2016年7月23日土曜日

ロンドン チジック地区(Chiswick)

筆者がチジックハウスで購入した
イングリッシュヘリテージのガイドブック

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレード警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road))で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

チジックハウス1階の Link Building ルーム内に展示されているスフィンクス像―
制作者は、英国の彫刻家ジョン・チア(John Cheere:1709年ー1787年)

ステップニー地区(Stepney)のチャーチストリート(Church Street)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)を訪れたホームズとジョン・ワトスンは、ナポレオンの石膏胸像が全部で6体制作され、3体がケニントンロードのモース・ハドソン氏の画廊へ、そして、残りの3体はケンジントンハイストリート(Kensington High Street)のハーディングブラザーズ(Harding Brothers)の店へ送られたことを聞き出す。モース・ハドソン氏の画廊へ送られた3体は、全て何者かによって壊されたため、ホームズとワトスンはハーディングブラザーズの店へ出向き、ホーレス・ハーカー氏が購入した1体を除く残りの2体の行方について尋ねたのであった。

チジックハウス内の天井装飾とシャンデリア

この大商店の創始者は、きびきびとして歯切れのいい小柄な男で、こざっぱりした服装をしていた。また、頭の回転が速く、口が達者な男だった。
「ええ、夕刊で既にその記事を読みました。ホーレス・ハーカーさんは、私どもの顧客でございます。数ヶ月前に彼に問題の胸像を配達しました。同じ種類の胸像は、ステップニー地区にあるゲルダー社に注文しましたが、もう全部売れてしまいました。誰にですって?ああ、売上台帳を見れば、簡単にお教えできますよ。ここに記載してあります。一つは、既に御存知の通り、ハーカーさん、もう一つは、チジック、ラバーナムヴェール、ラバーナム荘のジョサイア・ブラウンさん、最後の一つは、レディング、ロウワーグローヴロードのサンドフォードさんです。」

チジックハウスにも使用されている柱装飾のサンプル

The founder of that great emporium proved to be a brisk, crisp little person, very dapper and quick, with a clear head and a ready tongue. 
'Yes, sir, I have already read the account in the evening papers. Mr Horace Harker is a customer of ours. We supplied him with the bust some months ago. We ordered three busts of that sort from Gelder and Co., of Stepney. They are all sold now. To whom? Oh I dare say by consulting our sales book we could very easily tell you. Yes, we have the entries here. One to Mr Harker, you see, and one to Mr Josiah Brown, of Laburnum Lodge, Laburnum Vale, Chiswick, and one to Mr Sanderford, of Lower Ground Road, Reading.'

チジックハウス内に展示されているナポレオン像―
ドイル作「六つのナポレオン像」とは関係なし

11時にベーカーストリート221Bの戸口に四輪馬車が横付けされた。私達はそれに乗って、ハマースミス橋の反対側の場所へと向かった。そこで、馬車の御者は待つように指示された。少しばかり歩くと、一目につかない道に出た。その道の周辺には、自分の敷地にそれぞれ建てられた感じの良い家が並んでいた。街灯の明かりで、それらの家の一つの門柱に「ラバーナム荘」と書かれていることが見てとれた。住人は既に就寝しているようだった。というのも、玄関口の上の扇形の明かりを除くと、家全体が真っ暗だったからだ。扇形の明かりは、庭の小道にぼんやりとした光の輪を落としていた。庭を道から隔てる木製の塀が、内側に濃く、そして、黒い影を落としていた。私達は、正に、その影の中にしゃがみ込んで、身体を低くしたのである。

チジックハウス2階の南側に面している Blue Velvet Room

A four-wheeler was at the door at eleven, and in it we drove to a spot at the other side of Hammersmith Bridge. Here the cabman was directed to wait. A short walk brought us to a secluded road fringed with pleasant houses, each standing in its own grounds. In the light of a street lamp we read 'Laburnum Villa' upon the gatepost of one of them. The occupants had evidently retired, for all was dark save for a fanlight over the hall door, which shed a single blurred circle on the garden path, The wooden fence which separated the grounds from the road threw a dense black shadow upon the inner side, and here it was that we crouched.

チジックハウス2階中央の Tribunal ルームの壁に架けられている
「英国王チャールズ1世と家族の肖像画」―
フランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク
(Anthony van Dyck:1599年―1641年)が描いている

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 

ジョサイア・ブラウン氏(Mr Josiah Brown)が住むラバーナム荘(Laburnum Villa)があるチジック地区(Chiswick)は、ロンドンの西部郊外にあり、ハウンズロー・ロンドン自治区(London Borough of Hounslow)内に位置している。
チジック地区が歴史上最初に登場したのは、11世紀初め頃で、その頃は「Ceswican」と呼ばれていた。チジックは、古い英語で「チーズ農場(Cheese Farm)」を意味しており、18世紀まで毎年開催されたチーズフェアを支えていたテムズ河(River Thames)沿いの牧場や農場がその語源になったと言われている。
12世紀後半に入ると、セントニコラス教会(St. Nicholas Church)を中心にして。街が徐々に形づくられて、住民も次第に増えていった。当時、住民は農場に従事する他には、テムズ河に近いこともあって、漁業や河を利用した人や物の運搬等に従事していた。
1864年に造船会社がチジック地区内に設立され、1893年に英国海軍が使用する駆逐艦 HMS Daring を建造するが、戦艦の規模が段々と巨大化したため、1909年に英国南部のサザンプトン(Southampton)へ移ってしまう。
19世紀の100年をかけて、チジック地区の人口は約10倍になり、1901年には約3万人にまで達した。そして、チジック地区一帯には、ジョージ王朝、ヴィクトリア王朝とエドワード王朝の3時代にわたる家屋が混在するようになる。
第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、チジック地区もドイツ軍の爆撃に曝されるようになり、1944年9月8日には、ドイツ軍が放ったV2ロケットがチジック地区に着弾し、3名が死亡、22名が負傷、そして、周辺の建物や樹木等が甚大な被害を蒙っている。

チジックハウス内の天井画

チジック地区は、ロンドン市内に比較的近いことから、ロンドン市内へ通勤するためのベッドタウンとなっていて、現在の人口は約35千人まで増加している。
ロンドン市内から西へ延びる一般道路が、チジックからM4と呼ばれる高速道路に変わり、ヒースロー空港(Heathrow Airport)を結ぶ重要な幹線道路となっている。

また、チジック地区内には、1720年代後半に第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington)が建設した新パラディオ式の邸宅チジックハウス(Chiswick House)を初めとして、数多くの歴史的建造物が所在している。

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