2022年12月18日日曜日

<第1000回> コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞」<小説版>(A Scandal in Bohemia by Conan Doyle )- その1

英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その1) -

結婚して、開業医に戻ったジョン・H・ワトスンは、
1888年3月20日の夜、
往診の帰り道、久し振りに
ベーカーストリート221Bのホームズの元を訪ねた。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)


チェコ共和国(Czech Republic)ヴィソチナ州トシェビーチ郡の都市トシェビーチ出身のイラストレーターであるペトル・コプル(Petr Kopl:1976年ー)がグラフィックノベル版(→ 2022年12月7日 / 12月9日 / 12月10日付ブログで紹介済)を発表したサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、最初(1番目)に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年7月号に掲載された。

同作品は、1892年に発行されたホームズシリーズの第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」に収録されている。


コナン・ドイルは、シャーロック・ホームズシリーズ最初の長編「緋色の研究(A Studay in Scarlet → 2016年7月30日付ブログで紹介済)」を「ビートンのクリスマス年鑑(Beeton’s Christmas Annual)」(1887年11月)に発表した後、1889年8月に米国のフィラデルフィアに本社を構える J. B. リピンコット社からの依頼を受けて、同シリーズ第2作目の長編「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月12日付ブログで紹介済)」を執筆し、同作品は1890年2月に出版された「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott's Monthly Magazine)」に掲載された。


「四つの署名」が「リピンコット・マンスリー・マガジン」に掲載されたその年(1890年)の8月に、ドイツのベルリンで開催された国際医学会議において、ロベルト・コッホが新しい結核治療法を発表した。コッホの発表に興味を抱いたコナン・ドイルはコッホに会うべく、直ちにベルリンへと向かった。ベルリン行きの列車内で、コナン・ドイルはロンドンで成功をおさめていた皮膚科の専門医モリルに出会い、彼から GP(一般開業医)ではなく、眼科専門医への転身を説得された。


コッホとの面会は叶わなかったものの、ベルリン滞在中に眼科専門医になることを思い立ったコナン・ドイルは、1890年11月にポーツマス(Portsmouth → 2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に戻ると、開業していた個人診療所を閉鎖する。

そして、1891年1月に、妻のルイーズを伴って、彼はオーストリアのウィーンへ移住し、眼科専門医になるための勉強を始めた。しかし、専門的な授業についていけるだけのドイツ語能力が、コナン・ドイルには絶対的に不足していたため、彼は直ぐに授業についていけなくなり、眼科専門医になることを断念せざるを得なかった。

彼は当初の予定を切り上げて、1891年3月末にロンドンに帰国すると、モンタギュープレイス23番地(23 Montague Place → 2017年8月5日付ブログで紹介済)の邸宅を居住の地として、アッパーウィンポールストリート2番地(2 Upper Wimpole Street→2014年5月18日付ブログで紹介済)において無資格の眼科医を始めたのである。


アッパーウィンポールストリート2番地で無資格の眼科医を始めたコナン・ドイルではあったが、ロンドン、特にアッパーウィンポールストリートの一本東側にあるハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)には、資格を有する眼科医が大勢開業していたため、無資格の眼科医である彼に診察してもらおうと考える患者が現れることはなかった。

コナン・ドイルは、現れる筈がない患者を待つ暇な時間を利用して、小説の執筆に励んだ。結局、彼は患者が全く来ない眼科診療所を閉鎖する羽目となり、執筆業一本に専念することになる。

アッパーウィンポールストリート2番地の診療所を閉鎖すると、コナン・ドイル一家はモンタギュープレイス23番地の邸宅も引き払って、サウスノーウッド(South Noorwood)郊外のテニスンロード12番地(12 Tenison Road)へと移住した。

「ストランドマガジン」にホームズシリーズの短編小説が掲載されて、爆発的な人気を得るまでには、あと数ヶ月の時が必要であった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年7月号に掲載された挿絵(その2) -

ホームズは、ワトスンに対して、
先程郵便で届いた分厚く、ピンクがかった便箋を投げて寄越した。
その手紙には、日付がない上に、
名前も住所も書かれていなかったが、
ホームズは、ワトスンに、
手紙を書いた人物を推論するよう、促した。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット


コナン・ドイルとしては、自分の文筆の才能は、歴史小説にあると考えて、生活費稼ぎのために、得意の短編を書き続けていたが、ある時、彼はあることを思い付いた。当時としては珍しい「読み切り連載」の手法であった。これならば、「緋色の研究」と「四つの署名」に登場させたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンを上手い具合に使えるのである。


良い考えを思い付いたコナン・ドイルは、ホームズとワトスンを主人公にして、2週間で「ボヘミアの醜聞」と「赤毛組合(The Red-Headed League → 2022年9月25日 / 10月9日 / 10月11日 / 10月16日付ブログで紹介済)の短編2作を書き上げると、創刊後間もない「ストランドマガジン」宛に送付した。

他の雑誌との差別化に苦心していた「ストランドマガジン」の編集部は、コナン・ドイルが送った2作を受け取ると、彼のアイデアに飛び付き、早速、彼に対して、4作を追加した合計6作の短編を執筆するよう、依頼してきたのである。


そして、「ストランドマガジン」の1891年7月号に、「ボヘミアの醜聞」が掲載されると、シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)による挿絵の効果も相まって、ホームズ作品は、読者の熱狂を以って受け入れられ、爆発的な人気へと繋がっていった。


記念すべき短編第1作目の「ボヘミアの醜聞」は、次の一文から始まる。


「シャーロック・ホームズには、いつでも「あの女性(ひと)」と呼ぶ女性が居る。(To Sherlock Holmes she is always the woman.)」


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