2017年9月24日日曜日

ロンドン ビショップスゲート地区(Bishopsgate)−その1

セントメアリーアクス通り(St. Mary Axe)沿いに建つ通称「ガーキンビル(The Gherkin)」–
ビルの形状がキュウリに似ているので、そう呼ばれているが、
ビルの正式名は「30 St. Mary Axe」

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

ガーキンビル(その2)

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ビショップスゲート通り(Bishopsgate)沿いに建つ「ヘロンタワー(Heron Tower)」

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

ヘロンタワー(その2)

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。

ヘロンタワー(その3)

「ここが事件現場か!」と、彼(スコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部)は、押し殺してしゃがれた声で言った。「これは、酷い現場だな!しかし、彼らは一体何者だ?本当に、この家はウサギ小屋みたいにゴチャゴチャしているな!」
「アセルニー・ジョーンズ、僕のことは覚えている筈だが…」と、ホームズは静かに言った。
「ええ、勿論ですよ。」と、彼は息をゼイゼイさせて言った。「理論家のシャーロット・ホームズさんじゃありませんか。覚えていますとも。ビショップゲートの宝石事件で、原因と推論と影響について、あなたが我々に解説してくれたことは、絶対に忘れやしません。あなたが我々を正しい方向へ導いてくれたのは事実ですが、あれは的確な指示と言うよりも、幸運だったと言うことを、今であれば、ホームズさん、あなたもお認めになるでしょう?」
「あれは、ちょっとした非常に単純な推理だ。」
「まあまあ!恥ずかしがらずに、素直に認めて下さいよ。しかし、これは一体何だ?嫌な事件だ!本当に嫌な事件だ!厳格な事実がここにはある。ー理論の出る幕はないですな。私が偶々別の事件でノーウッドに来ていたのは、都合が良かった。この事件の知らせが届いた時、私はノーウッド警察署に居合わせたんですよ。ところで、ホームズさん、この男の死因は何だと思いますか?」

ヘロンタワー(その4)

‘Here’s a business!’ He cried, in a muffled, husky voice. ‘Here’s a pretty business! But who are all these? Why, the house seems o be as full as rabbit-warren!’
‘I think you must recollect me, Mr Athelney Jones,’ said Holmes quietly.
‘Why, of course I do!’ he wheezed. ‘It’s Mr Sherlock Holmes, the theorist. Remember you! I’ll never forget how you lectured us all on causes and inferences and effects in Bishopgate jewel case. It’s true you set us on the right track; but you’ll own now that it was more by good luck than good guidance.’
‘It was a piece of very simple reasoning.’
‘Oh, come, now, come! Never be ashamed to own up. But what is all this? Bad business! Bad business! Stern facts here - no room for theories. How lucky that I happened to be out at Norwood over another case! I was at the station when message arrived. What d’you think the man died of?’

地下鉄モーゲート駅(Moorgate Tube Station)と
地下鉄リヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)の間にある
フィンズベリーサーカス(Finsbury Circus)を囲むオフィスビル群−
中央のビルには、数年前までメガバンクの一つが入居していたが、
同行が退去した後に、三菱地所が再開発。
また、右側のビルにも、数年前まで別のメガバンクが入居していた。

バーソロミュー・ショルトの殺害現場において、スコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)がホームズに出会った際に、話題にした宝石盗難事件があったビショップゲート(Bishopgate)と言うのは、正確には、ビショップスゲート(Bishopsgate)で、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内の北東にある地区のことだと思われる。
ビショップスゲート地区は、シティー・オブ・ロンドンの端に位置しており、ロンドン・イズリントン区(London Borough of Islington)やロンドン・ハックニー区(London Borough of Hackney)等と境界線を接している。

2017年9月23日土曜日

ガストン・ルルー作「黄色い部屋の謎」(原題:Le Mystere de la Chambre Jaune / 英題:The Mystery of the Yellow Room)

フランスにおいて、フランス語履修用に出版されている
ガストン・ルルー作「黄色い部屋の謎

「黄色い部屋の謎」(原題:Le Mystere de la Chambre Jaune / 英題:The Mystery of the Yellow Room)は、Sam Siciliano 作「シャーロック・ホームズの更なる冒険ーオペラ座の天使(The Further Adventures of Sherlock Holmes - The Angel of the Opera)」(1994年ー2015年1月24日付ブログで紹介済)のベースとなった小説「オペラ座の怪人(The Fantome de I’Opera / 英題:The Phantom of the Opera)」(1909年ー1910年)を執筆したフランスの小説家 / 新聞記者でもあったガストン・ルイス・アルフレッド・ルルー(Gaston Louis Alfred Leroux:1868年ー1927年)による推理小説で、1907年9月から同年11月にかけて、週刊の挿絵入り新聞「イリュストラシオン(L’illustration)」に連載されて、世間から高い評価を得ている。


1892年10月26日付の新聞によると、科学者のスタンガーソン博士(Professor Stangerson)が所有する邸宅「グランディール城(Chateau du Glandier)」の「黄色い部屋」と呼ばれる場所から、夜、彼の令嬢マチルド・スタンガーソン(Mademoiselle Mathilde Stangerson)の悲鳴が響き渡ったと報道されている。そして、邸宅内に居たスタンガーソン博士、執事や召使い達が「黄色い部屋」に駆け付けて、鍵がかかったドアを壊し、部屋の中に入ると、そこには、頭が血塗れになった令嬢が横たわっており、彼女は虫の息だった。令嬢を傷つけた犯人が居た痕跡は部屋の中に残っていたものの、犯人の姿はなく、部屋は内側から施錠されており、密室状態であった。

密室状態にあった「黄色い部屋」の中から、マチルド・スタンガーソンを瀕死の重傷にした犯人は、どうやって姿を消すことができたのだろうか?若き新聞記者であるジョーゼフ・ルールダビーユ(Joseph Rouletabille)は、彼の友人で弁護士のジャン・サンクレール(Jean Sainclair - 本小説の語り手)を伴って、この謎に挑むべく、現地へと向かう。
一方、フランス警察から現地に派遣されたフレデリック・ラルサン刑事(Frederic Larson)は、マチルド・スタンガーソンの婚約者で、科学者でもあるロベルト・ダルザック(Robert Darzac)を容疑者と考えていた。

九死に一生を得たマチルド・スタンガーソンに対する犯人の襲撃は、尚も続くのであった。そして、ある時、邸宅内で犯人の姿を見つけたルールダビーユが犯人を追ったが、途中で犯人は煙のように消え失せて、ルールダビーユはラルサン刑事と鉢合わせすることになった。
施錠された密室から姿を消し、更に、自分の後を追うルールダビーユの前から煙の如く消え失せた犯人… 彼は一体何者なのか?


ガストン・ルルー作「黄色い部屋の謎」は、密室トリックを扱った古典的作品として知られており、密室殺人や不可能状況下における殺人等を扱った推理小説で有名な米国の推理小説家であるジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)は、「三つの棺(The Hollow Man)」(1935年)事件において、探偵役のギデオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に「『黄色い部屋の謎』は、今までに書かれた中で、最も素晴らしい推理小説である。」と言わせている。


「黄色い部屋の謎」の続編として、「黒衣夫人の香り(原題:Le Parfum de la Dame en Noir / 英題:The Perfume of the Lady in Black)」(1909年)が、ガストン・ルルーによって執筆され、「黄色い部屋」とほぼ同じ登場人物が顔を見せているが、残念ながら、「黄色い部屋の謎」と比べると、フランス特有のロマンチックな内容が濃くなっていて、推理小説的な要素は乏しい。


なお、ガストン・ルルーの原稿及び初版において、「黄色い部屋の謎」の主人公として活躍するジョーゼフ・ルールダビーユの姓はボワタビーユ(Boitabille)だったが、その名前をペンネームとするジャーナリストが居て、彼からの抗議を受け、ガストン・ルルーは「ルールダビーユ」へと変更した。
ちなみに、ジョーゼフ・ルールダビーユの「ルールダビーユ」はあだ名であって、彼の本名はジョーゼフ・ジョゼファンである。

2017年9月17日日曜日

ロンドン ワンズワースロード(Wandsworth Road)

画面手前の道路が、ロンドン・ワンズワース区方面へと向かうワンズワースロードで、
画面奥の道路が、ヴォクスホール橋へと向かうワンズワースロード

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ヴォクスホール橋側から
ロンドン・ワンズワース区方面へと向かう(その1)

最初は、私達が乗った馬車がどの方面へ向かっているのか、私もある程度判っていたが、馬車の速度、霧やロンドンの地理に不案内であることから、直ぐに私は方向を見失ってしまい、非常に長い距離を進んでいるようだということを除くと、全く何も判らなくなった。一方、シャーロック・ホームズは決して方向を見失っておらず、私達が乗った馬車が広場を走り抜け、曲がりくねった通りを出たり入ったりする度、彼は通りの名前を呟いたのである。
「ロチェスターロウだ。」と、彼は言った。「次は、ヴィンセントスクエアだ。ちょうど今、ヴォクスホールブリッジロードに出たな。見たところ、僕達はサリー州方面へ向かっているようだ。そうだ。そうだと思ったよ。今、ヴォクスホール橋を渡っている。少しばかり、テムズ河の川面が見えるぞ。」. . .

「ワンズワースロードだ。」と、ホームズはいった。「プライオリーロード、ラークホールレーン、ストックウェルプレイス、ロバートストリート、コールドハーバーレーン。どうやら、僕達は上流階級が住む地域へ向かっている訳ではなさそうだな。」

ヴォクスホール橋側から
ロンドン・ワンズワース区方面へと向かう(その2)

At first I had some idea as to the direction in which we were driving; but soon, what with our pace, the fog, and my own limited knowledge of London, I lost my bearings, and knew nothing, save that we seemed to be going a very long way. Sherlock Holmes never at fault, however, and he muttered the names as the cab rattled through squares and in and out by tortuous by-streets.
‘Rochester Row,’ said he. ‘Now Vincent Square. Now we come out on the Vauxhall Bridge Road. We are making for the Surrey side, apparently. Yes. I thought so. Now we are on the bridge. You can catch glimpses of the river.’ . . .

‘Wandsworth Road,’ said my companion. ‘Priory Road. Larkhall Lane. Stockwell Place. Robert Street. Coldharbour Lane. Our quest does not appear to take us to very fashionable regions.’

ヴォクスホール橋側から
ロンドン・ワンズワース区方面へと向かう(その3)

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人を乗せた馬車がヴォクスホール橋(Vauxhall Bridgeー2017年9月16日付ブログで紹介済)を渡った後に通ったワンズワースロード(Wandsworth Road)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・ランベス区(London Borugh of Lambeth)のヴォクスホール地区(Vauxhall)内に所在している。

ロンドン・ワンズワース区側から
ヴォクスホール橋方面へと向かう(その1)

ワンズワースロードは、ヴォクスホール駅(Vauxhall Station)、地下鉄ヴォクスホール駅(Vauxhall Tube Station)やバスターミナル等を囲む環状道路 / ロータリー(roundabout)から始まり、ロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のクラッパム地区(Clapham)へ向かって、南西へ延びる長い通りである。

ロンドン・ワンズワース区側から
ヴォクスホール橋方面へと向かう(その2)

ワンズワースロードを南西へ向かって進んで行くと、進行方向左手にラークホールパーク(Larkhall Park)やワンズワースロード駅(Wandsworth Road Station)等が所在している。

ロンドン・ワンズワース区側から
ヴォクスホール橋方面へと向かう(その3)

バタシーパーク駅(Battersea Park Station)やクィーンズタウンロード(バタシー)駅(Queenstown Road (Battersea) Station)から南へ下ってくるクィーンズタウンロード(Queenstown Road)と交差した後、ワンズワースロードは、ラヴェンダーヒル通り(Lavender Hill)と名前を変える。

ロンドン・ワンズワース区側から
ヴォクスホール橋方面へと向かう(その4)

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人を乗せた馬車がワンズワースロードの次に通ったプライオリーロード(Priory Road)は、現在の住所表記上、この辺りには存在していないので、架空の通りである。

2017年9月16日土曜日

ロンドン ヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge)

ヴォクスホール橋の中央辺りからテムズ河南岸を見たところー
中央奥に見えるのは、テムズ河南岸沿いに並ぶ高級フラット群

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

テムズ河北岸のヴォクスホール橋入り口

奇妙な状況だった。私達は、知らない用件で知らない場所へと、馬車に乗って向かっていた。私達が受けたこの招待は、全くの悪ふざけかーこれはありえない仮説だがーそれとも、私達が向かう先に重要なことが待ち構えていると考えるに足る十分な根拠があるのだろうか。モースタン嬢の態度は、それまでと同じように、決意を固めた落ち着いたものだった。私はアフガニスタンへ従軍した思い出話をして、彼女を元気付けたり、そして楽しませようと努めたが、正直に言うと、私は自分自身がこの状況に非常に興奮して、私達の行き先に興味津々だったため、私の思い出話は少しばかり混乱していた。今でも、彼女は、私が動揺してこんな話をしたと言うのだ。ー真夜中に、マスケット銃(旧式歩兵銃)が私のテントの中を覗き込んだため、私がマスケット銃に向けて、二重銃身の虎の子を発砲した、と。最初は、私達が乗った馬車がどの方面へ向かっているのか、私もある程度判っていたが、馬車の速度、霧やロンドンの地理に不案内であることから、直ぐに私は方向を見失ってしまい、非常に長い距離を進んでいるようだということを除くと、全く何も判らなくなった。一方、シャーロック・ホームズは決して方向を見失っておらず、私達が乗った馬車が広場を走り抜け、曲がりくねった通りを出たり入ったりする度、彼は通りの名前を呟いたのである。
「ロチェスターロウだ。」と、彼は言った。「次は、ヴィンセントスクエアだ。ちょうど今、ヴォクスホールブリッジロードに出たな。見たところ、僕達はサリー州方面へ向かっているようだ。そうだ。そうだと思ったよ。今、ヴォクスホール橋を渡っている。少しばかり、テムズ河の川面が見えるぞ。」

ヴォクスホール橋からテムズ河南岸を望むー
右手奥に見えるのは、MI6 ビル

The situation was a curious one. We were driving to an unknown place, on an unknown errand. Yet our invitation was either a complete hoax - which was an inconceivable hypothesis - or else we had good reason to think that important issues might hang upon our journey. Miss Morstan’s demeanour was as resolute and collected as ever. I endeavoured to cheer and amuse her by reminiscences of my adventure in Afghanistan; but, to tell the truth, I was myself so excited at our situation, and so curious as to our destination, that my stories were slightly involved. To this day she declares that I told her one moving anecdote as to how a musket looked into my tent at the dead of night, and how I fired a double-barreled tiger cub at it. At first I had some idea as to the direction in which we were driving; but soon, what with our pace, the fog, and my own limited knowledge of London, I lost my bearings, and knew nothing, save that we seemed to be going a very long way. Sherlock Holmes never at fault, however, and he muttered the names as the cab rattled through squares and in and out by tortuous by-streets.
‘Rochester Row,’ said he. ‘Now Vincent Square. Now we come out on the Vauxhall Bridge Road. We are making for the Surrey side, apparently. Yes. I thought so. Now we are on the bridge. You can catch glimpses of the river.’

ヴォクスホール橋の中央辺りからテムズ河の下流を見たところー
生憎と、雨模様のお天気で、河が増水している

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人を乗せた馬車が渡ったヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge)は、テムズ河(River Thames)の北岸にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のピムリコ地区(Pimlico)とテムズ河の南岸にあるロンドン・ランベス区(London Borugh of Lambeth)のヴォクスホール地区(Vauxhall)を結ぶ橋である。

テムズ河で溺れている人を救助するのに使用する浮き輪

元々は、テムズ河北岸のハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)からテムズ河南岸のケニントン(Kennington)まで幹線道路を敷設する目的で、1806年、英国の技師であるラルフ・ドッド(Ralph Dodd:1756年ー1822年)から橋の建設計画が提案された。そして、1809年に橋の建設が議会によって承認され、橋建設のための会社であるヴォクスホール橋会社(Vauxhall Bridge Company)が設立された。
ヴォクスホール橋会社に対して、ラルフ・ドッドは13のアーチを有する橋の設計案を提出するも、受け入れられず、逆に担当から外されてしまう。彼の代わりに、スコットランド出身の技師であるジョン・レニー(John Rennie:1761年ー1821年)が設計者として選ばれ、7つのアーチを持つ石橋の設計案が会社内で承認された。
ところが、橋を建設するための資金が予定通り集まらなかったため、ヴォクスホール橋会社は建設費用がより安く済む鉄橋へと方針を転換する。ジョン・レニーは11のアーチを有する鉄橋の設計案を会社に提出したが、承認されず、その代わりに、英国の技師であるサミュエル・ベンサム(Samuel Bentham:1757年ー1831年)が設計した9つのアーチを持つ鉄橋案に基づいて、橋の建設工事が始まったのである。
にもかかわらず、建設工事の途中で、サミュエル・ベンサム案も却下となり、最終的には、スコットランド出身の技師であるジェイムズ・ウォーカー(James Walker:1781年ー1862年)が設計した9つのアーチを持つ鉄橋案(+石の桟橋)に基づいて、建設工事が進められた。

テムズ河南岸が段々と近づいてくる

上記のように、かなりの紆余曲折はあったが、建設工事が始まってから約5年後の1816年6月4日に橋は開通を無事に迎えた。
当時、認知症となったハノーヴァー朝の国王ジョージ3世(George III:1738年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の代わりに、摂政皇太子(Prince Regent:1811年ー1820年)となって政務を取り仕切った後の国王ジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)に因んで、橋は当初「リージェント橋(Regent Bridge)」と名付けられたが、間も無く地名に基づいた「ヴォクスホール橋」へと変更されたのである。

ヴォクスホール橋袂のテムズ河南岸沿いに並ぶ高級フラット群

その後、19世紀後半(1880年代頃)になると、橋は老朽化のため、架け替えの必要性が出てきた。「四つの署名」事件が発生したのは、1888年なので、ホームズ、ワトスンとモースタン嬢を乗せた馬車がヴォクスホール橋を渡ったのは、橋の老朽化がかなり進んだ頃である。

ヴォクスホール橋を渡りきって、テムズ河南岸に着いたところ

1889年にヴォクスホール橋の所有権を引き継いだロンドン・カウンティー・カウンシル(London County Council)が橋の架け替えを決定して、1895年に議会の承認を取得。
1898年、古い橋の解体を始める前に、橋の横に木製の仮橋が建設された。そして、ロンドン・カウンティー・カウンシルの主席技師(Chief Engineer)であった英国の技師サー・アレクサンダー・ビニー(Sir Alexander Binnie:1839年ー1917年)と後(1901年)に主席技師となったアイルランド出身のサー・モーリス・フィッツモーリス(Sir Maurice Fitzmaurice:1861年ー1924年)による設計案に基づいて、新橋の建設が始まった。
当初の予定から遅れること、5年後の1906年5月26日、5つのアーチを持つ鋼鉄と花崗岩で出来た新橋が完成して、現在に至っている。
2008年にヴォクスホール橋はグレードⅡ(Grade II listed structure)に指定されている。

2017年9月10日日曜日

ガストン・ルルー(Gaston Leroux)

地下鉄の壁に架けられている
ミュージカル「オペラ座の怪人」のポスター
(公演30周年を迎えている)

Sam Siciliano 作「シャーロック・ホームズの更なる冒険ーオペラ座の天使(The Further Adventures of Sherlock Holmes - The Angel of the Opera)」(1994年ー2015年1月24日付ブログで紹介済)のベースとなった小説「オペラ座の怪人(The Fantome de I’Opera / 英題:The Phantom of the Opera)」(1909年ー1910年)を執筆したのは、フランスの小説家で、新聞記者でもあったガストン・ルイス・アルフレッド・ルルー(Gaston Louis Alfred Leroux:1868年ー1927年)である。

ガストン・ルルーは、1868年5月6日、フランスのパリにおいて、衣料品店を営む富裕な夫妻(ノルマンディー出身)の間に出生。
学校における彼の成績が非常に良かった(特にラテン語が得意)ため、教師からは、将来の職業として、作家、あるいは、弁護士を勧められ、1886年にパリのロースクールに入学する。1889年、彼はロースクールを卒業するが、母親に続いて、父親も亡くしてしまう。父親の死に伴い、彼は巨額な遺産を受け取るものの、弟妹3人の扶養のため、相続した遺産を使い尽くしてしまった。

翌年の1890年に、彼は弁護士資格を取得し、弁護士補として働き始める。1891年に彼は法廷で「エコー・ド・パリ(L’Echo de Paris)」紙のロベール・シャルヴェーと知り合って、シャルヴェーの秘書となり、法廷記者として法律や訴訟にかかる記事を書くとともに、劇評も手掛ける。

その後、彼は「ル・マタン(Le Matin)」紙に入社すると、海外特派員に起用され、1904年には日露戦争、また、1905年にはロシア第一革命等を取材した。その頃(1903年)、彼は「テオフラスト・ロンゲの二重生活(La Double Vie de Theophraste Longuet)」等の怪奇小説も執筆している。

1907年9月から同年11月にかけて、彼は週刊の挿絵入り新聞「イリュストラシオン(L’Illustration)」紙の文芸付録に推理小説「黄色い部屋の謎(Le Mystere de la Chambre Jaune / 英題:The Mystery of the Yellow Room)」を連載して、世間から高い評価を得る。1908年に出版された「黄色い部屋の謎」に探偵役として登場した新聞記者のジョーゼフ・ルールタビーユ(Joseph Rouletabille)を主人公としたシリーズ作品「黒衣婦人の香り(Le Parfum de la dame en noir)」(1909年)等が1923年まで数作続くが、後続の作品はスリラー的な要素が強く、「黄色い部屋の謎」を除くと、残念ながら、推理小説としての評価は低い。なお、「黄色い部屋の謎」は、何度も映画やTV映画として制作されている。

更に、彼は1909年9月23日から1910年1月8日まで日刊紙「ル・ゴロワ(Le Gaulois)」に「オペラ座の怪人」を連載し、世間の大評判を呼ぶ。1910年に出版された「オペラ座の怪人」は、今に至るまで、多くの映画、TV映画やミュージカル等として制作されている。

他にも、彼は怪人シェリ・ビビ(Cheri Bibi)を主人公としたシリーズ作品を1913年から1926年にかけて発表している。
上記のように、ガストン・ルルーは、推理小説や怪奇小説の著者として、一般に知られているが、SF、ファンタジー、歴史小説や政治小説等も数多く手掛けている。

ジョーゼフ・ルールタビーユシリーズや怪人シェリ・ビビシリーズ等、人気作家として過ごしていたが、1925年に健康を害し、視力も衰えたものの、執筆を続けた結果、1927年4月15日、手術後の尿毒症のため、ニースにおいて死去、58歳で、59歳の誕生日まであと3週間程だった。

2017年9月9日土曜日

ロンドン ヴォクスホールブリッジロード(Vauxhall Bridge Road)

ヴォクスホールブリッジロード沿いに建つフラット

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ロチェスターロウ(Rochester Row)から見た
ヴォクスホールブリッジロード

奇妙な状況だった。私達は、知らない用件で知らない場所へと、馬車に乗って向かっていた。私達が受けたこの招待は、全くの悪ふざけかーこれはありえない仮説だがーそれとも、私達が向かう先に重要なことが待ち構えていると考えるに足る十分な根拠があるのだろうか。モースタン嬢の態度は、それまでと同じように、決意を固めた落ち着いたものだった。私はアフガニスタンへ従軍した思い出話をして、彼女を元気付けたり、そして楽しませようと努めたが、正直に言うと、私は自分自身がこの状況に非常に興奮して、私達の行き先に興味津々だったため、私の思い出話は少しばかり混乱していた。今でも、彼女は、私が動揺してこんな話をしたと言うのだ。ー真夜中に、マスケット銃(旧式歩兵銃)が私のテントの中を覗き込んだため、私がマスケット銃に向けて、二重銃身の虎の子を発砲した、と。最初は、私達が乗った馬車がどの方面へ向かっているのか、私もある程度判っていたが、馬車の速度、霧やロンドンの地理に不案内であることから、直ぐに私は方向を見失ってしまい、非常に長い距離を進んでいるようだということを除くと、全く何も判らなくなった。一方、シャーロック・ホームズは決して方向を見失っておらず、私達が乗った馬車が広場を走り抜け、曲がりくねった通りを出たり入ったりする度、彼は通りの名前を呟いたのである。
「ロチェスターロウだ。」と、彼は言った。「次は、ヴィンセントスクエアだ。ちょうど今、ヴォクスホールブリッジロードに出たな。見たところ、僕達はサリー州方面へ向かっているようだ。そうだ。そうだと思ったよ。今、ヴォクスホール橋を渡っている。少しばかり、テムズ河の川面が見えるぞ。」

ロチェスターロウとヴォクスホールブリッジロードが交差した地点

The situation was a curious one. We were driving to an unknown place, on an unknown errand. Yet our invitation was either a complete hoax - which was an inconceivable hypothesis - or else we had good reason to think that important issues might hang upon our journey. Miss Morstan’s demeanour was as resolute and collected as ever. I endeavoured to cheer and amuse her by reminiscences of my adventure in Afghanistan; but, to tell the truth, I was myself so excited at our situation, and so curious as to our destination, that my stories were slightly involved. To this day she declares that I told her one moving anecdote as to how a musket looked into my tent at the dead of night, and how I fired a double-barreled tiger cub at it. At first I had some idea as to the direction in which we were driving; but soon, what with our pace, the fog, and my own limited knowledge of London, I lost my bearings, and knew nothing, save that we seemed to be going a very long way. Sherlock Holmes never at fault, however, and he muttered the names as the cab rattled through squares and in and out by tortuous by-streets.
‘Rochester Row,’ said he. ‘Now Vincent Square. Now we come out on the Vauxhall Bridge Road. We are making for the Surrey side, apparently. Yes. I thought so. Now we are on the bridge. You can catch glimpses of the river.’

ヴィンセントスクエア(Vincent Square)から見た
ヴォクスホールブリッジロード(画面奥)

ヴォクスホールブリッジロード(Vauxhall Bridge Road)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストミンスター地区(Westminster)内に所在している。

ヴォクスホールブリッジロードから
ヴィクトリア駅方面を見たところ

ヴォクスホールブリッジロードの北側はヴィクトリア駅(Victoria Stationー2015年6月13日付ブログで紹介済)の前から始まり、テムズ河(River Thames)に架かるヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge)へと向かって、南東に延びている。

ヴォクスホールブリッジロードから
ヴォクスホール橋方面を見たところ

ヴォクスホールブリッジロードは、ヴォクスホール橋を通じて、テムズ河の北岸と南岸を結ぶ幹線道路で、平日は昼夜を問わず、交通渋滞が激しい。

2017年9月3日日曜日

ロンドン ダウンハウス(Down House)

玄関口へと至る前庭から見たダウンハウスの全景

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの会話に出てきた英国の自然科学者、地質学者かつ生物学者であるチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2017年4月15日付ブログで紹介済)が住んでいた家ダウンハウス(Down House)が、ロンドンの南東部ロンドン・ブロムリー区(London Borough of Bromley)内に残っており、オーピントン(Orpington)という町の南西にあるダウン村(Downe)に所在している。なお、チャールズ・ダーウィンが住んでいた当時、ダウン村はケント州(Kent)に属していたが、1965年にロンドン・ブロムリー区へ編入された。

ダウンハウスの入口

1839年1月に結婚して、同年に長男のウィリアム(William)、そして、1841年に長女のアン(Anne)の二人の子供を設けていたチャールズ・ダーウィンと妻のエマ(Emma)は、今後の子育てを考慮、騒音に満ちて、空気が悪いロンドン市内よりも、ロンドン郊外での生活を望んだ。資金の援助について、父親からの了解を得たチャールズとエマの二人は家探しを始め、1842年7月後半、ダウンハウスを訪れた。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)

ダウンハウスを訪れた最初の日は天候が悪い上に寒かったため、印象はあまり良くなかったものの、天候が回復した翌日、3階建ての家から見えるダウン村の景色に満足した二人は、家の状態があまり良くなかったが、長い間、家探しを続けて疲れ果てていたため、この家へ引っ越すことに決めた。実際、この頃、妻のエマは第三子を妊娠しており、これ以上家探しを続けるには、無理があったのである。


チャールズ・ダーウィンは、当初1年間賃借して住み、状況を確かめた上で、家を購入しようとしたが、持ち主であるジェイムズ・ドルモンド牧師(Reverend James Drummond)は賃貸をよしとせず、売却を望んだ。牧師の要望を聞き入れて、家の購入を決めたダーウィン一家は同年9月中旬(エマと子供達:9月14日+チャールズ:9月17日)にダウンハウスへ引っ越したのである。ダウンハウスへ引っ越した直後の同年9月23日、エマは次女エレノア(Eleanor)を出産したが、残念ながら、同年10月16日、彼女は亡くなってしまう。
次女エレノアの早世の悲しみを乗り越えたチャールズ・ダーウィンは、翌年の1843年3月末からダウンハウスの大掛かりな改装工事に着手する。ダーウィン一家がこの家に暮らし始めた以降、1843年から1856年にかけて、夫妻は更に7人の子宝に恵まれる。


1838年に自然選択説に既に到達していたチャールズ・ダーウィンであったが、広範な研究には膨大な時間が必要であり、最終的に、進化論に関する著作「種の起源(On the Origin of the Species)」はダウンハウスにおいて執筆されて、1859年11月24日に出版され、英国内に様々な論争を引き起こしたのである。


1882年4月19日、チャールズ・ダーウィンは、ダウンハウス敷地内にある小道 Sandwalk を散歩中に狭心症で倒れて、妻と子供達に看取られながら、73歳の生涯を終えた。
彼としては、ダウン村のセントメアリー教会の墓地に埋葬されるものと思っていたが、彼の信奉者達による強い後押し等があって、彼の遺体は、国葬を経て、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。

ダウンハウスの外壁

1896年に彼の妻エマが死去した後、1897年にダウンハウスはダーウィン夫妻の子供によって賃貸に出された。その後、1907年2月から1922年4月にかけて、ダウンハウスは女性専用の全寮制学校である Downe School for Girls として使用される。

ダウンハウスの玄関口上部

1924年から1927年にかけて、別の女性専用の全寮制学校によって使用された後、外科医のジョージ・バックストン・ブラウン(Sir George Buckston Browne:1850年ー1945年)が、1927年にチャールズ・ダーウィンの子孫からダウンハウスを購入の上、改修工事を行い、メンバーとなっている「British Association for the Advancement of Science」へ寄付する。そして、1929年6月7日、ダウンハウスはダーウィン博物館(Darwin Museum)として一般に公開される。この功績により、1932年にジョージ・バックストン・ブラウンはナイトの爵位を受けている。
その後、維持費用の問題もあって、1953年にダウンハウスは「British Association for the Advancement of Science」から「王立外科協会(Royal College of Surgeons)」に寄付され、翌年の1954年にグレードⅠ(Grade I listed building)の指定を受ける。

イングリッシュヘリテージが販売している
ダウンハウスの冊子(パンフレット)

1996年にダウンハウスの管理はイングリッシュヘリテージ(English Heritage)へと移り、1998年4月から一般公開されて、現在に至っている。