2016年7月10日日曜日

ロンドン バタシーパーク(Battersea Park)

TV版のポワロシリーズの撮影に使用されたバタシーパーク内の屋根付き野外ステージ

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

駐車場近くに設置されているバタシーパークの案内図ー
屋根付き野外ステージは、案内図の中央にある円形部分にある

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

バタシーパーク西側の駐車場付近(その1) 
バタシーパーク西側の駐車場付近(その2)

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

バタシーパーク内の庭園(その1) 
バタシーパーク内の庭園(その2)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、事件の捜査を進めるポワロがモーリー歯科医の秘書であるグラディス・ネヴィル(Gladys Nevill)と彼女の恋人であるフランク・カーター(Frank Carter)に会う場面があるが、このシーンはバタシーパーク(Battersea Park)内の屋根付き野外ステージ(Bandstand)前で撮影されている。

屋根付き野外ステージを下から見上げたところ

TV版では、フランク・カーターは急進的な左派政治団体に所属し、後にマーティン・アリステア・ブラントの邸宅で彼を銃で射殺しようとした容疑で逮捕されてしまう。アガサ・クリスティーの原作では、マーティン・アリステア・ブラントの姪であるジェーン・オリヴェラ(Jane Olivera)の恋人ハワード・レイクス(Howard Raikes)が、TV版におけるフランク・カーターの役割を果たしているが、約1時間半の尺におさめるために、TV版にハワード・レイクスは登場せず、フランク・カーターが代わりにハワード・レイクスの役割を担当することになったものと思われる。それに伴って、ハワード・レイクスの恋人であるジェーン・オリヴェラの出番も少なくなっている。

屋根付き野外ステージの床に設置されている記念碑

バタシーパークは、テムズ河(River Thames)南岸のロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)内にあり、テムズ河沿いに広がる大きな公園である。テムズ河を挟んで、バタシーパークの対岸には、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelseaー高級住宅街の一つ)が位置している。

シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区(Pimlico)内の Denbigh Street 沿いに設置されている
トーマス・キュービット像

当地は、以前、バタシーフィールズ(Battersea Fields)と呼ばれ、貴族階級が決闘を行う場所として有名であった。当時、テムズ河北岸からのアクセスは、少し上流に架かっている木製のバタシーブリッジ(Battersea Bridge)か、もしくは、フェリーに頼っていた。
その後、当地の教会区司祭や対岸に土地を有する建設業者/不動産開発業者であるトーマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)等から、当地に王立公園(Royal Park)を建設する計画が持ち上がり、1846年に議会の承認が得られると、英国の建築家サー・ジェイムズ・ペネーソン(Sir James Pennethorne:1801年ー1871年)が、英国の建築家ジョン・ギブソン(John Gibson:1817年ー1892年)の協力の下、1846年から1864年にかけて、バタシーパークの設計を行った。バタシーパーク自体は、1858年にオープンしている。

屋根付き野外ステージ内から見たバタシーパーク
画面中央奥には、パゴタが見える

バタシーパークのオープンに合わせるように、バタシーパークの東側でテムズ河の北岸と南岸がチェルシーブリッジ(Chelsea Bridge)で結ばれ、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年-1901年 在位期間:1837年ー1901年)の出席の下、開通を迎えた。バタシーパークの東側の通りは、クイーンズタウンロード(Queenstown Road)と呼ばれている。
その後、バタシーパークの西側には、アルバートブリッジ(Albert Bridge)が架けられ、バタシーパークの西側の通りは、アルバートブリッジロード(Albert Bridge Road)と名付けられている。

画面奥を左右に横切る通りがアルバートブリッジロード

現在、バタシーパークは、サッカー場、クリケット場、テニスコート、(ボート用の)湖、動物園、遊園地や屋根付き野外ステージ等を備えた公園となっている。

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