2014年6月29日日曜日

ロンドン ベーカーストリート221B(221B Baker Street)の最有力候補地

ベーカーストリート221Bの最有力候補地であるベーカーストリート19−35番地

サー・アーサー・コナン・ドイルの「空き家の冒険(The Empty House)」において、スイスのマイリンゲンにあるライヘンバッハの滝から無事生還したシャーロック・ホームズは、ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)の右腕で、「ロンドンで最も危険な男」と言われたセバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)を罠にはめるべく、ジョン・ワトスンと一緒に、マリルボーン(Marylebone)地区を通って、カムデンハウス(Camden House)の裏に辿り着く。このカムデンハウスは、ホームズとワトスンが共同生活をしているベーカーストリート221Bに向かい合うように建っているという記述がある。


それでは、ドイルの原作をベースに、カムデンハウスがどこに位置しているのかを調べてみる。3つとも実在する広場や通りであるが、ホームズとワトスンはキャヴェンディッシュスクウェア(Cavendish Squareーオックスフォードサーカスの裏手)の角で馬車を降りて、マンチェスターストリート(Manchester Street)、そして、ブランドフォードストリート(Blandford Street)を経て、ベーカーストリート(Baker Street)に面したカムデンハウスの裏口に至るのである。つまり、ブランドフォードストリートとベーカーストリートが交わる角にある「ベーカーストリート30番地」の建物がカムデンハウスの正面で、同じく、ブランドフォードストリートとケンダルプレイス(Kendall Place)という石畳の小道が交わる角にある建物がカムデンハウスの裏口と言われている。

ブランドフォードストリートとケンダルプレイスの角

ということは、ベーカーストリートを間にして、カムデンハウスの正面に該る「ベーカーストリート30番地」に向かい合っている建物が、本当の「ベーカーストリート221B」だと言える。ベーカーストリートを挟んで、カムデンハウスの反対側にある「ベーカーストリート19ー35番地」は、オフィスビルになっている。

物語中の「カムデンハウス」があったと思われるベーカーストリート30番地

ドイルの友人であったモリス博士は、「緋色の研究(A Study in Scarlet)」に登場する主人公のシャーロック・ホームズの住居をどこにしたらよいか、とドイルから相談があった、と語っている。そこで、モリス博士はドイルに対して、自分の父親が以前住んでいたことがある「ベーカーストリート21番地」を薦め、ドイルは実際に同地を訪ねたそうである。そして、ベーカーストリートが気に入ったドイルは、ホームズの住居として採用する際、実際に「ベーカーストリート21番地」に住んでいる居住者に迷惑がかかるのを避けるために、番地を「ベーカーストリート21番地」から、当時は実存していなかった架空の住所である「ベーカーストリート221番地B」へと、意図的に変更したのではないか、と言われている。

ロンドン チャーターハウス スクエア6-9番地 フローリンコート(Florin Court, 6-9 Charterhouse Square)


 アガサ・クリスティーが世に送り出した名探偵エルキュール・ポワロが住むホワイトヘイヴンマンションズ(Whitehaven Mansions)は、地下鉄バービカン駅(Barbican Tube Station)の近くにあるチャーターハウス スクエア(Charterhouse Square)という広場に面している。とは言っても、これは英国のTV会社 ITV1 が製作し、英国内でも人気があるポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」での話である。この広場に面した日本で言うところのマンション(英国で言うところのフラット)が、ポワロシリーズにおいて、ポワロの住居として、その外観が撮影に使われている。

初期のポワロシリーズでは、短編物、つまり、TV番組として1時間のものが多く、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)やミスレモン(Miss. Lemon)が登場する回が中心だったこともあって、建物の外観が頻繁に使用されていた。ところが、長編物、つまり、TV番組としては2時間のものが多くなり、物語の舞台がエジプトや中東等になって、ヘイスティングス大尉やミスレモンが登場しなくなると、建物の外観がTV画面上に出てくることはほとんどなくなってきた。更に、シリーズ後半(もちろん、クリスティーの執筆順に、ポワロシリーズが撮影・放映されている訳ではない)になってくると、建物の外観は出てこないで、ポワロの住居、つまり、室内だけが出てくることが多くなる。TV画面上は、事前に処理しているのだと思うが、当フラットの両側に他の建物が接している上に、周囲に近代的な建物が建設されたりして、前にある広場を含め、ポワロが活躍した時代にそぐわなくなってきたことが要因なのかもしれない。


ちなみに、ホワイトヘイヴンマンションズと言って、個人的に一番に思い出すのは、「ABC殺人事件(The ABC Murders)」(1935年)である。ロンドンの東にあるアンドーヴァー(ストーンヘンジの近く)で、小さな雑貨店を営むアリス・アッシャーという老婆が殺害され、ABC殺人事件の幕が切って落とされる。実は、ポワロは数日前に<ABC>と名乗る人物から殺人予告の手紙を受け取っていたが、一笑に付していたのである。これを皮切りに、ポワロの元に<ABC>からの殺人予告の手紙が舞い込み、続いて、ベクスヒルの海岸で若いウェイトレスのベティー・バーナードが自分自身のベルトで絞殺される。更に、チャーストンで裕福な中国美術品の蒐集家であるカーマイケル・クラーク卿が撲殺される。殺害場所と被害者の頭文字をABC順で辿る<ABC>と名乗る連続殺人犯は、自分の犯行であることを示すため、被害者の側にABC鉄道案内を残していく。次に、<ABC>が殺人の予告をした場所は、ドンカスターであった。

この物語の中で、ホワイトヘイヴンマンションズは、どのように関係してくるのか?アンドーヴァーとベクスヒルでの殺人を予告する「ABC」からの手紙は、予告日付の数日前に、ポワロが住むホワイトヘイヴンマンションズ宛に配達されたのだが、チャーストンでの殺人予告については、予告日付の当日になって、ポワロの元に届けられるのである。それは何故か?それまでの2つの殺害予告では、ポワロの住所として、正しく「ホワイトヘイヴンマンションズ」が記載されていたが、チャーストンでの殺害予告の場合、ホワイトヘイヴンマンションズの名前が「ホワイトホースマンションズ(Whitehorse Mansions)」と誤記されていたため、手紙の配達が遅延したのである。そのため、ポワロとスコットランドヤードは事前の対応をできず、事件を未然に防ぐことができなかった。

何故今回に限って、<ABC>はホワイトヘイヴンマンションズの名前を誤記したのか?実は、殺人予告の配達遅延を引き起こしたホワイトヘイヴンマンションズ名の誤記は、<ABC>側の単純なミスではなく、ある深遠な意図の下に行われたものであることが、最後にポワロによって解き明かされる。

という訳で、個人的には、「ABC殺人事件」と言うと「ホワイトヘイヴンマンションズ」、「ホワイトヘイヴンマンションズ」と言うと「ABC殺人事件」と言う位、印象が強いのである。

2014年6月22日日曜日

ロンドン ベーカーストリート221B(221B Baker Street)


現在の住所表記では、かつて住宅金融専門会社であるアビー・ナショナル(Abbey National)の本社が入居していたビル「アビーハウス(Abbey House)」が、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンが共同生活をしていた、かの「ベーカーストリート221B」に該る。前にも述べた通り、近年、アビーハウスは上部の白い塔だけを残して、全面的に建て替えられ、今はフラットに様変わりしてしまった。現在、この建物の番地は219番地となっていて、221番地の表示はない。


サー・アーサー・コナン・ドイルがホームズ作品を執筆していた当時、「ベーカーストリート221B」は架空のものであった。現在、地下鉄のベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)の前を東西に走るマリルボーンロード(Marylebone Road)に対して、ベーカーストリート(Baker Street)は垂直に、つまり、南北に交差している。ただ、ホームズが活躍した時代(1881年〜1903年)には、マリルボーンロードの北側にある通りは、アッパーベーカーストリート(Upper Baker Street)と呼ばれており、現在の住所表記である「ベーカーストリート221B」は、アッパーベーカーストリート沿いにあった訳で、当時は架空の住所だったということになる。


道路の整備が行われた結果、1930年1月1日にアッパーベーカーストリートはベーカーストリートへと名称が変更されたことに伴い、「ベーカーストリート221B」が実在の住所になったのである。

2014年6月21日土曜日

ロンドン レスタースクエア(Leicester Square)

アガサ・クリスティー記念碑の全景

 トラファルガースクエア(Trafalgar Square)やナショナルギャラリー(National Gallery)の北側にあるレスタースクエア(Leicester Square)やコヴェントガーデン(Covent Garden)には、ロンドンの劇場が数多く集中している。レスタースクエアの中心部、クランボーンストリート(Cranbourn Street)、グレートニューポートストリート(Great Newport Street)とチャリングクロスロード(Charing Cross Road)の3つの通りに囲まれた三角地帯に、アガサ・クリスティー(Agatha Christie)の記念碑が置かれている。この記念碑から徒歩で5分程北上したところに、セントマーティン劇場(St. Martin's Theatre)があり、ここでは、クリスティーの戯曲「ネズミ捕り(The Mousetrap)」が、1952年11月25日の初演以来、記録的なロングランを続けている。そういうわけで、セントマーティンズシアターの近くに、クリスティーの記念碑が置かれているのだろう。

アガサ・クリスティー記念碑の表側(トラファルガースクエアに面した側)

記念碑は、クリスティーへの敬意を表して、本の形をしている。その表側(トラファルガースクエアに面した側)には、クリスティーの右を向いた横顔が刻まれており、裏側(セントマーティンズ劇場に面した側)には、彼女が世に送り出した二大名探偵のエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot)とジェーン・マープル(Jane Marple)が、「ナイルに死す(Death on the Nile)」(1937年)の舞台となったエジプトのピラミッドやスフィンクス、「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」の舞台となったオリエント急行(1934年)等と一緒に描かれている。

アガサ・クリスティー記念碑の裏側(セントマーティンズ劇場に面した側)ー
エルキュール・ポワロが左側に、ミス・マープルが右側に居る

主にロンドンを活躍の舞台にしたシャーロック・ホームズに比べると、ロンドンにおけるアガサ・クリスティー関係の名所というのは、意外に少ないというか、あまり知られていないように感じる。ホームズがあまりにも有名過ぎるせいだろうか?この記念碑に関しても、用事があってこの界隈に来たりすることがあるが、以前には気付かなかったので、ここ数年内に設置されたのではないかと思う。ただ、新聞やTV等での報道を見たことがないので、それ程大々的には宣伝されていないと思われる。この記念碑を写真におさめている間も、周囲をロンドン市民や観光客等が数多く通り過ぎるものの、記念碑に興味を示す人はほとんど居らず、探偵小説ファンとしてはとても残念である。

ホームズは世界的にあまりにも有名であるので、サー・アーサー・コナン・ドイルの原作を全く読んだことがなくても、一般的に、それなりの興味は示されるが、現在の英国においては、クリスティーの作品を読む人は非常に少ないのだろう。当地の大手本屋ウォーターストーンズ(Waterstones)等に行くと、推理小説コーナーでは、必ずと言ってよい程、シャーロック・ホームズとアガサ・クリスティーのコーナーは大きくスペースが確保されているが、残念ながら、これらのコーナーに人が居るのを見るのことは稀である。周囲の関心のなさに、少し悲しい気持ちになった。また、静かな生活を好んだクリスティーにとって、交通の往来が激しいこの三角地帯は、さぞかし騒がしいのではないかと、可哀想な気もする。

2014年6月15日日曜日

ロンドン ウォレスコレクション / オラース・ヴェルネ(Wallace Collection / Horace Vernet)

ウォレスコレクションの建物正面全景

サー・アーサー・コナン・ドイルの「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」において、シャーロック・ホームズはジョン・ワトスンに対して、「自分の祖母は、フランスの画家であるエミール・ジャン・オラース・ヴェルネ(Emile Jean Horace Vernet:1789年~1862年)の姉(または妹)だった。」と語っている。ただし、ホームズの祖母がオラース・ヴェルネの姉だったのか、それとも妹だったのかについては、ドイルの原作からは判らない。

ウォレスコレクション内に展示されている
オーラス・ヴェルネの作品(その1)

オラース・ヴェルネは、戦争画、肖像画、動物画やアラブの情景等を描いた作品で知られている。彼は、祖父と父親が画家の一家に生まれ、父親の下で絵画を学んだ。近代的な主題に興味を示し、そのため、フランスの兵士達をテーマに描くようになった。そして、フランス王政復古時代に、オルレアン公(後のフランス国王ルイ・フィリップ)からの依頼に基づいて描いた戦闘場面の絵画で頭角を現した。彼のパトロンとして、前述のフランス国王ルイ・フィリップの他に、王政後には、ナポレオン3世が彼を支援している。そういった経緯もあって、1829年から1834年の間、彼はローマにあるフランス・アカデミーの総裁を務めている。オラース・ヴェルネの絵画は、現在、ロンドン市内の美術館に数多く所蔵されており、ウォレスコレクション(Wallace Collection)には、全部で24作品が展示されている。

ウォレスコレクション内に展示されている
オーラス・ヴェルネの作品(その2)

ウォレスコレクションの設立は1897年で、第四代ハートフォード侯爵リチャード・シーモア・コンウェイ(Richard Seymour-Conway, 4th Marquess of Hertford:1800年~1870年)のプライベートコレクションから主に成り立っている。彼の非嫡出の息子であるリチャード・ウォレス(Richard Wallace:1818年~1890年)が彼のコレクションと屋敷を相続したが、ウォレスの死後、ウォレスの未亡人がコレクションを全て英国政府に遺贈している。そして、これらのコレクションは、マンチェスタースクウェア(Manchester Square)のハートフォードハウス(Hertford House)にて一般公開され、現在に至っている。

ウォレスコレクションには、主に15世紀から19世紀にかけての美術作品が所蔵されており、特にオラース・ヴェルネを初めとする18世紀から19世紀のフランス絵画、家具、磁器、武具や甲冑等が展示されている。その他には、ティツィアーノ、レンブラント、ルーベンスやヴァン・ダイクといった巨匠の絵画も展示作品の中に含まれている。

オーラス・ヴェルネ作「ライオン狩り」

写真は、ウォレスコレクションで展示されているオラース・ヴェルネの絵画の代表的なものである。特に、「ライオン狩り(Lion Hunt)」は、ウォレスコレクション内のショップで販売されている絵葉書にもなっていて、オラース・ヴェルネの絵画のうちでも、有名な作品であると言える。

なお、ウォレスコレクションが所蔵している美術作品については、当建物外への持ち出しが許されていないため、外部の展示会等に貸し出されることはないとのこと。よって、オラース・ヴェルネの絵画を実際に鑑賞するには、ウォレスコレクションを訪ねる他ない。

2014年6月14日土曜日

ロンドン セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital)

建物の外壁に刻まれた「セントバーソロミュー病院」の文字

ロンドンの金融街シティー・オブ・ロンドン(City of London)の一角、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の北側に、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital)がある。最寄駅は地下鉄のファリンドン駅(Farrington Tube Station)、バービカン駅(Barbican Tube Station)とセントポールズ駅(St. Paul's Tube Station)の3駅で、これらの3駅が形成する三角形のちょうど真ん中辺りに位置している。セントバーソロミュー病院は、1123年に創立されたロンドンでは最古の病院であり、サー・アーサー・コナン・ドイルの「緋色の研究」では、「バーツ(Barts)」(バーソロミューズを縮めて)という通称で呼ばれている。血液循環の原理を発見したハーヴィ等が当病院の出身である。

ヘンリー8世門 (Henry VIII Gate)

サー・アーサー・コナン・ドイルの「緋色の研究(A Study in Scarlet)」によると、第二次アフガニスタン戦争に医師として従軍し、負傷して英国に帰国したジョン・ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)のクライテリオンバー(Criterion Bar)で、スタンフォード青年に再会する。彼は、ワトスンがセントバーソロミュー病院に勤務していた際、外科手術助手を務めていた。スタンフォード青年から「シャーロック・ホームズという病院の化学実験室で働いている人物が、ルームシェアの相手を探している。」という話を聞いたワトスンは、彼と一緒に病院に出向き、ホームズに会うことにする。

セントバーソロミュー病院の敷地内にある噴水

そして、病院の化学実験室には、ヘモグロビンのみに反応する試薬を発見して喜んでいるホームズが居た。スタンフォード青年からワトスンを紹介されたホームズはワトスンに対して、早速あの有名なセリフ「最近、アフガニスタンに行っていましたね。(You have been in Afghanistan, I perceive.)」を口にする。このホームズとワトスンの出会いを記念するプレートが、上記のセリフとともに病院内の壁に飾られているとのこと。この出会いを通じて、ホームズとワトスンはベーカー街221Bで共同生活を始め、数々の難事件を解決していくのである。ホームズとワトスンの第一歩は、ここセントバーソロミュー病院で始まったと言える。

セントバーソロミュー病院側からスミスフィールドマーケットを望む

セントバーソロミュー病院の正面には円形の広場があり、その反対側には広大なスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)が建っていて、早朝は肉屋業者で賑わっている。一般オフィスへの通勤者等が行き交う午前8時頃には、既に取引は終わり、肉屋業者が後片付けに忙しくしている。このミートマーケットは140年以上の歴史があるそうだが、ドイルのホームズ作品中では、このマーケットについての描写は出てこない。

2014年6月8日日曜日

ロンドン クライテリオンバー(Criterion Bar)


ロンドンの中心地であるピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にクライテリオンバー(Criterion Bar)がある。具体的に言うと、広場中心の噴水の後ろに位置している。
サー・アーサー・コナン・ドイルの「緋色の研究(A Study in Scarlet)」によれば、第二次アフガニスタン戦争に軍医補として従軍していたジョン・H・ワトスンは負傷して、英国のポーツマスに帰還した。英国内に親類縁者が全くいないワトスンは、ロンドンにやって来て、ストランド通り(Strand)のホテルに滞在していた。だが、英国政府から支給される1日あたり11シリング6ペンスの恩給だけで、ホテルでの滞在を続けていくのは、ワトスンにとって大きな負担となりつつあった。そんな不安を感じつつあったワトスンは、ある日、クライテリオンバーで誰かに肩をたたかれた。それは、ワトスンがセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital)に勤務していた際、彼の外科手術助手(dresser)だったスタンフォード(Stamford)青年であった。このスタンフォード青年との再会を通して、ワトスンは、セントバーソロミュー病院でシャーロック・ホームズと知り合い、ベーカー街221Bでの共同生活につながっていくのである。


クライテリオンバーは1874年に創業し、その内装はネオビザンチン様式の建築で、推理作家G.K.チェスタートン(G. K. Chesterton)、SF小説家H.G.ウェルズ(H. G. Wells)や、英国元首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)等も訪れている。また近年では、ハリウッド映画「バットマン ダークナイト(Batman: The Dark Knight)」のシーンにも使用されている。

ワトスンがホームズと一緒に「緋色の研究」に関わったのが1881年3月、ワトスンがクライテリオンバーでスタンフォード青年に再会したのは、1881年初頭と言われている。

2014年6月6日金曜日

ロンドン ディーンストリート26-29番地(26-29 Dean Street)


サー・アーサー・コナン・ドイルの物語の中で、シャーロック・ホームズが通っていた大英図書館(British Library)の前身であった大英博物館(British Museum)の円形閲覧室(Round Reading Room)は、多くの学者や文化人等によって利用されてきた。「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)」(1848年ープロイセン王国時代のドイツのの社会思想家 / 政治思想家 / ジャーナリスト / 実業家 / 軍事評論家 / 革命家であるフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:1820年ー1895年)との共著)や「資本論(Das Kapital)」(1867年)で有名なプロイセン王国時代のドイツの哲学者 / 経済学者 / 革命家であるカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818年~1883年)も、その中の一人である。

彼は1849年に妻子と一緒に、激動に揺れるヨーロッパ大陸からロンドンに移住して、ソーホー地区(Soho)のディーンストリート28番地(28 Dean Street)に間借りしていた。ロンドンに移住した当時、マルクスは貧乏のどん底で、友人のフリードリヒ・エンゲルスから生活費の援助を受けて、なんとか糊口をしのいでいた。
そんな貧乏のどん底に居たマルクスにとって、入場無料で開放されていた大英博物館の円形閲覧室は願ってもない場所であり、また、格好の研究の場でもあった。よって、マルクスは、若きシャーロック・ホームズと同様に、毎日のように大英博物館に通っては、円形閲覧室で研究に没頭したとのこと。その研究成果として、マルクスが発表したのが、あの有名な「資本論」だった訳である。20世紀以降の世界に大きな影響を与えた社会主義の理論は、大英図書館の前身である大英博物館の円形閲覧室から誕生したと言っても過言ではない。

生憎と、現在、書庫と図書館機能は大英図書館に、そして、円形閲覧室は大英博物館に分かれてしまったが、当時、晩年のマルクスと若きホームズが円形閲覧室で隣り合ったのかもしれないし、また、実際に話をしたかもしれないと想像すると、とても楽しい気持ちになる。


なお、マルクスが間借りしていた建物では、現在、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」という名前のレストラン・バーが営業しており、多くの人で賑わっている。建物の壁には、イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)が管理するブループラーク(Blue Plaque)と呼ばれる銘板が掲げられており、「1851年から1856年までの約5年間、カール・マルクスがここに住んでいた。(KARL MARX 1818-1883 lived here 1851-1856)」と表示されている。

2014年6月4日水曜日

「バスカヴィル家の犬 (The Hound of the Baskervilles)」が執筆された経緯


1891年7月の「ボへミアの醜聞」を皮切りに、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」にほぼ毎月ホームズ作品を連載していたサー・アーサー・コナン・ドイルであったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野で発揮、評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、ドイルはホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。よって、彼は、1893年12月の「最後の事件」において、ホームズをモリアーティ教授と一緒に、ライヘンバッハの深い滝壺の中に葬ってしまったのである。

「最後の事件」が「ストランドマガジン」に掲載された際、読者は大いに嘆き悲しみ、ロンドン市民は正式な喪に服すべく、黒い腕章を身につけたとのことである。更に、2万人以上の読者が、「ストランドマガジン」の購読を中止した上、何千通もの抗議の手紙が出版社宛に届けられたそうである。しかしながら、ドイルの気持ちは固く変わらず、ホームズが復活することはなかった。

そして、時は流れ、1899年に南アフリカでボーア戦争が勃発した。愛国心に燃えるドイルは、義勇兵に志願するも、高齢を理由に受け入れられなかったため、その代わりに、彼の友人が現地に設営した野戦病院の医師として赴くことになった。かくして、ドイルは1900年2月末、南アフリカに出征し、半年後の同年8月にロンドンに帰国した。現地での悲惨な状況により体調を崩していたドイルは、静養のため、1901年3月にイングランド東部のノーフォーク州のクローマーという保養地に出かける。そこで彼は英国南西部のダートムーア出身のジャーナリスト、フレッチャー・ロビンソンに出会い、ダートムーアに言い伝えられている魔犬伝説を聞かされた。

荒涼としたダートムーアに出現する巨大な黒い魔犬。ロビンソンから魔犬伝説を聞いたドイルは、早速ダートムーアに向かった。そして、ロビンソンは現地での案内役を務めたのである。当初、ドイルはロビンソンとの共同作品、つまりホームズ作品とは全く異なる作品を考えていたが、ロビンソンが固辞したため、ドイルは単独で執筆を進めることにした。そこで、ドイルが非常に困ったのは、ダートムーアの魔犬伝説に対抗できるだけの強力な主役を据えることだったが、残念ながら一筋縄にはいかなかった。それではドイルはどうしたのか?なんとドイルは、ホームズを主役に据えたものの、長らく生死不明だったホームズを生還させるのではなく、逆に本作品の事件発生年月を「最後の事件」以前に設定するという手法を採ったのである。実際、事件の発生年月を1888年9月に設定し、「ジョン・ワトスンが記録はしたものの、未発表だった事件を今回発表する」ということにしたのだ。この時点で、ホームズは完全復活を果たした訳ではなかったが、長らくホームズ作品に飢えていた読者は、それでも驚喜し、ストランドマガジンでホームズは一時的に復活したのである。彼が完全復活するには「バスカヴィル家の犬」の連載終了月である1902年4月から約1年半後の「空き家の冒険」(1903年9月初出)まで、読者はもうしばらく待つ必要があった。

追加情報であるが、魔犬伝説の調査のため、ダートムーアにやって来たドイルは、移動手段として馬車を雇った。実は、この馬車の御者がバスカヴィルという名前で、この名前をひどく気に入ったドイルは御者と交渉し、彼の名前をこれから執筆する作品の中で使用することの許可を得たとのこと。こうして、バスカヴィルという名前は、「バスカヴィル家の犬」としてホームズファンの間で不滅の名前となったのである。