2025年8月11日月曜日

ロンドン ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)- その2

ピッツハンガーマナーの建物正面を見たところ -
画面左手の建物(南側)は、
ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼で、
画面右手の建物)は、現在、ギャラリーとなっている。
建物正面の地面に設置されているのは、
Julian Opie 作「Curly hair」(2021年)と言うアート作品。
<筆者撮影>

英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年 → 2025年6月24日 / 6月28日 / 7月9日付ブログで紹介済)の自邸だったピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)について、引き続き紹介したい。

ピッツハンガーマナーの建物裏面を見たところ -
画面右手の建物(南側)は、
ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼。
<筆者撮影>


ピッツハンガーマナーは、ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスである。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


ジョン・ソーンは、1788年10月16日に、サー・ロバート・テイラーの後を継いで、イングランド銀行の建築家に就任し、正に建築家として上り調子にあった。

ジョン・ソーンは、妻エリザベス・ソーン(Elizabeth Soane / 旧姓:スミス(Smith)- 1784年8月21日に結婚)の叔父ジョージ・ワット(George Wyatt - ロンドンの建築業者で、1790年2月に死去)の遺産を相続した後、1792年6月30日にリンカーンズ・イン・フィールズ12番地(12 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を購入。

そして、1792年から1794年にかけて、自分の設計に基づき、当時特有の質素な煉瓦家屋だった建物を取り壊しの上、再築を行い、1794年1月18日に移り住み、自宅と建築事務所を兼ねた。

リンカーンズ・イン・フィールズ12番地は、現在、サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum / 住所: 12 - 14 Lincoln’s Inn Fields, London WC2A 3BP → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)の一部として、一般に公開されている。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その1)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その2)
<筆者撮影>


1800年、ジョン・ソーンは、ロンドンの西部に家族のための邸宅を購入することを決めた。

当初は、家族のための邸宅を一から建築するつもりだったが、同年7月21日、ピッツハンガーマナーの荘園全体が売却されることを知り、当地を訪問。当地を気に入った彼の購入希望は、同年8月1日に受諾される。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その3)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その4)
<筆者撮影>


ジョン・ソーンは、新居のために、100通り以上のデザイン案を作成。

彼は、邸宅の古い部分と外壁の大部分の改築を考えていたが、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が1768年に設計した2階建ての南翼部分だけはそのまま残した。これは、ジョン・ソーンにとって、ジョージ・ダンス(子)が最初の師匠 / 雇い主であったため、かつての師匠 / 雇い主に対して敬意を払ったものと思われる。

ジョン・ソーンによる改築工事は、1800年に開始して、1804年に完了。

ジョージ・ダンス(子)が設計した南翼に接するピッツハンガーマナー本館には、イオニア式の円柱4本を備えた豪壮な正面玄関が構築された。

ジョン・ソーンは、1804年に竣工したピッツハンガーマナーにおいて、学会や美術界の名士達を集めた盛大なパーティーを度々開催。


ピッツハンガーマナーの建物正面玄関を見たところ -
正面玄関には、イオニア式の円柱4本が配置されている。
<筆者撮影>


ジョン・ソーンは、建築家として、大きな成功を収めたが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。

彼と妻エリザベスの間には、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。
<筆者撮影>


ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

彼は、当初、ピッツハンガーマナーを建築家の仕事を受け継ぐことを希望していた長男のジョンと三男のジョージに相続させることを考えていたが、上記の理由により、その計画を断念。

また、妻エリザベスは、田舎生活をあまり楽しんでいなかった。

更に、ジョン・ソーンは、1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の建築教授に就任したことに伴い、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地に隣接するリンカーンズ・イン・フィールズ13番地(13 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を1808年6月に追加購入。当初、購入したリンカーンズ・イン・フィールズ13番地を前の所有者に賃貸しつつ、翌年の1809年にかけて、建物の裏手の馬小屋だった場所に、製図室と博物館を建設。これが、現在のサー・ジョン・ソーンズ博物館の元となっている。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その5)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その6)
<筆者撮影>


ロンドン市内のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の整備に舵を切ったジョン・ソーンは、1810年にピッツハンガーマナーを売却。

その後、ピッツハンガーマナーは、数名の購入者の手を経た後、1843年に、英国で唯一暗殺された首相であるスペンサー・パーシヴァル(Spencer Perceval:1762年ー1812年)の娘の邸宅となっている。


ピッツハンガーマナーの建物正面玄関の左側にある装飾
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物正面玄関の右側にある装飾
<筆者撮影>


なお、サー・ジョン・ソーン、長男のジョンと三男のジョージのその後について、述べておく。


長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザベスが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。

三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。

三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。

また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作
シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る
「花婿失踪事件(A Case of Identity)」にも登場する。
<筆者撮影>


サー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

三男のジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


セントパンクラス ガーデンズ(St. Pancras Gardens → 2025年7月11日付ブログで紹介済)内にある
サー・ジョン・ソーンの霊廟
<筆者撮影>


サー・ジョン・ソーンは、1837年1月20日に亡くなり、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬されている。


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