を続けるが、夕食後、ジョーゼフ・スコッチャーは、突然、ソフィー・ブゥーレットに対して求婚し、彼女はそれを受け入れる。急な展開に驚きつつ、他の8名は、ジョーゼフ・スコッチャーとソフィー・ブゥーレットを二人にして、各々、夕食後を過ごす。


庭の散歩から戻って来たエルキュール・ポワロとスコットランドヤードの若手警部であるエドワード・キャッチプール(Inspector Edward Catchpool)は、オーヴィル・ロルフェ(Mr. Orville Rolfe)弁護士の様子がおかしいことに気付く。彼は、「誰かに毒を盛られた。」と話す。ランダル・キムプトン医師が彼の喉に手を突っ込み、浴室で吐かせ、なんとか事無きを得る。毒ではなく、おそらく、食べ過ぎが原因のようだった。

ベッドに横たわるオーヴィル・ロルフェ弁護士は、ポワロ達に対して、「夕食後、庭を散歩していた時、誰か(男女2人)が葬式の話をしていた。『閉じた棺は駄目だ。開いた棺が必要だ。(”Open Casket : it’s the only way.”)』と喋っていた。」と告げる。「閉じた棺」/「開いた棺」とは、一体、何のことだろうか?


英国の HarperCollinsPublishers 社から2016年に出版された
ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」の見返し部分(ハードカバー版)


すると、その時、階下において、女性の叫び声があがった。

ポワロやキャッチプール警部達が急いで階下へと降りると、応接間の入口には、ソフィー・ブゥーレットが居て、床の上には、ゴルフのクラブで殴られて、顔を潰されたジョーゼフ・スコッチャーが倒れているのに、出会したのである。

ソフィー・ブゥーレット曰く、応接間の中で、命乞いをする男性の声と「本当であれば、アイリスがこれをすべきだった。(”This is what Iris should have done.”)」と告げる女性の声がしたので、中に入ってみると、クラウディア・プレイフォード(Honourable Miss Claudia Playford - レディー・アテリンダ・プレイフォードの長女で、ハリー・プレイフォード子爵の姉)が、ゴルフのクラブを手にして、ジョーゼフ・スコッチャーの顔を滅多打ちにしている現場を見たとのことだった。

ソフィー・ブゥーレットが耳にした「アイリス」とは、誰のことなのか?また、彼女の証言通りであれば、クラウディア・プレイフォードが、遺言書の内容変更を恨んで、ジョーゼフ・スコッチャーをゴルフクラブで撲殺したことになるが、本当なのだろうか?

ポワロやキャッチプール警部達がソフィー・ブゥーレットの悲鳴を聞いて、屋敷内に一つしかない階段を駆け降りた際、誰ともすれ違わず、クラウディア・プレイフォードは、彼らの後から階段を降りて来たのである。


地元警察が到着して、検死陪審による死因審問が行われたが、ジョーゼフ・スコッチャーの死因は、ゴルフクラブによる撲殺ではなく、ストリキニーネによる毒殺であることが判明した。更に、ジョーゼフ・スコッチャーの肝臓は健全で、重い肝臓病を患っている兆候は、全くなかったのであった… 


2022年1月3日月曜日

英国海軍艦(その3) - HMS ビクトリー(Royal Navy Ship 3 - HMS Victory)

英国海軍の500周年を記念して、
2019年に英国のロイヤルメールが発行した8種類の記念切手のうち、
3番目に紹介するのは、
1805年の「トラファルガーの海戦」において、
英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソンが座乗して、
旗艦を務めた「HMS ビクトリー」。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に王立海軍こと英国海軍の500周年を記念して発行した8種類の切手のうち、3番目に紹介するのは、「HMS ビクトリー(HMS Victory)」である。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口への向かう地下道に描かれている
「トラファルガーの海戦」のタイル画


「HMS ビクトリー」は、1758年7月14日の発注に基づき、英国の造船技師であるトーマス・スレード(Sir Thomas Slade:?ー1771年)によって設計された後、チャタム造船所(Chatham Dockyard)において、1759年7月23日に着工され、約6年後の1765年5月7日に進水式を迎えた。そして、1778年に就役した。


「トラファルガーの海戦」前に作戦を練るネルソン提督


「HMS ビクトリー」は、英国海軍の104門1等戦列艦で、


全長: 約69m

重量: 約 3,500t

兵装: 合計104門(上砲列 - 30門 / 中砲列 - 28門 / 下砲列 - 30門 / 後甲板 - 12門 / 船首楼 - 4門)


そして、乗組員は約850名にのぼる。


「トラファルガーの海戦」における英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とネルソン提督―
地下鉄チャリングクロス駅のベーカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームの壁に描かれている


就役後の「HMS ビクトリー」の主な戦歴は、以下の通り。

(1)第一次ウェサン島の海戦(First Battle of Ushant - 1778年)

(2)第二次ウェサン島の海戦(Second Battle of Ushant - 1781年)

(3)スパルテル岬の海戦(Battle of Cape Spartel - 1782年)

(4)サン・ヴィセンテ岬の海戦(Battle of Cape St. Vincent - 1797年)


その後、「HMS ビクトリー」は、1805年の「トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)」において、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が座乗して、旗艦となった。旗艦「HMS ヴィクトリー」を含む英国艦隊は、ポーツマス(Portsmouth → 2016年9月17日付ブログで紹介済)を出航し、フランスとスペインの連合艦隊を打ち破っている。ただし、ネルソン提督は、この海戦において命を落としている。


「トラファルガーの海戦」中、敵艦隊からの狙撃を受け、
戦死するネルソン提督


1922年、「HMS ビクトリー」は、ポーツマスの乾ドック(dry dock)へと移され、記念艦(museum ship)となった。

その後、「HMS ビクトリー」は、ポーツマス軍港の港湾司令官や第二海軍卿の旗艦を務めていたが、2012年10月以降、第一海軍卿(First Sea Lord)の旗艦となっている。

「HMS ビクトリー」は、今も現存する唯一の戦列艦であるとともの、世界最古の現役艦でもある。