2019年7月28日日曜日

ロンドン ウェルロード24番地 / キャノンコテージ(24 Well Road / Cannon Cottage)–その1

反対側の歩道から見たウェルロード24番地に該る「キャノンコテージ」→
ここに、英国の作家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエが、
1932年から1934年までの間、住んでいた

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国の作家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)が住んでいた家が所在している。


ハムステッドヒース(Hampstead Heath2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側に沿って、東西に延びるイーストヒースロード(East Heath Road)を東方面へと進み、進行方向右手にウェルロード(Well Road)が見えたところで右折。ウェルロードを南下すると、進行方向右手にまずキャノンレーン(Cannon Lane)が見えるが、そのまま直進し、次に進行方向右手に見えるクライストチャーチヒル(Christ Church Hill)とウェルロードが交差する北西の角にあるウェルロード24番地(24 Well Road)の建物である「キャノンコテージ(Cannon Cottage)」に、ダフニ・デュ・モーリエは、1932年から1934年までの間、住んでいた。


ダフニ・デュ・モーリエは、1907年5月13日、俳優兼劇場経営者のサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年→2019年7月15日 / 7月21日付ブログで紹介済)を父に、そして、女優のミュリエル・ボーモント(Muriel Beaumont:1881年ー1957年)を母にして、三人姉妹の次女として出生。
父方の祖父は、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、ゴシック・ホラー小説の「トリルビー(Trilby)」等でも知られる小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年→2019年6月15日 / 6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)。
ダフニ・デュ・モーリエの姉(長女)は、作家となるアンジェラ・デュ・モーリエ(Angela du Maurier:1904年ー2002年)で、妹(三女)は、画家となるジャン・デュ・モーリエ(Jeanne du Maurier:1911年ー1996年)である。
画面中央の写真の女性が、小説家のダフニ・デュ・モーリエで、
その左側の写真の男性が、彼女の父親であるサー・ジェラルド・デュ・モーリエ

祖父や父母による業界との繋がりが、作家デビューの助けとなり、ダフニ・デュ・モーリエは、1931年、小説第1作「愛は全ての上に(The Loving Spirit)」を出版した。

ウェルロード24番地の「キャノンコテージ」を取り囲む外塀

プライベートでは、ダフニ・デュ・モーリエは、作家デビューの翌年の1932年、英国陸軍少佐(Major)のサー・フレデリック・アーサー・モンタギュー・ブラウニング(Sir Frederick Arthur Montague Browning:1896年ー1965年→後に、中将(Lieutenant-General)まで昇進)と結婚して、2人の娘(長女:テサ(Tessa:1933年生まれ)と次女:フラヴィア(Flavia:1937年生まれ))と1人の息子(長男:クリスチャン(Christian:1940年生まれ))を育てた。

2019年7月27日土曜日

カーター・ディクスン作「貴婦人として死す」(She Died a Lady by Carter Dickson)–その3

早川書房が発行するハヤカワ文庫「貴婦人として死す」の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

英国ノースデヴォン(North Devon)の海岸沿いにあるリンクーム村(Lyncombe)において医師をしているルーク・クロックスリー(Dr. Luke Croxley)は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の戦局が絶望的な状況(ナチス・ドイツ軍によるフランス全土占領)へと向かって緊張を高めていた1940年6月29日(土曜日)の晩、いつもの週末の日課通り、リンクーム村から4マイル離れたところにある旧友で元大学教授のアレック・ウェインライト(Alec Wainwright)の家「清閑荘(モン・ルポ - Mon Repos)」でカード遊びをするために、車で出かけた。

アレックが午後9時からのBBCラジオニュースに集中している際、アレックの妻リタ(Rita Wainwright)は、キッチンへ氷を取りに行くと、バリー・サリヴァン(Barry Sullivan:米国から来た元俳優で、ラウザー父子商会で自動車のセールスマンをしているハンサムな青年ーリタ・ウェインライトの不倫相手)が、手伝いをするために、彼女の後を追った。

午後9時20分にニュースが終わり、アレックがラジオを消して後も、リタとバリーの二人が戻って来ないため、不安を感じたルーク・クロックスリー医師がキッチンへ行ってみると、そこには誰も居らず、裏口のドアが開け放たれていたことに加えて、キッチンのテーブルの上には、リタの書き置きが残されていた。
裏口のドアの外は、「清閑荘」の裏庭で、白い小石で縁取られた赤土の小径が、「恋人たちの身投げ岬(ラヴァーズ・リープ - Lovers' Leap)」と呼ばれる断崖の縁まで続いていて、リタとバリーのものと思われる二筋の足跡が裏口のドアから断崖の縁へと向かってハッキリと残されているものの、そこから引き返して来た足跡は、全くなかったのである。

そのため、ルーク・クロックスリー医師には、リタとバリーの二人が「恋人たちの身投げ岬」から海へと身を投げたとしか思えなかった。ルーク・クロックスリー医師が断崖の縁まで這って進み、首だけを伸ばして下を見ると、今ちょうど潮が満ちているものの、断崖から潮が満ちた海面まで70フィートもある上に、海面には岩礁が頭を覗かせていた。ここから海へ身を投げれば、間違いなく、二人とも命はないと考えられた。

それから2日後、リタ・ウェインライトとバリー・サリヴァンの遺体が発見された。「恋人たちの身投げ岬」から2、3マイル離れた小石の多い浜に、二人の遺体が打ち上げられ、そこで遊んでいた小さな男の子達が見つけて、警察に知らせたのである。そして、彼らの遺体を検死した結果、二人の本当の死因が明らかになった。
警察としては、当初、二人は海面から出ている岩礁にぶつかったか、さもなければ、溺死だと考えていたが、検死の結果、二人とも、小口径の銃で、至近距離から、より正確を期すと、銃をほぼ体に押し付けた状態で、心臓を撃ち抜かれていることが判明した。
更に、凶器となった32口径のブローニング自動拳銃が、「清閑荘」から半マイルも離れた道端で発見されたのである。バーンスタブルで事務弁護士をしているスティーヴ・グレインジが、6月30日(日曜日)の午前1時半頃、マインヘッドの知人を訪ねた後、リンクーム村にある自宅へ帰る途中、車のヘッドライトが道端にある光るもの、つまり、凶器の拳銃を照らし出した。そして、翌朝、彼はその拳銃を警察に届けたのであった。

二つの事実から、第三者である何者かが、リタ・ウェインライトとバリー・サリヴァンの二人を殺害した後、凶器の拳銃を道端に捨てたものと思われるが、「清閑荘」の裏口から「恋人たちの身投げ岬」の縁まで続いていたのは、被害者である二人の足跡だけで、第三者の足跡はなかった。また、二人の足跡には、後ろ向きに歩いたり、同じ人間が違うサイズの靴を履いて、「清閑荘」の裏口から「恋人たちの身投げ岬」の縁までを往復するといった不自然な痕跡は見つからず、第三者による犯行は不可能な状況であった。

この事件を解明できず、途方に暮れたリントン署のクラフト警視は、リンクーム村の画家ポール・フェラーズの家に滞在していたヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)に助力を求める。クラフト警視から要請を受けたヘンリー・メリヴェール卿は、「断崖絶壁における足跡のない殺人」という不可能犯罪の謎に挑むのであった。

日本の著述家 / 奇術研究家で、推理作家協会会員でもある松田道弘氏(1936年ー)は、「新カー問答ーディクスン・カーのマニエリスム的世界」の中で、当作品「貴婦人として死す(She Died a Lady)」(1936年)について、第1位グループの6作品のうち、3番目に挙げて、高く評価している。
なお、他の5作品は、以下の通り。
・1番目:「火刑法廷(The Burning Court)」(1937年)
・2番目:「緑のカプセルの謎(The Problem of the Green Capsule)」(1939年)
・4番目:「爬虫類館の殺人(He Wouldn’t Kill Patience)」(1944年)
・5番目:「ビロードの悪魔(The Devil in Velvet)」(1951年)
・6番目:「喉切り隊長(Captain Cut-Throat)」(1955年)

2019年7月21日日曜日

ロンドン キャノンプレイス14番地 / キャノンホール(14 Cannon Place / Cannon Hall) - その2

俳優兼劇場経営者だったサー・ジェラルド・デュ・モーリエが住んでいた
キャノンプレイス14番地のキャノンホール(その1)

英国の俳優で、劇場経営者でもあったサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年)の姉で、アーサー・ディヴィス(Arthur Davies)と結婚したシルヴィア・ルウェリン・ディヴィス(Sylvia Llewelyn Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男であるジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)から、英国の小説家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年 → 2015年7月25日付ブログで紹介済)は、「ピーターパン(Peter Pan)」の着想を得たと言われている。


また、J・M・バリーは、「ピーターパン」に登場するウェンディ・ダーリング(Wendy Darling)のミドルネームを、サー・ジェラルド・デュ・モーリエの長女で、後に作家となったアンジェラ・デュ・モーリエ(Angela du Maurier:1904年ー2002年)からもらって、ウェンディ・モイラー・アンジェラ・ダーリングと名付けている。なお、アンジェラ・デュ・モーリエは、後に舞台でウェンディを演じている。

俳優兼劇場経営者だったサー・ジェラルド・デュ・モーリエが住んでいた
キャノンプレイス14番地のキャノンホール(その2)

サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、俳優兼劇場経営者のフランク・カーゾン(Frank Curzon:1868年ー1927年)と一緒に、1910年から1925年にかけて、ウィンダム劇場(Wyndham’s Theatre)を共同経営し、その後、セントジェイムズ劇場(St. James’s Theatre)の経営を行った。
その一方、彼は、1914年から亡くなる1934年まで、Actors’ Orphanage Fund(現 Actors’ Charitable Trust)の会長として慈善事業も務めた。
そして、彼は、人気の頂点に該る1922年に、ナイト(Knight)の爵位を受けている。

俳優兼劇場経営者だったサー・ジェラルド・デュ・モーリエが、
1916年から亡くなる1934年までの間、
キャノンプレイス14番地のキャノンホールに住んでいたことを記すプループラークが、
門の左側にある外壁に掲げられている

サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1934年4月11日、キャノンプレイス14番地(14 Cannon Place)のキャノンホール(Cannon Hall)において、大腸癌で亡くなっている。
現在、キャノンホールの門の左側にある外壁に、サー・ジェラルド・デュ・モーリエが、1916年から亡くなるまでの間、ここに住んでいたことを記すプループラークが掲げられている。

画面中央の写真の女性が、小説家のダフニ・デュ・モーリエで、
その左側の写真の男性が、彼女の父親であるサー・ジェラルド・デュ・モーリエ

サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1902年にJ・M・バリー作の「あっぱれクライトン(The Admirable Crichton)」のアーネスト(Ernest)役を演じた際、レディー・アガサ(Lady Agatha)役として出演した女優のミュリエル・ボーモント(Muriel Beaumont:1881年ー1957年 / 1910年に女優を引退)と知り合い、同年に結婚する。そして、彼らの間には、小説家のアンジェラ・デュ・モーリエ(前述)、小説家のダフニ・デュ・モーリエ(Daphne du Maurier:1907年ー1989年)と画家のジャン・デュ・モーリエ(Jeanne du Maurier:1911年ー1996年)の3人の子供が生まれている。


2019年7月20日土曜日

カーター・ディクスン作「貴婦人として死す」(She Died a Lady by Carter Dickson)–その2

ノースデヴォンではなく、
サウスデヴォン(South Devon)のトーキー(Torquay)にあるトアベイ(Torbay)海岸
–トーキーは、アガサ・クリスティーの故郷

1940年6月29日、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の戦局は、絶望的な状況へと向かっていた。
6月14日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリへと入城し、6月22日、フランス軍は、ドイツ軍への降伏文書に調印して、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まったのである。

英国ノースデヴォン(North Devon)の海岸沿いにあるリンクーム村(Lyncombe)において、医師をしているルーク・クロックスリー(Dr. Luke Croxley)は、時折雷鳴が轟く生憎の空模様であったが、いつもの週末の日課通り、その晩(午後8時過ぎ)、リンクーム村から4マイル離れたところにある元数学教授の旧友アレック・ウェインライト(Alec Wainwright)の家「清閑荘(モン・ルポ - Mon Repos)」でカード遊びをするために、車で出かけた。

ルーク・クロックスリー医師としては、午後9時過ぎまで灯火管制にはならないと踏んでいたが、「清閑荘」に到着してみると、明かりが全く点いておらず、そのため、不安を掻き立てられた。
「清閑荘」は山小屋風の一軒家で、砂を敷いた私道が二本あり、一方が家の正面玄関へ、そして、もう一方が左手の車庫へと通じていた。家の右手んは、蔦が這うあずまや(サマーハウス)があった。
車庫の二台分のスペースには、アレックの妻リタ(Rita Wainwright)が使っているジャガーが駐めてあった。ルーク・クロックスリー医師が自分の車を駐めようと車庫へと向かうと、家の横手から現れた人影がよろよろと車に近づいてきた。これからカード遊びをする予定のアレックだった。アレックによると、何者かによって電話線を切られている、とのことだった。

一緒にカード遊びをする予定のリタとバリー・サリヴァン(Barry Sullivanー米国から来た元俳優で、ラウザー父子商会で自動車のセールスマンをしているハンサムな青年ーリタ・ウェインライトの不倫相手)が見当たらないため、アレックが飲み物を用意する間、ルーク・クロックスリー医師は、車庫内に自分の車を駐めると、二人を探すため、とりあえず、「清閑荘」の裏手へと回ってみた。そして、彼は、あずまやで逢い引きの真っ最中だった二人を偶然見つけてしまうが、気付かないふりをして、二人を連れ、母屋へと戻る。

三人が玄関のドアを開けて中へ入ると、広々とした居間には、明かりが点いていた。アレックが既にウィスキーの瓶とソーダサイフォンを用意しており、ウィスキーソーダを手にして、ラジオの側に座っていた。
午後8時半から、ケネス・マクヴェインがラジオ放送用に脚色した番組で、リタが楽しみにしていたシェイクスピア原作の「ロミオとジュリエット」が始まった。そして、同番組が終わった後、アレックは、午後9時からのニュースに集中していた。リタがキッチンへ氷を取りに行くと、バリーも、手伝うために、彼女の後を追った。

2019年に Polygon Books 社から出版された
「She Died A Lady (貴婦人として死す)」

午後9時20分にニュースが終わり、アレックがラジオを消しても、リタとバリーの二人はキッチンから戻って来ない。キッチンの方向から、床を這うように、風が吹いてきている。不思議に思ったルーク・クロックスリー医師がキッチンへ行ってみると、そこには誰も居らず、裏口のドアが開け放たれていた。そして、キッチンのテーブルの上には、台所用メモから破り取った一枚に、リタの書き置きが残されており、空のグラスで押さえてあった。

裏口のドアから外に出ると、そこは裏庭で、白い小石で縁取られた幅4フィート程の赤土の小径が、「恋人たちの身投げ岬(ラヴァーズ・リープ - Lovers' Leap)」と呼ばれる断崖の縁まで続いていた。ルーク・クロックスリー医師は、冷蔵庫の上から、薄紙の笠を被せた懐中電灯を手にしていたが、黒い雲が空を覆っていたものの、外は微かに明るかった。そのため、リタとバリーのものと思われる二筋の足跡が、雨でぬかるんだ赤土の小径の上に、ハッキリと残されており、ルーク・クロックスリー医師が跡を辿ったところ、二筋の足跡は断崖の縁で途切れていて、引き返した形跡は全くなかった。 

午後8時半からラジオで放送されたシェイクスピア原作の「ロミオとジュリエット」になぞらえて、リタ・ウェインライトとバリー・サリヴァンの二人は、「恋人たちの身投げ岬」の縁から身投げをしたのだろうか?


2019年7月15日月曜日

ロンドン キャノンプレイス14番地 / キャノンホール(14 Cannon Place / Cannon Hall) - その1

英国の俳優兼劇場経営者であった
サー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエが住んでいた
キャノンプレイス14番地の「キャノンホール」

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国の俳優で、劇場経営者でもあったサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年)が住んでいた家が所在している。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。このヒースストリートを北上し、進行方向右手に見える3つ目の通り(1つ目:バックレーン(Back Lane) / 2つ目:ニューエンド通り(New End))であるエルムロウ(Elm Row)、あるいは、4つ目の通りであるハムステッドスクエア通り(Hampstead Square)へと右折。エルムロウとハムステッドスクエア通りの二つの通りは、先でキャノンプレイス(Cannon Place)という一つの通りになる。そして、キャノンプレイスが、ハムステッドヒース(Hampstead Heath2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側を東西に延びるイーストヒースロード(East Heath Road)から南下してくるスクワイアーズマウント通り(Squire’s Mount)に突き当たる手前の進行方向右手角に、キャノンプレイス14番地(14 Cannon Place)の建物であるキャノンホール(Cannon Hall)があり、サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1916年から亡くなる1934年までの間、ここに住んでいた。

キャノンプレイス14番地の門両脇に
「キャノンホール」のプレートが刻まれている

サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1873年3月26日、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年→2019年6月15日 / 6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を父に、そして、エマ・ワイトウィック(Emma Wightwick)を母にして、ロンドンのハムステッド地区に出生。
彼はヒースマウント学校(Heath Mount School)に通学して、その後、ハーロー校(Harrow School)に進学した。
当初、彼はビジネスで身を立てたかったが、それは彼に合わなかったようで、俳優へと転身した。彼は、父ジョージ・デュ・モーリエの友人で、ガリック劇場(Garrick Theatre)を経営していた俳優兼劇場経営者サー・ジョン・ヘア(Sir John Hare:1844年ー1921年)の口利きにより、劇作家シドニー・グランディ(Sydney Grundy:1848年ー1914年)脚本の舞台劇「An Old Jew」の端役で、俳優としてのデビューを飾った。

俳優として正式にデビューしたサー・ジェラルド・デュ・モーリエは、父ジョージ・デュ・モーリエが1894年に出版したゴシックホラー小説「トリルビー(Trilby)」の舞台劇等で多くの端役を演じた後、英国の小説家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年→2015年7月25日付ブログで紹介済)による戯曲である「あっぱれクライトン(The Admirable Crichton)」(1902年)のアーネスト(Ernest)役、そして、「パーターパン、あるいは、大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn’t Grow Up)」(1904年12月27日に、デューク・オブ・ヨーク劇場(Duke of York’s Theatre)で初演)のジョージ・ダーリング(George Darling)とフック船長(Captain Hock)の二役等の大役を演じて、大きな賞賛を受け、人気を得たのである。

2019年7月14日日曜日

カーター・ディクスン作「貴婦人として死す」(She Died a Lady by Carter Dickson)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「貴婦人として死す」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

「貴婦人として死す」(She Died a Lady)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1940年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第14作目に該る。米国では、1943年にモロー社(Morrow)から、そして、英国では、同年にハイネマン社(Heinemann)から出版された。

物語は、英国ノースデヴォン(North Devon)の海岸沿いにあるリンクーム村(Lyncombe)において医師をしているルーク・クロックスリー(Dr. Luke Croxley)による語りで始まる。
時は、1940年5月22日、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の戦火が、ロンドンから遠く離れたリンクーム村にも近づき、ドイツ空軍機による空襲に備えて、村では夜間に灯火管制が敷かれるようになっている。年老いたルーク・クロックスリー医師は、自分では診療をもうあまりしておらず、息子のトム・クロックスリー医師(Dr. Tom Croxley)に医院の仕事を既にあらかた引き継いでいた。

ルーク・クロックスリー医師の旧友アレック・ウェインライト(Alec Wainwright)は、現在、60歳。以前は数学の教授をしていたが、今は引退して、リンクーム村から4マイル離れたところにある大きな山小屋風の一軒家「清閑荘(モン・ルポ - Mon Repos)」に、妻リタ・ウェインライト(Rita Wainwright)と二人で住んでいる。
「清閑荘」には、海方面からじめじめした強い海風が吹きつけるという難点はあったが、その代わりに、家から望む絶景をほしいままにしていた。「清閑荘」の裏庭は、崖っ縁まで続いており、その先には「恋人たちの身投げ岬(ラヴァーズ・リープ - Lovers' Leap)」というロマンティックな名前が付けられた断崖となっていて、その縁は海へと突き出していた。

アレック・ウェインライトがリタと結婚したのは、彼がカナダのマギル大学において教鞭を執っていた8年前だった。リタは、アレックより20歳以上も年下の上、非常に魅力的な女性で、8年前に彼らが結婚した際、何故、彼女が彼を伴侶に選んだのか、誰もが不思議がったのである。
人里離れた一軒家で平穏に暮らしていた二人であったが、残念ことに、リタ・ウェインライトは、米国から来た元俳優で、現在、ラウザー父子商会で自動車のセールスマンをしている若くてハンサムなバリー・サリヴァン(Barry Sullivan)と不倫の関係にあった。二人の不倫関係は、悪い噂として、リンクーム村中に既に知れ渡っていたが、知らないのは、リタの夫のアレックだけという状況だった。そんな中、リタ・ウェインライトは、夫アレックの旧友であるルーク・クロックスリー医師に対して、相談を持ちかけ、アレックと離婚したいと打ち明ける。

そんな不穏な空気が流れる同年6月29日土曜日の晩、「清閑荘」において、恐ろしい事件が発生するのであった。

2019年7月7日日曜日

カーター・ディクスン作「かくして殺人へ」(And So to Murder by Carter Dickson)–その3

東京創元社が発行する創元推理文庫「かくして殺人へ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1940年に発表した推理小説「かくして殺人へ(And So to Murder)」は、基本的に、ロンドン郊外にあるアルビオンフィルム社の映画スタジオにおいて、物語が進行する関係上、どちらかと言うと、モニカ・スタントンとウィリアム・カートライトのラブストーリーならぬラブコメディーという要素が非常に強い。そのため、残念ながら、彼の作品特有の怪奇やオカルトを前面に押し出す作風には乏しい。

ジョン・ディクスン・カーは、1938年から短期間、ロンドンフィルム社製作の「Q型飛行艇」の脚本を書いていたが、水が合わない上に、いろいろなトラブルが続いたため、最終的には、映画界に対して嫌悪感を抱いて去ることとなった。

当時の苦い体験を生かして、転んでもただでは起きない彼が執筆したのが、「かくして殺人へ」である。自分の体験に基づいているので、映画スタジオ内で働く各キャラクターがリアルに描かれており、ジョン・ディクスン・カーによるファルス的ユーモア感覚に満ちたアクの強さと映画界という特殊な舞台が絶妙に調和して、物語が進んでいく。
ただし、彼の他の作品とは大きく異なり、物語のヒロインに該るモニカ・スタントンに対する未遂に終わる襲撃(硫酸、銃撃や予告状等)は連続するものの、物語の終盤近くになっても、殺人事件自体は発生しない。

本作品では、(1)「モニカ・スタントンと彼女の命を狙う謎の犯人との間を繋ぐ見えない接点(ミッシングリンク)は何か?」と(2)「モニカ・スタントンは、なんども命を狙われるにもかかわらず、何故、毎回、犯人による襲撃が空振りに終わるのか?」が、ジョン・ディクスン・カーから提示される謎で、物語の終わりには、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)により、本格推理小説としての解決がキチンと行われるので、単なるラブコメディーで終わる訳ではない。
ただ、ジョン・ディクスン・カー / カーター・ディクスンが紡ぎ出す密室 / 不可能犯罪や彼の怪奇 / オカルト趣味が大好きなマニアの読者にとっては、若干物足らない感じがするかもしれない。

「かくして殺人へ」は、ジョン・ディクスン・カー / カーター・ディクスンが、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)によるシャーロック・ホームズシリーズの最後の長編である「恐怖の谷(The Valley of Fear)」(1914年ー1915年)に挑戦した作品と言われている。

なお、作中において、モニカ・スタントンが執筆したベストセラー小説「欲望」に登場するヒロインの名前「イヴ・ドーブリー」の名前は、ジョン・ディクスン・カー名義のノン・シリーズ作品「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s Snuff-Box→2019年12月17日 / 12月23日 / 12月26日付ブログで紹介済)」(1942年)のヒロインである「イヴ・ニール」と同名義のノン・シリーズ作品「火刑法廷(The Burning Court)」(1937年)に登場する「マリー・ドーブリー」を掛け合わせた姓名になっている。

2019年7月5日金曜日

<第500回> シャーロック・ホームズ最後の事件(The Last Sherlock Holmes Story)–その3

シャーロック・ホームズ最後の事件
(The Last Sherlock Holmes Story)

著者: Michael Dibdin 1978年
出版: Faber and Faber Limited 1990年
(Cover design : Faber)
(Cover image : RPS / Science & Society Picture Library)

<読後の私的評価(満点=5.0)>

(1)事件や背景の設定について ☆☆☆☆☆(5.0)

シャーロック・ホームズは架空の人物で、切り裂きジャック(未だに正体は不明なるも)は実在の人物という違いはあるが、ホームズが諮問探偵として活躍した時代と切り裂きジャックが凶行を働いた1888年は、世紀末のロンドンを介して、オーバーラップしている。推理作家であれば、そして、ホームズファンであれば、誰でも一度は自分で実現させたい「ホームズ対切り裂きジャック」という一大テーマである。また、ホームズは、切り裂きジャックの正体を「ロンドン市内の犯罪者達を背後から操るだけでは飽き足らなくなって、遂に自ら犯罪に手を染めることになった」あのジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と考えており、ホームズが挑む事件としては、申し分ないと言える。

(2)物語の展開について ☆☆☆☆(4.0)

ロンドンのホワイトチャペル地区(Whitechapel)を恐怖のどん底に落とし入れたモリアーティー教授 / 切り裂きジャックの正体は、一体誰なのか?物語の最後というか、後半以降、ホームズファンにとって、悪夢のような話が展開する。物語の登場人物が極めて限定されており、物語の大部分は、ホームズとJ・H・ワトスンを主軸に進んでいく。それ故に、物語を読み進んでいく過程で、気持ち的に、非常に息苦しい感じを覚える。

シャーロック・ホームズ最後の事件
(The Last Sherlock Holmes Story)

著者: Michael Dibdin 1978年
出版: Oxford University Press 2008年
(Cover image : Arcangel Images)

(3)ホームズ / ワトスンの活躍について ?(判定不能)

物語の最後に待ち構えているのは、ホームズファンにとっては、あまりにも衝撃的で、尚且つ、その内容は、たった一度限りの禁じ手である。よって、ホームズとワトスンの活躍度を評価するのは、今回は不可能と言える。

(4)総合評価 ☆☆☆☆(4.0)

正直ベース、本作品がホームズファンに受け入れられるか否か、非常に疑問である。物語の最後があまりにも衝撃的過ぎるからである。たった一度限りの禁じ手ではあるが、エドワード・B・ハナ(Edward B. Hanna)が1992年に執筆した「ホワイトチャペルの恐怖(The Whitechapel Horrors→2014年4月20日付ブログで紹介済)」に比べれば、物語を説明がつく結末にキチンと導いているので、それなりに評価したいと思う。物語の終盤、ある人物が発する「君を傷つけさせない。彼に君への手出しをさせはしない。(You shall not be hurt. I shallnot let him hurt you.)」というセリフがあるが、読後に何度思い返しても、あまりにも切ない言葉である。