2015年5月24日日曜日

ロンドン タイトストリート34番地(34 Tite Street)

真ん中の建物が、オスカー・ワイルドが住んでいた
タイトストリート16番地(現在の34番地)

「幸福な王子その他(The Happy Prince and Other Tales)」(童話ー1888年)、「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」(小説ー1890年)、「サロメ(Salome)」(戯曲ー1893年)や「ウィンダミア卿夫人の扇(Lady Windermere's Fan)」(戯曲ー1893年)等の作者で知られるオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)は、アイルランドのダブリン生まれの詩人、作家かつ劇作家である。
ダブリン大学トリニティーカレッジやオックスフォード大学モードリンカレッジに進学し、1878年にオックスフォード大学を首席で卒業すると、1879年にロンドンへ住まいを移した。大学在学中から既にロンドンの社交界へ顔を出し始めていたワイルドは、1878年に「ラヴェンナ(Ravenna)」という詩集を発表しただけであったが、持ち前の警句やウィットに富んだ話術で、この頃には社交界の人気者になっていた。


タイトストリート沿いに建つ住宅の外壁を覆う藤の花

1881年に、ロンドンにおいて、アイルランドの名士で、女王付弁護士(Queen's Counsel)のホレース・ロイド(Horace Lloyd)の娘コンスタンス・メアリー・ロイド(Constance Mary Lloyd:1859年ー1898年)に紹介されたワイルドは、1883年11月に彼女と婚約した。彼女は、耽美主義者で、ロンドンの社交界においてダンディーで鳴らすワイルドの大ファンであったが、彼女の家族はワイルドの生活態度に懸念を抱き、2人の結婚に難色を示していた。しかし、コンスタンスの熱意が彼女の家族の反対を押し切り、ワイルドとコンスタンスの2人は1884年5月に結婚して、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)内にあるタイトストリート16番地(16 Tite Street)に新居を構えた。2人が住んだタイトストリート16番地は、現在の住所表記上、タイトストリート34番地(34 Tite Street)に該る。1885年に、2人の間に長男のシリル(Cyril)が、そして、1886年には次男のヴィヴィアン(Vyvyan)が生まれ、ワイルドは講演で飛び回る日々をロンドンに定住した執筆生活へと変えたのである。そして、上記に述べたような童話、小説や戯曲等を発表していく。

タイトストリート16番地(現在の34番地)の外壁には、
オスカー・ワイルドがここに住んでいたことを示す
London County Council のプラークが架けられている

ワイルドが妻コンスタンスと新居を構えたタイトストリート16番地は、テムズ河(River Thames)沿いのチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)とサークルライン(Circle Line)やディストリクトライン(District Line)が通る地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)方面から南西へ延びるロイヤルホスピタルロード(Royal Hospital Road)の2本の通りに囲まれた三角地帯内にあり、上記の通りを結ぶ閑静な住宅街内に位置している。この辺りは、場所柄、王立病院(Royal Hospital)や国立陸軍博物館(National Army Museum)等、英国陸軍関連の施設が多く存在している。また、ワイルドと同じく、アイルランドのダブリン生まれで、「ドラキュラ(Dracula)」(1897年)の作者であるブラム・ストーカー(Bram Stoker:1847年ー1912年)が住んでいたセントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)は、ワイルドが住んでいたタイトストリート16番地の割合と近くである。

タイトストリートは閑静な住宅街の内にあり、
日中でもほとんど人通りがない

ワイルドが結婚し、タイトストリート16番地に定住して執筆した作品のうち、シャーロック・ホームズシリーズと関連があるのは、1890年に発表された小説「ドリアン・グレイの肖像」である。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

ベーカールーライン(Bakerloo Line)、セントラルライン(Central Line)やヴィクトリアライン(Victoria Line)が通る地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)の近くに建つランガムホテル(Langham Hotel)において、1889年8月、3人のアイリッシュ系の男性が食事会を行った。この食事会には、
(1)米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン」のエージェント ジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(アイルランド生まれの米国人)
(2)オスカー・ワイルド(アイルランド/ダブリンの名士に生まれた生粋のアイルランド人)
(3)サー・アーサー・コナン・ドイル(アイルランドの血をひくスコットランド人)
この食事会で、ストッダートは、ワイルドとドイルの2人から、それぞれ長編物を一作同誌に寄稿する約束を取り付けた。ドイルは早速執筆に取りかかり、約1ヶ月間で原稿を書き上げて、それをストッダート宛に送付。このタイトルが「四つの署名(The Sign of the Four)」で、行方不明となったモースタン大尉の宿泊先として、ランガムホテルが使用されたのである。「四つの署名」は、「リピンコット・マンスリー・マガジン」の1890年2月号に掲載されたが、同時に掲載されたワイルドの作品が「ドリアン・グレイの肖像」であった。
なお、ドイルの原稿料は、4万5千語の小説で100ポンドだったが、当時、英国の世紀末文学の旗手として期待されていたワイルの原稿料は倍の200ポンドだったとのこと。ドイルは「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」で爆発的な人気を得るかなり前であり、残念ながら、売れっ子のワイルドとは、それ位の開きがあったのである。

ロンドン・ブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある
ゴードンスクエア(Gordon Square)の近くに以前設置されていたブックベンチ

このブックベンチの題材は、ワイルド作の喜劇
「真面目が肝心(The Importance of Being Earnest)」(1895年)

前述の通り、今にも残る有名な作品を次々に発表したワイルドであったが、1891年に、第9代クイーンズベリー侯爵の次男で、16歳年下の「ボウジー(Bosie)」こと、アルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年→当時、「オックスフォード大学在学中の学生で、ドリアン・グレイの肖像」を読み、大いに気に入った)と親しくなり、息子を気遣う第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラス(John Douglas, 9th Marquess of Queensberry)から告訴を受け、最終的には男色行為を咎められた。そして、彼は、1895年5月に懲役2年の有罪判決を受け、投獄された上、更に破産を宣告されてしまった。英国当局に収監されるまで、ワイルドはタイトストリート16番地に住んでいたのである。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
アデレイドストリート(Adelaide Street)に設置されているオブジェ
「オスカー・ワイルドとの対話(Conversation with Oscar Wilde)」

服役後、1897年5月にワイルドは出所し、ダグラス卿と一緒にフランスとイタリアの各地を転々としたあげく、最後は、ダグラス卿にも去られてしまったワイルドは、1900年11月にパリ6区のホテルで梅毒による大脳髄膜炎で息を引き取ったのである。46歳という若さであった。

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