2016年10月30日日曜日

シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 切り裂きジャックの遺産(The further adventures of Sherlock Holmes / The Ripper Legacy)


シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 切り裂きジャックの遺産
(The further adventures of Sherlock Holmes / The Ripper Legacy)
著者 David Stuart Davis   2016年
出版 Titan Books            2016年

ジョン・ワトスンは「四つの署名(The Sign of Four)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、シャーロック・ホームズとの共同生活を解消していたが、1892年の冬、彼女がジフテリアに罹患して死去し、1894年4月にホームズが3年ぶりにロンドンへ戻ったことに伴い、ワトスンはベーカーストリート221Bでのホームズとの共同生活を再開した。そして、1年近くが経過した1895年3月のある雨の晩、クラブで暇を持て余したワトスンがベーカーストリート221Bに帰宅すると、ホームズの元に事件の依頼者が訪れていた。

事件の依頼者は、ロンドンの郊外(北西部)クリックルウッド(Cricklewood)に住み、株式仲買人をしているロナルド・テンプル(Ronald Temple)という若い男性であった。彼によると、6日前、彼の妻シャルロット・テンプル(Charlotte Temple)とナニーのスーザン・ゴードン夫人(Mrs. Susan Gordon)が息子のウィリアム・テンプル(William Temple)を連れて、自然史博物館(National History Museum)へ出かけた後、三人でケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を散策していると、雑踏の中、正体不明の男二人によってウィリアムが誘拐された、とのこと。通常、誘拐は身代金目的であるが、何故か、その後、誘拐犯からテンプル家に対して身代金の要求が全くないらしい。更に、彼は、金持ちでもない自分の息子が何故誘拐されるたのか、皆目見当がつかないと言う。彼としては、警察にも捜査を依頼したが、全く進展がないため、ホームズにウィリアムを見つけ出してほしいと頼み込むのであった。事件の依頼を受けたホームズは、ウィリアムの誘拐時の詳細を夫人のシャルロット・テンプルに尋ねるべく、ワトスンやロナルド・テンプルと一緒に、馬車でクリックルウッドへと向かった。

ワトスンと一緒に、シャルロット・テンプル夫人と面談したホームズであったが、残念ながら、誘拐事件解決の糸口になるような有益な情報は得られなかった。
翌朝、再度、シャルロット・テンプル夫人を訪ねたホームズは彼女に対して、「誘拐された息子さんは、あなた方の本当の子供ではないのではないか?」という疑問をぶつける。その理由として、誘拐されたウィリアムの写真から、彼の顔立ちが夫妻に似ていないことをホームズは指摘した。暫く迷った挙げ句、テンプル夫妻は、「ロンドン南部キャンバーウェル(Camberwell)で保育所を営むゲートルード・チャンドラー夫人(Mrs. Gertrude Chandler)から8年前にウィリアムを養子に迎えた。」と、ホームズに告げるのであった。

ホームズは、早速、ワトスンと共に、チャンドラー夫人が営む保育所を訪れ、「ウィリアムの出生記録をみせてほしい。」と依頼するが、何故か、チャンドラー夫人は非協力的で、ホームズ達に記録を見せることを異様に拒む。彼女は何か重要なことを隠そうとしているように思われた。
一旦、その場を辞去したホームズであったが、チャンドラー夫人の態度を不審に感じた彼は、その夜、ワトスンと二人で、チャンドラー夫人の保育所に忍び込んで、ウィリアムの出生記録を調べようとした。ところが、ホームズ達の無断訪問は予め想定されていたようで、謎の男達がホームズ達を待ち構えていた。ホームズ達は銃で狙われる破目に陥ったものの、なんとかウィリアムの出生記録を取り出して、その場から退却するのであった。

翌朝、ホームズは、ウィリアムの出生記録について、ワトスンと話をする。記録によると、ウィリアムは、8年前、ロンドンのホワイトチャペル地区(Whitechapel)にあるバットストリート(Bat Street)に住むアリス・サンダーランド(Alice Sunderland)が生んだことになっている。ホワイトチャペル地区と言うと、1888年秋、切り裂きジャック(Jack the Ripper)が娼婦を何人も惨殺した場所である。何か関係があるのだろうか?
ホワイトチャペル地区へ向かったホームズ達は、驚くべき事実に遭遇する。

ベーカーストリート221Bのホームズの元を訪れたスコットランドヤードのドミニック・ゴーント警部(Inspector Dominic Gaunt)はホームズに対して、頻りに誘拐事件の情報開示を求めるとともに、共同捜査を提案してくるが、彼の態度には何か怪しいところがある。
また、シャーロック・ホームズの兄マイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)はシャーロックに対して、誘拐事件から手を引くよう、強く要請してきた。何故、英国政府が単なる一市民の子供の誘拐事件にこれ程までに介入しようとするのか?
そして、ウィリアムの誘拐事件の背後では、思ってもみなかった或る人物が糸を引いていたのである。それは、死んだ筈のホームズの宿敵であった...


読後の私的評価(満点=5.0)

1)事件や背景の設定について ☆☆☆☆(4.0)
内容としては、単純な子供の誘拐事件であるが、子供の出生の背景には、1888年秋に発生した切り裂きジャック事件が大きく関係しており、マイクロフト・ホームズから、切り裂きジャック事件にかかる驚愕の真相が明らかにされる。それ以降、この真相は誘拐事件の本筋には影響しないが、これだけでも別の作品で書いてほしい位で、正直、こちらの話の方を読みたい。マイクロフト・ホームズをはじめとする英国政府とシャーロック・ホームズの永遠の宿敵がこの誘拐事件に深く絡んできて、非常に面白い。

2)物語の展開について ☆☆☆☆半(4.5)
他の著者による作品とは違って、本筋には関係ない話や単なる前ふりの話等と言ったページかせぎの展開が一切なく、物語の冒頭から結末まで、本筋の話が一気にテンポよく進み、読みやすい。サー・アーサー・コナン・ドイル作のホームズ作品(例:チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン等)と似た展開もあって、読者を楽しませてくれる。

3)ホームズ/ワトスンの活躍について ☆☆☆半(3.5)
シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンの二人は、事件の依頼人であるテンプル夫妻と英国政府を代表するマイクロフト・ホームズの間で板挟みになりながら、誘拐事件の背後で糸を引く永遠の宿敵との厳しい戦いを繰り広げる。子供を欲しながらも、妻メアリー・モースタンとの間に子供を設けられなかったワトスンは、誘拐されたテンプル夫妻の息子ウィリアムの安否を気遣い、深く苦慮する。大英帝国存亡の危機という重大事であり、最後はマイクロフト・ホームズに先んじられてしまい、ハッピーエンドとはならなかったが、シャーロック・ホームズであれば、何か別の解決ができたような気がして、著者によるもうひとひねりが欲しかった。

4)総合評価 ☆☆☆☆(4.0)

切り裂きジャック事件という鉄板のテーマをベースにして、英国王室と大英帝国の土台を大きく揺るがす危険性を有する子供の誘拐事件に、マイクロフト・ホームズやシャーロック・ホームズの永遠の宿敵が関与し、オールキャストの豪華な内容になっている。ただ、切り裂きジャック事件の真相そのものは、物語の前半、マイクロフト・ホームズの口から簡単に説明された後、本筋の誘拐事件が取り扱われて、以降、深くは掘り下げられない。できれば、今回明らかにされた切り裂きジャック事件の真相自体をメインテーマにした大長編を書いてほしい。

2016年10月29日土曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手6「予告殺人(A Murder is Announced)」

リトルパドックス館内の明かりが突然消えて、部屋の扉が開き、
懐中電灯を持った謎の男(ルディー・シャーツ)が部屋に侵入して来た場面が描かれている。
銃声が響き、明かりが灯ると、何故か、床には謎の男自身の死体が横たわっていたのである

(6)「予告殺人(A Murder is Announced)」(1950年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第40作目に、そして、ミス・ジェーン・マープルシリーズの長編としては第4作目に該る。

チッピングクレグホーン村(Chipping Cleghorn)の地元紙朝刊「ギャゼット(Gazette)」の広告欄に、非常に変わった連絡が掲載された。「殺人をお知らせ致します。10月29日の金曜日、午後6時半にリトルパドックス館においてです。(A murder is announced and will take place on Friday, October 29th, at Little Paddocks, at 6:30 pm.)」と。チッピングクレグホーン村の郊外にあるリトルパドックス館(Little Paddocks)の女主人であるレティシア・ブラックロック(Letitia Blacklock)は、この広告を見て困惑する。一方で、当日、好奇心旺盛な村の人々が、続々とリトルパドックス館に集まって来て、何が起きるのか、とても心待ちにしていた。

そして、時計が午後6時半を告げた時、室内の明かりが突然消えると、部屋の扉が開いて、懐中電灯を持った男が姿を現した。村の人々が何かの余興だと思った時、銃声が響く。
部屋の扉が閉まり、明かりが灯ると、そこには突然部屋に侵入して来た男の死体が横たわっていたのである。レティシア・ブラックロックの親友であるドーラ・バンナー(Dora Bunner)によると、死んでいた男は、村のホテルに勤める従業員のルディー・シャーツ(Rudi Scherz)とのこと。

警察が呼ばれ、クラドック警部(Inspector Craddock)がその場に居合わせた村の人々を一人ずつ調べていく。状況としては、自殺、あるいは、事故のように思われるが、クラドック警部としては、どちらにも納得がいかなかった。

クラドック警部にとって非常に幸運なことに、死亡したルディー・シャーツが勤めていた村のホテルには、探偵好きな独身の老婦人ミス・ジェーン・マープルが滞在していたのである。
ミス・マープルの手腕を高く評価している警察の上層部から、クラドック警部は、事件の真相解明のために、ミス・マープルに協力を求めるよう、指示される。クラドック警部からの依頼を受けたミス・マープルは、驚くべき事件の真相を明らかにするのであった。

アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、リトルパドックス館内の明かりが突然消えて、部屋の扉が開き、懐中電灯を持った謎の男(ルディー・シャーツ)が部屋に侵入して来たシーンが描かれている。ルディー・シャーツが持った懐中電灯で照らされた部屋の壁が、時計のようにデザインされている。明かりが消えたランプが12時を、ミス・マープルの横顔が描かれた絵が3時を、午後6時半を示すスイス製時計が午後9時を、そして、ルディー・シャーツの拳銃で狙われた女性が6時を指している。また、その女性は右手に地元紙朝刊「ギャゼット」を持っていて、予告殺人が掲載された広告欄が懐中電灯に照らし出されている。

2016年10月23日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手5「書斎の死体(The Body in the Library)」

絞殺された若い女性の死体が運び出された後の書斎のシーンが描かれている。
帽子、老眼鏡とピンク色の紐が、ミス・ジェーン・マープルの顔を形作っている。
また、書斎の奥にある本棚には、「書斎の死体」に至るまでのエルキュール・ポワロシリーズを除く
アガサ・クリスティーの作品が並んでいる。

(5)「書斎の死体(The Body in the Library)」(1942年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第31作目に、そして、ミス・ジェーン・マープルシリーズの長編としては第2作目に該る。

退役軍人であるアーサー・バントリー大佐(Colonel Arthur Bantry)と妻のドリー・バントリー(Dolly Bantry)が住む屋敷ゴシントンホール(Gossington Hall)において、思いもよらぬ事件が発生する。早朝、メイドに起こされたバントリー夫妻は、書斎に見知らぬ若い女性の死体が横たわっていることを告げられるのである。
アーサー・バントリー大佐の知らせを受けて、ラドフォードシャー州(Radfordshire)警察の本部長(Chief Constable)であるメルチェット大佐(Colonel Melchett)と彼の部下のスラック警部(Inspector Slack)がバントリー邸に駆け付ける。書斎に横たわる若い女性は絞殺されており、死亡時刻は前日の午後10時から午後12時の間と、検死結果が出るが、彼女の身元が杳として知れなかった。
そこで、バントリー夫人は古い友人であるミス・ジェーン・マープルに電話をかけ、事件の調査を依頼する。探偵好きな独身の老婦人ミス・マープルが、警察よりも先に、事件の真相を鮮やかに解明するのであった。

アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、絞殺された若い女性の死体が運び出された後の書斎のシーンが描かれている。左手前のテーブルの上には本があり、更に、その上には帽子と老眼鏡が置かれていて、ピンク色の紐が帽子と老眼鏡を繫ぎ、ミス・マープルの顔を形作っている。
書斎の奥にある本棚には、エルキュール・ポワロシリーズを除くアガサ・クリスティーの作品が、左から以下のように並んでいる。

(1)「The Secret Adversary(秘密機関)」(1922年)―トミーとタペンス・ベレズフォード第1作
(2)「The Man in the Brown Suit(茶色の服の男)」(1924年)
(3)「The Secret of Chimneys(チムニーズ館の秘密)」(1925年)
(4)「The Seven Dials Mystery(七つの時計)」(1929年)
(5)「Partners in Crime(おしどり探偵)」(1929年)―トミーとタペンス・ベレズフォード登場
(6)「The Mysterious Mr. Quin(謎のクィン氏)」(1930年)
(7)「Murder at the Vicarage(牧師館の殺人)」(1930年)ーミス・ジェーン・マープル第1作
(8)「The Sittaford Mystery(シタフォードの秘密)」(1931年)
(9)「The Thirteen Problems(火曜クラブ)」(1932年)ーミス・ジェーン・マープル登場
(10)「The Hound of Death(死の猟犬)」(1933年)
(11)「The Listerdale Mystery(リスタデール卿の謎)」(1934年)
(12)「Why Didn't They Ask Evans ?(なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?)」(1934年)
(13)「Parker Pyne Investigates(パーカー・パイン登場)」(1934年)
(14)「Murder Is Easy(殺人は容易だ)」(1939年)
(15)「And Then There Were None(そして誰もいなくなった)」(1939年)
(16)「N or M ? (NかMか)」(1941年)

つまり、「書斎の死体」に至るまでのエルキュール・ポワロシリーズを除く作品が並んでいるのである。となると、左手前のテーブルの上にあるのは、「書斎の死体」だろうか?

2016年10月22日土曜日

ロンドン チェイニーロウ24番地 カーライルハウス(Carlyle's House, 24 Cheyne Row)

トーマス・カーライルが住んでいたチェイニーロウ24番地の建物―
現在、ナショナルトラストによって「カーライルハウス」として公開されている

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。


1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

チェイニーロウを南側から北へ向かって眺めたところ

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。


ホームズとの共同生活を始めたワトスンにとって、彼の無知は、彼の知識と同様に、驚きだった。現代文学、哲学や政治に関して、彼はほとんど何も知らないようだ。トーマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年)についても、そうだった。
ホームズがワトスンに対して、「誰で、何をした人物なのか、知らない。」と告げたトーマス・カーライルは、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもある。トーマス・カーライルは、「英雄崇拝論(On Heroes and Hero Worship and the Hero in History)」(1834年)、「フランス革命史(The French Revolution : A History)」(1837年)や「過去と現在(Past and Present)」(1843年)等の著作で知られている。

カーライルハウスの外壁に設置されているトーマス・カーライルの肖像

ワトスンがホームズと出会った頃(1881年初頭)、トーマス・カーライルは、妻のジェーン・ウェルッシュ・カーライル(Jane Welsh Carlyle)と一緒に、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内にあるチェイニーロウ24番地(24 Cheyne Row)に住んでいた。
チェイニーロウは、テムズ河(River Thames)に沿って東西に延びるチェイニーウォーク(Cheyne Walk)から北へ入った所に位置している。

カーライルハウスの入口

トーマス・カーライルがチェイニーロウ24番地に住み始めたのは1834年で、当時の住所表記上は5番地であった。
建物の地下は台所、1階はトーマス・カーライルの書斎、2階は居間、図書室や妻の寝室、そして、3階は本人の寝室として使用されていた、とのこと。
1881年2月5日にトーマス・カーライルが亡くなった後、1895年にトーマス・カーライル博物館として一般に公開された。
現在は、ナショナルトラスト(National Trust)により、「カーライルハウス(Carlyle's House)」として管理されている。

カーライルハウスの中庭

カーライルハウスの近辺には、以下のような著名人が住んでいた家が所在している。

(1)「アダム・ビード」、「サイラス・マーナー」や「ミドルマーチ」等の作者ジョージ・エリオット(George Eliot:1819年ー1880年 本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans))



(2)ラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年)



(3)「吸血鬼ドラキュラ」等の作者ブラム・ストーカー(Bram Stoker:1847年ー1912年)→2015年1月16日付ブログで紹介済。

(4)「サロメ」や「ドリアン・グレイの肖像」等の作者オスカー・フィンガル・オフラハティー・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)→2015年5月24日付ブログで紹介済。

(5)「クマのプーさん」シリーズや「赤い館の秘密」等の作者アラン・アレクサンダー・ミルン(Alan Alexander Milne:1882年ー1956年)→2015年5月3日付ブログで紹介済。

2016年10月16日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手4「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd)」

ドロシー・フェラーズ夫人から届いた手紙を読むロジャー・アクロイドが刺殺された場面が描かれている―
暖炉で燃えさかる炎の中に、エルキュール・ポワロの姿が浮かび上がっている

(4)「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd)」(1926年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第6作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては第3作目に該る。

本作品の場合、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr James Sheppard)が「わたし」という語り手になって、事件を記録している。

同村のキングスパドック館(King's Paddock)に住むドロシー・フェラーズ夫人(Mrs. Dorothy Ferrars)は、裕福な未亡人で、村のもう一人の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)との再婚が噂されていたが、9月17日(金)の朝、亡くなっているのが発見された。

検死を実施した結果、「わたし」は睡眠薬の過剰摂取と判断したが、噂好きな姉のキャロライン・シェパード(Caroline Sheppard)は、夫人の死を自殺だと出張するのであった。何故ならば、同村では、ドロシー・フェラーズ夫人が、酒好きで、だらしのない夫アシュリー・フェラーズ(Ashley Ferrars)を殺害したという噂も流布していたからである。


外出した「わたし」は、偶然出会ったロジャー・アクロイドから「相談したいことがある。」と言われ、彼が住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)での夕食に招待された。

その日の午後7時半に、彼の屋敷を訪ねた「わたし」は、(1)ロジャー・アクロイド、(2)彼の義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)、(3)セシル・アクロイド夫人の娘フローラ・アクロイド(Flora Ackroyd)、(4)ロジャー・アクロイドの旧友ヘクター・ブラント少佐(Major Hector Blunt)、そして、(5)ロジャー・アクロイドの秘書ジェフリー・レイモンド(Geoffrey Raymond)と食事をした際、その席上、フローラ・アクロイドが、ロジャー・アクロイドの養子ラルフ・ペイトン大尉(Captain Ralph Paton)との婚約を発表する。


食事の後、書斎へ移動した「わたし」は、ロジャー・アクロイドから悩みを打ち明けられる。

彼によると、昨日(9月16日)、再婚を考えていたドロシー・フェラーズ夫人から「夫のアシュリー・フェラーズを毒殺した。」と告白された、と言うのである。その上、彼女はそのことで正体不明の何者かに強請られていた、とのことだった。

ちょうどそこに、ドロシー・フェラーズ夫人からの手紙が届く。ロジャー・アクロイドは、その手紙を開封しようとしたが、彼女を強請っていた恐喝者の名前を知らせる内容が書かれているものと考えた彼は「落ち着いて、後で一人でゆっくりと読むつもりだ。」と告げると、「わたし」に帰宅を促すのであった。


徒歩での帰宅途中、「わたし」は見知らぬ男性にフェルンリーパーク館、即ち、ロジャー・アクロイド邸への道を尋ねられる。

「わたし」が自宅に戻ると、急に電話の音が鳴り響く。「わたし」が受話器をとると、それは、ロジャー・アクロイドの執事ジョン・パーカー(John Parker)だった。彼によると、ロジャー・アクロイドが部屋で亡くなっている、とのことだった。

「わたし」は、姉のキャロラインにそのことを知らせると、車に飛び乗り、ロジャー・アクロイド邸へと戻った。


ロジャー・アクロイド邸に着いた「わたし」を出迎えたジョン・パーカーに電話のことを尋ねると、彼は「そんな電話をした覚えはない。」と答えるのであった。

ロジャー・アクロイドのことが心配になった「わたし」が、ジョン・パーカーと一緒に、彼の部屋へ赴くと、彼は刺殺されていて、ドロシー・フェラーズ夫人から届いた手紙も消えていた。


フローラ・アクロイドの婚約者で、ロジャー・アクロイドの遺産を相続することになるラルフ・ペイトン大尉が姿を消したため、地元警察は、彼を有力な容疑者と考え、彼の行方を追う。

ラルフ・ペイトン大尉の身を案じたフローラ・アクロイドは、私立探偵業から隠退し、キングスアボット村の「わたし」の隣りに引っ越して、カボチャ栽培に精を出していたエルキュール・ポワロに、事件の真相解明を依頼するのであった。

アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、燃えさかる暖炉の前に置かれた椅子に座ったロジャー・アクロイドの後ろ姿が描かれており、彼の右手にはドロシー・フェラーズ夫人から受け取った手紙が握られている。また、その手紙には、刺殺されたロジャー・アクロイドの血が付着している。更に、彼を刺殺した犯人の影が、彼が座る椅子に向かってではなく、彼が座る椅子の足元から伸びていて、現実的にはありえない少し変わった構図である。よく見ると、暖炉で燃えさかる炎の中に、ポワロの姿が浮かび上がっている。

「アクロイド殺し」を未読の方も居ると思われるので、詳細な説明を省くが、アガサ・クリスティーは読者から犯人を秘匿するために、既に前例はあったものの、あるトリックを使用しており、本作品の発表時に、フェア・アンフェア論争を引き起こしている。一方で、この論争により、アガサ・クリスティーの知名度は大きく高まり、ベストセラー作家の仲間入りを果たしたのである。

2016年10月15日土曜日

トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)

チェイニーウォーク沿いの広場内に設置されているトーマス・カーライル像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

トーマス・カーライル像が設置されているチェイニーウォークは、
チェルシー地区内の閑静な高級住宅街である

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

トーマス・カーライル像の背後には、
彼が住んでいたチェイニーロウがある

ホームズの無知は、彼の知識と同様に、驚きに値した。現代文学、哲学や政治に関して、彼はほとんど何も知らないようだった。私がトーマス・カーライルについて言及した際、それは誰で、何をした人物なのか、彼は私に極めて素朴に訊いてきた。しかしながら、私が一番驚いたのは、偶然ではあるが、コペルニクスの地動説や太陽系の構成についても、彼が全く知らないことを、私が知った時である。この19世紀を生きる文明人の中に、地球が太陽を周回していることを知らない人間がまだ残っていることが、あまりにも途方もない話であって、私はほとんど信じられなかった。
「君は驚いているだね。」と、彼は私の唖然とした表情に笑いかけながら言った。「今、僕はそれを知ることになったが、全力でそれを忘れるつもりだ。」と。

チェイニーロウの角に建つフランス風カフェ&レストラン―
左手奥の広場内にトーマス・カーライル像が設置されている

His ignorance was as remarkable as his knowledge. Of contemporary literature, philosophy and politics he appeared to know next to nothing. Upon my quoting Thomas Carlyle, he enquired in the naivest way who he might be and what he had done. My surprise reached a climax, however, when I found incidentally that he was ignorant of the Copernican Theory and of the composition of the Solar System. That any civilised human being in this nineteenth century should not be aware that the earth travelled round the sun appeared to be to me such an extraordinary fact that I could hardly realize it.
'You appear to be astonished,' he said, smiling at my expression of surprise. 'Now that I do know it I shall do my best to forget it.'

テムズ河に沿って東西に延びるチェイニーウォーク―
奥には、アルバート橋が見える

ホームズがワトスンに対して、「誰で、何をした人物なのか、知らない。」と告げたトーマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年)は、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもある。
トーマス・カーライルは、「英雄崇拝論(On Heroes and Hero Worship and the Hero in History)」(1834年)、「フランス革命史(The French Revolution : A History)」(1837年)や「過去と現在(Past and Present)」(1843年)等の著作で知られている。

トーマス・カーライル像は、チェイニーウォーク越しに、テムズ河を静かに見つめている

ワトスンがホームズと出会った頃(1881年初頭)、トーマス・カーライルは、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内にあるチェイニーロウ24番地(24 Cheyne Row)に住んでいた。
彼が住んでいたチェイニーロウの南側には、テムズ河(River Thames)に沿って東西に延びるチェイニーウォーク(Cheyne Walk)があり、その緑地帯にトーマス・カーライルのブロンズ像が設置されている。

2016年10月9日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手3「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles)」

エルキュール・ポワロ(右側)とアーサー・ヘイスティングス大尉(左側)が
エミリー・イングルソープの命を奪った毒薬の壜が置かれたテーブルを挟んで
座っているシーンが描かれている―
画面中央が髑髏の形になっている

(3)「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles)」(1920年)

本作品は、アガサ・クリスティーの商業デビュー作であり、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編第1作目、かつ、ポワロの初登場作品に該る。

なお、本作品は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1916年に執筆され、米国の Jane Lane 社から、1920年(10月)に発表されている。英国本国の場合、Jane Lane 社の英国会社である The Bodley Head 社から、1921年(1月)に出版された。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に負傷したアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings - 30歳)は、英国に帰還する。旧友であるジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish - 45歳)の招きで、エセックス州(Essex)にあるスタイルズ荘(Styles Court)を訪れたヘイスティングス大尉であったが、到着早々、事件に巻き込まれるのであった。


ジョン・キャヴェンディッシュの義母で、スタイルズ荘の持ち主である老婦人エミリー・イングルソープ(Emily Inglethrop - 70歳を超えている)は、20歳も年下のアルフレッド・イングルソープ(Alfred Inglethrop)と再婚して、屋敷で暮らしていた。屋敷内には、他には、


(1)ジョン・キャヴェンディッシュ → エミリーの義理の息子(兄)

(2)メアリー・キャヴェンディッシュ(Mary Cavendish)→ ジョン・キャヴェンディッシュの妻

(3)ローレンス・キャヴェンディッシュ(Lawrence Cavendish - 40歳)→ エミリー・イングルソープの義理の息子(弟)

(4)シンシア・マードック(Cynthia Murdoch)→ エミリー・イングルソープの友人の孤児で、現在は、彼女の養子

(5)エヴリン・ハワード(Evelyn Howard - 40歳位)→ エミリー・イングルソープの話相手(住み込みの婦人)


が住んでいた。


7月18日(水)の朝、エミリー・イングルソープがストリキニーネで毒殺されているのが発見された。


エミリー・イングルソープの前夫の遺言書によると、スタイルズ荘については、エミリー・イングルソープの死後、ジョン・キャヴェンディッシュが相続することになっていた。

一方、エミリー・イングルソープが保有する現金資産に関しては、彼女が毎年更新する遺言書の内容に従って分配されることになっており、彼女が作成した最新の遺言書によると、現在の夫であるアルフレッド・イングルソープが相続する内容だった。

前日の7月17日(火)、エミリー・イングルソープが、夫のアルフレッド・イングルソープか、義理の息子のジョン・キャヴェンディッシュとの間で、言い争いをしていたようだった。その後、彼女は遺言書を書き替えたが、その新しい遺言書は、どこにも見当らなかった。


エミリー・イングルソープの死により、最も大きな利益を得ることになる夫のアルフレッド・イングルソープが、まず容疑者として疑われる。

ただ、彼女が毒殺された日の夜、彼はスタイルズ荘を不在にしていたが、何故か、居所を明らかにしようとしない上に、村の薬局において、ストリキニーネを購入したしたのは、自分ではないと強く否定する。

エミリー・イングルソープの話相手であるエヴリン・ハワードは、アルフレッド・イングルソープの従妹であるにもかかわらず、以前から彼のことを憎んでいるようで、エミリー・イングルソープを毒殺した人物は、彼で間違いないと言う出張を崩さなかった。


スタイルズ荘の近くのスタイルズセントメアリー村(Styles St. Mary)にベルギーから戦火を避けて亡命していた旧友ポワロと再会したヘイスティングス大尉は、ポワロに対して、この難事件の捜査を依頼する。


スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部(Inspector James Japp)が、エミリー・イングルソープの毒殺犯人として、アルフレッド・イングルソープを逮捕しようとするが、ポワロは、ストリキニーネ購入時における薬局の記録上の署名が彼の筆跡ではないことを証明して、アルフレッド・イングルソープの逮捕を思いとどまらせた。


そのため、スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部が、アルフレッド・イングルソープの次に疑ったのは、エミリー・イングルソープの死により利益を得る上に、事件当夜のアリバイがないジョン・キャヴェンディッシュであった。

ストリキニーネ購入時における薬局の記録上の署名が彼の筆跡に酷似していること、また、アルフレッド・イングルソープとよく似た付け髭と鼻眼鏡が発見されたことが決め手となり、ジョン・キャヴェンディッシュは逮捕されてしまう。


果たして、スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部による捜査通り、ジョン・キャヴェンディッシュが、義理の母であるエミリー・イングルソープを、ストリキニーネで毒殺したのであろうか?

ポワロの灰色の脳細胞は、どのような結論を導き出すのか?


アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、旧友ジョン・キャヴェンディッシュの義母エミリー・イングルソープの命を奪った毒薬の壜を挟んで、ヘイスティングス大尉がポワロと事件の真相を解明しようとしているシーンが描かれている。
切手中央は、髑髏(どくろ)の形になっていて、ヘイスティングス大尉(左側)とポワロ(右側)の頭部が髑髏の両目に、テーブルの上に置かれたランプが髑髏の鼻に、そして、テーブルに敷かれたテーブルクロスが髑髏の歯を表している。

1914年に結婚した最初の夫アーチボルド・クリスティー大尉(Captain Archibald Christie:1889年ー1962年)が、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中、フランスへ出征している間、アガサ・クリスティーは薬剤師の助手として奉仕活動に従事していた。その際に、彼女は毒薬の知識を得ており、本作品において、その経験が存分に生かされている。

2016年10月8日土曜日

スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「六死人」('Six hommes morts' per Stanislas-Andre Steeman)

東京創元社の創元推理文庫から出版されている
スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「六死人」―
カバー画は、安田忠幸氏によるもの

5年前、大成功をおさめて、大金持ちになる夢を胸に抱き、六人の青年達が世界中へ冒険の旅に出発した。彼らは、

(1)ジョルジュ・サンテール(Georges Senterre)
(2)ジャン・ペルロンジュール(Jean Perlonjour)
(3)アンリ・ナモット(Henri Namotte)
(4)ネストル・グリッブ(Nestor Gribbe)
(5)ユベール・ティニョル(Hubert Tignol)
(6)マルセル・ジェルニコ(Marcel Gernicot)

の6人だった。彼らは5年後の再会を約束し、稼いだお金を皆で山分けにすること、つまり、仮に誰か成功しなかった者が居たとしても、6人が5年間で稼いだお金を平等に分配する取り決めを結んだ。そして、5年が経ち、再会のため、彼ら6人は帰国の途に着いていた。或る者は予定通り大金持ちになり、また、或る者は尾羽打ち枯らして、故郷へ向かっていたのである。

故郷には、ジョルジュ・サンテールとジャン・ペルロンジュールが既に戻って来ていた。幸いにして、ジョルジュ・サンテールは大成功をおさめたが、残念ながら、ジャン・ペルロンジュールは、良い時もあったものの、居間はすっからかんの状態だった。

午後8時になると、ジョルジュ・サンテールは、ジャン・ペルロンジュールをレストラン「ボレアル」での夕食に誘い、ジョルジュのアパルトマンを出る。レストランでの食事を終えて、街を散歩する二人。レストランで新聞売りから買った新聞をポケットから抜き出して、両手で扇いでいたジャン・ペルロンジュールは、急にある記事に目をとめて、悲痛な驚きの声をあげる。新聞記事によると、今日マルセイユに入港したアキテーヌ号の航海中に事故が発生した、とのこと。北京から帰国途中にあった船客のアンリ・ナモットが上甲板から海へ転落したため、直ちに救命ボートが海に下ろされ、入念な捜索が懸命に行われたが、船から落ちた船客を発見することはできなかったのである。また、彼が海へ転落した原因は未だに不明であった。新聞記事を読んで茫然自失となる二人。

その夜、ジョルジュ・サンテールはあまりよく眠れなかった。午前3時過ぎ、彼がベッドで寝返りを打っていた時、玄関の呼び鈴が鳴り、アパルトマンの静寂を破る。彼がベッドを離れ、玄関へ向かうと、配達夫が電報を届けに来ていた。ジョルジュ・サンテールがその電報を開封すると、それは友人の一人マルセル・ジェルニコからだった。「アンリ・ナモットと一緒にアキテーヌ号に乗っていた。できれば明日帰る。」という内容であった。

翌日の夜、マルセル・ジェルニコの恋人であるアスンシオンがジョルジュ・サンテールのアパルトマンを訪ねて来る。しばらくして姿をみせたマルセル・ジェルニコによると、アンリ・ナモットと彼の二人は、サングラスをかけ、赤髭を生やした男に北京から付け狙われており、その男がアンリ・ナモットをアキテーヌ号の上甲板から海へ突き落とした、とのこと。更に、その男は故郷の街まで尾行して来たと言うのだ。彼らが話を続けていると、通りを挟んで、アパルトマンの向かい側にあるホテルのある窓に、長身で肩幅の広い男の影が浮かび上がり、突然拳銃の発射音が響き渡った。撃たれたマルセル。ジェルニコをアスンシオンが手当てする間、ジョルジュ・サンテールが近所に住む医者を呼んで急いで戻って来ると、部屋にはアスンシオンが仰向けに倒れていて、マルセル・ジェルニコの姿はどこにもなかったのである。

そして、アンリ・ナモットが船の上甲板から海へ転落した(突き落とされた?)事件に端を発して、5年前に世界中へ旅立った六人の青年達が一人、また一人と何者かに次々に殺されていく。

本作品「六死人(Six hommes morts)」は、ベルギーの小説家であるスタニスラス=アンドレ・ステーマン(Stanislas-Andre Steeman:1908年ー1970年)によって、1931年に発表された。
フランドル人とスラブ人の血を半々に受け継いだ彼は、1908年にベルギーのリエージュに出生した。
1924年に彼はブリュッセルの「ラ・ナシオン・ベルジュ(La Nation belge)」誌に記者として入社して、同僚のジャーナリストであるサンテール(Sintair)と共作で探偵小説を執筆する。1929年からは単独で執筆を始め、1931年に「六死人」でフランス冒険小説大賞を受賞して、一躍名声を手に入れる。冒険小説大賞とは、フランスの歴史あるミステリー賞で、パリのシャンゼリゼ書店が主催していたものである。

「六死人」は、アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)よりも8年前に刊行され、所謂、孤島ものというか、クローズドサークルものというか、ある一定の人数に限定された人達が一人ずつ殺されていくタイプの本格ミステリーの先駆者的な役割を果たしており、後世の批評家達も一致して指摘している。本作品は、無駄な描写を極力省いて、謎解き一本に絞った構成で、また、物語の最後には(当時としては)見事などんでん返しがあり、かなりの迫力を感じさせる。

2016年10月2日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手2「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」

デヴォン州の沖合いに浮かぶ兵隊島―
兵隊島は人間(男性?)の顔の形になっていて、明かりが灯る屋敷の窓が目に該っている

(2)「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第26作目に該る。アガサ・クリスティーの作品の中でも、代表作に挙げられているのが、本作品である。

1930年代後半の8月のこと、英国デヴォン州(Devon)の沖合いに浮かぶ兵隊島(Soldier Island)に、年齢も職業も異なる8人の男女が招かれる。彼らを島で迎えた召使と料理人の夫婦は、エリック・ノーマン・オーウェン氏(Mr. Ulick Norman Owen)とユナ・ナンシー・オーウェン夫人(Mrs. Una Nancy Owen)に自分達は雇われていると招待客に告げる。しかし、彼らの招待客で、この島の所有者であるオーウェン夫妻は、いつまで待っても、姿を現さないままだった。

招待客が自分達の招待主や招待状の話をし始めると、皆の説明が全く噛み合なかった。その結果、招待状が虚偽のものであることが、彼らには判ってきた。招待客の不安がつのる中、晩餐会が始まるが、その最中、招待客8人と召使夫婦が過去に犯した罪を告発する謎の声が室内に響き渡る。謎の声による告発を聞いた以下の10人は戦慄する。

(1)ヴェラ・エリザベス・クレイソーン(Vera Elizabeth Claythorne)
秘書や家庭教師を職業とする若い女性で、家庭教師をしていた子供に無理な距離を泳がせることを許可し、その結果、その子供を溺死させたと告発された。
(2)フィリップ・ロンバード(Philip Lombard)
元陸軍中尉で、東アフリカにおいて先住民族から食料を奪った後、彼ら21人を見捨てて死なせたと告発された。
(3)エドワード・ジョージ・アームストロング(Edward George Armstrong)
医師で、酔って酩酊したまま手術を行い、患者を死なせたと告発された。
(4)ウィリアム・ヘンリー・ブロア(William Henry Blore)
元警部で、偽証により無実の人間に銀行強盗の罪を負わせて、死に追いやったと告発された。
(5)ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ(Lawrence John Wargrave)
高名な元判事で、陪審員を誘導して、無実の被告を有罪として、死刑に処したと告発された。
(6)エミリー・キャロライン・ブレント(Emily Caroline Brent)
信仰心の厚い老婦人で、使用人の娘に厳しく接して、その結果、彼女を自殺させたと告発された。
(7)ジョン・ゴードン・マッカーサー(John Gordon MacArthur)
退役した老将軍で、妻の愛人だった部下を故意に死地へ追いやったと告発された。
(8)アンソニー・ジェイムズ・マーストン(Anthony James Marston)
遊び好きの上、生意気な青年で、自動車事故により二人の子供を死なせたと告発された。
(9)トーマス・ロジャーズ(Thomas Rogers)
(10)エセル・ロジャーズ(Ethel Rogers)
仕えていた老女が発作を起こした際、彼らは必要な薬を投与しないで、老女を死なせたと告発された。

彼らを告発する謎の声は蓄音機からのもので、トーマス・ロジャーズによると、オーウェン夫妻から、最初の日、晩餐会の際に録音したメッセージを流すよう、手紙で指示を受けていたと言う。謎の声による告発を聞いて彼の妻エセル・ロジャーズが気を失ってしまうという混乱の直後、毒物が入った飲み物を飲んだアンソニー・ジェイムズ・マーストンが急死するのであった。

その翌朝、エセル・ロジャーズがいつまで経っても起きて来ず、死亡しているのが発見される。残された8人は、アンソニー・ジェイムズ・マーストンとエセル・ロジャーズの死に方が屋敷内に飾ってある童謡「10人の子供の兵隊」の内容に酷似していること、また、食堂のテーブルの上に置いてあった兵隊人形が10個から8個へと減っていることに気付く。それに加えて、迎えの船が兵隊島へやって来ないことが判り、残された8人は兵隊島に閉じ込められた状態になってしまう。

童謡「10人の子供の兵隊」の調べにのって、一人また一人と、残された8人が正体不明の何者かに殺害されていく。それに伴って、食堂のテーブルの上にある兵隊人形の数も減っていくのである。彼らを兵隊島へ招待したオーウェン夫妻とは一体何者なのか?オーウェン夫妻の名前を略すと、どちらも「U. N. Owen」、つまり、「UNKOWN(招正体不明の者)」となる。オーウェン夫妻が正体不明の殺人犯で、残された人の中に居るのか?それとも、屋敷内のどこか、あるいは、兵隊島のどこかに隠れ潜んでいるのだろうか?恐怖が満ちる中、また一人、残された人と兵隊人形が減っていくのであった。

アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、沖合いに浮かぶ兵隊島を陸地から見たシーンが描かれている。
夜間のシーンで、兵隊島内に建つ屋敷の窓には、明かりが灯っている。よく見ると、兵隊島が人間(男性?)の顔の形になっている上に、明かりが灯る屋敷の窓が目に該っている。
兵隊島の前の海に浮かぶ黄色い物には、オーウェン夫妻の名前を略した「U. N. Owen」が逆さまに表示されている。
更に、画面の左下には、童謡「10人の子供の兵隊」の内容が、これも同様に逆さまに記載されている。この童謡は、マザーグースの一つとして分類されるが、大元の「Ten Little Nigger Boys」は、英国の作詞家フランク・グリーン(Frank Green)が1869年に翻案した作品のため、「Frank Green 1869」と表示されている。

アガサ・クリスティーが1939年に「そして誰もいなくなった」を発表した時点での英語の原題は「Ten Little Niggers(10人の小さな黒んぼ)」で、作品中、これは非常に重要なファクターを占める童謡を暗示している。
ただし、「Nigger」という単語がアフリカ系アメリカ人に対する差別用語だったため、米国版のタイトルは「Ten Little Indians(10人の子供のインディアン)」に改題された。それに伴い、
*島の名前: 黒人島(Nigger Island)→インディアン島(Indian Island)
*童謡名: 10人の小さな黒んぼ(Ten Little Niggers)→10人の子供のインディアン(Ten Little Indians)
*人形名: 黒人人形→インディアン人形
へと変更された。
近年、「インディアン」も差別用語と考えられているため、英米で発行されている「そして誰もいなくなった」のタイトルには、「And Then There Were None」が使用されている。「And Then There Were None」は、童謡の歌詞の最後の一文から採られている。その結果、
*島の名前: インディアン島(Indian Island)→兵隊島(Soldier Island)
*童謡名: 10人の子供のインディアン→10人の子供の兵隊(Ten Little Soldiers)
*人形名: インディアン人形→兵隊人形
へという変遷を辿っているのである。

2016年10月1日土曜日

ロンドン ベーカーストリート(Baker Street)

ベーカーストリート沿いに設置されていた
シャーロック・ホームズの垂れ幕

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)時代に自分の助手をしていたスタンフォード青年(Stamford)と出会ったジョン・H・ワトスン(医学博士)は、同居人を捜しているというシャーロック・ホームズなる人物を紹介してもらう。スタンフォード青年と一緒に、セントバーソロミュー病院でホームズと会ったワトスンは、翌日の正午、その下宿屋の下見に行くことになった。


ホームズの提案通り、翌日、私達は待ち合わせをして、昨日会った時に彼が言っていたベーカーストリート221Bの下宿を下見した。その下宿は、居心地の良い寝室が二つと居間が一つという構成だった。特に、居間は快適な内装で、大きな窓が二つあって明るく、その上、風通しの良い広い部屋だった。この下宿は、あらゆる点で申し分がなく、家賃についても、二人で払う分には手頃だったので、その場で交渉が成約し、私達は直ぐに引っ越すことにした。その日の夕方、私はホテルから荷物を運び込み、その翌朝、私に続いて、ホームズが箱や旅行鞄を何個か伴ってやって来た。一日二日、私達は荷解きを行い、私達の持ち物を一番使い易い場所に配置するのに忙しかった。それが終わると、私達は徐々に落ち着いて、この新しい環境に慣れるようになったのである。


We met next day as he had arranged, and inspected the room at No. 221B, Baker Street, of which he had spoken at our meeting. They consisted of a couple of comfortable bed-rooms and a single large airy sitting-room, cheerfully furnished, and illuminated by two broad windows. So desirable in every way were the apartments, and so moderate did the terms seem when divided between us, that the bargain was concluded upon the spot, and we at once entered into possession. That very evening I moved my things round from the hotel, and on the following morning Sherlock Holmes followed me with several boxes and portmanteaus. For a day or two we were busily employed in unpacking and laying out our property to the best advantage. That done, we gradually began to settle down and to accommodate ourselves to our new surroundings.


ホームズとワトスンが共同生活を送ることになった部屋221Bを含む下宿屋(ハドスン夫人が営む)は、言わずと知れたベーカーストリート(Baker Street)に面している。

ベーカーストリートの中間辺りから
北側(地下鉄ベーカーストリート駅方面)を見たところ
ベーカーストリートの中間辺りから
南側(オックスフォードストリート方面)を見たところ

ベーカーストリートは、現在、リージェンツパーク(Regents' Park)の南側にあるパークロード(Park Road)との交差点を北端として始まり、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)の前を東西に延びるマリルボーンロード(Marylebone Street)やポートマンスクエア(Portman Square)等を過ぎ、ウィグモアストリート(Wigmore Street)と交差したところから、オーチャードストリート(Orchard Street)という名前に変わる。そして、地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)経由、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へ向かって西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street)に突き当たって、オーチャードストリートは終わるが、ベーカーストリートを含む直線距離は約2.5kmに及ぶ。


オーチャードストリートとオックスフォードストリートが交差する北東の角には、高級デパートの一つとして知られる「セルフリッジズ(Selfridges)」の旗艦店が入居するビルが建っている。この「セルフリッジズ」の旗艦店は、「ハロッズ(Harrods)」に次いで、英国では2番目に大きな店舗である。


18世紀に通りを敷設した英国の建築家であるウィリアム・ベーカー(William Baker)に因んで、この通りは「ベーカーストリート」と呼ばれるようになった。
通りが敷設された当初は、高級住宅街であったが、現在は主に商業用店舗が数多く建ち並んでいる。

ベーカーストリートを敷設した
英国の建築家ウィリアム・ベーカー

ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、実際にベーカーストリートと呼ばれていたのは、南端のウィグモアストリートから北端は地下鉄ベーカーストリート駅の前を通るマリルボーンロードまでで、マリルボーンロードから更に北上したパークロードとの交差点までの通りは、当時、アッパーベーカーストリート(Upper Baker Street)という別の名前が付けられていた。
現在の住所表記上、ベーカーストリート221番地は、以前、アッパーベーカーストリートと呼ばれていた通り沿いに位置しているため、コナン・ドイルがホームズシリーズを執筆した当時には、ベーカーストリート221番地は実在しておらず、架空の住所だったことになる。この辺りの経緯については、2014年6月29日付ブログを御参照いただきたい。

現在、ベーカーストリート沿いには
商業用店舗が数多く軒を並べている

コナン・ドイルの友人であったモリス博士は、「『緋色の研究』に登場する主人公のホームズの住居をどこにしたらよいか?」とコナン・ドイルから相談があった、と語っている。そこで、モリス博士はコナン・ドイルに対して、自分の父親が以前住んでいた事がある「ベーカーストリート21番地」を薦め、コナン・ドイルは実際に同地を訪ねたそうである。そして、ベーカーストリートが気に入ったコナン・ドイルは、ホームズの住居として採用する際、実際に「ベーカーストリート21番地」に住んでいる居住者に迷惑がかかるのを避けるために、番地を「ベーカーストリート21番地」から当時は実在していなかった架空の住所である「ベーカーストリート221番地B」へと、意図的に変更したのではないか、と言われている。