2014年7月27日日曜日

ロンドン シャーロック・ホームズ パブ(Sherlock Holmes Pub)


トラファルガースクウェア(Trafalgar Square)近くのチャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)で地下鉄を降りて、テムズ河(River Thames)方面に向かい、ノーサンバーランド アヴェニュー(Northumberland Avenue)を下ると、途中で左手から延びてくるノーサンバーランド ストリート(Northumberland Street)に合流する。ノーサンバーランド アヴェニューに合流したノーサンバーランド ストリートの角に、シャーロック・ホームズ パブ(Sherlock Holmes Pub)は建っている。

サー・アーサー・コナン・ドイルが「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」を「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」に連載していた当時(1901年8月 - 1902年4月)、この建物はノーサンバーランド ホテル(Northumberland Hotel)と呼ばれていた。

「バスカヴィル家の犬」(事件発生年月:1888年9月)において、シャーロック・ホームズへの相談のため、ウォータールー駅(Waterloo Station)に到着したヘンリー・バスカヴィル卿(Sir Henry Baskervilles)は、このホテルに滞在した。翌朝、彼宛にたった一文だけの手紙が届く。ありふれた、そして、灰色掛かった色の封筒の中には、新聞から切り抜いた文字を貼り付けて、「自分の生命と正気が惜しければ、(ダート)ムーアから去れ!(As you value your life or your reason keep away from the moor.)」と書かれてあった。ただし、「ムーア」という単語だけは、インクで印刷されていたのである。ホームズは、「ムーア」という単語は特殊で、新聞ではあまり使用されないため、犯人は新聞から切り抜くことができず、やむを得ずインクで印刷したものと推理する。謎めいた事件は更に続き、ヘンリー・バスカヴィル卿は、ホテルの滞在中に、靴の片方を無くしてしまう(盗まれてしまう)。物語の終盤、犯人が彼の靴の片方を何故盗んだのか、その理由がホームズによって明らかにされる。

上記のように、ホームズ作品では一番有名で、かつ人気がある「バスカヴィル家の犬」の舞台の一つとなったノーサンバーランド ホテルは、後にノーサンバーランド アーム(Northumberland Arm)という名に変わり、1957年からは現在の店名になったそうである。



建物の外壁に掲げられたパブの看板は、表裏で絵が異なっている。また、1階のガラス窓には、原作者であるコナン・ドイル(正面の顔)、ホームズ(右を向いた横顔)、そして、ジョン・ワトスン(左を向いた横顔)が描かれていて、道行く人が歩みを止めて、写真撮影をしているのをよく見かける。



1階のパブ内部の壁には、シャーロック・ホームズのコレクションが所狭しと飾られ、新しいアイテムも逐次増えている。更に、2階には、ホームズとワトスンが共同生活を送ったベーカーストリート221Bの書斎が再現されており、ホームズファンならずとも、コナン・ドイルによって小説に描かれた19世紀末の時代にタイムスリップすることができる。

2014年7月26日土曜日

ロンドン ノース ガウアー ストリート187番地(187 North Gower Street)/もう一つのベーカーストリート221B

画面中央の建物がノース ガウアー ストリート187番地

もう一つのベーカーストリート221B」とは一体何だろうと、疑問に思われることだろう。それは、BBC(British Broadcasting Corporation)1で放映されている推理ドラマ「シャーロック(Sherlock)」の舞台となっている場所である。「シャーロック」では、物語の背景をヴィクトリア女王の時代ではなく、現代に置き換え、そこに現代人であるシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンが登場し、サー・アーサー・コナン・ドイルの作品にヒントを得た事件を解決していくというストーリーが構築されている。この「シャーロック」の大人気は、ホームズ役のベネディクト・カンバーバッチ(Benedict Cumberbatch)とワトスン役のマーティン・フリーマン(Martin Freeman)を一気にスターダムに押し上げた。「シャーロック」は、2014年1月までに3シリーズが放映され、現在、第4シリーズの撮影が進んでいる。「シャーロック」に限らず、BBCが放映する推理ドラマは概ねとても良く出来ていると思う。

この「シャーロック」において、ホームズとワトスンが共同生活を送るベーカーストリート221Bの外観として使用された建物が、ロンドン地下鉄のユーストン スクエア駅(Euston Square Tube Station)の近くにある。同駅の北側出口から地上に出た右手にノース ガウアー ストリート(North Gower Street)が走っていて、この通りを25m程北上した向かって左側に、この建物(ノース ガウアー ストリート187番地)がある。ドイル作品のベーカーストリート221Bとは異なり、日本でいう1階(英国でいうグランドフロア)では、カフェ(Speedy's Cafe)が営業している。このカフェの左横にある玄関のドアを開けて、ベーカーストリート221Bに入ることになる。「シャーロック」では、ドイルの原作通り、ホームズとワトスンの部屋は日本でいう2階(英国でいうファーストフロア)にある。


このノース ガウアー ストリートは、住居やこじんまりしたホテル等がある通りで、カフェ近辺を除くと、閑静というか、あまり人通りのない閑散としたところで、「シャーロック」の撮影に使われた場所とは、とても思えないが、そうでなければ、撮影中、逆に騒ぎになって仕方がないのかもしれない。

生憎と、地下鉄ユーストンスクウェア駅近辺には、有名な観光名所がなく、つまり、観光ルートから外れてはいるが、ホームズファンであれば、ベーカーストリート近辺に出かけたついでに、足をのばして立ち寄ってみてほしい。地下鉄ユーストンスクエア駅へは、ベーカーストリート駅から、サークルサイン、ハマースミス・アンド・シティー・ライン、あるいは、メトロポリタンラインに乗って2駅。

2014年7月23日水曜日

ロンドン エルサムパレス(Eltham Palace)

エルサムパレス遠景

英国のTV会社ITV1が制作し、英国内でも人気があるエルキュール・ポワロシリーズ「ナイルに死す(Death on the Nile)」は、嵐の夜、ジャックリーン・ド・ベルフォール(通称ジャッキー)と婚約者のサイモン・ドイル(失業中)の二人のシーンから始まる。ジャッキーは、学生時代の古い友人で裕福なリネット・リッジウェイに電話をかけ、サイモンを屋敷の管理人にしてほしいと彼女に頼み込む。リネットが住む屋敷の外観として、エルサムパレス(Eltham Palace)が使用されている。


エルサムパレスは、ロンドン中心部から南東のグリニッジ地区(Greenwich)にあり、車で行くと、1時間程の所要時間である。

周囲を囲む堀の外から見たエルサムパレス

エルサムパレスの起源は、14世紀初頭まで遡る。1066年のヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)後、英国にノルマン王朝を開いたウィリアム1世(Willam Ⅰ)の義兄弟から数人の手を経て、1295年にダラム司教(Bishop of Durham)のアンソニー・ベック(Anthony Bek)がエルサムの地を取得した。そして1305年、アンソニー・ベックが後の英国王エドワード2世(Edward Ⅱ)にその土地を譲渡したのが始まりで、それ以降、16世紀まで王宮として使用された。後の英国王ヘンリー8世(Henry Ⅷ)が少年期をここで過しており、彼が9歳の時(1499年)、法律家で思想家のトマス・モア(Thomas Moreー政治と社会を風刺した「ユートピア(Utopia)」の著述で有名)を介して、後に終生の友人となるオランダ人の人文主義者、カトリック司祭、神学者かつ哲学者のデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus)に、エルサムパレスのグレートホールで引き合わされる。


17世紀に入ると、英国王チャールズ1世(Charles Ⅰ)の主席宮廷画家となったヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)の休息所として貸し出されることがあったものの、英国王室メンバーがエルサムパレスに滞在することはなくなった。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 

清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時に、彼の雇い主であるチャールズ1世は処刑されたという皮肉な結末を迎えている。そして、清教徒革命の際、国王派と対立していた議会派による攻撃対象となり、1648年、グレートホール以外は全壊し、瓦礫と化した。

エルサムパレス内部の明かりが
迫りつつある夕闇に美しく映える

1660年の王政復古(Restoration of the Monarchy)後、英国王となったチャールズ2世(Charles Ⅱ)から資本家のジョン・ショー(John Shaw)に、エルサムパレス一帯は1663年にただ同然で貸し出された。これは、清教徒革命中、フランスに亡命していたチャールズ2世に資金援助を行っていたショーへの謝礼の意味があり、更に、ショーはナイトの称号も得ている。ショーは建築家のヒュー・メイ(Hugh May)に依頼し、敷地内にエルサムロッジ(Eltham Lodgeー現在のロイヤルブラックヒースゴルフクラブハウス(Royal Blackheath Glof Club House))を建設させたが、清教徒革命時に瓦礫と化した王宮そのものが修復されることはなかった。


1933年、繊維業を基に成長した当時のブルジョア層であるスティーヴン・コートールド(Stephen Courtauld)とその妻ヴァージニア・コートールド(Virginia Courtauld)が、英国王室が所有するエルサム一帯の賃借権を買い上げ、最新の技術とデザインを駆使して、今までにない洗練された家にすべく、改装作業を進めた。

右に見える建物が、当初より残っているグレートホール

スティーヴンとヴァージニアのコートールド夫妻が推し進めた改装作業により、エルサムパレスの外観はオーソドックスな印象をとどめているものの、内装は全てアールデコ様式に統一されている。生憎と、エルサムパレス内は写真撮影が禁止されているため、そのすばらしさをここでお見せ出来ないのが残念である。アガサ・クリスティーが「ナイルに死す」を発表したのが1937年であり、アールデコ様式が流行の最先端だった1930年代と奇しくも時代が一致している。そういった意味では、ITV1のポワロシリーズにおいて、リネットが住む屋敷として、エルサムパレスが使用されたのも、時代考証の上でのことだろう。



このようにして、自分達の終の住居としてエルサムパレスを改装したコートールド夫妻ではあったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が始まり、ドイツによるロンドン爆撃の脅威が迫ったため、彼らは賃借権を英国王室に返還して、エルサムパレスを退去することとなった。


それから半世紀を経て、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)がエルサムパレスの管理維持を担うことになり、200万ポンドを費やして大改装が行われた。そして、1999年に一般公開され、現在に至っている。


また、ロンドンのストランド通り(Strand)に面したサマセットハウス(Somerset House)内には、英国屈指の印象派コレクションで有名なコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)があるが、この美術館は、スティーヴンの兄であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld)が寄贈したコレクションと莫大な寄付金をベースにして、1932年に開館されたものである。


2014年7月20日日曜日

ロンドン ウォバーン スクエア(Woburn Sqaure)


前にも述べた通り、2014年7月2日から同年9月15日まで、「ブックス・アバウト・タウン(Books about Town)」というイベントがナショナルリテラシートラスト(The National Literacy Trust)によって開催されていて、ロンドン市内に本の形をしたベンチ(BookBench)が、全部で50個展示されている。

ブルームズベリー(Bloomsbury)地区の大英博物館(British Museum)の北側にロンドン大学(University of London)が位置しており、その一角にあるウォバーン スクエア(Woburn Square)内に、シャーロック・ホームズ(とジョン・ワトスン)のブックベンチが設置されている。
・ベンチ名: The curious case of Sherlock Holmes(シャーロック・ホームズの奇妙な事件)
・スポンサー: Conan Doyle Estate Ltd.(コナン・ドイル財団)
・アーティスト: Valerie Osment(ヴァレリー・オズメント)


ベンチの表側の背凭れの部分には、左側から順に(1)夜霧の中に浮かぶロンドンのガス灯、(2)ホームズ愛用のヴァイオリン「ストラディヴァリウス」、(3)「緋色の研究(A Study in Scarlet)」の表紙、(4)ホームズとワトスンが共同生活を送ったベーカーストリート221B、そして、(5)「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の初版本の表紙(赤を背景に、ダートムーア(Dartmoor)伝説の黒い魔犬が描かれており、非常に素敵な表紙である。)が並んでいる。

ベンチの表側の腰を下ろす部分には、鹿撃ち帽(ディアストーカー)を頭にかぶり、インヴァネスコートを両肩にはおり、そして、右手にパイプを、左手にルーペを持ったホームズが右側に、右手に銃を携えているワトスンが左側に描かれている。


ベンチの裏側は、いかにもブックベンチらしく、パイプを口を咥えたホームズの横顔シルエットを真中にして、以下のホームズ作品4冊の背表紙が、左から順に並んでいる。
(1)赤色の本ー緋色の研究
(2)緑色の本ーシャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)
(3)水色の本ーバスカヴィル家の犬
(4)黄緑色の本ーシャーロック・ホームズの事件簿(The Case Book of Sherlock Holmes)

これらのブックベンチは、子供達にもっと本を読んでもらう目的で設置されているものの、実際には大人のほうが楽しんでいるようである。というのも、イベントのウェブサイトでトレイルマップを手に入れた大人達が、カメラを片手にブックベンチ巡りをしているのをよく見かけるからである。

2014年7月13日日曜日

ロンドン ブルームズベリー スクエア ガーデンズ(Bloomsbury Square Gardens)


2014年7月2日から同年9月15日まで、「ブックス・アバウト・タウン(Books about Town)」というイべントがナショナルリテラシートラスト(The National Literacy Trust)によって開催されていて、以下の4つの地区に、本の形をしたベンチ(BookBench)が、全部で50個展示されている。ロンドン市民、特に子供達に本を読む楽しみをもっと知ってもらう目的のためである。

(1)ブルームズベリー(Bloomsbury)
(2)シティー・オブ・ロンドン(City of London)
(3)ロンドン橋(London Bridge)近辺のテムズ河南岸(Riverside)
(4)グリニッジ(Greenwich)

ブルームズベリーは、19世紀から20世紀にかけて、多くの芸術家や学者が住む文教地区として発展してきた地区で、現在、世界最大級のコレクションを誇る大英博物館(British Museum)を初めとして、ロンドン大学(University of London)、国立病院(National Hospital)、劇場や大小様々な博物館(ウェルカム医療博物館、パージヴァル・デイヴィッド中国美術財団美術館やポロック玩具博物館)等が当地区内に点在している。

大英博物館から地下鉄のホルボーン駅(Holborn Tube Station)に向かう途中にあるブルームズベリー スクエア ガーデンズ(Bloomsbury Square Gardens)内に、アガサ・クリスティーのブックベンチが展示されている。


・ベンチ名: Hercule Poirot and the Greenshore Folly(エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮)
・スポンサー: Agatha Christie Estate(アガサ・クリスティー財団)
・アーティスト: Tom Adams(トム・アダムズ)
なお、「阿房宮」とは、英国の大庭園等に装飾目的で城や寺院等を模して建設された模造建築物である。

1954年、アガサ・クリスティーは、ある中編を執筆して、その印税収入を自分の生まれ故郷の教会に寄付しようとした。そのため、彼女は、デヴォン(Devon)州にある自分の住まいのグリーンウェイ(Greenway)を小説の舞台にした。なお、この中編は、雑誌掲載には難しい長さであったため、残念ながら、未発表のままに終わっている。
そのため、アガサ_クリスティーはそれを長編にして、2年後に出版している。それが、エルキュール・ポワロが、人気探偵作家で昔なじみのアリアドニ・オリヴァー夫人と一緒に活躍する「死者のあやまち(Dead Man's Folly)」(1956年)である。
上記の中編の代わりに、アガサ・クリスティーは、ミス・ジェーン・マープルを主人公とした短編「グリーンショウ氏の阿房宮(Greenshaw's Folly)」を教会に寄付している。ちなみに、「グリーンショウ氏の阿房宮」は、現在、早川書房クリスティー文庫の「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)の一遍として収録されている。

話をブックベンチに戻すと、ベンチの表側には、グリーンウェイにあるクリスティーの住まいをモデルにしたと思われる邸宅、阿房宮、「死者のあやまち」において殺人事件の舞台と成るボート小屋や砲台等が描かれている。左下の老婦人は、クリスティーだろうか?そして、ベンチの裏側に描かれているのは、「死者のあやまち」に出てくるハティー(Lady Hattie Stubbs:ナス屋敷(Nasse House)を所有するサー・ジョージ・スタッブス(Sir George Stubbs)の妻で、洒落たドレスや宝石を身につけることばかりを考えていて、自分のことしか頭にないと周りの人から見られている人物)ではないかと思われる。


個人的には、アガサ・クリスティーの作品を題材にしたベンチにしては、ややおどろおどろし過ぎる感じがする。特に子供達に本を読んでもらうようにするのであれば、もう少し軽いタッチの方が良かったのではないかと思う。探偵役のポワロが描かれていないのも残念で、ベンチの表か裏側のどちらかに大きく描いてほしかった

ブックス・アバウト・ タウンのサイトによると、このベンチの題材となった「エルキュール・ポワロとクリーンショア氏の阿房宮」は、執筆から60年の歳月を経て、今年(2014年)出版されたということなので、是非読んでみたいと思う。

2014年7月12日土曜日

ロンドン ライシアム劇場(Lyceum Theatre)


 ライシアム劇場(Lyceum Theatre)は、ロンドンのコヴェントガーデン地区(Covent Garden)にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)とシティー(City)を東西に結ぶストランド通り(Strand)と、北に行くと「ロイヤル・オペラハウス(Royal Opera House)」に至るボウウェリントンストリート(Bow Wellington Street)が交差した角に位置している。

ナショナルギャラリー(National Gallery)と
ポートレートギャラリー(Portrait Gallery)の裏手(北側)に
設置されているサー・ヘンリー・アーヴィングのブロンズ像ー
同像の前の通りは、彼の名前に因んで
アーヴィングストリート(Irving Street)と呼ばれている

ライシアム劇場の始まりは、1756年まで遡る。当初は、コンサートホールとして建設され、その当時、劇場のライセンスを得る事ができなかったため、サーカス等も興行されたそうである。1830年に焼失したが、1834年に「ロイヤル・ライシアム・アンド・イングリッシュ・オペラハウス(Royal Lyceum and English Opera House)」と改称して再開された。1871年から、当劇場において、それまで主に地方を巡演していた俳優サー・ヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving:1838年ー1905年)がレオポレド・ルイス作のメロドラマ「鐘」に出演して、爆発的な人気を獲得、これがかなりのロングランになったそうなので、シャーロック・ホームズやジョン・ワトスンが活躍していた頃は、当劇場では「鐘」の上演が続いていたのではないかと思われる。

ライシアム劇場における
サー・ヘンリー・アーヴィングの功績を讃えて、
同劇場の外壁には、彼の名前が刻まれている

ホームズ作品において、ライシアム劇場が重要な役割を果たすのは、「四つの署名(The Sign of the Four)」である。メアリー・モースタンがホームズやワトスンの元を訪ねて、風変わりな事件の調査依頼をした際、彼女は「未知の友(Your unknown friend)」から受け取った謎の手紙をホームズ達に見せる。その手紙には、以下の内容が書かれていた。

Be at the third pillar from the left outside the Lyceum Theatre tonight at seven o'clock. if you are distrustful bring two friends …
「今夜7時に、ライシアム劇場の場外の左から3本目の柱のところまでお越し下さい。もし御心配であれば、お友達を二人お連れ下さい。」

原作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルが、ホームズとワトスンの2人を同行させるために、「二人」を意図的に入れたと思われ、ストーリー的にはやや出来過ぎの感が強いが、メアリー・モースタンからの依頼を受けたホームズとワトスンは、彼女と一緒にライシアム劇場へ出かけ、彼女の「未知の友」に出会うことによって、事件の核心部分に迫るのである。

ライシアム劇場では、現在、
ミュージカル「ライオンキング」がロングランを続けている

なお、現在、ライシアム劇場ではミュージカル「ライオンキング」がロングランを続けており、連日、子供連れの観光客等で賑わっている。

2014年7月6日日曜日

ロンドン ランガムホテル(Langham Hotel)


ランガムホテル(Langham Hotel)は、ロンドン地下鉄のオックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)からポートランドプレイス(Portland Place)を北に上がったところに位置する7階建てのホテルである。
1865年にオープンした当時、ロンドンで最高級のホテルと見做され、王侯貴族、政治家、芸術家や作家等がよく滞在したそうで、フランスのナポレオン3世(亡命中)や「トム・ソーヤの冒険」等で有名な米国の作家マーク・トウェイン(Mark Twain:1835年ー1910年)も当ホテルに宿泊したとのこと。内装は、白色、緋色や金色で統一されており、天井の彫刻や床のモザイクはイタリア職人の手によるものである。

シャーロック・ホームズ作品に、ランガムホテルは何回か登場している。
*四つの署名ーアーサー・モースタン大尉(メアリー・モースタンの父親)
*ボヘミアの醜聞ーフォン・クラム伯爵(ボヘミア国王)
*レディー・フランシス・カーファックスの失踪ーフィリップ・グリーン
が当ホテルに宿泊している。


1889年8月、このホテルで3人のアイリッシュ系の男性が食事会を行った。
その3人は、(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott's Monthly Magazine)」のエージェントのジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(Joseph Marshall Stoddart:アイルランド生まれの米国人)(2)新進気鋭の若い作家として売り出し中のオスカー・ワイルド(Oscar Wilde:1854年ー1900年)(ダブリンの名門に生まれた生粋のアイルランド人)、そして、(3)サー・アーサー・コナン・ドイル(アイルランドの血をひくスコットランド人)であった。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

この食事会で、ストッダートは、ワイルドとドイルの二人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。
ドイルは早速執筆に取りかかり、約1ヶ月間で原稿を書き上げ、それをストッダート宛に送付した。このタイトルが、「四つの署名(The Sign of the Four)」で、事件の依頼人であるメアリー・モースタン(Mary Morstan)の父親で、行方不明となったアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の宿泊先として、ランガムホテルが使用された。「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、続いて、同誌の1890年7月号に掲載されたワイルドの作品は、あの有名な「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」であった。
なお、ドイルの原稿料は、4万5千語の小説で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたワイルドの原稿料は倍の200ポンドだったとのこと。この時のドイルは「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」で爆発的な人気を得るかなり前であり、残念ながら、売れっ子のワイルドとは、それ位の開きがあったのである。


その後、ランガムホテルは、第二次世界大戦中に英国政府によって接収され、戦後もBBC放送局(British Broadcasting Corporation)に使用された。今から20数年前までは、同社の管理棟として使われていたため、一般人が中に入ることができなかったが、1991年にヒルトン系のホテルとして半世紀ぶりに復活し、「四つの署名」が書かれた当時の外観・内装がそのまま再現されているそうなので、ホームズファンにとっては嬉しい限りで、往年の豪華さに思いを馳せることができるのではないかと思う。

ランガムホテルのパームコート(Palm Court)でのアフターヌーンティーは有名で、2010年には紅茶界のオスカー賞「The Tea Guild's Top London's Afternoon Tea 2010」を受賞している。