2017年11月26日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手5-「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「六つのナポレオン像」が添付された絵葉書

5番目に、かつ、最後に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」である。「六つのナポレオン像」は、56あるホームズシリーズの短編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが32番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1904年5月号に、また、米国では「コリアーズ ウィークリー(Collier's Weekly)」の1904年4月30日号に掲載された。その後、同作品は、1905年に出版された第3短編集となる「シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)」に収録されている。

「六つのナポレオン像」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレード警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road→2016年6月11日付ブログで紹介済)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road→2017年7月30日付ブログで紹介済))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street→2016年6月18日付ブログで紹介済)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

ステップニー地区(Stepney)のチャーチストリート(Church Street→2016年7月16日付ブログで紹介済)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)を訪れたホームズとジョン・ワトスンは、ナポレオンの石膏胸像が全部で6体制作され、3体がケニントンロードのモース・ハドソン氏の画廊へ、そして、残りの3体はケンジントンハイストリート(Kensington High Street→2016年7月9日付ブログで紹介済)のハーディングブラザーズ(Harding Brothers)の店へ送られたことを聞き出す。モース・ハドソン氏の画廊へ送られた3体は、全て何者かによって壊されたため、ホームズとワトスンはハーディングブラザーズの店へ出向き、ホーレス・ハーカー氏が購入した1体を除く残りの2体の行方について尋ねたのであった。

ステップニー地区にあるゲルダー社が制作した6体のナポレオン像のうち、4体までが謎の侵入者によって粉々に破壊されてしまう。
残った2体の所有者の一人であるチズウィック(Chiswick→2016年7月23日付ブログで紹介済)のラバーナム荘(Laburnum Villa)に住むジョサイア・ブラウン氏(Mr Josiah Brown)宅近くに張り込んでいたホームズ、ジョン・H・ワトスンとレストレード警部の三人は、同宅から石膏鏡像を盗んで出て来た犯人を取り押さえることに成功する。ただし、組み合う最中に、胸像は粉々に砕けてしまった。
翌日、残りの1体の所有者であるレディング(Reading)に住むサンドフォード氏(Mr Sandeford)から10ポンドという高額で石膏胸像を買い取ったホームズは、サンドフォード氏を帰した後、ワトスンとレストレード警部の目の前で、テーブルの上に置いた胸像に対して、狩猟用鞭で鋭い一撃を加える。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「六つのナポレオン像」のアップ写真

記念切手には、物語の終盤、テーブルの上で粉々になったナポレオン胸像の破片の中から、ホームズが丸く黒い物体を取り出して、ワトスンとレストレード警部の二人に、「これは、以前、ダクレホテル(Dacre Hotel)のコロンナ王子(Prince of Colonne)の寝室から盗まれたボルジア家の黒真珠(black pearl of the Borgias)だ。」と告げるシーンが描かれている。

2017年11月25日土曜日

フランクフルト ゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Musem)-その2


1年強の学業を終えて、1771年8月、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は故郷に戻ったものの、フランクフルト市の役所の仕事に就けなかったので、弁護士の資格を取り、弁護士事務所を開設。ただ、彼は次第に仕事への興味を失って、文学活動に没頭するようになった。そのため、息子を心配した父親によって、彼は最高裁判所があったヴェッツラーへと送られ、法学を再習得することになった。これが、彼が生家を離れる4回目となる。




1772年4月にヴェッツラーに到着したヨハンであったが、法学の再習得ではなく、父親の目が届かない遠隔地で、文学にまた熱中するようになる。そして、同年6月、ヴェッツラー郊外で開催された舞踏会において、彼は19歳のシャルロッテ・ブッツに出会い、恋に落ちるが、友人のヨハン・クリスティアン・ケストナーの婚約者であることを知る。報われぬ恋に絶望したヨハンは、同年9月、ヴェッツラーを去るのであった。




故郷に戻ったヨハンは、弁護士事務所を再開するも、シャルロッテのことを忘れられず、ヴェッツラーでの体験をベースにした書簡体小説「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)」を1774年9月に出版すると、若者を中心にして熱狂的な読者を集め、一躍ドイツだけではなく、ヨーロッパ中に彼の名前が知れ渡るようになった。同年12月、後に彼を自国のヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公が、パリへの旅行の途上、フランクフルトの彼を訪問している。




そして、1775年11月、ヨハンはカール・アウグスト公の招きを受けて、故郷フランクフルトを離れ、ヴァイマル公国へと移り、その後永住することになる。こうして、この生家は、ヨハンが生まれた1749年から1775年までの青春時代をやや断続的ではあるが、ずーっと見つめてきたのである。




ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの生家は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中に全壊するが、その後、完全に復元されて、そこで彼の肖像画、直筆の原稿や彼が愛用した所縁の品々等を見ることができる。

2017年11月19日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手4-「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskerville)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「バスカヴィル家の犬」が添付された絵葉書

4番目に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskerville)」である。「バスカヴィル家の犬」は、4つあるホームズシリーズの長編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが3番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1901年8月号から1902年4月号に渡って連載され、1902年に出版されている。

コナン・ドイルによる作品発表順でいくと、「バスカヴィル家の犬」は「最後の事件(The Final Problem→2017年11月12日付ブログで紹介済)」(「ストランドマガジン」の1893年12月号に掲載→事件発生年月:1891年4月)と「空き家の冒険(The Emputy House)」(「ストランドマガジン」の1903年10月号に掲載→事件発生年月:1894年4月)の間に該るが、事件発生年で言うと、「バスカヴィル家の犬」は「最後の事件」の発生年である1891年よりも前に設定されており、犯罪界のナポレオンこと、ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)へと姿を消したホームズが「空き家の冒険」以前に一旦生還した訳ではない。
なお、コナン・ドイルが「バスカヴィル家の犬」を執筆した詳細な経緯については、2014年6月4日付ブログを御参照いただきたい。

長編が4、そして、短編が56あるホームズシリーズの中でも、「バスカヴィル家の犬」は最も人気が高い作品である。また、デヴォン州(Devon)南部に広がる荒野ダートムーア(Dartmoor)の景観や「火を吐く魔犬」という題材等が好まれて、ホームズシリーズ中、映像化された回数は突出して多い。

物語の終盤、メリピットハウス(Merripit House)において、昆虫学者のジャック・ステイプルトン(Jack Stapleton)と夕食を共にしたサー・ヘンリー・バスカヴィル(Sir Henry Baskerville)は、霧が深く立ち込めるダートムーアを歩いて、バスカヴィル館(Baskerville Hall)へと戻ろうとする。そこに伝説の魔犬が姿を現して、サー・ヘンリー・バスカヴィルの命を狙おうとする。彼の行動を遠巻きに見守っていたホームズ、ジョン・H・ワトスンとスコットランドヤードのレストレード警部の三人は、彼を救うべく、現場へと駆け付ける。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「バスカヴィル家の犬」のアップ写真

記念切手は、サー・ヘンリー・バスカヴィルに襲いかかろうと後ろ足で立ち上がる伝説の魔犬に向かって、ホームズが拳銃を発砲するシーンが、非常に印象的に描かれている。画面手前から画面奥へ向かって、サー・ヘンリー・バスカヴィル、伝説の魔犬、そして、拳銃を発砲するシャーロック・ホームズという順番である。

記念切手に描かれたシーンはとても活劇的ではあるが、コナン・ドイルによる原作によると、実際には、伝説の魔犬がサー・ヘンリー・バスカヴィルを地面に引き倒して、彼の喉元に噛み付いた時、現場に駆け付けたホームズが5発の銃弾全てを魔犬の腹に打ち込んでおり、記念切手に描かれたシーン程には派手な場面にはなっていない。


2017年11月18日土曜日

フランクフルト ゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Musem)-その1


ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)は、1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の裕福な家庭の長男として出生する。彼の生家は、現在、「ゲーテハウス(Goethe Haus)」と呼ばれ、ゲーテ博物館(Goethe Museum)になっている。


Uバーン(U Bahn)のヴィリー・ブラント・プラッツ駅(Willy-Brandt-Platz)で下車して、少し北上したところにカイザー広場(Kaiserplatz)があり、その広場の少し東側に南北へ延びるグロッサー・ヒルシュグラーベン(Grosser Hirschgraben)の23ー25番地の建物(Grosser Hirschgraben 23 - 25)がそれである。



ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年8月28日、ヨハン・カスパー・ゲーテを父親に、エリーザベト・ゲーテを母親にして、グロッサー・ヒルシュグラーベン23ー25番地に生まれる。
彼の祖父は、フランスで仕立て職人として修行を積んだ後、フランクフルト市内で旅館の経営と葡萄酒の取引で大成功を納めて、財を成した。次男であった彼の父は、大学を卒業した後、フランクフルト市の要職に就けず、文物の蒐集に没頭していたが、彼の祖父が成した財のため、生活には困らなかった。
また、彼の母親の実家は代々法律家を務め、更に、母方の祖父はフランクフルト市長に就いており、所謂、名門の家系であった。



彼の父親は、彼ヨハンと彼の姉コルネーリアの教育に熱心で、幼少期より彼らの教育に力を入れた。
3歳の時に、彼は私立の幼稚園に入り、読み書きや算数等の初等教育を受ける。そして、5歳から寄宿制の初等学校に通うため、一旦、フランクフルトの生家を離れるが、7歳の時に、天然痘に罹患して生家に戻った。その後、彼の父親が家庭教師を呼び、生家において、語学、図画、カリグラフィー、楽器演奏やダンス等を彼に学ばせた。その結果、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語およびヘブライ語を、彼は少年時代に習得したのである。



その後、16歳になった1765年、父親の意向を受けて、彼は故郷フランクフルトを出て、ライプツィヒ大学法学部に入学。これが、彼が生家を離れる2回目となる。彼は3年程大学に通うものの、病気(結核と思われる)のため、退学を余儀なくされ、故郷へ戻り、1年半程生家で療養する。
そして、1770年、父親の薦めもあって、彼はフランス領のストラスブルグ大学に入学する。これが、彼が生家を離れる3回目となる。

2017年11月12日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手3-「最後の事件(The Final Problem)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「最後の事件」が添付された絵葉書

3番目に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「最後の事件(The Final Problem)」である。「最後の事件」は、56あるホームズシリーズの短編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが24番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に、また、米国では「マクルーアマガジン」の1893年12月号に掲載された。その後、同作品は、同年に出版された第2短編集となる「シャーロック・ホームズの回想(The Memoirs of Sherlock Holmes)」に収録されている。

「最後の事件(The Final Problem)」の冒頭、ベーカーストリート221Bを突然訪れた犯罪界のナポレオンと呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)に、自分から手を引くように告げられたシャーロック・ホームズは、これをキッパリと断る。そのため、ホームズはモリアーティー教授配下の者に命を狙われることになった。
1891年4月24日の昼間、オックスフォードストリート(Oxford Street)へ出かけたホームズであったが、最初は、ベンティンクストリート(Bentinck Street→2015年5月16日付ブログで紹介済)とウェルベックストリート(Welbeck Street→2015年5月16日付ブログで紹介済)の角で、突然暴走して来た二頭立て馬車に危うく轢き殺されそうになった。二度目は、ヴェアストリート(Vere Street→2015年5月23日付ブログで紹介済)を歩いていると、ある家の屋根からレンガが落ちてきて、ホームズの足下で粉々に砕け散ったのであった。
スコットランドヤードがモリアーティー教授を含めた一味を一網打尽するまでの間、ホームズはジョン・ワトスンと一緒に欧州大陸へと身を隠すことにした。彼らはヴィクトリア駅(Victoria Station→2015年6月13日付ブログで紹介済)から欧州大陸へ向かう計画をたてた。翌朝、ワトスンはホームズの指示に従って、行動を開始する。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「最後の事件」のアップ写真

記念切手には、ホームズが、モリアーティー教授と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)へと転落する直前のシーンが描かれている。

1927年6月、「ストランドマガジン」に発表した自選12編の中で、コナン・ドイルは「最後の事件」を第4位にランク付けしている。

2017年11月11日土曜日

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe)-その2

フランクフルトのゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum)内に展示されている
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画

ゲーテの名声を聞いて、1774年12月、パリへの旅行の途上、フランクフルトのゲーテを訪問したヴァイマル公国のカール・アウグスト公からの招聘を受けて、翌年の1775年11月、ゲーテはヴァイマル公国へ移住した。当時のヴァイマル公国は人口6千人程度の小国で、国の復興に力を注ぎ、多くの優れた人材を集めていたのである。

ヴァイマル公国へ移住した半年後、ゲーテは同国の閣僚となったため、政務に没頭することになり、その後の約10年間は、文学的な空白期間に該る。その間、ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を遂行して、その功績により、1782年に神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世から貴族に叙せられ、ヴァイマル公国の宰相に就任した。以後、貴族を表す「フォン」が姓に付いて、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれる。

フランクフルトのゲーテ博物館内に展示されている
ゲーテの胸像(その1)

ヴァイマル公国の宰相となったゲーテは、1788年に詩人 / 劇作家のヨハン・クリストウ・シラー(Johann Christoph Schiller:1759年ー1805年)をイエーナ大学の歴史大学教授として招聘したが、当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲ではなかった。1794年に開催されたイエーナ大学の植物学会での会話が切っ掛けとなり、二人は急速に距離を縮め、ドイツ文学史における古典主義時代を確立していく。ところが、1805年5月9日、肺病のため、シラーは若くして死去してしまい、一般に、古典主義時代は、シラーの死を以って終わったとされている。

1808年、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトの号令に基づいて、ヨーロッパ中の諸侯が集められた際、ゲーテもカール・アウグスト公と一緒に赴き、彼はナポレオンとの歴史的な対面を果たしている。「若きウェルテルの悩み」を愛読していたナポレオンは、ゲーテと会った際、感動のあまり、「ここに人有り!(Volia un homme!)」と叫んだと言われている。

フランクフルトのゲーテ博物館内に展示されている
ゲーテの胸像(その2)

晩年のゲーテは腎臓を病むが、頻繁に湯治に出かけ、1806年、「ファウスト悲劇第一部(Faust, der Tragodie erster Theil)」を漸く完成させた。
1816年、妻のクリスティアーネに、また、1830年、4人生まれた子供のうち、唯一残った一人息子のアウグストにも先立たれた後も、「ファウスト悲劇第二部(Faust, der Tragodie zweyter Theil)」の完成に精力を注ぎ、1831年に完成された後、翌年の1832年3月22日にその生涯を終えた。その際、「もっと光を!(Mehr Licht!)」と、最後の言葉を残したと言われている。

2017年11月5日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手2-「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「ギリシア語通訳」が添付された絵葉書

2番目に紹介するシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手は、「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」である。「ギリシア語通訳」は、56あるホームズシリーズの短編のうち、サー・アーサー・コナン・ドイルが22番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年9月号に、また、米国では「ハーパーズ ウィークリー(Harper's Weekly)」の1893年9月10日号に掲載された。その後、同作品は、同年に出版された第2短編集となる「シャーロック・ホームズの回想(The Memoirs of Sherlock Holmes)」に収録されている。

本作品において、ホームズシリーズの記録者であるジョン・H・ワトスンが、シャーロック・ホームズの兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)に初めて出会うのである。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「ギリシア語通訳」のアップ写真

ある水曜日の夕刻、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンの二人は、パル・マル通り(Pall Mallー2016年4月30日付ブログで紹介済)にある「ディオゲネスクラブ(Diogenes Club)」を訪れる。そこで兄のマイクロフト・ホームズに会ったシャーロックは、兄の隣人で、主にギリシア語通訳を生活の糧にしているメラス氏(Mr Melas)を紹介された。メラス氏によると、2日前、つまり、月曜日の夜に非常に恐ろしい体験をして、その件でシャーロックに捜査をお願いしたいと言う。

メラス氏の説明によると、当夜、彼は上流階級風の身なりをした青年ラティマー氏(Mr Latimer)から通訳の依頼を受け、ラティマー氏が戸口に待たせていた辻馬車に一緒に乗って、パル・マル通りからケンジントン(Kensington)へと出発した。ところが、辻馬車はチャリングクロス交差点(Charing Crossー2016年5月25日付ブログで紹介済)を抜けて、シャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenueー2016年5月15日付ブログで紹介済)経由、オックスフォードストリート(Oxford Streetー2016年5月28日付ブログで紹介済)へと達する。これでは、ロンドンの西部に位置するケンジントンとは反対方向へ、辻馬車は進んでいることになってしまう。メラス氏が胸の内で生じた疑念を吐露すると、ラティマー氏は鉛の入った棍棒を急に取り出し、メラス氏を脅すのであった。そして、メラス氏は、2時間近く馬車に乗せられたまま、秘密の場所へ連れて行かれた。そこで、メラス氏は、やせ衰えて口に大きな絆創膏を貼られたギリシア人紳士に対して、何かの書類へのサインを強要する通訳をさせられることになった。その途中、ドアが開いて、背の高い黒髪の女性が部屋に入って来た。お互いをポール・クラティデス(Paul Kratides)とソフィー(Sophy)と呼ぶ二人は、謎の青年ラティマー氏達に誘拐されて、身柄を拘束されているようである。その直後、全く事情が判らないメラス氏は再度馬車に乗せられ、見知らぬ場所で降ろされたのであった。

その後の進展を尋ねるシャーロックに対して、マイクロフトは「ポール・クラティデスとソフィーの居処を照会する新聞広告を既に手配した。」と答える。シャーロックとワトスンの二人はディオゲネスクラブを出て、本件について話をしながら、歩いてベーカーストリート221Bに戻ったところ、部屋の中にはマイクロフトが既に居て、肘掛け椅子で煙草を吹かしていた。

記念切手には、謎の青年ラティマー氏達によって、パル・マル通りの自宅から辻馬車で再度連れ去られたメラス氏を、テムズ河(River Thames)の南側に位置するベックナム(Beckenham)のマートルズ(Myrtlesー残念ながら、か現在の住所表記上、架空の住所である)において、シャーロックとマイクロフトの二人が救出するシーンが描かれている。


2017年11月4日土曜日

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe)-その1

フランクフルトのゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum)内に展示されている
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画アップ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画(その1)

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズはワトスンに対して、「モースタン嬢をローワーキャンバーウェル(Lower Camberwellー2017年10月21日付ブログで紹介済)のセシル・フォレスター夫人(Mrs Cecil Forrester)の家に送り届けた後、ランベス(Lambeth)のピンチンレーン3番地(No. 3 Rinchin Laneー2017年10月28日付ブログで紹介済)へ向かってくれ。そこは鳥の剥製屋で、シャーマンという老人が住んでいるので、僕が(犬の)トビーを早急に必要としていると伝えて、トビーを馬車に乗せて、ここに連れて来てほしい。」と依頼する。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画(その2)

「そして、僕は、」と、ホームズは言った。「バーンストン夫人とインド人の使用人から、何か有益な情報を得られるかどうか、尋ねてみるよ。サディアス(・ショルト)氏の話によると、使用人は隣りの屋根裏部屋で寝ているらしい。それから、御立派な(アセルニー・)ジョーンズ警部の捜査方法を学び、彼の微妙な皮肉を拝聴するとしよう。『我々は、普通、理解できない人が居ると、彼らを嘲る。』ゲーテが言うことは、いつでも簡潔にして、含蓄があるな。」

‘And I,’ said Holmes, ‘shall see what I can learn from Mrs Bernstone, and from the Indian servant, who, Mr Thaddeus tells me, sleeps in the next garret. Then I shall study the great Jones’s methods and listen to his not-too-delicate sarcasms. “Wir sind gewohnt dass die Menschen verhohnen was sie night verstehen.” Goethe is always pithy.’

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのブロンズ像

ホームズが言うゲーテとは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)のことで、ドイツを代表する文豪である。ゲーテは、小説家、劇作家や詩人の顔の他に、法律家、政治家や自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学や自然哲学等)の顔も有している。

1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)の裕福な家庭に生まれたゲーテは、父の意向を受けて、ライプツィヒ大学やフランス領ストラスブルグ大学で学び、故郷フランクフルトに戻り、弁護士事務所を開設するものの、本業ではなく、文学活動に没頭するようになる。

それを心配した父により、邦楽の再修得のため、最高裁判所があったヴェッツラーへ送られたゲーテであったが、彼は更に文学活動に専念するようになる。ヴェッツラー郊外で開催された舞踏会で出会った19歳の少女シャルロッテ・ブックとの失恋、そして、彼の友人イェールザレムが人妻との失恋が原因でピストル自殺したという悲報の二つの体験に基づいて、書簡体小説「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)」を執筆し、1774年9月に発表すると、若者を中心にして熱狂的な読者が集まり、主人公であるウェルテル風の服装や話し方が一般に流行する一方、作品の影響により若者の自殺者が急増するという社会現象を引き起こした。その結果、ゲーテの名前は、ドイツを越えて、ヨーロッパ中に轟きわたることになった。