2017年12月31日日曜日

エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授(Professor Abraham Van Helsing)

ソノラマ文庫ネクストで出版されている
井上雅彦氏作「ヤング・ヴァン・ヘルシング1−
異人館の妖魔(ファンタズマ)」の表紙
ヴァン・ヘルシング教授の若き日を描く時代伝記小説で、西暦1825年の長崎が舞台となる。
なお、表紙のオブジェは、松野光洋氏が造形。

アイルランド人の小説家であるブラム・ストーカー(Bram Stoker)こと、エイブラハム・ストーカー(Abraham Stoker:1847年ー1912年)が1897年に発表したゴシック小説 / ホラー小説「吸血鬼ドラキュラ(Dracula→2017年12月24日付ブログおよび同年12月26日付ブログで紹介済)」に登場するエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授(Professor Abraham Van Helsing)は、吸血鬼であるドラキュラ伯爵(Count Dracula)と闘う良心的な人物として描かれている。

ソノラマ文庫ネクストで出版されている
井上雅彦氏作「ヤング・ヴァン・ヘルシング2−屋敷の夢魔(ラミア)」の表紙
ヴァン・ヘルシング教授の若き日を描く時代伝記小説で、江戸が舞台となる。
なお、表紙のオブジェは、松野光洋氏が造形

ブラム・ストーカーの原作上、ヴァン・ヘルシングはアムステルダム大学の名誉教授で、恰幅の良い60歳の老年として設定されている。彼の専門は精神医学で、吸血鬼研究を専門としている訳ではない。
教え子であるジャック・セワード医師(Dr. Jack Seward)の依頼を受けて、ロンドンにやって来たヴァン・ヘルシング教授は、ジャック・セワード医師が求婚していたルーシー・ウェステンラ(Lucy Westenra)が吸血鬼に狙われていることを看破する。そして、ヴァン・ヘルシング教授は、

(1)ジャック・セワード医師 → ドラキュラ伯爵が英国進出のための足掛かりとして購入しようとしていたロンドンのカーファックス屋敷(Carfax)の近くにある精神病院の院長で、ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人。
(2)アーサー・ホルムウッド(Arthur Holmwood) → ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人で、後に彼女の婚約者となる。男爵である父親の死去に伴い、ゴダルミング卿(Lord Godalming)の爵位を受け継ぐ。
(3)クウィンシー・モリス(Quincy Morris) → 米国テキサス州の大地主で、ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人。
(4)ジョナサン・ハーカー(Jonathan Harker) → エクセター(Exeter)に事務所を構えるピーター・ホーキンズ(Peter Hawkins)の代理として、カーファックス屋敷の購入手続を行うため、トランシルヴァニア(Transylvania)にあるドラキュラ城(Castle Dracula)へ派遣された新人事務弁護士で、ドラキュラ伯爵に囚われるものの、命からがら城を脱出する。

と一緒に、ドラキュラ伯爵と闘うが、どちらかと言うと、前面に立って闘うよりも、若い彼ら達を補佐する役回りである。
物語の終盤、ロンドンからトランシルヴァニアへと退却するドラキュラ伯爵をヴァン・ヘルシング教授達は追撃し、クウィンシー・モリスを戦死で失うが、ドラキュラ伯爵配下の者達を倒して、馬車からドラキュラ伯爵が眠る棺を引き摺り下ろす。そして、ヴァン・ヘルシング教授達は、ドラキュラ伯爵の心臓に杭を打ち込んだ後、彼の首を切り落として、吸血鬼を見事滅ぼしたのである。

1920年代に英国でロングランを記録した舞台化において、劇団主宰者かつ劇団の看板俳優で、自ら脚本も担当したへミルトン・ディーンが、ドラキュラ伯爵ではなく、ヴァン・ヘルシング教授を演じた。
これが先駆けとなって、その後の舞台化や映画化では、ヴァン・ヘルシング教授は、ドラキュラ伯爵と直接、また、単独で闘うケースが多くなり、ブラム・ストーカーの原作に比べると、より重要な役割を占めることになった。
その結果、現在、ヴァン・ヘルシング教授と言うと、吸血鬼ハンター(vampire hunter)の代名詞的存在として、一般に認識されている。

2017年12月30日土曜日

ロンドン ナインエルムズ地区(Nine Elms)-その1

ナインエルムズ地区へと向かうナインエルムズレーン(Nine Elms Lane)の入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

テムズ河とナインエルムズレーンに挟まれた一帯には、
テムズ河を含む絶好の眺望を得られる関係上、
高層フラットが続々と建設されている

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を進んで行った。

ナインエルムズレーンの西側でも、現在、再開発が進められている

私達はナインエルムズ地区を駆け、パブ「ホワイトイーグル」を通り過ぎて、ブロデリック&ネルソンの広い材木置き場までやって来た。ここで、犬のトビーは興奮で半狂乱となり、道を脇に逸れると、横門を通って、囲い地の中へ入って行った。そこでは、木挽(こびき)達が既に仕事を始めていた。犬は大鋸屑(おがくず)と鉋屑(かんなくず)の間を駆け抜け、細路を通って、二つの材木置き場の間にある通路を回り、遂に勝ち誇ったような吠え声をあげると、運ばれてきた手押し車の上にまだ置かれているままの大きな樽の上に跳び乗ったのである。舌をだらりと垂らして、目をパチクリさせると、「よくやった!お手柄だ!」と言って欲しいかのように、私達を交互に見ながら、トビーは樽の上に立っていた。樽のおけ板と手押し車の車輪は黒い液体で汚れており、そして、辺り一帯はクレオソートの臭いが強く漂っていた。
シャーロック・ホームズと私はぽかんとしてお互いを見ていたが、それから抑えきれないように同時に笑い出したのである。

Our course now ran down Nine Elms until we came to Broderick and Nelson’s large timber-yard, just past the White Eagle tavern. Here the dog, frantic with excitement, turned down through the side gate into the enclosure, where the sawyers were already at work. On the dog raced through sawdust and shavings, down an alley, round a passage, between two wood-piles, and finally, with a triumphant yelp, sprang upon a large barrel which still stood upon the hand-trolley on which it had been brought. With lolling tongue and blinking eyes, Toby stood upon the cask, looking from one to the other of us for some sign of appreciation. The staves of the barrel and the wheels of the trolley were smeared with a dark liquid, and the whole air was heavy with the smell of creosote.
Sherlock Holmes and I looked blankly at each other, and then burst simultaneously into an uncontrollable fit of laughter.


バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達がホームズとワトスンの二人が頼りにした犬のトビーの追跡を撒いた材木置き場があるナインエルムズ地区(Nine Elms)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)内にある。
ホームズとワトスンが犬のトビーを連れて、今まで駆け抜けて来たストリーサム地区、ブリクストン地区やキャンバーウェル地区等はロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内にあり、ロンドン・ワンズワース区はロンドン・ランベス区の直ぐ西側に位置している。

2017年12月26日火曜日

吸血鬼ドラキュラ(Dracula)–その2

ラム・ストーカーが1879年から1898年にかけて支配人を務めていたライシアム劇場

アイルランド人の小説家であるブラム・ストーカー(Bram Stoker)こと、エイブラハム・ストーカー(Abraham Stoker:1847年ー1912年)がゴシック小説 / ホラー小説の「吸血鬼ドラキュラ」を出版した1897年、新聞の劇評が縁で知り合ったシェイクスピア俳優のサー・ヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving:1838年ー1905年)の依頼に応じて、ブラム・ストーカーは、アーヴィング劇団の世話人兼同劇団が拠点としていたライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)の支配人を、1879年から1898年にかけて務めていた。

ライシアム劇場の外壁(裏手)に刻まれている
ブラム・ストーカーの名前

アイルランドのダブリンに出生したブラム・ストーカーは、ダブリンにあるトリニティー・カレッジ(Trinity College)を卒業した後、次第に演劇に興味を抱き、劇評を書き始め、大学の先輩が発行する新聞「ダブリン・イーブニング・メール(Dublin Evening Mail)」に寄稿する。この大学の先輩がジョーゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(Joseph Sheridan Le Fanu:1814年ー1873年)で、1871年には女吸血鬼小説「カーミラ(Carmilla)」を発表しており、ブラム・ストーカーは、まず最初に、本作品の影響を受けたものと思われる。

ライシアム劇場の外壁(裏手)に刻まれている
サー・ヘンリー・アーヴィングの名前

ダブリンからロンドンへ移り住んだ後、ブラム・ストーカーは、欧州内に残る吸血鬼の伝説や伝承の調査に数年を費やす。そして、1890年に英国北東部ノースヨークシャー州(North Yorksire)東部のエスク川(River Esk)河口にある漁港ウィットビー(Whitby)を訪れた際、彼は「吸血鬼ドラキュラ」の構想を得たと言われている。そのため、彼が発表した「吸血鬼ドラキュラ」において、トランシルヴァニア(Transylvania)からやって来たドラキュラ伯爵(Count Dracula)が上陸する英国最初の場所として、ウィットビーが選ばれたのである。


ブラム・ストーカーが住んでいた
セントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)の全景

その後、図書館で、「串刺し公ヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes the Impaler)」と呼ばれたワラキア公ヴラド3世(Vlad III Dracula of Wallachia:1431年ー1476年)の記述を見つけたブラム・ストーカーは、自分の構想をまとめて、1897年に「吸血鬼ドラキュラ」を出版した。
サー・ヘンリー・アーヴィングが直ちに同作品を演劇化したため、ブラム・ストーカーの小説は非常に大きな反響を得たとのこと。
なお、一般に、吸血鬼ドラキュラのモデルは、ワラキア公ヴラド3世とされているが、実際のモデルは、サー・ヘンリー・アーヴィングだったという説も存在している。

ポートレートギャラリー(Portrait Gallery)の横の広場に設置されている
サー・ヘンリー・アーヴィングのブロンズ像

ワラキア公ヴラド3世は、領地内の統制のため、裏切りを行った貴族階級の家臣達に対して、見せしめとして、本来は平民への刑罰であって貴族階級には行わない串刺し刑を実施したことから、「串刺し公」と呼ばれているが、彼にまつわる吸血鬼関係の記録や伝説・伝承は存在していない。まあ、ヴラド家の居城があったトランシルヴァニアにも、吸血鬼関係の伝説・伝承は残っていない。

吸血鬼であるドラキュラ伯爵がトランシルヴァニア(ルーマニア)出身であることが良しとされなかったのか、ブラム・ストーカーの小説は、長い間、ルーマニア内で発禁書扱いになっていて、同作品がルーマニア語に初めて翻訳されたのは、1989年のルーマニア革命によって、共産主義政権が終わった後の1990年である。

2017年12月24日日曜日

吸血鬼ドラキュラ(Dracula)−その1

創元推理文庫「吸血鬼ドラキュラ」の表紙
表紙のオブジェは、松野光洋氏が造形。

Loren D. Estleman 作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / シャーロック・ホームズ対ドラキュラ(The further adventures of Sherlock Holmes / Sherlock Holmes vs. Dracula)」(1978年→2015年1月11日付ブログで紹介済)のベースとなった「吸血鬼ドラキュラ(Dracula)」は、アイルランド人の小説家であるブラム・ストーカー(Bram Stoker)こと、エイブラハム・ストーカー(Abraham Stoker:1847年ー1912年)が執筆したゴシック小説 / ホラー小説である。

小説の時代設定は現代で、最終章において、7年後のことが語られているので、1880年代の5月3日から同年11月6日にかけての話であり、英国のウィトビー(Whitby)やロンドン、そして、トランシルヴァニア(Transylvania)が主な舞台となる。物語は三人称で語られていて、全て手紙、日記、新聞記事や航海日誌等による記述で、ストーリーが構成されている。

英国南西部デヴォン州(Devon)の州都エクセター(Exeter)で弁護士事務所を営むピーター・ホーキンズ(Peter Hawkins)の代理として、新人事務弁護士(solicitor)であるジョナサン・ハーカー(Jonathan Harker)が、ロンドンにあるカーファックス屋敷(Carfax)を購入したいと依頼して来たドラキュラ伯爵(Count Dracula)を訪ねるために、トランシルヴァニアのカルパチア山脈にあるドラキュラ城(Castle Dracula)へやって来るところから、物語は始まる。
実は、ドラキュラ伯爵は吸血鬼で、新たな獲物を求めて、英国への進出を狙っていたのである。ジョナサン・ハーカーがトランシルヴァニアへ呼び寄せられたのは、ドラキュラ伯爵による罠で、彼の配下である三人の女吸血鬼によって、ジョナサン・ハーカーはドラキュラ城で囚われの身となってしまうが、彼は命からがらなんとかドラキュラ城から脱出する。

その後、間もなくして、英国北東部ノースヨークシャー州(North Yorkshire)東部のエスク川(River Esk)河口にある漁港ウィットビーに、ロシア船籍の船デメテール号(Demeter)が突然姿を現して難破する。船内には、船長一人しか居なかった。だた一人生き残った船長によると、船内に居た乗組員は、航海中に一人ずつ姿を消していき、最後には自分だけが残ったと言う。デメテール号が港で難破した際、巨大な犬のような生き物が、船の甲板から陸地へ跳び移ったのが目撃された。それは、吸血鬼ドラキュラの化身であり、遂に彼は英国への上陸を果たしたのである。
心臓が悪い母親と一緒に、ウィットビーに滞在しているルーシー・ウェステンラ(Lucy Wsetenra)は、アーサー・ホルムウッド(Arthur Holmwood)、ジャック・セワード医師(Dr. Jack Seward)とクウィンシー・モリス(Quincey Morris)の親友三人組から求婚され、彼女はアーサー・ホルムウッドの求婚を受ける。その一方で、彼女は夢遊病であり、彼女の親友で、かつ、ジョナサン・ハーカーの婚約者であるウィルヘルミナ・マレー(Wilhelmina Murray)は、彼女のことを心配していた。この夢遊病が元で、ルーシー・ウェステンラはドラキュラ伯爵に襲われ、英国での最初の犠牲者となってしまう。ルーシー・ウェステンラの身を案じたジャック・セワード医師は、自分の恩師であるエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授(Professor Abraham Van Helsing)に助けを求め、彼女の治療を依頼するのであった。

吸血鬼であるドラキュラ伯爵を除く主要な登場人物は、以下の通り。
<ドラキュラ伯爵と戦う人達>
(1)ジョナサン・ハーカー → ピーター・ホーキンズの代理として、ロンドンにあるカーファックス屋敷の購入を依頼された新人事務弁護士
(2)アーサー・ホルムウッド → ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人で、後に彼女の婚約者となる。男爵である父親の死去に伴い、ゴダルミング卿(Lord Godalming)の爵位を受け継ぐ。
(3)ジャック・セワード → カーファックス屋敷の近くにある精神病院の院長で、ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人。
(4)クウィンシー・モリス → 米国テキサス州の大地主で、ルーシー・ウェステンラの求婚者の一人。
(5)エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授 → ジャック・セワードの恩師で、精神医学を専門とするアムステルダム大学の名誉教授。
<ドラキュラ伯爵に狙われる犠牲者達>
(6)ルーシー・ウェステンラ → 心臓が悪い母親と一緒に、ウィットビーに滞在している女性。ウィルヘルミナ・マレーの親友で、アーサー・ホルムウッドの婚約者。
(7)レンフィールド(Renfield) → ジャック・セワードが院長を務める精神病院に入院している患者で、蝿、、蜘蛛、鳥や鼠等を食べ、その命を奪うという独自の観念を有する。
(8)ウィルヘルミナ・マレー → 教師。ルーシー・ウェステンラの親友で、ジョナサン・ハーカーの婚約者。

2017年12月23日土曜日

ロンドン ボンドストリート / マイルズストリート / ナイツプレイス(Bond Street / Miles Street / Knight’s Place)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。

彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。


ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)、そして、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)を進んで行った。


ケニントンレーンの外れで、道はボンドストリートとマイルズストリートを越えて、少しずつ左へ折れていった。マイルズストリートがナイツプレイスへと向かう地点で、犬のトビーは前進を止めると、片方の耳を上げ、もう一方の耳を垂らして、行ったり来たりし始めた。見るからに優柔不断な様子だった。それから、トビーはあたかも自分の困惑に対して同情を求めるかのように、時々私達を見上げながら、堂々巡りのようによたよたと歩き回ったのである。
「一体全体、トビーは何に戸惑っているんだ?」と、ホームズは唸った。「犯人達が馬車に乗ったり、気球に乗ったりは、絶対していない筈だ。」
「多分、犯人達は、暫くの間、ここに立っていたのではないだろうか?」と、私は助け舟を出した。
「ああ!大丈夫だ。トビーはまた前進を始めた。」と、ホームズは、ホッとしたような口調で言った。


At the foot of Kennington Lane they had edged away to the left through Bond Street and Miles Street where the latter street turns into Knight’s Place. Toby ceased to advance, but began to run backwards and forwards with one ear cocked and the other drooping, the very picture of canine indecision. Then he waddled round in circles, looking up to us from time to time, as if to ask for sympathy in his embarrassment.
‘What the deduce is the matter with the dog?’ Growled Holmes. ‘They surely would not take a cab, or go off in a ballon.’
‘Perhaps they stood here for some time.’ I suggested.
‘Ah! It’s all right. He’s off again,’ said my companion, in a tone of relief.


犬のトビーに連れられて、ロンドンの南方面からストリーサム地区、ブリクストン地区、キャンバーウェル地区、そして、オヴァールクリケット場の横と北上して来たホームズとワトスンの二人は、地理的には、ケニントンレーンを東側から西側へと進んだ筈である。何故ならば、彼らは、この後、テムズ河(River Thames)沿いに、ナインエルムズ地区(Nine Elms)へと更に西に向かうことが、コナン・ドイルの原作上、記されているからだ。コナン・ドイルの原作において、ホームズ達は、ケニントンレーンの外れで、ボンドストリートやマイルズストリートを越えて、ナイツプレイスへと向かう地点で、一旦前進を止めている。ということは、ケニントンレーンの西端は、つまり、地下鉄ヴォクスホール駅(Vauxhall Tube Station)近辺に、ボンドストリート、マイルズストリートやナイツプレイスは所在していることになるが、実際には、現在の住所表記上、残念ながら、上記の3つの通りは一つも存在しておらず、架空の住所である。

2017年12月17日日曜日

ヴィクトリア女王(Queen Victoria)−その2

テムズ河(River Thames)に架かる
ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)の北岸に設置されている
ヴィクトリア女王のブロンズ像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」の最後で、シャーロック・ホームズがジョン・H・ワトスンに対して、「ある慈悲深い女性(a certain gracious lady)」と曖昧に言及しているヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の治世中、首相自身は重複するものの、全部で20の内閣が彼女に仕えた。「ブルース・パーティントン型設計図」事件が発生した1895年11月の少し前に該る1895年6月28日、保守党の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が自由党と連立して、第3代ソールズベリー侯爵内閣(1895年ー1902年)を組閣し、以降、ヴィクトリア女王の崩御まで、彼が首相を務めた。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その4)

第3代ソールズベリー侯爵は、民主主義を嫌う貴族主義的な人物ではあったが、斬新的な内政改革を行った。一方、外交面では、社会主義と帝国主義を統合させた「社会帝国主義者」として知られるジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)を植民相にして、第3代ソールズベリー公爵は積極的な帝国主義政策を推敲して、大英帝国の更なる拡張を果たした。ヴィクトリア女王は、第3代ソールズベリー侯爵内閣による国政に安心 / 満足して、彼女が政治に口を出すことが次第になくなっていき、立憲君主化が一層進展したのである。晩年、ヴィクトリア女王は身の回りのことや趣味に没頭するようになっていった。

ヴィクトリア女王のブロンズ像の後ろには、
テムズリンク(Thameslink)の
ブラックフライアーズ駅(Blackfriars Station)と
高層ビルの「ザ・シャード(The Shard)」が見える

「ブルース・パーティントン型設計図」事件が発生した1895年11月当時、第3代ソールズベリー侯爵内閣の植民相(在任期間: 1895年ー1903年)だったジョーゼフ・チェンバレンは、帝国主義の次の標的を南アフリカに定めていた。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その5)

ケーブ植民地(Cape Colony)の首相で、かつ、勅許会社南アフリカ会社(British South Africa Company)の社長でもあったセシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rose:1853年ー1902年)の首席補佐官(ローデシア行政官)を務めていたレアンダー・スター・ジェームソン(Leander Star Jameson:1853年ー1917年)は、1895年12月末から1896年初頭にかけて、500名程の南アフリカ会社所属の騎馬警察隊を率いて、反英的なボーア人(オランダ系移民の子孫)国家であるトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名: South African Republic)へと侵入した。北アフリカのカイロと南アフリカのケープ植民地を鉄道で繋いで、アフリカ大陸を縦断する大英帝国通商路を建設するという壮大な計画があり、その進路上に存在するトランスヴァール共和国が邪魔だったのである。

「ザ・シャードビル(画面左下)」は、テムズ河の南岸にあり、
ロンドンブリッジ駅(London Bridge Station)の近くに建っている

また、トランスヴァール共和国では、金鉱が発掘されて、ヨハネスブルグの町が建設され、国が潤い始めていた。そのため、セシル・ジョン・ローズとレアンダー・スター・ジェームソン達は、トランスヴァール共和国の金鉱を奪おうとしていたのである。彼らの計画があまりにも杜撰だったので、ジェームソン軍はトランスヴァール共和国軍に包囲されて、直ぐに降伏した。この戦闘が、ジェームソン事件(Jameson Raid)である。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その6)

第一次ボーア戦争(1st Anglo - Boer War:1880年12月16日 - 1881年3月23日)とジェームソン事件(1895年12月29日 - 1896年1月2日)において、トランスヴァール共和国に惨敗したため、大英帝国側には大きな火種が残り、数年後、ヴィクトリア女王の晩年に、第2次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日 - 1902年5月31日)を引き起こすのである。

2017年12月16日土曜日

ロンドン ケニントンレーン(Kennington Lane)

ケニントンレーンの西端の角に建つパブ「ロイヤル ヴォクスホール タヴァーン(Royal Vauxhall Tavern)」

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。

彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。

サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

ケニントンレーンの西端から東方面を望む(その1)

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。

ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ケニントンレーンの西端から東方面を望む(その2)

私達は、ストリーサム地区、ブリクストン地区やキャンバーウェル地区を横切り、オヴァールクリケット場の東側へ行く脇道を通り抜けて、ケニントンレーンへと達した。私達が追っている犯人の男達は、おそらく人目につかないようにと警戒して、奇妙なジグザクの経路を通っているようだった。並行した脇道がある場合には、彼らは決して幹線道路を通らないようにしていたのである。

We had traversed Streatham, Brixton, Camberwell, and now found ourselves in Kennington Lane, having borne away through the side-streets to the east of the Oval. The men whom we pursued seemed to have taken a curiously zig-zag road, with the idea probably of escaping observation. They had never kept to the main road if a parallel side-street would serve their turn.

ケニントンレーンの東側から西方面を望む

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、そして、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)を横切り、オヴァールクリケット場(The Oval)の東側を通り抜けた後に達したのが、ケニントンレーン(Kennington Lane)で、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内に所在している。

ケニントンレーンの西端の北側にある
ヴォクスホール プレジャー ガーデンズ(Vauxhall Pleasure Gardens)−
その入り口に設置されているオブジェ

ケニントンレーンの北側は、ベーカールーライン(Bakerloo Line)の南側の終点である地下鉄エレファント&キャッスル駅(Elephant and Castle Tube Station)付近から始まる。地下鉄エレファント&キャッスル駅から南西へ延びるニューイントンバッツ通り(Newington Butts)が、東側のケニントンパークロード(Kennington Park Road)と西側のケニントンレーンの2つに枝分かれする。

ケニントンレーンの南側は、南北に延びるケニントンロード(Kennington Road)と交差した後、ロンドン・ランベス区のヴォクスホール地区(Vauxhall)にある地下鉄ヴォクスホール駅(Vauxhall Tube Station)辺りまで延びている。

2017年12月10日日曜日

ヴィクトリア女王(Queen Victoria)−その1

テムズ河(River Thames)に架かる
ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)の北岸に設置されている
ヴィクトリア女王のブロンズ像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」では、1895年11月の第3週の木曜日、ベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を、彼の兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)がスコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)を伴って緊急の要件で訪れるところから、物語が始まる。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その1)

マイクロフトによると、同じ週の火曜日の朝、ウールウィッチ兵器工場(Woolwich Arsenal)に勤めるアーサー・カドガン・ウェスト(Arthur Cadogan West)が地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Stationー2016年3月5付ブログで紹介済)の線路脇で死体となって発見された、とのことだった。前日の月曜日の夜、彼は婚約者のヴァイオレット・ウェストベリー(Violet Westbury)をその場に残したまま、突然霧の中を立ち去ってしまったと言う。そして、翌朝、死体となった彼のポケットから、英国政府の最高機密で、ウールウィッチ兵器工場の金庫室内に厳重に保管されていたはずの「ブルース・パーティントン型潜水艦」の設計図10枚のうちの7枚が出てきた。ところが、一番重要な残り3枚はどこにもなかったのである。

マイクロフトは、シャーロックに対して、(1)新型潜水艦の設計図が何故持ち出されたのか、(2)アーサー・カドガン・ウェストは本件にどのように関与しているのか、(3)彼はどのようにして殺されて、現場まで運ばれたのか、そして、(4)残りの3枚の設計図は一体どこへ消えたのかを早急に調べるよう、強く要請した。そこで、シャーロックは、ワトスンを連れて、地下鉄オルドゲート駅へと向かった。


マイクロフトの求めに応じて、事件の捜査を始めたシャーロックは、マイクロフトから提供された主な外国のスパイ情報を手掛かりに、ケンジントン(Kensington)のコールフィールドガーデンズ13番地(13 Caulfield Gardensー2016年4月16日付ブログで紹介済)に住むヒューゴ・オーバーシュタイン(Hugo Oberstein)が今回の事件の黒幕であることを突き止める。ディリー・テレグラフ新聞の私事広告欄に奇妙な広告を見つけたシャーロックは、偽の広告を利用して、設計図を盗み出した実行犯を誘き寄せた。なんと、実行犯は、設計図盗難事件後に急死した潜水艦局長サー・ジェイムズ・ウォルター(Sir James Walter, the head of the Submarine Department)の弟ヴァレンタイン・ウォルター大佐(Colonel Valentine Walter)であった。彼は株取引の失敗により多額の借金を負い、破産の危機に追い込まれていたのである。

ホームズが仕掛けた囮にヒューゴ・オーバーシュタインは喰いつき、英国の刑務所に15年間収監されることになった。また、彼の靴の中から残りの3枚の設計図が無事見つかった。ヒューゴ・オーバーシュタインは、欧州海軍首脳全員に対して、これらの設計図を競売にかけていたのである。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その2)

ウォルター大佐は、懲役2年目の終わり近くに、刑務所で死んだ。(中略)数週間後、ホームズが非常に見事なエメラルドのタイピンを付けて帰って来たことから、私は彼がウィンザーで一日を過ごしたことを偶然に知った。私が彼にそのタイピンを買ったのかと尋ねたところ、幸運にも、ある慈悲深い女性のために一度小さな使命を果たすことができたので、その女性からのプレゼントだと、彼は答えた。彼はそれ以上何も言わなかったが、私はその女性の尊い名前を言い当てることができると思う。そのエメラルドのタイピンを見ると、ブルース・パーティントン型潜水艦の設計図に関する冒険のことをホームズの記憶にいつも蘇らせるのは、まず間違いない。

Colonel Walter died in prison towards the end of the second year of his sentence. … Some weeks afterwards I learned incidentally that my friend spent a day at Windsor, whence he returned with a remarkably fine emerald tiepin. When I asked him if he had bought it, he answered that it was a present from a certain gracious lady in whose interests he had once been fortunate enough to carry out a small commission. He said no more; but I fancy that I could guess at that lady’s august name, and I have little doubt that the emerald pin will forever recall to my friend’s memory the adventure of the Bruce-Partington plans.


ジョン・H・ワトスンが言う「ある慈悲深い女性」とは、英国ハノーヴァー朝の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)のことである。

ヴィクトリア女王の統治中、英国は世界各地を植民地化、もしくは、半植民地化して、大英帝国として繁栄を極めた。実際、大英帝国は、その領土を10倍以上に拡大させて、地球上の全陸地面積の約 1/4 を、また、世界全人口の約 1/4 (約4億人)を支配する史上最大の帝国となるに至った。 彼女は、大英帝国を象徴する存在として知られた。よって、彼女の治世は、ヴィクトリア朝として呼ばれている。

ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その3)

ヴィクトリア女王の在位期間は、63年7ヶ月(=1837年6月20日ー1901年1月22日)にも及び、歴代の英国王の中では、現国王であるエリザベス2世(Queen Elizabeth II:1926年ー 在位期間:1952年ー)に次ぐ2番目の長さである。昨年(2016年)、エリザベス2世に抜かれるまでの間、ヴィクトリア女王の在位期間が最長であった。

ヴィクトリア女王と彼女の政府は、大英帝国の維持/拡大のため、世界各地において戦争を頻繁に繰り広げ、63年7ヶ月に及ぶ彼女の治世中、英国が戦争を全く行なっていなかったのは、非常に稀で、合計すると約2年程度と言われている。

2017年12月9日土曜日

ロンドン キャンバーウェル地区(Camberwell)

ホームズとワトスンの二人は、犬のトビーと一緒に、
キャンバーウェル地区内のブリクストンロード(Brixton Road)を北上したものと思われる

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。


彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。


ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


私達は、ストリーサム地区、ブリクストン地区やキャンバーウェル地区を横切り、オヴァールクリケット場の東側へ行く脇道を通り抜けて、ケニントンレーンへと達した。私達が追っている犯人の男達は、おそらく人目につかないようにと警戒して、奇妙なジグザクの経路を通っているようだった。並行した脇道がある場合には、彼らは決して幹線道路を通らないようにしていたのである。


We had traversed Streatham, Brixton, Camberwell, and now found ourselves in Kennington Lane, having borne away through the side-streets to the east of the Oval. The men whom we pursued seemed to have taken a curiously zig-zag road, with the idea probably of escaping observation. They had never kept to the main road if a parallel side-street would serve their turn.


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)とブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)の次に通ったのが、キャンバーウェル地区(Camberwell)で、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・サザーク地区(London Borough of Southwark)内に所在している。


キャンバーウェル地区は、1889年まではサリー州(Surrey)の一部で、と言うことは、「四つの署名」事件が発生した時点(1888年)では、キャンバーウェル地区はサリー州に属していたことになる。


そして、1900年にはロンドン・キャンバーウェル区(Metropolitan Borough of Camberwell)となり、1965年には大部分がロンドン・サザーク区に吸収された。ただし、ロンドン・キャンバーウェル区の一部は、ロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)に編入されている。


なお、メアリー・モースタン嬢が住んでいるセシル・フォレスター夫人の家があるローワーキャンバーウェル(Lower Camberwell→2017年10月21日付ブログで紹介済)も、キャンバーウェル地区内にある筈なので、ホームズとワトスンの二人は、トビーと一緒に、近くを通ったのかもしれない。