2025年7月21日月曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<英国 TV ドラマ版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その3

ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズとして主演した
英国のグラナダテレビ制作「シャーロック・ホームズの冒険」の
DVD コンプリートボックス2巻目の裏表紙 -
画面一番左の写真が、「高名な依頼人」の場面で、
手前の人物が、David Langton が演じるサー・ジェイムズ・デマリー大佐、
左奥の人物が、ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett:1933年ー1995年)が演じる
シャーロック・ホームズで、
 右奥の人物が、エドワード・ハードウィック(Edward Hardwicke:1932年ー2011年)が演じる
ジョン・H・ワトスン。


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号に掲載されたサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」は、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が制作した「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)において、TV ドラマとして映像化された。具体的には、第5シリーズ(The Case-book of Sherlock Holmes)の第5エピソード(通算では第31話)として、英国では1991年に放映されている。

グラナダテレビが制作した英国 TV ドラマ版の場合、コナン・ドイルの原作対比、次のような差異があるので、前回に引き続き、述べたい。


(7)

<原作>

原作の場合、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery:今回の事件の表向きの依頼人)の訪問を受けたその日(1902年9月3日)の夜、ジョン・H・ワトスンは、本業の医師として急ぎの仕事があったため、その晩、シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)でシャーロック・ホームズと会い、彼からデマリー大佐との会見以降の経過を聞いている。


現在の「シンプソンズ」入口


ホームズとワトスンの二人がシンプソンズからベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻ると、そこには、シンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson:ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者)とキティー・ウィンター(Kitty Winter:アデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)が二人を待っていた。

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ワトスンは、外出先(おそらく、本業の医師としての仕事)からベーカーストリート221B へと戻って来る。

そして、アデルバート・グルーナー男爵との直接交渉に出かけていたホームズは、少し遅れて帰って来た。その際、ホームズは、次のように述べている。


大英博物館の正面入口 -
グレイトラッセルストリートに面している。

「大英博物館(→ 2014年5月26日付ブログで紹介済)に寄っていたので、遅くなった。その上、渋滞につかまったんだ。グレイトラッセルストリート(→ 2025年7月15日付ブログで紹介済)で、乗合馬車が横転してね。二人が亡くなった。興奮した馬を鎮めなければならなかった。(I was delayed at the museum, and then the press of traffic. An omnibus overturned in Great Russell Street. Two dead, a horse had to be put down.)」



そこには、シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターが二人を待っていた。


(8)

<英国 TV ドラマ版>

シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの二人がベーカーストリート221B を辞去したのと入れ違いに、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ホームズの元へ電報を持って来る。ホームズから電報を見せられたワトスンは、その内容を見て、驚く。何者からの脅迫だった。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(9)

<英国 TV ドラマ版>

ベーカーストリート221B を辞去したシンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの後を、二人の男があとをつけている。

それに気付いたシンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターは走って逃げる。

二人の男に追い付かれたシンウェル・ジョンスンは、彼らに素手で対峙。シンウェル・ジョンスンは、二人を殴って、そのうちの一人を運河へ突き落とし、撃退。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(10)

<英国 TV ドラマ版>

アデルバート・グルーナー男爵は、キングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)において、音楽を聴きながら、手帳(女性の写真を含む詳細が記されている)の内容を見直している。そして、彼は、手帳の最後のページに、ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville:ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢で、アデルバート・グルーナー男爵の婚約者)の写真を貼り付ける。

そこに、執事が来客を告げる。シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの後をつけていた二人の男が、アデルバート・グルーナー男爵に対して、前夜の失敗を報告する。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(11)

<英国 TV ドラマ版>

ホームズは、キティー・ウィンターを連れて、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れるものの、残念ながら、彼女への説得は不調に終わる。

その際、キティー・ウィンターは、自分の髪をかき上げると、右の首筋と胸元をヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢に見せる。キティー・ウィンターの首筋には、酷い傷が、また、彼女の胸元には、やけただれた跡(硫酸をかけられた跡)があった。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。


<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版と同様に、ホームズは、キティー・ウィンターを連れて、説得のために、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れている。

ただし、英国 TV ドラマ版とは異なり、キティー・ウィンターは、自分の首筋と胸元をヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢には見せていない。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その4)-
シャーロック・ホームズは、
彼の協力者である情報屋のシンウェル・ジョンスンから紹介されたキティー・ウィンターを伴って、
1902年9月4日の午後5時半に、
バークリースクエア104番地に住む
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れた。
生憎と、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の態度は頑なで、
ホームズ達の説得には、全く耳を傾けず、
ホームズの計画は不調に終わってしまった。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、キティー・ウィンター、
そして、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)


(12)

<英国 TV ドラマ版>

ホームズは、どこかのレストランにおいて、ワトスンに合流。そして、ホームズは、ワトスンに対して、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢への説得の結果を報告している。

<原作>

翌日(1902年9月4日)の夜、ワトスンは、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(おそらく、シンプソンズだと思われる)において、ホームズと食事をする。その際、ワトスンは、ホームズから、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢への説得の結果報告を受けている。


(13)

<英国 TV ドラマ版>

その後、ホームズとワトスンは、レストランの前で別れる。

一人になったホームズが、ベーカーストリート221B へ戻る途中、杖を持った暴漢二人に襲われる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その6)-
1902年9月6日の昼の12時頃、
カフェロイヤル前のリージェントストリートの路上において、
アデルバート・グルーナー男爵が放った二人組の暴漢に襲撃される。
ホームズは、ステッキで応戦するものの、
頭部と身体に大怪我を負ってしまう。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


リージェントストリート沿いの
カフェロイヤルの入口 -
大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、
約4年間の改装工事を経て、
2012年12月に5つ星ホテルとして新しく生まれ変わり、現在に至っている。


グラスハウスストリート(Glasshouse Street
→ 2025年7月10日付ブログで紹介済)に面した
カフェロイヤルの裏口

カフェロイヤル前のリージェントストリートにおいて、
シャーロック・ホームズを襲撃した
アデルバート・グルーナー男爵の手下達が逃走した先の
グラスハウスストリー


<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版とは異なり、ホームズとワトスンがストランド通りのレストランで食事をした日の2肥後(1902年9月6日)の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われる。


2025年7月20日日曜日

アガサ・クリスティー作「秘密機関」<小説版>(The Secret Adversary by Agatha Christie )- その2

2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の場合、1915年5月7日の午後2時、大西洋(Atlantic Ocean)上から、その物語が始まる。


旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)は、第一次世界大戦(1914年-1918年)の最中、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていた。

なお、ルシタニア号は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船だった。


1915年5月7日の午後2時、旅客船ルシタニア号は、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没の危機に瀕していたのである。

一人の若い女性が、救命ボートに乗り込む順番を待つ女性と子供の集団を、少し離れたところに立って見つめていた。不思議なことに、その女性は、現状を恐れている様子はなく、彼女の視線は、真っ直ぐ前に向けられていた。


すると、一人の男性がその若い女性の元に近付くと、まず最初に、彼女が米国国民であること、そひて、彼女が愛国者であることを確認した。

その後、その男性は、彼女に対して、「自分は、連合国側の情勢にとって、極めて重要な機密書類が入った包みを、米国から英国へと運搬する役目を担っている。現状を考慮すると、自分の代わりに、あなたにそれを英国まで運んでもらいたい。(I’m carrying papers - vitally important papers. They may make all the difference to the Allies in the war. You understand? These papers have got to be saved! They’ve more chance with you than with me. Will you take them?)」と説明する。

「何故、自分に?」と尋ねる彼女に、その男性は「救命ボートによる避難は、女性と子供が優先だからだ。(Becasue of “women nd children first.”)」と付け加えた。


更に、その男性は、「二人とも無事に生き延びることができた場合、自分は「タイムズ」誌の個人欄に広告を出す。3日以内に広告が掲載されなかった場合には、重要な機密書類が入った包みをロンドンの米国大使館へ持参して、大使に直接手渡ししてほしい。(Watch the newspapers! I’ll advertise in the personal column of The Times, beginning “Shipmate”. At the end of three days if there’s nothing - well, you’ll know I’m down and out. Then take the packet to the American Embassy, and deliver it into the Ambassador’s own hands.)」と依頼したのである。

彼女は、男性の手から重要な機密書類が入った包みを受け取ると、救命ボートに乗り込む順番を待つ女性と子供の集団に加わった。


彼女の名前は、ジェーン・フィン(Jane Finn)。


第一次世界大戦が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)のドーヴァーストリート(Dover Street)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。

二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


2025年7月19日土曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<英国 TV ドラマ版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その2

ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズとして主演した
英国のグラナダテレビ制作「シャーロック・ホームズの冒険」の
DVD コンプリートボックス2巻目の表紙


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号に掲載されたサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」は、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が制作した「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)において、TV ドラマとして映像化された。具体的には、第5シリーズ(The Case-book of Sherlock Holmes)の第5エピソード(通算では第31話)として、英国では1991年に放映されている。


グラナダテレビが制作した英国 TV ドラマ版の場合、コナン・ドイルの原作対比、次のよな差異がある。


(1)

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、物語は、イタリアとスイスの国境の山中であるスプルーゲン峠(Splugen Pass)から始まる。

アデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の妻であるグルーナー男爵夫人(Baroness Gruner)が、山道から転落。アデルバート・グルーナー男爵は、山肌を下り、妻の元へと駆けつける。

「あれ程、気を付けるように言ったのに!」と呼び掛けるアデルバート・グルーナー男爵に対して、グルーナー男爵夫人は、「あなたが押した。」と言うと、息を引き取った。妻の死を確認したアデルバート・グルーナー男爵が顔を上げると、山道の木々の間から、羊飼いの少年と犬が二人を見ていた。

<原作>

原作の場合、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが、ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue → 2015年3月28日付ブログで紹介済)のトルコ式風呂(Turkish Bath)に居るところから、物語が始まるので、英国 TV ドラマ版のような始まり方はしていない。


スプルーゲン峠における「事故」については、1902年9月3日の午後4時半に、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れたサー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery:今回の事件の表向きの依頼人)が、ホームズとワトスンに対して、口頭で説明している。

勿論、サー・ジェイムズ・デマリー大佐の説明を待つまでもなく、ホームズは、スプルーゲン峠における「事故」に関しては、既に知っていた。


また、スプルーゲン峠の場所であるが、英国 TV ドラマ版の場合、「イタリアとスイスの国境」と言及されているが、原作の場合、文脈からは、「プラハ(Prague)」だと考えられる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その1)-
1902年9月3日、トルコ風呂で寛いでいたジョン・H・ワトスンに対して、
シャーロック・ホームズは、
カールトンクラブのサー・ジェイムズ・デマリー大佐から届いた手紙を見せる。
「ある特別な件について、依頼したい。」とのことだった。
画面左側の人物が、ジョン・H・ワトスンで、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)



ノーサンバーランドアベニューと
ノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)が接する角に建つ
シャーロック・ホームズパブ


(2)

<英国 TV ドラマ版>

場面は、イタリアとスイスの国境の山中であるスプルーゲン峠から英国のロンドンへと移り、ホームズとワトスンの二人は、トルコ式風呂に居る。

ワトスンは、ホームズから、「今日の午後4時半に、サー・ジェイムズ・デマリー大佐がベーカーストリート221B にやって来る」ことを伝えられる。

<原作>

英国 TV ドラマ版との間に、大きな差異はない。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その2)-
1902年9月3日の午後4時半に、ベイカーストリート221Bを訪れた
サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、
待っていたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンに対して、
「ド・メルヴィル将軍の娘であるヴァイオレット・ド・メルヴィルが、
悪名高いオーストリア貴族のグルーナー男爵に騙されて、婚約してしまった。
これは、ある非常に高名な方からの依頼で、この婚約を破棄させてほしい。」と説明した。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、サー・ジェイムズ・デマリー大佐。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


(3)

<英国 TV ドラマ版>

午後4時半にベーカーストリート221B を訪れたサー・ジェイムズ・デマリー大佐との会話の中で、ホームズは、「アデルバート・グルーナー男爵がグルーナー男爵夫人殺害の唯一の証人である羊飼いの少年を亡き者にしたことは、間違いない。(Just as I am certain that he disposed of the only witness, that innocent shepherd boy.)」とコメントしている。

<原作>

原作の場合、このような場面はない。


(4)

<英国 TV ドラマ版>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が「アデルバート・グルーナー男爵は、現在、英国に滞在しています。(Baron Gruner is now in England.)」と伝えると、ホームズは、すかさず、「キングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に住んでいると聞いています。(Residing near Kingston, I’m informed. Vernon Lodge. A large home.)」と返答している。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、ホームズは、アデルバート・グルーナー男爵が現在どこに居るのかについて、事前に知っていない。

そのため、ホームズは、「アデルバート・グルーナー男爵の現住所は、どこですか?(The Baron’s present address, please?)」と尋ねたのに対して、サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、「キングストン近くのヴァーノンロッジです。大きな屋敷です。(Vernon Lodge, near Kingston. It is a large house.)」と答えている。


(5)

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、会見の最後に、ホームズは、サー・ジェイムズ・デマリー大佐に対して、本件の本当の依頼人のことを訊いている。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、会見の途中で、ホームズは、サー・ジェイムズ・デマリー大佐に対して、本件の本当の依頼人のことを訊いている。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その3)-
サー・ジェイムズ・デマリー大佐からの依頼を受けた
シャーロック・ホームズは、早速、
キングストン近くのヴァーノンロッジに住む
アデルバート・グルーナー男爵のところまで、馬車で出かけた。
残念ながら、ホームズと
アデルバート・グルーナー男爵の会見は不調に終わり、
ホームズができる限り冷静に威厳を保って、いとまごいを告げた。
ホームズがドアノブに手を掛けた時、
アデルバート・グルーナー男爵は、ホームズを呼び止めると、
フランスの探偵ル・ブランの話を持ち出して、
明確な「警告」をしたのである。
画面左側の人物が、アデルバート・グルーナー男爵で、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


(6)

<英国 TV ドラマ版>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が帰った後、ホームズは、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)に電報を依頼する。

そして、ホームズは、キングストン近くのヴァーノンロッジを訪れて、アデルバート・グルーナー男爵と直接交渉を行うものの、残念ながら、交渉は決裂。


ローストビーフが有名なシンプソンズは、
ストランド通り沿いに立っている。


<原作>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が帰った後、ワトスンには、本業の医師として急ぎの仕事があったため、その晩、シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)でホームズと会い、彼からデマリー大佐との会見以降の経過を聞いている。

つまり、ホームズが、キングストン近くのヴァーノンロッジを訪れて、アデルバート・グルーナー男爵と直接交渉を行うものの、残念ながら、交渉が決裂したことについては、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、ホームズから口頭で報告を受けているに過ぎない。


2025年7月18日金曜日

鮎川 哲也作「黒い白鳥」(The Black Swan Mystery by Tetsuya Ayukawa)- その1

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

鮎川 哲也作「黒い白鳥」の表紙
(Cover design by Megan Rayner /
Image credit by Retro AdArchives + Alamy Stock Photo)


英国の出版社であるプーシキン出版(Pushkin Press)から、2024年に鮎川 哲也(Tetsuya Ayukawa)作「黒い白鳥(The Black Swan Mystery)」の英訳版が出ているので、紹介したい。


作者の鮎川 哲也(1919年ー2022年 / 本名:中川 透(Toru Nakagawa))は、日本の推理作家で、1919年2月14日に東京府巣鴨(Sugamo district of Tokyo)に出生。

彼の父親が南満州鉄道(South Manchurian Railway Co.)地質調査所の測量技師(surveyor)になった関係で、小学校3年生の時に、一家で満州大連(Dalian)に移住して、旧制中学校を卒業するまで、大連で少年時代を過ごした。

旧制中学校を卒業した後、東京の音楽関係の上級学校や拓殖大学商学部へと進学するが、病のため、大連へ戻ることが多かった。

1944年、父親の定年退職に伴い、大連から東京に戻るものの、戦禍に遭ったため、九州に疎開。そして、アイルランド生まれの英国の推理作家であるフリーマン・ウィルス・クロフツ(Freeman Wills Crofts:1879年ー1957年)作「ポンスン事件(The Ponson Case)」(1921年)の影響を受けて、自分でも推理小説を書き始める。


第二次世界大戦(1939年ー1945年)/ 太平洋戦争(1941年-1945年)後、上京して、GHQ に勤務しつつ、1950年、「宝石」の長編部門(100万円の懸賞)に「ペトロフ事件」を送り、第一席に入選した結果、推理作家としてデビューしたが、出版社との関係が悪化したため、「ペトロフ事件」は出版されなかった。

当時、「宝石」の発行元である岩谷書店が経営不振にあった関係上、鮎川 哲也への賞金の支払が棚上げされた。一方で、鮎川 哲也は結核の治療費の支払に窮していたため、岩谷書店に対して、賞金の支払を頑強に請求。その結果、岩谷書店の社長の怒りを買ってしまい、鮎川 哲也は、長期間にわたって、「宝石」への執筆が叶わなかったのである。


その後、1956年に講談社が公募した「書下し長編探偵小説全集」の第13巻に、鮎川 哲也は、「黒いトランク」を応募して、当選。この時点で、彼は筆名を「中川 透」から「鮎川 哲也」へと改名。


「ペトロフ事件」と「黒いトランク」の両作品において、鬼貫警部(Inspector Onitsura)が探偵役を務め、以降、主にアリバイ崩しを主眼とした推理小説で活躍する。


「黒い白鳥」は、鮎川 哲也が1959年7月から同年12月にかけて因縁の「宝石」誌上に連載した後、1960年2月に講談社から出版した長編推理小説で、鬼貫警部シリーズのうち、長編第3作目に該る。

鮎川 哲也は、「黒い白鳥」と1959年11月に講談社から書下ろしで発表した「憎悪の化石」(鬼貫警部シリーズの長編第4作目)の2作を以って、第13回日本探偵作家クラブ賞を受賞している。


その頃、日本の推理小説界において、社会派推理小説が主流となりつつあったが、鮎川 哲也は、星影 龍三シリーズの長編第1作目「りら荘事件」(1956年9月から1957年12月にかけて、「探偵実話」に連載した後、1958年8月に、光風社から出版)や銀座三番館のバーテンを探偵役としたシリーズ(1972年ー)等、寡作ながらも、一貫して本格推理小説を執筆し続けた。


執筆以外にも、鮎川 哲也は、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家 / 作品を発掘するとともに、後進の育成にも力を入れた。

1988年に、東京創元社から「鮎川 哲也と十三の謎」と題してシリーズを観光して、若手作家に作品発表の場を与え、当該シリーズの第12巻として、新作「白樺荘事件」を予告していたものの、残念ながら、未完に終わった。

また、1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞として、「鮎川 哲也賞」が創設された。

更に、1993年から、光文社の「本格推理」の編集長として、新人作家の発掘に尽力。


2001年に、本格推理小説への多大な貢献が評価されて、鮎川 哲也は、第1回本格ミステリー大賞特別賞を受賞したが、翌年の2002年9月24日に、83歳で死去。

鮎川 哲也の没後、第6回日本ミステリー文学大賞が贈られている。


2025年7月17日木曜日

アガサ・クリスティー作「秘密機関」<小説版>(The Secret Adversary by Agatha Christie )- その1

ジェーン・フィンの従兄弟であるジュリアス・P・ハーシャイマーが宿泊しているリッツ ロンドン -
ピカデリー通り(Piccadilly)を間に挟んで、通りの反対側から見上げたところ。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1939年に発表したノンシリーズ作品「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」の場合、1930年代後半の8月のこと、英国デヴォン州(Devon)の沖合いに浮かぶ兵隊島(Soldier Island)に、年齢も職業も異なる8人の男女が招かれるところから、物語が始まる。

彼らを島で迎えた執事と料理人の夫婦は、エリック・ノーマン・オーウェン氏(Mr. Ulick Norman Owen)とユナ・ナンシー・オーウェン夫人(Mrs. Una Nancy Owen)に自分達は雇われていると招待客に告げる。しかし、彼らの招待主で、この島の所有者であるオーウェン夫妻は、いつまで待っても、姿を現さないままだった。


招待客が兵隊島に到着した日の晩餐会において、
謎の声(オーウェン氏)による告発により、招待客8人と召使夫婦が戦慄する場面
(HarperCollins Publishers 社から2009年に出ている
アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版から抜粋)


招待客が自分達の招待主や招待状の話をし始めると、皆の説明が全く噛み合なかった。その結果、招待状が虚偽のものであることが、彼らには判ってきた。招待客の不安がつのる中、晩餐会が始まるが、その最中、招待客8人と執事 / 料理人夫婦が過去に犯した罪を告発する謎の声が室内に響き渡る。謎の声による告発を聞いたの10人は戦慄する。

雇い主のオーウェン氏から執事のトマス・ロジャーズ(Thomas Rogers)宛の手紙は、ロンドン中心部のピカデリー通り(Piccadilly)沿いで、グリーンパーク(Green Park)に面して建つ高級ホテルの「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」から出されていた。


雇い主のオーウェン氏から執事のトマス・ロジャーズ宛の手紙が出された「ホテル・リッツ」とは、ロンドン中心部のピカデリー通り(Piccadilly)沿いで、グリーンパーク(Green Park)に面して建つ高級ホテルの「リッツ ロンドン(The Ritz London)」のことで、1906年5月24日に開業し、開業後、約120年が経っている。

「リッツ ロンドン」は、ピカデリーライン(Piccadilly Line)、ジュビリーライン(Jubilee Line)とヴィクトリアライン(Victoria Line)の3線が乗り入れる地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の直ぐ真横に建っており、徒歩1分と言う利便性を誇る。


ジェーン・フィンの行方を探している米国人の富豪である
ジュリアス・P・ハーシャイマーは、リッツ ロンドンに宿泊している。
(HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版から抜粋)


アガサ・クリスティーの長編第2作目である「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)において、米国人の富豪で、ジェーン・フィン(Jane Finn)の行方を探している30台前半の男性であるジュリアス・P・ハーシャイマー(Julius P. Hersheimmer)が、「リッツ ロンドン」に宿泊しており、物語では、ホテルが何度も出てくる。


右側の人物がトマス・ベレズフォード(愛称:トミー)で、
左側の人物がプルーデンス・カウリー(愛称:タペンス)。
(HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版から抜粋)


「秘密機関」は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該っている。

友人達の間で「タペンス」と言う愛称で通っているプルーデンス・カウリーは、昔馴染みのトマス・ベレズフォード(愛称:トミー)に、5年ぶりにロンドンで再会した。トミーは、第一次世界大戦大戦中に負傷して、除隊。一方、タペンスは、大戦中、ボランティアとして、ずーっと働いていたが、現在、2人共、戦後の就職難に悩まされていた。

久々の再会を果たしたトミーとタペンスは、「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、二人で報酬を獲得するために、活動を始める。


トミーとタペンスは、シリーズ第1作目に該る長編「秘密機関」(1922年)を皮切りに、「おしどり探偵」として、少ないながらも、


*短編集「おしどり探偵(Partners in Crime)」(1929年)

(収録作品)

(1)「アパートの妖精(A Fairy in the Flat)」(1924年)

(2)「お茶をどうぞ(A Pot of Tea)」(1924年)

(3)「桃色真珠紛失事件(The Affair of the Pink Pearl)」(1924年)

(4)「怪しい来訪者(The Adventure of the Sinister Stranger)」(1924年)

(5)「キングを出し抜く(Finessing the King / The Gentleman Dressed in Newspaper)」(1924年)

(6)「婦人失踪事件(The Case of the Missing Lady)」(1924年)

(7)「目隠しごっこ(Blindman’s Buff)」(1924年)

(8)「霧の中の男(The Man in the Mist)」(1924年)

(9)「パリパリ屋(The Crackler)」(1924年)

(10)「サニングデールの謎(The Sunningdale Mystery)」(1924年)

(11)「死のひそむ家(The House of Lurking Death)」(1924年)

(12)「鉄壁のアリバイ(The Unbreakable Alibi)」(1928年)

(13)「牧師の娘(The Clergyman’s Daughter / The Red House)」(1923年)

(14)「大使の靴(The Ambassador’s Boots)」(1924年)

(15)「16号だった男(The Man Who Was No. 16)」(1924年)


*長編「NかMか(N or M ?)」(1941年)

*長編「親指のうずき(By the Pricking of My Thumbs)」(1968年)

*長編「運命の裏木戸(Postern of Fate)」(1973年)


において、活躍する。


「秘密機関」において、トミーとタペンスが、「リッツ ロンドン」でジュリアス・P・ハーシャイマーと食事をしている際、エルキュール・ポワロシリーズに登場するスコットランドヤードのジャップ警部(Inspector Japp)が訪ねて来る場面があるが、HarperCollins Publishers 社から2008年に出ているアガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版においても、別添の通り、その場面がキチンと挿入されている。


スコットランドヤードのジャップ警部が、ジュリアス・P・ハーシャイマーを訪ねて来た場面。
(HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版から抜粋)


なお、ジャップ警部が訪ねて来るのは、アガサ・クリスティーの原作では、3人が食事をしている際であるが、グラフィックノベル版の場合、3人がジュリアス・P・ハーシャイマーの部屋で会話をしている際に、アレンジされている。


2025年7月16日水曜日

ロンドン ホーリートリニティー教会(Holy Trinity Church)

マリルボーンロードを間に挟んで、
対岸の地下鉄グレイトポートランド駅の前から、
ホーリートリニティー教会の建物全体を見たところ。


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」に出てくるサー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)は、英国の新古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


今回は、サー・ジョン・ソーンが設計したホーリートリニティー教会(Holy Trinity Church)について、紹介したい。



ナポレオン戦争(Napoleonic Wars:1803年ー1815年 / フランスの第一執政期と第一帝政期における一連の戦争の総称)に勝利を収めた英国政府は、その勝利を祝い、当時の金額で1百万ポンド(現在の価値で言うと、約1億ポンド)の資金を捻出して、Church Building Act 1818 を制定。この資金を使用して、英国各地で教会の建設が進められた。


ホーリートリニティー教会の正面外壁を見上げたところ。-
入口に4本の柱が見える。

ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のマリルボーン地区(Marylebone)でも、ホーリートリニティー教会の建設が決まり、1818年にサー・ジョン・ソーンが設計して、1828年に竣工。

ホーリートリニティー教会の場合、入口を4本の柱が支える特徴を有している。


門越しに、ホーリートリニティー教会の入口を見たところ。

サー・ジョン・ソーンの設計に基づいて建設されたホーリートリニティー教会であったが、1930年代には、教会として使われなくなり、1936年には、出版社である Penguin Books 社により、本の倉庫として使用された。

1937年にPenguin Books 社が移転したことに伴い、The Society for Promoting Christian Knowledge (SPCK) が入居して、2006年までその本部として使われた。  

2018年からは、世界最初の結婚式専門のデパートが入力して、地下階(basement)と1階(Ground Floor)は結婚式用のドレス等の展示スペースとして、2階(First Floor)はイヴェントスペースとして使用されている。


オスナバーストリート沿いの
ホーリートリニティー教会の建物外壁の東側

ホーリートリニティー教会は、現在、地下鉄リージェンツパーク駅(Regent’s Park Tube Station)の前を通り、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)へと延びるマリルボーンロード(Marylebone Road)を挟んで、地下鉄グレイトポートランド駅(Great Portland Tube Station - 南側)と向かい合うように、通りの北側に建っている。


オスナバーテラス沿いの
ホーリートリニティー教会の建物外壁の北側

南側はマリルボーンロードに、東側はオスナバーストリート(Osnaburgh Street)に、北側はオスナバーテラス(Osnaburgh Terrace)に、そして、西側はアルバニーストリート(Albany Street)に囲まれた浮島に、ホーリートリニティー教会は、教会単独で所在している。

なお、ホーリートリニティー教会の住所は、「マリルボーンロード1番地(1 Marylebone Road)」に該っている。


アルバニーストリート沿いの
ホーリートリニティー教会の建物外壁の西側

ホーリートリニティー教会は、歴史的な建造物の一つとして、「グレード I(Grade I)」に指定され、保存されている。