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大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から 2023年に出版された ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の裏表紙 (Front cover : Mary Evans Picture Library) |
1945年6月1日(金)の夜、ソーホー地区(Soho)内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される予定だった「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会に講演者として呼ばれてたジョルジュ・アントワーヌ・リゴー教授(Professor Georges Antoine Rigaud - エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授)は、歴史学者であるマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)とフリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)にある新聞社の記者であるバーバラ・モレル(Barbara Morell - 26歳):フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)の2人に対して、約6年前の1939年8月12日に、フランスで実際に起きた「塔の上の殺人事件」と言う不可思議な話を語り始めるのであった。
シャルトル(Chartres - パリから60㎞ 程南方に位置)の郊外で、その町最大の皮革製造業(leather manufacture)のペルティエ社(Pelletier et Cie.)を営む英国人の大富豪であるハワード・ブルック(Howard Brooke - 50歳)は、妻のジョルジーナ(Georgina Brooke - 40台半ば)と息子のハリー(Harry Brooke - 20台半ば)と一緒に、ボールガー荘(Beauregard)と言う屋敷に住んでいた。
ウール川(River Eure)を間に挟んで、屋敷の向こう側には、古城の廃墟があり、「ヘンリー4世の塔(la Tour d’Henri Quarte / the tower of Henry the Fourth)」と呼ばれる古い塔が建っていた。この塔が、後に発生する謎の殺人事件の舞台となる。
1939年5月、友人の写真家であるココ・ルグラン(Coco Legrand)に、ハワード・ブルックを紹介されたジョルジュ・アントワーヌ・リゴー教授は、一仕事を終えた疲れを癒すために、ハワード・ブルックの伝手を頼って、シャルトルに滞在していた。
国際情勢の関係(第二次世界大戦は、1939年9月1日に勃発)で、今までハワード・ブルックの秘書を務めていたマクシェーン夫人(Mrs. McShane)は、英国への帰国を余儀なくされたため、新しい秘書として、フェイ・シートン(Miss Fay Seton)が、同年5月13日にと横着して、グランドモナークホテル(Hotel of the Grand Monarch)に滞在。
ハリー・ブルックは、ゴルフ / テニス好きの美男の青年で、パリへ絵画の勉強に行きたいと思っていた。彼は、父ハワード・ブルックの新しい秘書となったフェイ・シートンと直ぐに恋仲になり、やがて(同年7月中旬には)婚約に至る。
ハリー・ブルックは、リゴー教授の元に婚約の報告によって来たが、祝福するリゴー教授に対して、「両親は、あまり良い顔をしなかった。」と告げた。
そして、同年8月12日、ブルック一家とフェイ・シートンは、運命の日を迎える。
その2日前、事件の予兆めいたことがあった。
ジュールズ・フレナック(Jules Fresnac)が卵や野菜を市場へ運ぶために、ブルック一家が住むボールガー荘の前を馬車で通り掛かる。
フェイ・シートンは、ジュール・フレナックの2人の子供(娘:17歳 / 息子:16歳)に親切で、フレナック一家も、彼女のことを好ましく思っていた。
ところが、馬車で通り掛かったジュール・フレナックは、屋敷の前に居たフェイ・シートンを酷く罵ると、逃げる彼女に対して、石を投げ付けたのである。
これを、ブルック家のメイドであるアリス(Alice)が目撃していた。
2日後の8月12日の午後3時15分、リゴー教授は、ジョルジーナ・ブルックから緊急を告げる電話を受ける。「大至急、ボールガー荘へ来てほしい。」とのことだった。
ブルック夫人から緊急の電話を受けたリゴー教授は、慌てて車でボールガー荘へと駆け付けるのであった。

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