2016年7月31日日曜日

ロンドン フログナルウェイ9番地(9 Frognal Way)

バートン・ラッセルが住む邸宅として、
フログナルウェイ9番地の建物が撮影に使用されている

アガサ・クリスティー作「黄色いアイリス(Yellow Iris)」は、1939年に刊行された短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元に、女性の声で危機を訴える匿名の電話がかかってくるところから、物語の幕が上がる。女性に指定されたレストラン「白鳥の園」にポワロが急いで到着したが、肝心の女性の姿がその場にはなかった。唯一黄色いアイリスが置かれたテーブルがあり、気になったポワロがそのテーブル客達に話しかけると、4年前ニューヨークのレストランで青酸カリの入った飲み物で不審な死を遂げたアイリス・ラッセル(Iris Russell)を偲んでいると言う。そのテーブルには、以下の5人の客が居た。

(1)バートン・ラッセル(Barton Russell)ーアイリスの夫
(2)ポーリン・ウェザビー(Pauline Wetheby)ーアイリスの妹
(3)アンソニー・チャペル(Anthony Chapell)ーポーリンの婚約者
(4)スティーヴン・カーター(Stephen Carter)ー外務省で極秘事項に関係している噂の男
(5)ローラ・ヴァルデス(Lola Valdez)ーダンサー

フログナルウェイへの入口(南側)―
画面奥から手前に延びる通りはフログナル通り
南側の入口からフログナルウェイを見たところ

皆、アイリスが衆人の面前で自殺をする理由で思い当たらないと、ポワロに告げる。ポワロがテーブル客達の話を聞いている間に、4年前と全く同じ状況下、ポーリンが青酸カリの入った飲み物を飲んで、アイリスと同様に、不審な死を遂げたのである。
ポワロの面前で発生した謎の不審死!果たして、4年前、そして、今回の事件は単なる自殺なのか?それとも、殺人なのか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出すのであった。

フログナルウェイ沿いに建つ邸宅(その1)
フログナルウェイ沿いに建つ邸宅(その2)

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「黄色いアイリス」(1993年)の回では、物語の中盤、ポワロはアーサー・ヘイスティングス大尉を伴って、バートン・ラッセルの自宅を訪ねる。そして、ポワロはバートン・ラッセルに対して、ジャーミンストリート(Jermyn Streetー2016年7月24日付ブログで紹介済)に開店するレストラン「ル・ジャルダン・デ・シーニュ(Le Jardin des Cygnesー白鳥の園)に2年前の事件(アルゼンチンのブエノスアイレスにあった同店において、彼の妻アイリス・ラッセルが青酸カリの入った飲み物を飲んで、不審な死を遂げた事件)の関係者達を集める意図を尋ねるのであった。ポワロの問いに、バートン・ラッセルは、妻の死の真相を明らかにしたいと答える。
バートン・ラッセルが住む邸宅として、フログナルウェイ9番地(9 Frognal Way)の家が撮影に使用されている。

フログナルウェイから見たフログナルウェイ9番地の邸宅正面

フログナルウェイ9番地は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のハムステッド地区(Hampstead)内にある。地下鉄セントジョンズウッド駅(St. John's Wood Tube Station)前から始まり、地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)や地下鉄フィンチリーロード駅(Finchley Road Tube Station)等の前を通って北上するフィンチリーロード(Finchley Road)を右折して、フログナルレーン(Frognal Lane)の坂を登り、左右に延びるフログナル通り(Frognal)に交差した奥にあるのがフログナルウェイ(Frognal Way)である。

フログナルウェイの一番奥(北側)
フログナルウェイの北側から南側を望む

このフログナルウェイの中程に建つ9番地の白い建物が、バートン・ラッセルの邸宅として撮影に使用されたものである。フログナルウェイの両側に建つ他の邸宅とは異なった建物で、ポワロシリーズでよく使われるアールデコ風の邸宅である。

フログナルウェイ9番地の邸宅アップ―
アールデコ風の建物である

フログナルウェイは、(1)フィンチリーロードと(2)地下鉄スイスコテージ駅と地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)を結ぶフィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn's Avenue)に南北に挟まれた地域内にあり、ハムステッド地区の高級住宅街の一つである。上記の2つの通りはバス通りで、特にフィンチリーロードは車の往来が激しいが、フログナルウェイがある辺りは非常に閑静な場所である。

2016年7月30日土曜日

「緋色の研究(A Study in Scarlet)」

シャーロック・ホームズの記念すべき第一作「緋色の研究」

サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)は、1876年にエディンバラ大学(University of Edinburgh)医学部に入学し、1881年8月に同大学で医学士と外科修士の学位を取得した。彼は同年10月にアフリカ汽船会社に船医として就職し、リヴァプール(Liverpool)から出航するも、航海中にマラリアに罹患して、一時生死の境をさまようことになった。そのため、これ以上アフリカ汽船会社に船医として留まることが困難となり、翌年の1882年1月に同社を退職する。

2014年夏場に、ロンドンの中心部
ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の
ブルームズベリー(Bloomsbury)地区内にある
ウォバーンスクエアガーデン(Woburn Square Garden)に
設置されたブックベンチ

アフリカ汽船会社を退職したコナン・ドイルは、1882年6月末から英国南部のポーツマス(Portsmouth)郊外にあるサウスシー(Southsea)において、個人診療所を開業した。その後、彼はサウスシーにて診療所を8年にわたって続けるが、既に医師が多く開業する地域だったこともあって、医師としての大きな成功を納めることはなく、ひたすら患者を待つ日々が続いた。

ブックベンチは、その名の通り、
本を真ん中で開いたような形をしている

コナン・ドイルは、患者を待つ間、暇に飽かせて、短編小説を執筆して、雑誌社へ投稿するようになる。幸い、執筆した短編小説のいくつかは、雑誌社に買い取ってもらえたが、大半は雑誌社から彼の元へ返却されていた。
ポーツマス暮らしが3年目に入った1885年に、(病死した)患者の姉であるルイーズ・ホーキンズ(Louise Hawkins)と(最初の)結婚をしたコナン・ドイルは、このまま短編小説を書いていても、単なる小遣い稼ぎ程度しかならないと思い、単行本として出版できる位の長編小説の執筆を思い立った。
彼は、まず最初に、「ガードルストーン会社」という長編小説を書き上げたが、出版してくれそうな出版社がなかなか見つからなかった(実際に、当作品が出版されたのは、1890年)。彼が、その次に、1886年3月から同年4月にかけて執筆した長編小説が、シャーロック・ホームズの記念すべき第一作の「緋色の研究(A Study in Scarlet)」であった。

ブックベンチを背凭れ側から見たところ―
中央にシャーロック・ホームズのシルエット像が描かれている

「緋色の研究」では、
(1)第二次アフガン戦争に副軍医として従軍して負傷したジョン・H・ワトスン(John H. Watson)が英国へ戻った場所がポーツマスで、コナン・ドイルが住んでいたサウスシーの近郊であること
(2)厳密には、殺人事件とは言えないが、被害者となったイーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)と彼の秘書のジョーゼフ・スタンガーソン(Joseph Stangerson)の二人が米国へ逃げ帰ろうとして、ユーストン駅(Euston Station)から向かおうとしていた場所がリヴァプールで、コナン・ドイルが船医として就職したアフリカ汽船会社が出航し、彼がマラリアに罹患して退職する破目になったところであること
等、登場する場所のいくつかは、彼の実生活から取り入れられている。

一番左側には、赤い本「緋色の研究」がある

「緋色の研究」についても、「ガードルストーン会社」と同様に、なかなか出版社が見つからなかったが、1886年10月末にウォードロック社という出版社に短編小説並みの安値でやっと買い取ってもらい、更に1年後の1887年11月、同作品は「ビートンのクリスマス年間(Beeton's Christmas Annual)」に掲載され、1888年には単行本化もされた。

残念ながら、この時点での世間の反響は程々であり、ホームズシリーズの短編小説が「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に掲載され、ホームズ(とワトスン)が爆発的な人気を得るのは、まだ数年先の話である。

2016年7月24日日曜日

ロンドン ジャーミンストリート(Jermyn Street)

西側(セントジェイムズストリート側)から東側(リージェントストリート)側へ
ジャーミンストリートを望む

アガサ・クリスティー作「黄色いアイリス(Yellow Iris)」は、1939年に刊行された短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元に、女性の声で危機を訴える匿名の電話がかかってくるところから、物語の幕が上がる。女性に指定されたレストラン「白鳥の園」にポワロが急いで到着したが、肝心の女性の姿がその場にはなかった。唯一黄色いアイリスが置かれたテーブルがあり、気になったポワロがそのテーブル客達に話しかけると、4年前ニューヨークのレストランで青酸カリの入った飲み物で不審な死を遂げたアイリス・ラッセル(Iris Russell)を偲んでいると言う。そのテーブルには、以下の5人の客が居た。

(1)バートン・ラッセル(Barton Russell)ーアイリスの夫
(2)ポーリン・ウェザビー(Pauline Wetheby)ーアイリスの妹
(3)アンソニー・チャペル(Anthony Chapell)ーポーリンの婚約者
(4)スティーヴン・カーター(Stephen Carter)ー外務省で極秘事項に関係している噂の男
(5)ローラ・ヴァルデス(Lola Valdez)ーダンサー

セントジェイムズストリート近辺のジャーミンストリート

皆、アイリスが衆人の面前で自殺をする理由で思い当たらないと、ポワロに告げる。ポワロがテーブル客達の話を聞いている間に、4年前と全く同じ状況下、ポーリンが青酸カリの入った飲み物を飲んで、アイリスと同様に、不審な死を遂げたのである。
ポワロの面前で発生した謎の不審死!果たして、4年前、そして、今回の事件は単なる自殺なのか?それとも、殺人なのか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出すのであった。

英国王ジョージ4世の友人で、
ロンドン社交界の伊達者だった
ジョージ・ブライアン・ブランメル
(George Bryan Beau Brummell:1778年―1840年)

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「黄色いアイリス」(1993年)では、アガサ・クリスティーの原作とは、以下のような差異がある。

(1)アイリス・ラッセルが青酸カリの入った飲み物を飲んで不審な死を遂げた時期
   原作:4年前 
   TV版:2年前
(2)アイリス・ラッセルが不審な死を遂げた場所
   原作:ニューヨークのレストラン
   TV版:ブエノスアイレスのフレンチレストラン「白鳥の園」
(3)アイリス・ラッセルが不審な死を遂げた時におけるポワロの関与度合い
   原作:ポワロは現場には居合わせていない。
   TV版:アルゼンチンで牧場を経営しているアーサー・ヘイスティングス大尉
                   に会いに行く途中、ポワロは偶然現場に居合わせている。
(4)第2の事件が発生するロンドンでの場所
   原作:レストラン「白鳥の園」
   TV版:開店したばかりのフレンチレストラン「白鳥の園」
(5)第2の事件が発生した場所へポワロはどのような経緯でやって来たのか?
   原作:匿名の女性からので電話で呼び出される。
   TV版:フレンチレストラン「白鳥の園」が開店したその日に、ポワロが住む
                   フラットの郵便受けに一輪のアイリスが入れられており、ポワロは
                   2年前の未解決事件を思い出し、独自に捜査を始める。
(6)第2の事件の被害者
   原作:ポーリン・ウェザビーは青酸カリの入った飲み物を飲んで殺害される。
   TV版:ポーリンは青酸カリの入った飲み物で狙われるが、ポワロが事件を
       未然に防ぐ。

サー・アイザック・ニュートン(Sir Issac Newton:1642年―1727年)は、
ジャーミンストリート88番地(1696年―1700年)と
同87番地(1700年―1709年)に住んでいた。
1642年12月25日に、リンカーンシャー州(Lincolnshoire)の
小さな村ウールズソープ(Woolsthrope)に出生したアイザック・ニュートンは、
ケンブリッジ大学(Cambridge University)のトリニティーカレッジ(Trinity College)へ進学し、
26歳の若さで、同大の教授職に就く。
その後、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った彼は、ケンブリッジを離れて、
1696年にロンドンへ移住。
当初、ジャーミンストリート88番地に住んでいたが、
1700年に同所より広いジャーミンストリート87番地が空いたため、
彼は、そちらへ移った。残念ながら、当時の建物は、1908年に取り壊されてしまった。

サー・アイザック・ニュートンは、英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、
そして、神学者として有名である。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
サー・アイザック・ニュートンの肖像画の葉書
(Sir 
Godfrey Kneller Bt. / 1702年 / Oil on panel
756 mm x 622 mm) 

ブエノスアイレスでフレンチレストラン「白鳥の園(ル・ジャルダン・デ・シーニュ / Le Jardin des Cygnes)」を経営していたルイジ・デ・モニコ(Luigi di Monico)が、ロンドンにおいて同名のフレンチレストランを開店した場所のジャーミンストリート(Jermyn Street)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mallー2016年4月20日付ブログで紹介済)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通って地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Stationー2015年6月14日付ブログで紹介済)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)とで南北に挟まれている。ジャーミンストリートの東側はヘイマーケット通り(Haymarket)から始まり、リージェントストリート(Regent Street)を横切った後、西側はセントジェイムズストリート(St. James's Street)で終わる約500mの通りである。

ジャーミンストリートの中央辺りから東方面を見たところ

ジャーミンストリートは、17世紀後半、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミン(Henry Jermyn, 1st Earl of St. Albans:1605年ー1684年)がセントジェイムズ地区を再開発した際に、一緒に整備され、彼の名前に因んで、ジャーミンストリートと名付けられた。ただし、当初は、現在の「Jermyn Street」ではなく、「Jarman Street」と記録されていたようである。ちなみに、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、ジャーミンストリートから少し南側に下ったセントジェイムズスクエア(St. James's Squareー2015年10月25日付ブログで紹介済)にある自宅で、1684年に死去している。

ジャーミンストリートから見上げた
セントジェイムズ教会(St. James's Church)

セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)等を建設した
英国の建築家サー・クリストファー・マイケル・レン
(Sir Christopher Michael Wren:1632年―1723年)が
セントジェイムズ教会を建設した

現在、ジャーミンストリートの両側には、背広、シャツ、靴や帽子等の紳士用品の店が軒を連ねて、英国の伝統的な通りとして残っている。

リージェントストリート近辺のジャーミンストリート沿いの靴屋

リージェントストリート近辺のジャーミンストリート沿いの洋服屋

アガサ・クリスティーが長編「忘れられぬ死(英題:Sparkling Cyanide、米題:Remembered Death)」(1945年)を発表してるが、この短編「黄色いアイリス」が原型になっている。なお、長編「忘れられぬ死」には、ポワロは登場せず、長編「ひらいたトランプ(Cards on the Table)」(1936年)に登場した情報部員のレイス大佐(Colonel Race)が探偵役を務めている。

2016年7月23日土曜日

ロンドン チジック地区(Chiswick)

筆者がチジックハウスで購入した
イングリッシュヘリテージのガイドブック

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレード警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

チジックハウス1階の Link Building ルーム内に展示されているスフィンクス像―
制作者は、英国の彫刻家ジョン・チア(John Cheere:1709年ー1787年)

ステップニー地区(Stepney)のチャーチストリート(Church Street)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)を訪れたホームズとジョン・ワトスンは、ナポレオンの石膏胸像が全部で6体制作され、3体がケニントンロードのモース・ハドソン氏の画廊へ、そして、残りの3体はケンジントンハイストリート(Kensington High Street)のハーディングブラザーズ(Harding Brothers)の店へ送られたことを聞き出す。モース・ハドソン氏の画廊へ送られた3体は、全て何者かによって壊されたため、ホームズとワトスンはハーディングブラザーズの店へ出向き、ホーレス・ハーカー氏が購入した1体を除く残りの2体の行方について尋ねたのであった。

チジックハウス内の天井装飾とシャンデリア

この大商店の創始者は、きびきびとして歯切れのいい小柄な男で、こざっぱりした服装をしていた。また、頭の回転が速く、口が達者な男だった。
「ええ、夕刊で既にその記事を読みました。ホーレス・ハーカーさんは、私どもの顧客でございます。数ヶ月前に彼に問題の胸像を配達しました。同じ種類の胸像は、ステップニー地区にあるゲルダー社に注文しましたが、もう全部売れてしまいました。誰にですって?ああ、売上台帳を見れば、簡単にお教えできますよ。ここに記載してあります。一つは、既に御存知の通り、ハーカーさん、もう一つは、チジック、ラバーナムヴェール、ラバーナム荘のジョサイア・ブラウンさん、最後の一つは、レディング、ロウワーグローヴロードのサンドフォードさんです。」

チジックハウスにも使用されている柱装飾のサンプル

The founder of that great emporium proved to be a brisk, crisp little person, very dapper and quick, with a clear head and a ready tongue. 
'Yes, sir, I have already read the account in the evening papers. Mr Horace Harker is a customer of ours. We supplied him with the bust some months ago. We ordered three busts of that sort from Gelder and Co., of Stepney. They are all sold now. To whom? Oh I dare say by consulting our sales book we could very easily tell you. Yes, we have the entries here. One to Mr Harker, you see, and one to Mr Josiah Brown, of Laburnum Lodge, Laburnum Vale, Chiswick, and one to Mr Sanderford, of Lower Ground Road, Reading.'

チジックハウス内に展示されているナポレオン像―
ドイル作「六つのナポレオン像」とは関係なし

11時にベーカーストリート221Bの戸口に四輪馬車が横付けされた。私達はそれに乗って、ハマースミス橋の反対側の場所へと向かった。そこで、馬車の御者は待つように指示された。少しばかり歩くと、一目につかない道に出た。その道の周辺には、自分の敷地にそれぞれ建てられた感じの良い家が並んでいた。街灯の明かりで、それらの家の一つの門柱に「ラバーナム荘」と書かれていることが見てとれた。住人は既に就寝しているようだった。というのも、玄関口の上の扇形の明かりを除くと、家全体が真っ暗だったからだ。扇形の明かりは、庭の小道にぼんやりとした光の輪を落としていた。庭を道から隔てる木製の塀が、内側に濃く、そして、黒い影を落としていた。私達は、正に、その影の中にしゃがみ込んで、身体を低くしたのである。

チジックハウス2階の南側に面している Blue Velvet Room

A four-wheeler was at the door at eleven, and in it we drove to a spot at the other side of Hammersmith Bridge. Here the cabman was directed to wait. A short walk brought us to a secluded road fringed with pleasant houses, each standing in its own grounds. In the light of a street lamp we read 'Laburnum Villa' upon the gatepost of one of them. The occupants had evidently retired, for all was dark save for a fanlight over the hall door, which shed a single blurred circle on the garden path, The wooden fence which separated the grounds from the road threw a dense black shadow upon the inner side, and here it was that we crouched.

チジックハウス2階中央の Tribunal ルームの壁に架けられている
「英国王チャールズ1世と家族の肖像画」―
フランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク
(Anthony van Dyck:1599年―1641年)が描いている

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 

ジョサイア・ブラウン氏(Mr Josiah Brown)が住むラバーナム荘(Laburnum Villa)があるチジック地区(Chiswick)は、ロンドンの西部郊外にあり、ハウンズロー・ロンドン自治区(London Borough of Hounslow)内に位置している。
チジック地区が歴史上最初に登場したのは、11世紀初め頃で、その頃は「Ceswican」と呼ばれていた。チジックは、古い英語で「チーズ農場(Cheese Farm)」を意味しており、18世紀まで毎年開催されたチーズフェアを支えていたテムズ河(River Thames)沿いの牧場や農場がその語源になったと言われている。
12世紀後半に入ると、セントニコラス教会(St. Nicholas Church)を中心にして。街が徐々に形づくられて、住民も次第に増えていった。当時、住民は農場に従事する他には、テムズ河に近いこともあって、漁業や河を利用した人や物の運搬等に従事していた。
1864年に造船会社がチジック地区内に設立され、1893年に英国海軍が使用する駆逐艦 HMS Daring を建造するが、戦艦の規模が段々と巨大化したため、1909年に英国南部のサザンプトン(Southampton)へ移ってしまう。
19世紀の100年をかけて、チジック地区の人口は約10倍になり、1901年には約3万人にまで達した。そして、チジック地区一帯には、ジョージ王朝、ヴィクトリア王朝とエドワード王朝の3時代にわたる家屋が混在するようになる。
第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、チジック地区もドイツ軍の爆撃に曝されるようになり、1944年9月8日には、ドイツ軍が放ったV2ロケットがチジック地区に着弾し、3名が死亡、22名が負傷、そして、周辺の建物や樹木等が甚大な被害を蒙っている。

チジックハウス内の天井画

チジック地区は、ロンドン市内に比較的近いことから、ロンドン市内へ通勤するためのベッドタウンとなっていて、現在の人口は約35千人まで増加している。
ロンドン市内から西へ延びる一般道路が、チジックからM4と呼ばれる高速道路に変わり、ヒースロー空港(Heathrow Airport)を結ぶ重要な幹線道路となっている。

また、チジック地区内には、1720年代後半に第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington)が建設した新パラディオ式の邸宅チジックハウス(Chiswick House)を初めとして、数多くの歴史的建造物が所在している。

2016年7月17日日曜日

ロンドン サマセットハウス(Somerset House)

サマセットハウスの南ウィングのアップ

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。


ワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

サマセットハウスの中庭―奥に南ウィングが見える

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

期間限定で中庭に設置されていた貝殻のオブジェ

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、ポワロがある人物の戸籍を調べるために、ある場所にやって来る。その建物として、サマセットハウス(Somerset House)が撮影に使用されている。
サマセットハウスは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建っている。

中庭側から見た北ウィング

1539年にハートフォード伯爵エドワード・シーモア(Edward Seymour, Earl of Hertford:1500年ー1552年)が、 時の英国王ヘンリー8世(Henry III:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)からこの地を譲り受け、自分の邸宅を建設したのが、そもそもの始まりである。ちなみに、彼は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(Jane Seymour:1509年ー1537年)の兄である。
ヘンリー8世の子供のエドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)が1547年に即位したことに伴い、ハートフォード伯爵エドワード・シーモアは初代サマセット公爵(Duke of Somerset)かつ護国卿/摂政(Lord Protector)に叙せられたので、彼の邸宅が「サマセットハウス」と呼ばれるようになった。しかし、邸宅の完成前に、彼が反逆罪に問われ、処刑されてしまったため、邸宅は未完成のまま取り残され、この地は英国王の所有地にまた戻されることとなった。

最高気温が30度を超えたある夏の日―
空の青さが目に眩しい

その後、サマセットハウスは英国王家で使用され、1685年には英国の建築家サー・クリストファー・レン(Sir Christopher Wren:1632年ー1723年)による改修も実施されたが、1688年の名誉革命(Glourious Revolution)以降、建物の維持費が次第に捻出できなくなり、次第に劣化するようになる。18世紀に入ると、倉庫や軍の兵舎等として使用されたものの、1775年には取り壊しの憂き目に会う。

中庭側から見た西ウィング

同年の1775年、新サマセットハウスの設計者として、英国の建築家で、ロイヤルアカデミーの創設メンバーの一人でもあるサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)が任命され、1776年から建設工事が開始された。彼の新古典主義建築に基づいて、ストランド通り(Strand)に面した北ウィング部分が完成。1782年に彼は建築総監に就任し、建設計画を進めるものの、残念ながら、1796年に死去。
彼の後を継いだ英国の建築家ジェイムズ・ワイアット(James Wyatt:1746年ー1813年)によって、同年の1796年、大部分の建物が完成を迎えた。建物が竣工した時期は不明で、1800年代に入っても、工事はまだ残っていたようである。
その後、サー・ウィリアム・チェンバーズが計画していたものの、彼の存命中には成し得なかった東ウィングと西ウィングが19世紀中に増築され、中庭を東西南北のウィングが囲む現在の建物が完成した。東西ウィングの竣工後、150年以上を経過しているが、いまだに「新ウィング(New Wing)」と呼ばれている。

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)のホーム壁に、
ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵されている
絵画「サマセットハウスでの会議(The Somerset House Conference)」
(作者不詳―1604年)が描かれている

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツ軍による爆撃により、サマセットハウスは、特に南ウィングと西ウィングに甚大な被害を受けたが、大戦後復旧して、現在に至っている。

コートールドギャラリーの入口

現在、サマセットハウスには政府関連機関や芸術/教育関連機関等が入居しており、ロンドン大学附属コートールド美術研究所(Courtauld Institute of Art)の美術館であるコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)もその一つで、印象派や後期印象派のコレクションで非常に有名である。
また、サマセットハウスの中庭は、冬季期間中、アイススケートのリンク場となり、ロンドンの冬の風物詩の一つとなっている。

ストランド通り側の入口からサマセットハウスの中庭を見たところ―
TV版のポワロシリーズでは、ポワロがサマセットハウスを訪れるシーンとして
この場所が撮影に使われている

1837年にイングランドとウェールズの戸籍登録/保管事務所は北ウィング内に設置され、全ての出生、婚姻や死亡に関わる記録を保管していた。この事務所は、1970年までの150年近く、サマセットハウスに所在していたので、ポワロがある人物の戸籍を調べるためにサマセットハウスにやって来たのは、そういう理由があり、撮影場所としては、正にその通りである。

サマセットハウスの中庭で子供達が噴水で涼んでいる様子が
ロンドンにおける夏の風物詩となっている