2022年10月5日水曜日

ダニエル・D・ヴィクター作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 7つ目の銃弾」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Seventh Bullet by Daniel D. Victor)- その1

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2010年に出版された
ダニエル・D・ヴィクター作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 7つ目の銃弾」の表紙


本作品「7つ目の銃弾(The Seventh Bullet)」は、米国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の作家であるダニエル・D・ヴィクター(Daniel D. Victor)によって、1992年に発表された。

本作品は、ダニエル・D・ヴィクターの処女作で、本作品の発表時、彼は高校の教師であった。


1893年6月、シリア沖40マイルの地点において、英国の海軍艦11隻のうち、サー・ジョージ・トライオン中将(Vice Admiral Sir George Tryon)が艦長を務める H. M. S. Voctoria とマーカム少将(Rear Admiral Markham)が艦長を務める H. M. S. Camperdown の2隻が転進する際に衝突して、386名の船員の命が失われた。

米国の小説家で、政治家や公務員等の不正や醜聞を暴くジャーナリストでもあるデイヴィッド・グラハム・フィリップス(David Graham Phillips:1867年ー1911年)が、匿名の船員からの情報を元に記事にして、報道を行った。

英国の海軍艦2隻が衝突したのは、1891年5月4日、シャーロック・ホームズと彼の宿敵で、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれたジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)の2人がスイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)にその姿を消して、1894年4月、ホームズが無事にロンドンへと帰還するまでの3年間に合致しており、デイヴィッド・グラハム・フィリップスが情報を得た匿名の船員とは、実はホームズだったのである。


その後、1896年か1897年にデイヴィッド・グラハム・フィリップスがロンドンに来た際、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)を訪れて、ホームズに感謝の意を伝えたと言われている。


そして、時は流れ、1912年3月13日(金)に話は移る。


ホームズ(58歳)は、諮問探偵から引退して、サセックス州(Sussex)の丘陵地サウスダウンズ(South Downs)に移り住んでいた。ハドスン夫人も、ベーカーストリート221Bを引き払い、引き続き、ホームズの世話をやいていた。


一方、ジョン・H・ワトスン(59歳)は、クイーン アン ストリート(Queen Anne Street → 2014年11月15日付ブログで紹介済)において、引き続き、診療所を開業していた。

その日、米国人のキャロリン・フレヴァート夫人(Mrs. Carolyn Frevert)が、ワトスンの診療所を訪れた。彼女は、デイヴィッド・グラハム・フィリップスの姉で、「1911年1月23日、ニューヨークの閑静な住宅街グラマーシーパーク(Gramercy Park)に面したプリンストンクラブ(Princeton Club)の前において、銃で撃たれて亡くなった弟のことで、ホームズ氏に相談したことがある。」とのことだった。

彼女の依頼を受けて、翌日の3月14日(土)、ワトスンは、ホームズ宛に電報を打った。


そして、翌々日の3月15日(日)、ワトスンとキャロリン・フレヴァート夫人の二人は、午前10時45分にヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)を出発し、


列車:ヴィクトリア駅 → イーストボーン(Eastbourne)

バス:イーストボーン → フルワース村(nearby village of Fulworth)

馬車:フルワース村 → ホームズのコテージ


というルートで、ホームズの元へと向かった。


ホームズと面会したキャロリン・フレヴァート夫人は、昼食後、亡くなった弟デイヴィッド・グラハム・フィリップスのことを話し始める。

デイヴィッド・グラハム・フィリップスは、銃で撃たれる当日の朝、「今日が、お前の最後の日だ。(This is your last day.)」という電報を受け取っていたと告げる。なんと、その電報の差出人は、デイヴィッド・グラハム・フィリップス本人の名前となっていたのである。しかし、彼女の弟は、その電報のことについて、あまり気にせず、自宅があるナショナルアーツクラブ(National Arts Club)を出て、プリンストンクラブへ向かったのだった。


なお、デイヴィッド・グラハム・フィリップスは、実在の人物で、1911年1月23日、ニューヨークの閑静な住宅街グラマーシーパークに面したプリンストンクラブの前において、銃で撃たれて亡くなったことも、史実である。


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