2025年8月9日土曜日

ヘンリー4世(Henry IV)

カンタベリー大聖堂に安置されている墓の上に建つ
ランカスター朝初代イングランド国王であるヘンリー4世と
彼と再婚して王妃となった
ジャンヌ・ド・ナヴァール(仏)/ ジョーン・オブ・ナヴァール(英)の彫像
(英国の Dorling Kindersley Limited から2001年に出版された

「Kings and Queens - A Royal History of
England & Scotland」から抜粋)

「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日付ブログで紹介済)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る。


エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授(Professor)であるジョルジュ・アントワーヌ・リゴー(Georges Antoine Rigaud)が

シャルトル(Chartres - パリから60㎞ 程南方に位置)のホテルに滞在していた時期の1939年8月12日の午後4時過ぎ、「ヘンリー4世の塔(la Tour d’Henri Quarte / the tower of Henry the Fourth)」と呼ばれる古い塔の上において、皮革製造業(leather manufacture)のペルティエ社(Pelletier et Cie.)を営む英国人の大富豪であるハワード・ブルック(Howard Brooke - 50歳)が、仕込み杖の剣で刺され、流れ出た血でレインコートの背中がびしょ濡れとなった絶命寸前の状態で倒れているのが発見される。

ウール川(River Eure)を間に挟んで、ブルック一家が住むボールガー荘(Beauregard)の向こう側に、古城の廃墟があり、「ヘンリー4世の塔」は、その古城の一部だった。


「ヘンリー4世の塔」の入口の辺りには、ランバート(Lambert)一家がピクニックをしていたため、彼らの目を掻い潜って、塔の上へ向かうことは、誰にもできなかった。

そうなると、塔の上に行くには、川から塔の外壁をよじ登るしか、他に手段がないのだが、「ヘンリー4世の塔」は40フィート(約12 m)の高さがある上に、塔の壁面はすべすべとしているため、川から壁面をよじ登って、塔の上まで行くことは不可能に近いと思われた。


「ヘンリー4世の塔」自体、「囁く影」を執筆したジョン・ディクスン・カーによる創作であるが、ヘンリー4世(Henry IV:1366年ー1413年 在位期間:1399年ー1413年)は、ランカスター朝(House of Lancaster)初代のイングランド国王である。


ヘンリー4世は、


父:プランタジネット朝(House of Plantagenet)のイングランド国王であるエドワード3世(1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の四男であるジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt:1340年ー1399年)


母:初代ランカスター公爵ヘンリー・オブ・グロスモント(Henry of Grosmont, 1st Duke of Lancaster:1310年頃ー1361年)の娘であるブランシュ・オブ・ランカスター(Blanche of Lancaster:1345年(?)/ 1347年(?)ー1368年)


の長男として出生。

彼は、リンカーンシャー州(Lincolnshire)のボリングブルック城(Bollingbroke Castle)で生まれたため、ヘンリー・ボリングブルック(Henry Bollingbroke)とも呼ばれた。


ヘンリー・ボリングブルックは、1380年、第7代ヘレフォード伯爵 / 第6代エセックス伯爵 / 第2代ノーサンプトン伯爵ハンフリー・ド・ブーン(Humphrey de Bohun, 7th Earl of Hereford, 6th Earl of Essex, 2nd Earl of Northampton:1342年-1373年)の次女であるメアリー・ド・ブーン(Mary de Bohun:1368年頃ー1394年)と結婚。

メアリー・ド・ブーンは、ヘンリー・ボリングブルックとの間に、後にランカスター朝第2代のイングランド国王となるヘンリー5世(Henry V:1387年頃ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)を含む5男2女を儲けているが、ヘンリー4世即位以前の1394年、次女の出産時に亡くなっているため、王妃にはなっていない。


ヘンリー・ボリングブルックは、プランタジネット朝最後のイングランド国王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)と対立し合う関係にあり、1398年、フランスのパリへ追放処分となり、王位継承権を奪われた。さらに、翌年の1399年2月に死去した父ジョン・オブ・ゴーントが残したランカスター公爵領も没収されたのである。


1399年5月、アイルランドへ遠征したリチャード2世がイングランドを空けた隙を狙って、ヘンリー・ボリングブルックは、イングランドに上陸。

北部貴族の協力を得た彼は、同年8月、遠征からの帰還途中だったリチャード2世をウェールズ(Wales)の国境で破り、リチャード2世を逮捕。同年9月30日、イングランド議会は、リチャード2世の廃位とヘンリー・ボリングブルックの王位継承を議決したことに伴い、同日、ヘンリー・ボリングブルックは、国王ヘンリー4世として即位して、ランカスター朝を開いた。なお、逮捕されたリチャード2世は、翌年の1400年2月に獄死している。


治世の初期から、ヘンリー4世は、相次ぐ諸侯の反乱に苦しめられたが、ヘンリー王太子(後のヘンリー5世)等の働きもあって、1405年には反乱も概ね平定され、晩年の治世は安定した。


フランスとの百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)が続く最中、ヘンリー4世は、フランスへの進出に意欲を見せ、1403年、ブルターニュ公のジャン4世・ド・ブルターニュ(Jean IV de Bretagne:1339年ー1399年 在位期間:1364年ー1399年)の未亡人であるジャンヌ・ド・ナヴァール(仏)/ ジョーン・オブ・ナヴァール(英)(Jeanne de Navarre / Joan of Navarre:1370年(?)ー1437年)と再婚。

しかし、ヘンリー4世の意図を見抜いたブルターニュの貴族 / 軍人であるオリヴィエ5世・ド・クリッソン(Olivier V de Clisson:1336年ー1407年)による計らいで、ジャンヌ・ド・ナヴァールと先夫ジャン4世・ド・ブルターニュの間の息子達については、イングランドへ連れて行かないで、フランス王室へ預けられることになり、ヘンリー4世の目論見は頓挫することになった。

なお、ヘンリー4世と王妃となったジャンヌ・ド・ナヴァールの間には、子供は居ない。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベイカールーライン(Bakerloo Line)用プラットフォームの壁に描かれている
ヘンリー5世(一番左側の人物)の肖像画


1405年の反乱平定後、体調を崩したヘンリー4世は、政治運営がままならなくなったため、ヘンリー王太子が父王に代わって国政に関与するようになった。ヘンリー王太子自身、ウェールズ平定の功績が非常に大きく、次第に人気が高まって行った。


ヘンリー4世は、リトアニア遠征時(1390年ー1392年)に罹患した伝染性疾患のため、1413年3月20日、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)内の礼拝堂で祈っていた際、発作に襲われて、崩御。

遺言に基づき、ヘンリー4世は、カンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)に埋葬され、ヘンリー王太子がヘンリー5世として即位したのである。


          

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