2015年10月31日土曜日

ロンドン ユーストン駅(Euston Station)

ユーストン駅の駅舎正面

サー・アーサー・コナン・ドイル作「プライオリー学校(The Priory School)」では、私立プライオリー学校 (The Priory School)の創立者で、校長でもあるソーニークロフト・ハックスタブル博士(Thorneycroft Huxtable)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を突然訪れるが、居間に入って来た途端、疲労困憊のあまり、床に足を滑らせて気を失ってしまう。ホームズが急いで頭にクッションを当てて、ジョン・ワトスンが口にブランデーをふくませると、気を取り直した博士は、ホームズとワトスンに対して、彼の学校の寄宿舎から、ホルダーネス公爵(Duke of Holdernesse)の一人息子であるソルタイア卿(Lord Saltire)が誘拐されたと告げるのであった。ソルタイア卿に加えて、人付き合いの悪いドイツ人教師ハイデッガー(Heidegger)も寄宿舎から姿を消しており、彼の自転車もなくなっていた。
北イングランドのマックルトン(Mackleton)にある私立プライオリー学校へ向かう前に、事件の詳細を知ろうとするホームズはハックスタブル博士に対して、ここ最近ソルタイア卿に手紙が来ていないかどうかを尋ねると、博士は「手紙は父君であるホルダーネス公爵からしか来ていない。」と答えるのであった。

ユーストン駅の構内―
天井がコンクリートの打ちっぱなしのままで味気ない

「成る程。ところで、公爵が出された最後の手紙ですが、ソルタイア卿の失踪後、部屋に残っていましたか?」
「いいえ、ソルタイア卿がお持ちになって行かれたようです。ホームズさん、そろそろユーストン駅へ出かける時間だと思いますが。」
「僕の方で四輪馬車を呼びましょう。15分程お待ちいただければ、出発できますよ。ハックスタブルさん、もし御宅の方に電報をお打ちになられるのであれば、関係者には、捜査は未だにリヴァプールか、あるいは、彼らの注意を逸らせられそうな場所で行われていると思わせておく方が良いでしょう。その間に、私はあなたの学校内で内密に捜査します。おそらく、事件の臭跡はまだそれ程薄れていないでしょうから、ワトスンと僕のような老練な猟犬であれば、嗅ぎ出せると思います。」

ユーストンロード沿いに残るエントランスロッジ(西側)

'I see, By the way, that last letter of the Duke's - was it found in the boy's room after he was gone?'
'No, he had taken it with him. I think, Mr Holmes, it is time that we were leaving for Euston!'
'I will order a four-wheeler. In a quarter of an hour we shall be at your service. If you are telegraphing home, Mr Huxtable, it would be well to allow the people in your neighborhood to imagine that the enquiry is still going on in Liverpool, or wherever else that red herring led your pack. In the meantime I will do a little quite work at your own doors, and perhaps the scent is not so cold but that two old hounds like Watson and myself may get a sniff on it!'

ユーストンロード沿いに残るエントランスロッジ(東側)

ホームズ、ワトスンとハックスタブル博士の3人が私立プライオリー学校があるマックルトンへ向かうために利用しようとしていたユーストン駅(Euston Station)は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある主要な鉄道駅の一つである。現在、ユーストン駅は、ロンドンからウェストミッドランズ、北西イングランド、北ウェールズおよびスコットランドへ向かうウェストコースト本線(West Coast Main Line)の玄関口であり、それらからの南の終着駅となっている。

ユーストン駅前にある戦争記念碑

駅を建設する場所は、1830年代初め頃、ロンドン&バーミンガム鉄道(London and Birmingham Railway)の技師であるジョージ・スティーヴンソン(George Stephenson:1781年ー1848年)と彼の息子のロバート・スティーヴンソン(Robert Stephenson:1803年ー1859年)によって選定された。そして、建築家のフィリップ・ハードウィック(Philip Hardwick:1792年ー1870年→駅舎担当)と技師のサー・チャールズ・フォックス(Sir Charles Fox:1810年ー1874年→プラットフォーム担当)の設計を経て、技師のサー・ウィリアム・キュビット(Sir William Cubitt:1785年ー1861年)によって建設された。駅を建設した土地を所有していたグラフトン公爵(Duke of Grafton)の本宅があるサフォーク州(Suffolk)のユーストンホール(Euston Hall)に因んで、ユーストン駅と命名され、1837年7月20日に開業した。開業当初、駅には出発用と到着用の2本のプラットフォームしかなかった。

エントランスロッジの外壁には、
ユーストン駅から向かう場所の名前が彫られている

列車発着の増加に伴い、駅の大規模な拡張が急務となり、フィリップ・ハードウィックの息子である建築家フィリップ・チャールズ・ハードウィック(Philip Charles Hardwick:1822年ー1892年)の設計により、「グレートホール(Great Hall)」と呼ばれるコンコースが1849年にオープンした。また、彫刻家ジョン・トーマス(John Thomas:1813年ー1862年)によって、ロンドン、リヴァプールやマンチェスター等、鉄道で結ばれる都市を表現した8つの彫像が設置された。ただし、ユーストンロード(Euston Road)に面して建つ、ポートランドストーンでできたエントランスロッジ(Entrance Lodge)、戦争記念碑と駅舎正面に設置されているロバート・スティーヴンソンのブロンズ像を除くと、当時の駅の面影は、現在、ほとんど残っていない。
1870年代と1890年代にも駅の拡張が行われ、プラットフォームの数は最終的には15まで増やされている。
ホームズ、ワトスンとハックスタブル博士がユーストン駅から私立プライオリー学校があるマックルトンへ旅立ったのは、この頃である。

ユーストン駅の駅舎前に設置されている
ロバート・スティーヴンソンのブロンズ像

(1)老朽化に伴い、時代遅れになってきたこと、また、(2)更なる拡張を行うには手狭かつ硬直化したレイアウトであること等から、1960年初頭に駅舎の建替えが決定され、1961年から1962年にかけて、旧駅舎が取り壊され、ウェストコースト本線の電化と同機をとって、1968年に新駅舎が開業した。「電気の時代」の到来を象徴するものであった。プラットフォームの数も18へと増設されている。
ところが、完成した新駅舎の評判は極めて悪く、「ロンドンにおける最も醜悪なコンクリートの固まりの一つ(one of the nastiest concrete boxes in London)」とまで酷評されている。

評判が良くないユーストン駅の駅舎

ロンドン&バーミンガム鉄道(1837年ー1845年)を皮切りに、駅の所有者は、ロンドン&ノースウェスタン鉄道(London & North Western Railway:1846年ー1922年)、ロンドン・ミッドランド&スコティッシュ鉄道(London Midland and Scottish Railway:1923年ー1947年)、英国国鉄(British Railway:1948年ー1994年)、そして、レールトラック(Railtrack:1994年ー2001年)へと移り変わり、現在はネットワークレール(Network Rail:2001年ー)が経営している。
2007年4月5日、英国不動産開発会社大手の一つであるブリティッシュランド(British Land)が、完成後50年近くが経過した現在の駅舎を取り壊して、新しい駅舎を建設する計画を発表され、今年(2015年)になって、やっと新駅舎のイメージ図が公開された。計画によると、駅を開業したままの建替えとなるため、2017年に着工し、そこから16年を要するようである


2015年10月25日日曜日

ロンドン セントジェイムズスクエアガーデンズ(St. James's Square Gardens)

セントジェイムズスクエアガーデンズを東側から見たところ

アガサ・クリスティー作「安いフラットの冒険(The Adventure of the Cheap Flat)」(1924年ー「ポワロ登場(Poirot Investigates)」に収録)では、物語の冒頭、友人の家で行われたパーティーでの席上、アーサー・ヘイスティングス大尉はロビンソン夫人(Mrs Robinson)と知り合いになる。彼女によると、ロビンソン夫妻はナイツブリッジ(Knightsbridge)にある高級フラットを格安の家賃で借りることができたと言う。


ヘイスティングス大尉から話を聞いたエルキュール・ポワロはこの奇妙な話に興味を示して、調査を始める。ポワロがその高級フラットのポーターにロビンソン夫妻の話題を向けると、ポーター曰く、ロビンソン夫妻はこのフラットに既に6ヶ月間住んでいると言う。しかし、ヘイスティングス大尉によれば、ロビンソン夫妻はこのフラットを借りたばかりのはずだった。話の食い違いに疑問を感じたポワロは早速同じフラット内に部屋を借りるのであった。



一方で、ポワロはスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)から国際的なスパイの話を聞きつける。米国海軍の非常に重要な設計図がイタリア人ルイジ・ヴァルダーノ(Luigi Valdarno)によって盗み出され、国際的なスパイであるエルサ・ハート(Elsa Hardt)の手に渡ったと言う。しかも、エルサ・ハートの人物像が、例の高級フラットのポーターがポワロに話したロビンソン夫人の人となりに非常に似通っていたのだ。

一見、関連性が全くなさそうに思える二つの話はどのように繋がっているのか?ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を突き止める。




英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「安いフラットの冒険」(1990年)の回では、ヘイスティングス大尉が友人のテディー・パーカー(Teddy Parker)と一緒に広場内を歩きながら、友人にロビンソン夫妻の経歴等を尋ねる。また、ロビンソン夫妻が格安の家賃で部屋を借りたフラット「キャンプデンヒルゲート(Campden Hill Gate)」内に同じように部屋を借りたポワロとヘイスティングス大尉が一緒に広場内を散策しながら、スコットランドヤードのジャップ主任警部と米国FBI捜査官バート(FBI Agent Burt)が取り組んでいる米国海軍の潜水艦設計図盗難事件を話題にする。これら2つのシーンは、セントジェイムズスクエアガーデンズ(St. James's Square Gardens)で撮影されている。




セントジェイムズスクエア(St. James's Square)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウエストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にある広場で、北側はピカデリー通り(Piccadilly)、東側はウォーターループレイス/リージェントストリート(Waterloo Place / Regent Street)、南側はパル・マル通り(Pall Mall)、そして、西側はセントジェイムズストリート(St. James's Street)に囲まれた一帯内に位置している。




セントジェイムズスクエアガーデンズは、セントジェイムズスクエア内にあるプライベートガーデンで、セントジェイムズスクエアトラスト(St. James's Square Trust)によって管理されている。基本的には、当ガーデンはプラーベート用ではあるが、月曜日から金曜日までの平日、午前10時から午後4時半まで一般に開放されている。

セントジェイムズスクエアガーデンズ中央に設置されている
ウィリアム3世のブロンズ像

ガーデンの中央には、ジョージ王朝のウィルアム3世(WilliamⅢ:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)のブロンズ像が設置されている。ウィリアム3世のブロンズ像が設置されたのは、1808年とのこと。ウィリアム3世のブロンズ像の周囲には、オブジェや彫刻作品等が配置されている。

Aron Demetz 作 Burning Man(2010年)

Aron Demetz 作 Heimat(2010年)

ガーデン内には高い樹木が生い茂っていて、晴れて陽ざしが強い日でも、ガーデン内の多くの場所は樹々や葉等の影ぶ入っていて、涼しい位である。日中、スクエア近辺で働いているスタッフ、観光客や旅行者等は休憩している姿がよく見受けられる。



一般開放時間帯に営業している移動式販売車

また、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)やバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)等の観光用名所が近辺にある上、いつでも交通渋滞が激しいリージェントストリートやピカデリー通り等に囲まれているが、そんな繁華街の中にあるガーデンとは思えない程、ガーデン内は静かな空間に包まれている。

2015年10月24日土曜日

ロンドン カールトンハウステラス(Carlton House Terrace)

カールトンハウステラス10番地の建物

サー・アーサー・コナン・ドイル作「プライオリー学校(The Priory School)」では、私立プライオリー学校 (The Priory School)の創立者で、校長でもあるソーニークロフト・ハックスタブル博士(Thorneycroft Huxtable)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を突然訪れるが、居間に入って来た途端、疲労困憊のあまり、床に足を滑らせて気を失ってしまう。ホームズが急いで頭にクッションを当てて、ジョン・ワトスンが口にブランデーをふくませると、気を取り直した博士は、ホームズとワトスンに対して、彼の学校の寄宿舎から、ホルダーネス公爵(Duke of Holdernesse)の一人息子であるソルタイア卿(Lord Saltire)が誘拐されたと告げるのであった。


ホームズは細長い腕を伸ばして、彼の参照辞典からHの巻を取り出した。
「『ホルダーネス、第6代公爵、ガーター勲士、枢密顧問官』ー肩書きの略称がアルファベットの半分位を使っているな!『ベヴァリー男爵、カーストン伯爵』ーおやおや、大したリストだ!『1900年よりハラムシャー知事。サー・チャールズ・アップルドアの令嬢エディスと1888年に結婚。相続人は一人息子のソルタイア卿。約25万エーカーの土地を所有。ランカシャーとウェールズに鉱山を所有。住所は、カールトンハウステラス、ハラムシャーのホルダーネス館、ウェールズのバンガーにあるカーストン城。1872年に海軍大臣に就任。主席国務大臣で、担当は...』成る程、成る程、この人物は、確かに、英国王室の最も偉大な臣下の一人に違いない!」


Holmes shot out his long, thin arm and picked out Volume 'H' in his encyclopedia of reference.
'"Holdernesse, 6th Duke, K.G. (= Knight of the Garter), P.C. (= Privy Councillor)" - half the alphabet! "Baron Beverley, Earl of Carston" - dear me, what a list! "Lord Lieutenant of Hallamshire since 1900. Married Edith, daughter of Sir Charles Appledore, 1888. Heir and only a child, Lord Saltire. Owns about two hundred and fifty thousand acres. Minerals in Lancashire and Wales. address: Carlton House Terrace; Holdernesse Hall, Hallamshire; Carston Castle, Banger, Wales. Lord of the Admiralty, 1872; Chief Secretary of State for -" Well, well, this man is certainly one of the greatest subjects of the Crown!'

カールトンハウステラスの東側に建つ棟

ホルダーネス公爵のロンドンにおける住まいがあったカールトンハウステラス(Carlton House Terrace)は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へと延びるパル・マル通り(Pall Mallー北側)とトラファルガースクエアからバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)へと至るザ・マル通り(The Mallー南側)に挟まれた2ブロックにわたる家並みである。

カールトンハウステラスの西側に建つ棟

カールトンハウステラスは、元々、セントジェイムズ宮殿の一部で、「ロイヤルガーデン(Royal Garden)」と呼ばれていた。1709年、政治家ヘンリー・ボイル(Henry Boyle:1669年ー1725年)がアン女王(Queen Anne:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)から土地を31年契約で賃借して開発を行った。1714年にヘンリー・ボイルが初代カールトン男爵(1st Baron Carlton)に叙せられたことに伴い、ある辞典で途中にある「e」が抜けてしまったものの、カールトンハウステラスと呼ばれるようになった。


ハノーヴァー王朝第3代目のジョージ3世(George Ⅲ:1738年-1820年 在位期間:1760年ー1820年)からカールトンハウステラスを与えられていた長男の摂政王太子(Prince Regent)は、1820年にジョージ4世(George Ⅳ:1762年-1830年 在位期間:1820年ー1830年)として即位すると、同地の再開発を命ずる。

近くにあるセントジェイムズスクエアガーデンズ
(St. James's Square Gardens)内に置かれている
ジョン・ナッシュのプラーク

1813年から1825年にかけて、リージェンツパーク(Regents Park)とリージェントストリート(Regent Street)の開発を行った建築家で、かつ都市計画家のジョン・ナッシュ(John Nash:1752年-1835年)の設計により、1827年から1832年までに白いスタッコ仕上げの外観をした宮殿のようなテラスハウスが建設された(西側ー9棟(No. 1 - 9)+東側ー9棟(No. 10 - 18))。

カールトンハウステラスからウォーターループレイス(Waterloo Place)越しに
パル・マル通りとその向こうのリージェントストリートを望む

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、カールトンハウステラスも、他のロンドン市内と同様に、ドイツ軍による爆撃により甚大な被害を蒙ったものの、その後再建され、現在に至っている。

ジョン・ナッシュによる再開発後、カールトンハウステラスに居住するのは、貴族、政治家(ウィリス・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年ー1898年)ー自由党を指導して、4度にわたって首相を務めた)や他国の外交官等が主であったが、現在は、起業家、協会やクラブ等が使用している。ただし、同地は今も王室所有地のままである。

2015年10月18日日曜日

ロンドン ダチェス・オブ・ベッドフォーズ・ウォーク(Duchess of Bedford's Walk)


アガサ・クリスティー作「安いフラットの冒険(The Adventure of the Cheap Flat)」(1924年ー「ポワロ登場(Poirot Investigates)」に収録)では、物語の冒頭、友人の家で行われたパーティーでの席上、アーサー・ヘイスティングス大尉はロビンソン夫人(Mrs Robinson)と知り合いになる。彼女によると、ロビンソン夫妻はナイツブリッジ(Knightsbridge)にある高級フラットを格安の家賃で借りることができたと言う。


ヘイスティングス大尉から話を聞いたエルキュール・ポワロはこの奇妙な話に興味を示して、調査を始める。ポワロがその高級フラットのポーターにロビンソン夫妻の話題を向けると、ポーター曰く、ロビンソン夫妻はこのフラットに既に6ヶ月間住んでいると言う。しかし、ヘイスティングス大尉によれば、ロビンソン夫妻はこのフラットを借りたばかりのはずだった。話の食い違いに疑問を感じたポワロは早速同じフラット内に部屋を借りるのであった。


一方で、ポワロはスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)から国際的なスパイの話を聞きつける。米国海軍の非常に重要な設計図がイタリア人ルイジ・ヴァルダーノ(Luigi Valdarno)によって盗み出され、国際的なスパイであるエルサ・ハート(Elsa Hardt)の手に渡ったと言う。しかも、エルサ・ハートの人物像が、例の高級フラットのポーターがポワロに話したロビンソン夫人の人となりに非常に似通っていたのだ。
一見、関連性が全くなさそうに思える二つの話はどのように繋がっているのか?ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を突き止める。


アガサ・クリスティーの原作では、ロビンソン夫妻が格安の家賃で借りたのは、ナイツブリッジの「モンタギューマンション(Montague Mansion)」となっているが、英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「安いフラットの冒険」(1990年)の回では、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)の高級地区ケンジントン(Kensington)にある「キャンプデンヒルゲート(Campden Hill Gate)」というフラットが撮影に使用されている。


地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の前を通るノッティングヒルゲート通り(Notting Hill Gate)がホーランドパークアベニュー(Holland Park Avenue)と名前を変える手前でキャンプデンヒルロード(Campden Hill Road)へと折れて、サウスケンジントン地区(South Kensington)方面へと南下する。キャンプデンヒルロードを中間辺りまで下ったところで右折すると、そこがダチェス・オブ・ベッドフォーズ・ウォーク(Duchess of Bedford's Walk)で、これを突き当たりにあるホーランドパーク(Holland Park)まで進んだ右手にフラット「キャンプデンヒルゲート」は建っている。


ダチェス・オブ・ベッドフォーズ・ウォークの突き当たりからは、キャンプデンヒルロードに並行して、フィリモアガーデンズ通り(Philimore Gardens)が地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)の前を通るケンジントンハイストリート(Kensington Hight Street)まで南下している。ダチェス・オブ・ベッドフォーズ・ウォーク沿いに建つフラット「キャンプデンヒルゲート」へのアクセスは、キャンプデンヒルロード経由か、あるいは、フィリモアガーデンズ通り経由の2ルートしかなく、高級地区ケンジントン内でも奥まった場所にあるため、日中、特に週末はほとんど人通りがなく、非常に閑静な高級住宅街の一角である。そういった意味では、当時も、撮影場所として最適なロケーションだったと言える。

2015年10月17日土曜日

ロンドン ヒッポドローム劇場(The Hippodrome)

チャリングクロスロード越しに見た旧ヒッポドローム劇場の建物正面—
右手奥の建物がカジノ施設になっている

サー・アーサー・コナン・ドイル作「マザリンの宝石(The Mazarin Stone)」は、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1921年10月号に発表されているが、その原作となっている戯曲がある。それが、コナン・ドイル作「王冠のダイヤモンドーシャーロック・ホームズとの一夜(The Crown Diamond : An Evening with Sherlock Holmes)」である。
この戯曲は、1921年5月2日にロンドンのヒッポドローム劇場(The Hippodrome)で初演され、俳優のデニス・ニールソンーテリー(Dennis Neilson-Terry:1895年ー1932年)がシャーロック・ホームズを演じたが、28回上演された後、公演が終了してしまった。そして、同年10月にその戯曲は「マザリンの宝石」という短編に名前を変えて、「ストランドマガジン」に掲載されたのである。



ヒッポドローム劇場で上演された「王冠のダイヤモンドーシャーロック・ホームズとの一夜」の内容は、基本的に「マザリンの宝石」と同じであるものの、
(1)犯人役がネグレット・シルヴィウス伯爵(Count Negretto Sylvius)ではなく、「ストランドマガジン」の1903年10月号に発表された「空き家の冒険(The Emputy House)」に登場するセバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)となっていること
(2)登場人物が、ホームズ、ジョン・ワトスン、給仕のビリー(Billy)、モラン大佐とボクサーで、彼の用心棒のサム・マートン(Sam Merton)の5人に限定されていて、犯人の逮捕で話は完結し、「マザリンの宝石」のように事件の依頼人であるカントルミア卿(Lord Cantlemere)が物語の最後にホームズの元を訪れる場面がないこと
等の差異がみられる。

戯曲の初演は1921年ではあるが、その後の調査や関係者の証言等から、コナン・ドイルが戯曲を執筆したのは、「空き家の冒険」よりも前であったと推測されている。ただし、戯曲の執筆後、コナン・ドイルが20年近くに長きにわたって発表しなかった理由は全く不明で、また、モラン大佐、蝋人形や空気銃等、戯曲に書かれた内容がどういった経緯で「空き家の冒険」に使用されたのかについても、残念ながら、判っていない。ただ、唯一言えるこてゃ、「空き家の冒険」において、モラン大佐は既に逮捕済であるため、コナン・ドイルが戯曲を「マザリンの宝石」として「ストランドマガジン」に発表する際に、モラン大佐を使用できず、新しい犯人役としてシルヴィウス伯爵を登場させる必要があったという点である。


旧ヒッポドローム劇場の近くにある花屋さんの店頭

「王冠のダイヤモンドーシャーロック・ホームズとの一夜」が初演されたヒッポドローム劇場は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区(Soho)内に位置しており、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から北へ延びるチャリングクロスロード(Charing Cross Road)とコヴェントガーデン(Covent Garden)方面から西へ延びるクランボーンストリート(Cranbourne Street)が交差する北西の角に建っている。劇場名の「ヒッポドローム」は、「馬術演技場/曲馬場」を意味する。



ヒッポドローム劇場は、劇場やミュージックホール等の運営を行う会社モス・エンパイアズ(Moss Empires)を経営するサー・ホレース・エドワード・モス(Sir Horace Edward Moss:1852年ー1912年)の依頼に基づいて、劇場の建設やデザインを専門とする英国の建築家フランク・マッチャム(Frank Matcham:1854年ー1920年)によって設計された。劇場は、当初、サーカスやその他の演芸の興行を行う場所として建設され、劇場名もそれに付随して「ロンドン・ヒッポドローム(London Hippodrome)」と呼ばれた。劇場は1900年にオープンし、同年1月15日からサーカスの興行を開始した。
1909年にフランク・マッチャムによって建物は再建され、1300席を超える座席を有するミュージックホール/劇場として生まれ変わる。1910年には、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky:1840年ー1893年)作曲「白鳥の湖(Swan Lake)」のバレエ公演(英国初演)がここで行われている。
コナン・ドイルの戯曲「王冠のダイヤモンドーシャーロック・ホームズとの一夜」が上演されたのも、この頃である。
1958年には、当初の内装が全て取り壊され、「ザ・トーク・オブ・ザ・タウン(The Talk of the Town)」というナイトクラブへと改装された。出演者には、ダイアナ・ロス(Diana Ross)、ジュディー・ガーランド(Judy Garland)、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)、サミー・ディヴィス・ジュニア(Sammy Davis Jr.)、スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)やニール・セダカ(Neil Sedaka)等の有名人が多く含まれている。
1983年に再度改装され、「ロンドン・ヒッポドローム」というナイトクラブ兼レストランとして再開したが、間もなく流行から取り残されるようになった。そのため、2004年に更に改装され、「サーク(円形劇場)・アット・ザ・ヒッポドローム(Cirque at the Hippodrome)」として再出発するが、レスタースクエア(Leicester Square)一帯の風紀規制をを強化する警察による取り締まりを受け、2005年10月にアルコールを販売するライセンスを取り消されてしまい、同年12月に閉鎖を余儀なくされた。
2006年1月に名前を「ロンドン・ヒッポドローム」に戻し、イベント会場として再開するも、2008年には劇場へとなり、運営方針がまた変わるのであった。



2009年に入ると、建物をフランク・マッチャムによるオリジナルのデザインに戻し、カジノへと改装する案が浮上する。隣接する建物を含む大改装が施工され、2012年7月13日、ロンドン市長のボリス・ジョンソン(Boris Johnson, Mayor of London)の出席の下、「ヒッポドローム・カジノ(Hippodorme Casino)」として正式にオープンし、現在に至っている。
上記の通り、1900年のオープン以降、所有者と運営方針が頻繁に変わったが、やっとカジノ場として落ち着いたのである。


2015年10月11日日曜日

戯曲版「ねずみとり(The Mousetrap)」

セントマーティンズ劇場での「ねずみとり」公演25周年を記念して
同劇場に送られた「銀のネズミ」

ある土曜日の午後、セントマーティンズ劇場(St. Martin's Theatre)へアガサ・クリスティー作の戯曲版「ねずみとり」を観に出かけた。最前席のストール(Stalls)で観劇。生憎と、夏季休暇期間のためか、お客さんの入りは半分弱という感じであった。


登場人物は、以下の8人。
(1)モリー・ロールストン(Mollie Ralston)
(2)ジャイルズ・ロールストン(Giles Ralston)
(3)クリストファー・レン(Christopher Wren)
(4)ボイル夫人(Mrs Boyle)
(5)メトカーフ少佐(Major Metcalf)
(6)ケースウェル嬢(Miss Casewell)
(7)パラヴィチーニ氏(Mr Paravicini)
(8)トロッター部長刑事(Detective Sergeant Trotter)
当日、モリー・ロールストン、ジャイルズ・ロールストンとボイル夫人の3人は、代役俳優/女優(understudy)による出演であった。
慣れによる演技やマンネリ等を防ぐため、毎年、全員ではないものの、役者や演出家をある程度入れ替えているようである。


ゲストハウスであるモンクスウェル山荘(Monkswell Manor)の居間に舞台が固定され、物語が展開する。
<第1幕第1場ー午後遅く>
モリーとジャイルズのロールストン夫妻が新しく開いたゲストハウスのオープン日当日、雪が激しく降り続く中、予約客4人と途中の道で車がスリップしたという外国人風の男性が次々に到着する。
<第1幕第2場ー翌日の昼食後>
雪で閉ざされて孤立したゲストハウスに警察から電話があり、ある殺人事件の捜査のために、トロッター部長刑事が派遣される。その後、突然、灯りが消えて、真っ暗闇になった居間で、ボイル夫人が何者かによって殺害されたところで、舞台は一旦休憩に入る。
<第2幕ー第1幕第2場の15分後>
ロンドンのパディントン駅近くで発生した殺人事件およびボイル夫人の殺害を行った犯人が明らかにされる。登場人物の多くが、昔ゲストハウス近辺で発生したある事件との繋がりを持っていたのであった。

「ねずみとり」のある一場面

舞台には、4つの出入口があり、
・左手奥ー玄関、玄関ホール、キッチンおよび裏階段へと通じている
・左手前(ドア)ー食堂へと通じている
・右手奥ー図書室や上階の部屋へと至る主階段とへ通じている
・右手前(ドア)ー客間へと通じている
左手奥と右手奥は上階経由でつながっていて、また、左手奥と左手前、更に、右手奥と右手前は、それそれ裏側で接続している設定のため、舞台を観ていると、登場人物が右手奥から退場した後、左手奥から現れたり、左手前から出て行った後、左手奥から戻って来たり、また、右手前から姿を消した後、右手奥から出て来るといったように、特に、第1幕第2場以降、登場人物の多くが入れ替わり立ち替わりで舞台から出たり入ったりを繰り返して、これが非常に気になった。
観劇後、「ねずみとり」の公演60周年を記念して出版された戯曲本「ねずみとりとその他(The Mousetrap and Other Plays)」を購入し、「ねずみとり」を改めて読んでみた。文章で読む限りでは、登場人物の移動はそれ程気にならないが、実際に俳優/女優がアガサ・クリスティーの戯曲通りに演技し始めると、印象が180度変わってしまうのである。役者や演出家の全面的なせいではないとは思うものの、この点が気になり始めてしまい、途中からあまり楽しめなかった。

左上から時計回りに、パラヴィチーニ氏、ジャイルズ・ロールストン、
クリストファー・レン、そして、モリー・ロールストン

アガサ・クリスティーとしても、小説とは異なり、戯曲の場合、限られた上演時間内で話を完結させる必要がある一方、登場人物のそれぞれに一定の見せ場を与えることが必要なので、登場人物が入れ替わり立ち替わりで舞台から出たり入ったりを繰り返すのは、やむを得ないのかもしれない。的を得ているかどうか判らないが、アガサ・クリスティー作品の映像化や舞台化があまり当たらないには、そんなところに理由があるのではないかと思う。
アガサ・クリスティー作品に関しては、何気ない会話の中に真相が隠されていたり、何通りかの解釈があったり、読者のミスディレクションにつながっていたり、また、聞いていた登場人物が全く異なる解釈をしたり等と、文書によるテクニックが冴えていると個人的には思っており、そういった意味では、本質的には、映像化や舞台化には適していないのではないかと考える。
TV版のポワロシリーズの場合、ポワロを演じた俳優デイヴィッド・スーシェ(David Suchet:1946年ー)がポワロとしてはまり役だったこともあって、例外的に評判が良かったと言える。また、脚本も極力アガサ・クリスティーの原作通りだったり、変更を加えるにしても、うまく脚色していたと思う。

左上から時計回りに、ボイル夫人、ケースウェル嬢、
トロッター部長刑事、そして、メトカーフ少佐

クリストファー・レンについては、アガサ・クリスティーの戯曲版に従い、子供っぽく落ち着きのない若い男性建築家通りではったが、子供っぽさと落ち着きのなさが非常に誇張された演技で、個人的にはやや鼻についた。
また、トロッター部長刑事に関しては、ロンドン訛の陽気な若い男性という設定であったが、登場した当初から、気難しく、かつ神経質な性格の演技が始まり、物語がずーっと沈んだまま進み、これもまた気になった。設定通りに陽気な演技を続けられても、殺人事件にかかる話なので、それはそれでそぐわなかった気はするが...