2025年7月9日水曜日

サー・ジョン・ソーン(Sir John Shane)- その3

サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その1)

後に英国の新古典主義を代表する建築家となるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)は、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めた。


イングランド銀行の建物正面


1788年から1833年までの45年間、(サー・)ジョン・ソーンは、イングランド銀行にかかる様々な改修工事を行ったが、その後、イングランド銀行が敷地を拡張する過程で、英国の建築家であるハーバート・ベイカー(Herbert Baker:1862年ー1946年)によって、(サー・)ジョン・ソーンが設計したオリジナル部分はほとんど失われてしまい、「シティーにおける20世紀最大の建築上の罪(the greatest architectural crime, in the City of London, of the twentieth century)」と言われている。


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像


その代わり、イングランド銀行の裏手ではあるが、ロスベリー通り(Lothbury)に面した建物の外壁内に、サー・ジョン・ソーンの像が彼の栄誉を称えるために設置されている。


イングランド銀行の他に、サー・ジョン・ソーンの主要な作品として、


(1)サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum / 住所: 12 - 14 Lincoln’s Inn Fields, London WC2A 3BP → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済):サー・ジョン・ソーンの自邸


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


(2)ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor):ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のっウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスで、サー・ジョン・ソーンの自邸


(3)ダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery):テムズ河(River Thames)の南岸のブリクストン(Brixton)とペッカム(Peckham)の間にあるダリッジヴィレッジ(Dulwich Village)内に所在する美術館


ピッツハンガーマナーとダリッジピクチャーギャラリーについては、後々紹介したい。


サー・ジョン・ソーンは、1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の教授となり、1831年にはナイトの称号(knighthood)を得ている。


上記の通り、サー・ジョン・ソーンは、建築家として、大きな成功を収めたが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。


サー・ジョン・ソーンは、1784年8月21日に、エリザベス・スミス(Elizabeth Smith:1760年ー1815年 / 通称:エリザ(Eliza))と結婚し、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。


サー・ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。


三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。


三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。


また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その2)


サー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

三男のジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作
シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る
「花婿失踪事件(A Case of Identity)」にも登場する。

サー・ジョン・ソーンは、1837年1月20日に亡くなり、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。


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