2015年8月16日日曜日

ロンドン ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London)

UCL の入口から見た主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)

アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。



ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。


UCL 近辺の通りに設置されている案内板

ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。


主要校舎ウィルキンスビルの近景

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ポワロがヒッコリーロード26番地の学生寮で講演を行った後、心理学を専攻するコリン・マックナブ(Colin McNabb)に付き添われて、化学を専攻するシーリア・オースティン(Celia Austin)がポワロの元を訪ねる。シーリアは、「学生寮内でいろいろなものが紛失しているが、それは自分が盗った。」と、ポワロに告白する。ただし、彼女は、「電球は盗っていないし、リュックサックを切り裂いてもいない。」と主張する。それでは、学生寮には、もう一人別の不届き者が居るのだろうか?そんな最中、シーリアがモルフィネの過剰摂取により死亡しているのが発見されるのであった。

主要校舎ウィルキンスビルの入口

主要校舎ウィルキンスビルから俯瞰した大学の校庭

コリン・マックナブとシーリア・オースティンが通う大学として、ロンドン中心部ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に本部を置くユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College Londonー以下、UCL)が撮影に使用された。


ガワーストリート(Gower Street)の反対側に建つ大学施設(その1)

ガワーストリート(Gower Street)の反対側に建つ
大学施設(その2)

UCLは、当初、1826年2月11日に「ロンドン・ユニヴァーシティー(London University)」という名称で設立された。哲学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham:1748年ー1832年)は、高等教育の大衆化を強く提唱し、「UCL建学の父」と一般的に言われているが、厳密には、彼がUCLの設立に直接関与した部分はそれ程大きくなく、どちらかと言うと、UCLの設立および発展にとって、彼の提唱が精神的に大きな支柱になったと言う方がより正確である。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学は、当時、入学条件として、
(1)男性
(2)英国教徒
(3)貴族出身者
という制限を設けていたが、UCLの場合、英国で初めて女性の受け入れを可能とした(実際に、女性の入学が受け入れられたのは、1878年)上、宗教や身分等による入学制限についても撤廃した。そのため、既得権益を失うことを危惧した上記の両大学はUCLに対して様々な圧力をかけたが、1836年にUCLが学位を授与するために必要な王立憲章(Royal Charter)を取得できた(=大学としての法的な資格を得た)ことに伴い、「ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College, London)」と改称した。その際、UCLは、設立間もないキングス・カレッジ・ロンドン(King's College, London)と一緒に、ロンドン大学(University of London)を構成した。そして、UCLは、1986年に再度改称を行い、カレッジの後ろのコンマを抜いて、現在の「ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London)」が大学の正式名となったのである。現在、多くのカレッジがロンドン大学に加盟して、巨大な大学連合を組成している。

ガワーストリート沿いに建つ UCL 生物科学部の建物

UCL の無宗教性は、英国の自然学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)が、当時のキリスト教思想を真っ向から否定する「進化論」をUCLで発表することにつながり、1859年11月の「種の起原(On the Origin of Species)」の出版へと至るのである。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)

UCL 生物科学部の建物外壁には、
チャールズ・ダーウィンがここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

現在も、UCL は自由主義や平等主義を尊ぶ大学として一般に知られている。この UCL の自由主義/平等主義は、英国で初めての学生自治会(Students' Union)を生み、2002年のUCLとインペリアル・カレッジ・ロンドン(Imperial College London)の合併提案に関しては、学生自治会の拒否権発動により阻止されている。


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