2019年11月7日木曜日

島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)–その3


毎週、個人教授を受けているウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年)の研究者であるウィリアム・ジェイムズ・クレイグ(William James Craig:1843年ー1906年)からの提言を受けて、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、ベーカーストリート221Bを訪ね、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンに対して、自分が体験した不可解な出来事について相談した。すると、ホームズは夏目漱石に対して、「僕の考えが間違っていなければ、その幽霊は二度とあなたのところには現れない確率が随分と高いように思いますね。」と答えるのであった。



ホームズの簡単な説明にがっかりして、夏目漱石が帰って行ったのと入れ違うように、裕福そうな身なりの婦人が、事件の相談のために、ホームズの元を訪ねて来た。
彼女の名前はメアリー・リンキイ(旧姓:ホプキンス)で、現在、40歳。昨年の9月に彼女は御主人を亡くし、ロンドン北西部のプライオリーロード(Priory Road→2019年10月13日付ブログで紹介済)沿いの土地屋敷を相続して、現在、そこに執事夫婦と三人暮らしをしている、と言う。
彼女には、10代の頃に生き別れになった6歳違いの弟が居て、生きていれば、現在、34歳になる筈、とのこと。彼女としては、苦しい生活の末、運良く、一応以上の生活の安定を得たため、弟を捜し出そうとして、新聞に尋ね人の広告を出したところ、暫くの間、全く反応がなかったが、尋ね人捜しを職業としているジョニー・ブリッグストンと名乗る男性が彼女の元を訪ねて来た。ジョニー・ブリッグストンが経験豊富な人物に思えたメアリー・リンキイは、彼に弟ギングスレイを捜すように依頼したのである。



1ヶ月程して、メアリー・リンキイは、ジョニー・ブリッグストンから、弟ギングスレイが見つかった旨の電報を受け取った。そこで、彼女は、弟が住むスコットランドのエディンバラ(Edinburgh)へ大急ぎで出かけた。ジョニー・ブリッグストンに連れられて、雪原の中にポツンと建った粗末な小さい一軒家で、彼女が会った弟のギングスレイは、すっかりと老けた上に痩せていて、昔の面影はほとんどなかったが、亡くなった父から二人がもらったお揃いのロケットと父母の写真を持っていたので、彼女には直ぐに弟と判った。
弟のギングスレイはまだ独身だったため、メアリー・リンキイは、彼に対して、自分の屋敷で一緒に暮らすように話した。彼は、彼女の話に応じて、ロンドンのプライオリーロードへと引っ越して来たが、エディンバラの一軒家内にあった大量の東洋の骨董品も一緒に運び込んだ。彼は、長い間、中国へ行っていたとのことで、これらの骨董品は全て中国で買い込んだようだったが、何故か、中国時代のことは尋ねられても、あまり話したがらなかったのである。ギングスレイは、中国時代、自分に対して、あまり胸を張れる仕事をしていなかったのはないかと、メアリー・リンキイは考えていた。



ギングスレイがエディンバラの一軒家から運び込んだ東洋の骨董品の中に、中国の独特な装飾が施された長行李があり、彼は特にそれを大事にしているようだったので、メアリー・リンキイは、前々から非常に気になっていた。そこで、彼女は、ある日、弟の部屋に入って、彼に無断で長行李を開けたのである。長行李は厳重にロープで縛ってあったが、中には東洋の絹のようなものが一杯詰まっていて、その下に絹で包んだ古い仏像のようなものがほんの少し見えた。その時、背後から弟のギングスレイがやって来て、恐ろしい勢いで長行李の蓋を閉めると、真っ青な顔になった。
それ以来、ギングスレイはすっかりとふさぎ込むようになり、あまり眠っているとは思われず、呪文ともうわ言ともつかないことをぶつぶつと言いながら、一日中、部屋の中で強い匂いの香をたくようになった。終いには、ギングスレイは、中国製のナイフの柄を両手で握り、切っ先を左の眉の上辺りの額に当てがうと、自分の顔の左の額から左の眉にかけてを、斜めに切り裂くという自刃騒ぎまで起こしたのである。



メアリー・リンキイがホームズの元を訪ねた日の翌々日である2月8日、ホームズは、スコットランドヤードのレストレード警部から電報を受け取り、ワトスンと一緒に、プライオリーロードのメアリー・リンキイ邸へと呼び出された。非常に不可解な事件が発生したのである。


2019年11月3日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「曲がった蝶番」(The Crooked Hinge by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「曲がった蝶番」の表紙−
カバーイラスト:榊原 一樹氏
カバーデザイン:本山 木犀氏

「曲がった蝶番(The Crooked Hinge)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1938年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第9作目に該る。当作品は、1938年に米国のハーパー社(Harper)から、そして、同年に英国のハーミッシュ・ハミルトン社(Harmish Hamilton)から出版された。

1937年7月29日(水)、英国ケント州(Kent)マリンフォード村の庭を見渡す窓辺で、作家のブライアン・ペイジは、「イングランドの主席裁判官列伝」を執筆していた。ふと目を上げると、ファーンリー邸へと続く道を、彼の友人で、州都メイドストン(Maidstone)の事務弁護士であるナサニエル・バローズが運転する車が、猛スピードでこちらへ向かって来るのが、目に入った。

ブライアン・ペイジの部屋に入って来たナサニエル・バローズは、暑い昼にもかかわらず寒そうで、かなり青ざめて見えた。ナサニエル・バローズは、準男爵であるサー・ジョン・ファーンリー(Sir John Farnleigh)の顧問弁護士を務めているが、彼によると、「本物のジョン・ファーンリーだと名乗る人物が現れた。」とのことだった。

現在のサー・ジョン・ファーンリーは、1897年にサー・ダドリとレディー・ファーンリーの次男として生まれた。嫡子のダドリー・ジュニアは優等生だったが、ジョンは不機嫌で、無口で、愛想がなく、非常に気難しかった。ジョンは、以前から魔術や悪魔崇拝といった神秘学を熱心に学んでいて、父のサー・ダドリーは心良く思っていなかった。ジョンは、イートン校を放校になった上に、1912年、15歳でメイドストンのバーのウェイトレスとのスキャンダルが明るみに出て、サー・ダドリーは、次男のジョンを悪魔崇拝をしていたファーンリー一族の先祖返りで、矯正できないと考え、米国で暮らしているレディー・ファーンリーの従兄弟であるレンウィックのところへ追いやり、二度と会わないようにした。

ジョンがイートン校から放校された後、ケネット・マリーという22~23歳の青年が、ジョンの家庭教師として、ファーンリー邸に来ていた。犯罪科学を趣味としていたケネット・マリーに、ジョンは惹きつけられ、マリーの言うことだけは聞いていた。偶然なことに、ケネット・マリーにバミューダのハミルトンにある学校の副校長という非常に魅力的な勤め口の話が舞い込んだため、ケネット・マリーは、ジョンと一緒に、ニューヨークまで旅をして、そこでジョンをレディー・ファーンリーの従兄弟に引き渡した後、バミューダへと向かうことになったのである。

不幸なことに、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが英国から米国へと向かうために乗船したのは、不沈船と呼ばれたあのタイタニック号だった。英国から米国への航行中、氷山に衝突したタイタニック号は、1912年4月15日の夜、大西洋上で沈没したのである。その際、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーは離ればなれになったが、ケネット・マリーの方は、木の格子につかまって、凍える海を18時間もの間漂流した後、バミューダ行きの貨物船コロフォーン号に救助され、本来の目的地であるバミューダへそのまま連れて行かれた。一方、ジョン・ファーンリーは、ニューヨーク行きのイトラスカ号に救助され、到着地でレディー・ファーンリーの従兄弟に迎えられた後、コロラド州で25年近く農夫として暮らした。以降、ジョン・ファーンリーとケネット・マリーが再会することはなかった。

英国では、レディー・ファーンリーが1926年に、そして、サー・ダドリーが1930年に亡くなり、嫡子のダドリー・ジュニアが称号と全ての領地を引き継いだが、結婚しないまま、1935年8月に食中毒で世を去った。そのため、1936年、ジョン・ファーンリーは、ファーンリー家の継承者として、ケント州マリンフォード村へ戻って来て、幼い頃から彼にぞっこんだったモリー・ビシップと同年5月に結婚し、1年余りが経過したのが、今の状況だった。