2022年1月2日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「カー短編全集2 妖魔の森の家」(The Third Bullet and Other Stories by John Dickson Carr) - その3

闇夜に浮かぶヘイマーケット劇場の建物


1970年に東京創元社から創元推理文庫として出版されているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「カー短編全集2 妖魔の森の家(The Third Bullet and Other Stories)」の冒頭を飾るのは、短編「妖魔の森の家(The House in Goblin Wood)」であるが、同作品内には、ロンドン市内の場所がいくつか出てくるので、引き続き、写真と一緒に、紹介したい。

なお、同作品内の文章については、上記の「カー短編全集2 妖魔の森の家」(宇野 利泰訳)から引用している。



(4)

『そしてヘンリー・メリヴェール卿は、どたどたと、ヘイマーケットの方向へと遠去かっていった。』



ヘイマーケット通り(Haymarket)は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's )内にあり、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)とナショナルギャラリー(National Gallery)/トラファルガースクエア(Trafalgar Square)を結び、南北に延びている。

ヘイマーケット劇場(Haymarket Theatre)の正式名は、現在、ロイヤル・ヘイマーケット劇場(Theatre Royal Haymarket)で、ヘイマーケット通り(The Haymarket)に面して建っている。

(詳細については、2016年2月13日付ブログを御参照。)


ヘイマーケット劇場は「ロイヤル」の称号を得ている


ヘイマーケット劇場は、元々、1720年にヘイマーケット通り沿いの違う場所建設されて、同年12月29日にオープンした。同劇場はウェストミンスターエンド(West End)内にオープンした3番目の劇場で、「リトル劇場(Little Theatre)」と呼ばれていた。

その後、1766年に「ロイヤル」の称号を得て、改装後、同年5月14日に再オープンを果たす。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)へ向かう
地下道の壁に描かれている建築家/都市計画家のジョン・ナッシュ


ヘイマーケット劇場が現在の場所に移ったのは1821年で、英国を代表する建築家/都市計画家であるジョン・ナッシュ(John Nash:1752年ー1835年)が、リージェントストリート(Regent Street)やリージェンツパーク(Regent's Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)等の開発(1813年ー1825年)を手掛けるのに並行して、1820年から1821年にかけて、現在のヘイマーケット劇場の建設を担当した。そして、1821年7月4日に新劇場はオープンを迎えた。

その後、1873年にはロンドンでは最初となる午後2時からの昼興行(マチネー)を導入し、ウェストエンド内の他の劇場もこれに追随することになった。



(5)

『それからのH・M卿は、ただもうぼんやり考えこむばかりで、近よって観察するまでもなく、まったくの放心状態におちいっているのが明瞭だった。海軍本部(アドミラルティ)アーチの付近で、あやうくタクシーに轢き殺されるところだった。』


トラファルガースクエア側から見たアドミラルティーアーチ全景


「海軍本部アーチ(Admiralty Arch)」は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区のセントジェイムズ地区内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の南西側に位置しており、英国王エドワード7世(Edward Ⅶ:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)が母親であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)を讃えて建設した門で、英国の建築家サー・アストン・ウェッブ(Sir Aston Webb:1849年ー1930年)が設計を担当した。アドミラルティーアーチが完成したのは1912年で、残念ながら、自分の存命中にエドワード7世が完成したアーチを観ることは叶わなかったのである。

(詳細については、2015年12月27日付ブログを御参照。)


トラファルガースクエア側に面したアドミラルティーアーチの中央上部には、ラテン語で次のように書かれている。

: ANNO : DECIMO : EDWARADI : SEPTIMI : REGIS :

: VICTORIAE : REGINAE : CIVES : GRATISSIMI : MDCCCX

(In the tenth year of King Edward Ⅶ, to Queen Victoria, from most grateful citizens, 1910)

日本語で言うと、「エドワード7世の在位10年目に、親愛なる市民よりヴィクトリア女王へ送るー1910年」という意味になる。


アドミラルティーアーチ中央上部のアップ


トラファルガースクエアとバッキングガム宮殿(Buckingham Palace)を繫ぐ通りであるザ・マル(The Mall)の正面玄関に該るアドミラルティーアーチの中央にある通用門は通常閉じられており、英国王/女王専用ともっている。よって、現在、中央の通用門を使用できるのは、エリザベス2世のみである。一般人は、左右にある通用門を使用することになる。


地下鉄チャリングクロス駅へ向かう
地下道の壁に描かれたアドミラルティーアーチ


アドミラルティーとは、日本語で「海軍提督」を意味し、門の一部が隣に位置している国防省(Ministry of Defence)の建物と繋がっている。よって、アドミラルティーアーチは一般公開されていないため、内部を見学することはできない。


以前より英国政府が使用しており、2000年からは内閣府が所在していたが、緊縮財政の一環として、2011年に内閣府も退去し、75百万ポンドの価格で買い手を募った。2012年10月にスペイン人の不動産開発業者ラファエル・セラーノ・クウェヴェード(Rafael Serrano Quevedo:1966年ー)が英国政府から25年間の借用権を購入した(100室を超えるホテルへと大改装される予定である)。



(6)

『ホワイトホールの官庁街を通りかかったとき、聞きおぼえのある声に呼びとめられた。』


ホワイトホール通りを北側から見たところ - 画面中央の建物が Old War Office Building


ホワイトホール通り(Whitehall)」は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあり、北側にあるトラファルガースクエア(Trafalgar Square)と南側にあるパーラメントスクエア(Parliament Square)を南北に結ぶ通りである。正確には、パーラメントスクエアから英国首相官邸(10 Downing Street)へと至るダウニングストリート(Downing Street)までの南側の通りは、パーラメントストリート(Parliament Street)と呼ばれ、ダウニングストリートからトラファルガースクエアまでの北側の通りがホワイトホール通りに該る。

(詳細については、2015年10月3日付ブログを御参照。)



ホワイトホール通りの名前は、この辺りにあったホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall - 1698年で火災で焼失)に由来している。

ホワイトホール宮殿の一部のうち、今でも現存しているのが、バンケティングハウス(Banqueting House)で、晩餐会や舞踏会等の目的で使用されているが、通常は、一般の見学者に開放されている。バンケティングハウスは、イタリア遊学中にイタリア・ルネッサンス建築の影響を大きく受けた英国の建築家イニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1662年)が設計し、1622年に建築された。また、晩餐会や舞踏会等が開催される部屋の天井画は、フランドルの画家で外交官でもあったピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)によって描かれている。


ルーベンスによって描かれた天井画


なお、バンケティングハウスの前では、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)を経て、英国王チャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)の公開処刑が1649年1月30日に行われた。英国の歴史上、英国王が処刑された事例は、チャールズ1世のみである。バンケティングハウスの入口上の外壁に、チャールズ1世のレリーフが架けられている。


バンケティングハウス入口上の外壁に架けられている
チャールズ1世のレリーフ


現在、ホワイトホール通りの両側には、英国首相官邸を初めとして、防衛省(Ministry of Defence)関係が入居するオフィスビルが建ち並んでいる。また、ロンドン警視庁(London Metropolitan Police Service)の本部であるスコットランドヤード(Scotland Yard)も以前はホワイトホール通りの近くに所在していたが、1890年にヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)に移転して、以前のスコットランドヤードと対比して、ニュースコットランドヤード(New Scotland Yard)と呼ばれている。


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