2018年5月28日月曜日

ロンドン メルバリーロード18番地(18 Melbury Road)

「ラファエル前派」を結成した主要メンバーの一人である
ウィリアム・ホルマン・ハントが住んでいた
メルバリーロード18番地の建物全景

ロンドンにあるロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属美術学校(Antique School)の学友だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)や初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年:2018年3月25日 / 4月1日 / 4月14日 / 4月21日 / 4月28日付ブログで紹介済)と一緒に、1848年に「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループを結成した英国の画家ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)が住んでいた家が、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のホーランドパーク地区(Holland Park)内に残っている。


ハロッズ(Harrods)デパートの近くにある地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から、ハイドパーク(Hyde Park→2015年3月14日付ブログで紹介済)を右手にして、地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)へと向かって西に進んで行くと、通りはナイツブリッジ通り(Knightsbridge)、そして、ケンジントンロード(Kensington Road)と名前を変えていく。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)が右手に見えると、通りは更にケンジントンハイストリート(Kensington High Street→2016年7月9日付ブログで紹介済)へと名前を変える。

画面左手の通りがケンジントンハイストリートで、
画面手前の通りがメルバリーロード

ケンジントンハイストリートを西へ進み、左手に地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station→2016年6月25日付ブログで紹介済)が、次に右手にデザイン博物館(Design Museum)が見えた段階で、右手にあるメルバリーロード(Melbury Road)へと右折する。

メルバリーロード18番地の玄関口

メルバリーロードを北上し、左手に見えるホーランドパークロード(Holland Park Road)を過ぎた左手に、ウィリアム・ホルマン・ハントが住んでいたメルバリーロード18番地(18 Melbury Road)の建物がある。

メルバリーロード18番地の建物外壁(その1)
メルバリーロード18番地の建物外壁(その2)

メルバリーロード18番地の建物は、1877年に建てられたセミデタッチの住居で、ホーランドパーク地区内の他の場所やフラム地区(Fulham)に長らく住んだウィリアム・ホルマン・ハントは、彼の晩年に該る1905年に、ここに移り住んだ。
彼は1910年9月7日にメルバリーロード18番地で亡くなった後、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

ウィリアム・ホルマン・ハントに関するブループラークは
下側に架けられている
ウィリアム・ホルマン・ハントに関するブループラークのアップ写真

現在、建物の2階部分の外壁に、「ウィリアム・ホルマン・ハントがここに住み、そして、ここで亡くなった」ことを示すブループラークが架けられている。
このブループラークが架けられたのは1923年で、彼が亡くなってからわずか10年ちょっと後であるが、彼の妻だったエディス(Edith:1846年ー1931年)がまだ存命中で、この建物にまだ住んでいた時であった。

2018年5月27日日曜日

ロンドン ホルボーン高架橋(Holborn Viaduct)−その1


ホルボーン高架橋の全景写真–
ホルボーン高架橋の下を潜る通りは、画面奥までがファリンドンロードで、
画面手前からファリンドンストリートへと名前を変える

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。

ホルボーン高架橋の南側(東サイド)に設置されている
「農業(Agriculture)の女神」

創元推理文庫版「黒死荘の殺人」(南條竹則氏 / 高沢治氏訳)によると、

『その時タクシーがスピードを落として停まった。そこにハリディ(ディーン・ハリディ(Dean Halliday)ー黒死荘の現当主)の笑い声が重なる。運転手は、ガラスの仕切りを押しのけ、こちらを向いた。
「だんな、ニューゲートストリートの角ですが、どうします?」
我々は料金を払い、車を降りてその場を見回した。建物はみな、夢の中で経験するように、見上げるばかりに高く歪んで見える。はるか後方にホルボーン高架橋のぼんやりとした灯りが浮かび、聞こえるものといえば、夜の車のかすかな警笛と寂しい雨音だけだった。』

と記されており、黒死荘へと向かうべく、ニューゲートストリート(Newgate Street→2018年5月19日付ブログで紹介済)の角で、タクシーを降りたディーン・ハリディ、本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)とスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphery Masters)の3人が振り返ると、遥か後方にホルボーン高架橋(Holborn Viaduct)のぼんやりとした灯りが闇夜に浮かんでいた訳である。

ホルボーン高架橋の南側(西サイド)に設置されている
「商業(Commerce)の女神」

ホルボーン高架橋は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内に所在し、ロンドン・イズリントン区(London Borough of Islington)とロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)を東西に分けて、南北に延びるファリンドンロード(Farringdon Road→2017年1月7日付ブログで紹介済)の上を横切る高架橋である。

ホルボーン高架橋の北側(西サイド)に設置されている
「芸術(Fibe Art)の女神」

ファリンドンロードは、ホルボーン高架橋の下を過ぎると、ファリンドンストリート(Farrindon Street→2017年1月7日付ブログで紹介済)へと名前を変えて、テムズ河(River Thames)へと向かい、南に下って行く。

ホルボーン高架橋の北側(東サイド)に設置されている
「科学(Science)の女神」

ロンドン・カムデン区(北側)とシティー・オブ・ロンドン(南側)に跨がるホルボーンサーカス(Holborn Circus)から、ホルボーン高架橋の名前に因んだホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)が東へと延び、ホルボーン高架橋を通り、シティー・オブ・ロンドンの中心部へと向かって行く。ホルボーン高架橋通りは、南北に延びるオールドベイリー通り(南側:Old Baileyー中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)が建っている通り) / ギルップールストリート(Giltspur Street)と交差した後、ニューゲートストリートへと名前を変える。

2018年5月26日土曜日

ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)−その2

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ウィリアム・ホルマン・ハント作「我が英国の海岸」(1852年)

ロンドンにあるロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属美術学校(Antique School)の学友だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)や初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年:2018年3月25日 / 4月1日 / 4月14日 / 4月21日 / 4月28日付ブログで紹介済)と一緒に、1848年に「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループを結成した主要メンバーの一人であるウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)は、当初、田園や都市における生活風景を描いていたが、画壇での評判は良くなかった。その頃の絵画には、以下の作品が含まれる。

・雇われ羊飼い(The Hireling Shepherd:1851年ー1852年)
・我が英国の海岸(Our English Coasts:1852年)
・良心の目覚め(The Awakening Conscience;1853年)

ウィリアム・ホルマン・ハント作「我が英国の海岸」のアップ

続いて、彼が聖書に主題を求めて描いた「世の光(The Light of the World)」(1851年ー1853年)によって、一躍、彼は画壇における有名人となった。本作品は、現在、オックスフォード(Oxford→2015年11月21日 / 11月28日付ブログで紹介済)のケーブルカレッジ(Keble College)にある礼拝堂内におさめられている。なお、彼が1900年に描いた同名の作品は、全世界を巡った後、現在、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に所蔵されている。
その後も、ウィリアム・ホルマン・ハントは、聖書や伝説等を題材にして、19世紀の英国ヴィクトリア朝を代表する評論家 / 美術評論家であるジョン・ラスキン(John Rukin:1819年ー1900年)が提唱した「自然の忠実な再現」に則した写実主義を実行し、聖書の物語を絵画化するためには、物語が起きた現場を見ないと描けないと考えて、実際にパレスチナを三度も訪れている。

ウィリアム・ホルマン・ハントは、1865年にファニー・ウォー(Fanny Waugh:1833年ー1866年)と結婚したが、1866年、妻ファニーは子供の出産時にイタリアで亡くなった。
その後、彼は、ファニーの妹で、約20歳も年下のエディス・ウォー(Edith Waugh:1846年ー1931年)と再婚した。当時、英国においては、亡くなった妻の姉妹と結婚することは違法とされていたため、彼は英国外でエディスと結婚したため、家族内でいろいろと物議を醸し出した。

ウィリアム・ホルマン・ハントは、1910年9月7日、現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のホーランドパーク地区(Holland Park)内にある自宅にて死去し、彼の作品「世の光」(1900年)が所蔵されているセントポール大聖堂に埋葬されたのである。

2018年5月20日日曜日

ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)–その1

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)内に所蔵されている
ウィリアム・ホルマン・ハント作「Cornfield at Ewell」(1849年)

ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)は、19世紀から20世紀に架けて活動した画家で、ロンドンにあるロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属美術学校(Antique School)の学友だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)や初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年:2018年3月25日 / 4月1日 / 4月14日 / 4月21日 / 4月28日付ブログで紹介済)と一緒に、1848年に「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループを結成した主要メンバーの一人である。

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)内に所蔵されている
ウィリアム・ホルマン・ハント作「Claudio and Isabella」(1850年)

ウィリアム・ホルマン・ハントは、1827年4月2日に現在のシティー・オブ・ロンドン(City of London)のチープサイド地区(Cheapside)内に出生。
彼はロイヤルアカデミー付属美術学校への入学を一度拒否されたものの、入学後、前述の通り、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやジョン・エヴァレット・ミレーと学友となった。19世紀の英国ヴィクトリア朝を代表する評論家 / 美術評論家であるジョン・ラスキン(John Rukin:1819年ー1900年)による「自然の忠実な再現」という提言に思想的な影響を大きく受けた彼らは、美術学校を卒業した後、「ラファエル前派」を結成して、当時のロイヤルアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱え、イタリア・ルネサンスの古典主義の完成者であるイタリアの画家 / 建築家ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)以前の芸術、即ち、中世や初期ルネサンスの芸術を範としたのである。


ラファエル前派は、一時期、英国芸術界を席巻する活動を展開したが、統一化された芸術理念を文言化しなかったため、1853年にジョン・エヴァレット・ミレーがロイヤルアカデミーの準会員(associate member)、そして、正会員(full member)になったこと等を切っ掛けにして、数年後には事実上解散してしまった。
ラファエル前派を結成した主要メンバー3人のうち、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとジョン・エヴァレット・ミレーは、モデルをめぐる私情、妻の自殺同然の死や妻 / 子供を養う等を原因に、徐々に芸術的方向性を変えていったが、唯一、ウィリアム・ホルマン・ハントは、最後までラファエル前派の画家としての矜持を保っていたと言える。

2018年5月19日土曜日

ロンドン ニューゲートストリート(Newgate Street)

黒死荘へと向かうディーン・ハリディ、ケン・ブレークと
スコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部の3人がタクシーを降りた
ニューゲートストリートの西端−画面奥には、中央刑事裁判所が見える

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


創元推理文庫版「黒死荘の殺人」(南條竹則氏 / 高沢治氏訳)によると、

『その時タクシーがスピードを落として停まった。そこにハリディ(ディーン・ハリディ(Dean Halliday)ー黒死荘の現当主)の笑い声が重なる。運転手は、ガラスの仕切りを押しのけ、こちらを向いた。
「だんな、ニューゲートストリートの角ですが、どうします?」
我々は料金を払い、車を降りてその場を見回した。建物はみな、夢の中で経験するように、見上げるばかりに高く歪んで見える。はるか後方にホルボーン高架橋のぼんやりとした灯りが浮かび、聞こえるものといえば、夜の車のかすかな警笛と寂しい雨音だけだった。』

と記されており、黒死荘へと向かうディーン・ハリディ、本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)とスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphery Masters)の3人は、ニューゲートストリート(Newgate Street)の角で、タクシーを降りたことになる。

画面中央の四つ角からニューゲートストリートが始まり、
画面右奥へと延びている
雨模様の中、夕暮れ時が迫るニューゲートストリート

ニューゲートストリートは、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内に所在し、東西に延びる通りである。
ニューゲートストリートの西側は、オールドベイリー通り(Old Bailey→中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)が建っている通り)<南側>、ホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)<西側>およびギルップールストリート(Giltspur Street)<北側>が交差する四つ角から始まり、その東側は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)の北側に位置している地下鉄セントポール駅(St. Paul’s Tube Station)の前にあるロータリーで終わり、そこからチープサイド通り(Cheapside)へと名前をかえる。
タクシーを降りた後、ディーン・ハリディ達はギルップールストリートへと歩き始めているので、彼らがタクシーを降りたのは、ニューゲートストリートの西橋ということになる。

ニューゲートストリートの東端は、
画面中央奥の地下鉄セントポール駅前で終わり、
そこからチープサイド通りへと名前が変わる
ニューゲートストリートの東端の北側にある
Christchurch Greyfriars Garden

ニューゲートストリートは、この辺りにあったニューゲート(Newgate)という門に因んで名付けられている。
ニューゲートは。シティー・オブ・ロンドンを防衛するために築かれたロンドンウォール(London Wall)にあった7つの門の一つで、ローマ時代に遡る6つの門の一つでもある。

中央刑事裁判所の建物外壁(北側)には、
「ここに建っていたニューゲート監獄が
1777年に取り壊された」ことを示すブループラークが架けられている

12世紀に入ると、ニューゲートは、殺人や強盗等の重罪人を収容するニューゲート監獄(Newgate Prison)の一部として使用されたが、1666年9月に発生したロンドン大火(Great Fire of London)によって焼失した。その後、再建されたものの、ニューゲートは1767年に、また、ニューゲート監獄は1777年に取り壊されてしまう。ニューゲート監獄の跡地に建つ中央刑事裁判所のニューゲートストリート側に面している建物外壁には、「1777年に取り壊されたニューゲート監獄が建っていた場所である(Site of Newgate Demonlished 1777)」ことを示すブループラークが架けられている。

2018年5月13日日曜日

ロンドン パレスゲート通り2番地(2 Palace Gate)

画面中央の建物が、
初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレーが住んでいたパレスゲート通り2番地

19世紀中頃、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」と呼ばれる芸術グループを結成した画家の一人である初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)が住んでいた家がパレスゲート通り2番地(2 Palace Gate)で、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内に所在している。


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を右手に見て、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station→2016年6月25日付ブログで紹介済)へと向かって西に延びるケンジントンロード(Kensington Road)を進む。そして、進行方向右手にケンジントン宮殿(Kensington Palace)が見えてきたところで、ケンジントンロードを左折して、パレスゲート通り(Palace Gate)へと入る。パレスゲート通りを南下して、左手から延びてきたレストンプレイス通り(Reston Place)と交差した角に建つのが、パレスゲート通り2番地である。パレスゲート通り近辺は、現在、高級住宅街の一つで、同2番地の建物には、ザンビア領事館(Zambian High Commission)が入居しており、玄関の上部には、「Zambia House」という表示が為されている。

パレスゲート通り2番地の建物には、
現在、ザンビア領事館が入居している

初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレーは、1853年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の準会員(associate member)になり、直ぐに正会員(full member)に選出された。そして、英国の画家 / 彫刻家だった初代レイトン男爵フレデリック・レイトン(Frederic Leighton, 1st Baron Leighton)の死去に伴い、ミレーは1896年にロイヤルアカデミーの会長(president)に選出されるが、同年8月13日、喉頭癌のため、他界した。なお、彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

パレスゲート通り2番地の建物外壁に架けられているブループラーク

パレスゲート通り2番地の建物1階(英国では、G階)外壁に、「サー・ジョン・エヴァレット・ミレーがここに住み、そして、ここで亡くなった」ことを示すブループラークが架けられている。

2018年5月12日土曜日

カーター・ディクスン作「黒死荘の殺人」(The Plague Court Murders by Carter Dickson)–その2

絞首刑が行われていたタイバーン(The Tyburn)の樹が立っていた場所を示すプレート

黒死荘(Plague Court)に到着したケン・ブレーク(Ken Blakeー本編の語り手)、紅茶の輸入商ハリディ・アンド・サン商会の次男坊であるディーン・ハリディ(Dean Halliday)とスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphrey Masters)の3人は、そこでロンドン博物館での盗難事件を捜査していたバート・マクドネル巡査部長に出会う。彼らや他の参加者が見守る中、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)は石室内に一人籠って、降霊会が始まる。
ところが、降霊会の最中、ロジャー・ダーワースが血の海の中で無惨にも事切れているのが発見された。彼が一人籠った石室は厳重に戸締まりされている上に、石室の周囲には足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、ロンドン博物館から盗まれたルイス・プレージ所有の短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


外部からの侵入が全く不可能な石室の内に一人籠もったロジャー・ダーワースを、一体誰がどのような方法で殺害したのか?それとも、彼が呼び出そうとしていた元絞首刑史のルイス・プレージによる仕業なのだろうか?ケン・ブレークは、英国軍防諜部所属時代の元上司で、現在は陸軍省情報部の部長執務室で暇を持て余していたH・Mこと、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)に助けを求めるのであった。

絞首刑が行われていたタイバーンの場所は、現在、
マーブルアーチ(Marble Arch)から北上する
エッジウェアロード(Edgware Road)の一番南端で、
道路中央の浮島(画面中央)内にある

ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年) / カーター・ディクスン(Carter Dickson)の作品は、特に密室を中心とした不可能犯罪をテーマにした作品が多いという特徴があるが、「黒死荘の殺人」は、密室のトリック、ロジャー・ダーワースの殺害方法および犯人の隠し方等を含めて、独創性が高く、彼の最高傑作の一つとして、一般に評価されている。

絞首刑が行われていたタイバーンの南側には、
現在、マーブルアーチが建っていて、
多くの観光客を集めている

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、「別冊宝石」(1950年8月)で行った「カー問答」において、カーの作品を第1位グループ(最も評価が高い作品群)から第4位グループ(最もつまらない作品群)までグループ分けしていて、「黒死荘の殺人」を第1位グループの6作品中、筆頭の「帽子収集狂事件(The Mad Hatter Mystery→2018年4月29日 / 5月5日付ブログで紹介済)」の次に高く評価している。
また、金田一耕助シリーズ等で著名な日本の推理作家である横溝正史(1902年ー1981年)も、「帽子収集狂事件」等と共に、「黒死荘の殺人」をベスト3の中に入れている。

2018年5月6日日曜日

カーター・ディクスン作「黒死荘の殺人」(The Plague Court Murders by Carter Dickson)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「黒死荘の殺人」の表紙−
カバーデザイン:本山 木犀氏
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏

「黒死荘の殺人(The Plague Court Murders)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる。当作品は、1934年に米国のモロウ社(Morrow)から、そして、1935年に英国のハイネマン社(Heinemann)から出版された。

1930年9月6日、そぼ降る雨の晩、クラブの喫煙室に居た本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)のところに、彼の旧友で、紅茶の輸入商ハリディ・アンド・サン商会の次男坊であるディーン・ハリディ(Dean Halliday)が雑談にやって来て、驚くべき話を始める。

老父が亡くなり、商会は兄のジェイムズ・ハリディ(James Halliday)が継いでいたが、表面上は物腰穏やかで謹厳実直そうに見えたものの、実際は堕落しきった偽善者で、ある晩帰宅した後、拳銃自殺を遂げたのである。第一次世界大戦(1914年ー1918年)後、放蕩三昧の生活を過ごしていたディーン・ハリディは、身持ちの悪さを矯正するため、カナダへと遠島になっていたが、9年間の流刑から呼び戻されて、現当主となっていた。

ディーン・ハリディは大きく息を吸い込むと、ケン・ブレークに「幽霊屋敷で一晩を明かしてほしい。」と依頼するのだった。問題の幽霊屋敷とは、ハリディ家が代々所有する「黒死荘(Plague Court)」のことで、1663年から1665年までタイバーン(The Tyburn)の絞首刑史だったルイス・プレージ(Louis Playge)の呪いがかけられているという曰く付きの屋敷であった。奇しくも、当日の午後、セントジェイムズ地区(St. James’s)内にあるロンドン博物館から、ルイス・プレージ所有だった短剣が「後ろ姿の痩せた男」によって盗まれるという事件が発生していた。

当日の夜、黒死荘の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)による降霊会が行われる予定で、ケン・ブレークは、昔からの知り合いであるスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphrey Masters)を一緒に誘う。当時、ハンフリー・マスターズ主任警部は、人の弱みにつけ込んで、多額の金銭を巻き上げるイカサマ霊媒師を摘発することを主たる任務としており、「幽霊狩り」と呼ばれていた。以前よりロジャー・ダーワースをイカサマ霊媒師としてなんとか摘発しようと考えていたハンフリー・マスターズ主任警部は、ケン・ブレークの誘いを快諾して、彼とディーン・ハリディと一緒に、タクシーで曰く付きの屋敷「黒死荘」へと向かうのであった。

2018年5月5日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「帽子収集狂事件」(The Mad Hatter Mystery by John Dickson Carr)−その2

ルイス・キャロル作「不思議の国のアリス」に登場する
「いかれ帽子屋」(その1)
Illustration by Sir John Tenniel and coloured by Diz Wallis

至急、現場のロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)へと駆け付けるギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)達であったが、深い霧が立ち込めるロンドン塔内で足止めされている証言者の中には、(1)ウィリアム・ビットン卿(Sir William Bitton)の弟レスター・ビットン(実業家)の妻で、殺害されたフィリップ・ドリスコル(Philip Driscoll)と不倫関係にあったと思われるローラ・ビットン、(2)米国人の実業家かつ古書収集家で、ウィリアム・ビットン卿の屋敷に滞在していたジュリアス・アーバーや(3)フィリップ・ドリスコルが住むタヴィストック荘の向かいの部屋に暮らす未亡人アマンダ・ラーキン等、不思議なことに、フィリップ・ドリスコルの関係者が多く含まれていた。
また、妻ローラとフィリップ・ドリスコルの不適切な関係を疑う夫のレスター・ビットンも、容疑者の一人であった。
ロンドン塔の副長官メイスン将軍の秘書で、ウィリアム・ビットン卿の娘シーラ・ビットンの婚約者でもあるロバート・ダルライは、当初、フィリップ・ドリスコルとロンドン塔で会う約束をしていたが、当日、フィリップ・ドリスコルの名を語った電話によって、タヴィストック荘に呼び出されており、ロンドン塔を不在にしていたことが判った。

ルイス・キャロル作「不思議の国のアリス」に登場する「いかれ帽子屋」(その2)
Illustration by Sir John Tenniel and coloured by Diz Wallis

果たして、フィリップ・ドリスコルを殺害した犯人は誰で、その動機は?そして、「いかれ帽子屋(The Mad Hatter)」との間に、一体どのような繋がりがあるのだろうか?

ルイス・キャロル作「不思議の国のアリス」に登場する「いかれ帽子屋」(その3)
Illustration by Sir John Tenniel and coloured by Diz Wallis

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)の作品には、特に密室を中心とした不可能犯罪をテーマにしたものが多いという特徴があるが、「帽子収集狂事件(The Mad Hatter Mystery)」では、密室を超える不可能犯罪トリックが使用されている。
明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、これを非常に高く評価して、カーの作品の中では、ベスト1に、また、黄金時代のミステリーベスト10の中では、第7位に推している。また、金田一耕助シリーズ等で著名な日本の推理作家である横溝正史(1902年ー1981年)も、「黒死荘の殺人(The Plague Court Murders→カーター・ディクスン名義)」等と共に、「帽子収集狂事件」をベスト3の一作として評している。

ルイス・キャロル作「不思議の国のアリス」に登場する「いかれ帽子屋」(その4)
Illustration by Sir John Tenniel and coloured by Diz Wallis

「いかれ帽子屋(mad hatter)」と言うと、英国の数学者、論理学者、写真家、作家で詩人でもあったルイス・キャロル(Lewis Carroll:1832年ー1898年→ちなみに、本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson))作「不思議の国のアリス(Alice’s Adventures in Wonderland)」(1865年)に登場するキャラクターに由来すると思われがちであるが、英語には古くから「as mad as hatter」という慣用句が存在しており、これはフランス語の慣用句である「fou comme un chapelier」が英語に転じたものである。昔、フェルト帽を作る際に、帽子屋の職人は硝酸第一水銀を使用しており、この硝酸第一水銀が原因で、彼らの多くが水銀中毒に罹ったため、「帽子屋のように狂っている」という慣用句が生まれた、とのこと。