2025年7月12日土曜日

ロンドン リージェンツパーク / ボート遊び用湖(Regent’s Park / Boating Lake)

リージェンツパークのボート遊び用湖内に点在する小島の一つ(1−1)


英国の作家であるミシェル・バークビー(Michelle Birkby)作の長編第2作目に該る「ベイカー街の女たちと幽霊少年団(The Women of Baker Street → 2025年5月2日 / 5月24日 / 5月29日 / 6月4日付ブログで紹介済)」(2017年)の場合、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson - マーサ・ハドスン(Martha Hudson))は、腹部の閉塞症のため、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)で緊急手術を受けるところから、物語が始まる。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
❤️「ハドスン夫人(Mrs. Hudson)」

同病院の特別病棟内のベッドの上で目を覚ましたハドスン夫人は、モルヒネと麻酔薬の投与により、目が覚めた後も頭にまだ霞がかかったようになっていた。

その時、ハドスン夫人は、病室のとりわけ暗い一角に、うごめく影のかたまりを見た。ハドスン夫人が目を凝らしていると、影のかたまりは、彼女のベッドの裾を横切り、彼女の斜向かいにあるベッドへと向かった。朦朧とする意識のなか、ハドスン夫人は、その影のかたまりがそのベッドの上に覆いかぶさるのを目撃した後、突如、深い眠りへ引きずり込まれると、意識が遠のく。

翌朝、ハドスン夫人が再度目覚めると、シスターと若い医師が、彼女の斜向かいの空っぽのベッドの側に立って、話し合いをしているのが聞こえた。昨夜、ハドスン夫人が目撃した通り、影のかたまりが覆いかぶさっていたベッドの女性は、今朝、亡くなっているのが見つかったのである。


建物の外壁に刻まれた「セントバーソロミュー病院」の文字


それから数日後の夜、ハドスン夫人は、消灯後、眠りに落ちたが、午前3時頃、悪夢に襲われて、目が覚めた。目が覚めたものの、何故か、身体が全く動かず、また、助けを呼ぼうにも声も出なかった。

すると、入院初日の晩と全く同じことが起きる。病室の隅の黒いかたまりから、人の形をしたものがすうっと出て来たのだ。そして、エマ・フォーダイス(Emma Fordyce - ミランダ・ローガン(Miranda Logan)の正面に居る患者 / 歳を召していて、あちこち悪いところがあるみたいだが、老いを楽しんでいる様子 / 過去に非凡な面白い体験をしていて、思い出話を他の人に聞かせるのが大好き)が眠るベッドの側に立った。その時、エマ・フォーダイスが目を覚まして、はっと息をのんだ後、悲鳴を上げようとしたが、その人影は、いきなり側にあった枕を掴むと、彼女の顔に押し付けた。エマ・フォーダイスは激しく暴れた、次第に抵抗が弱くなり、最後は、ぐったりとして動かなくなった。

ハドスン夫人は、入院初日に続き、2つ目の殺人現場を目撃したことになる。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
9 ❤️「メアリー・モースタン(Mary Morstan)」


一方、ワトスン夫人(Mrs. Watson)となったメアリー・ワトスン(Mary Watson - 旧姓:モースタン(Morstan))は、ベイカーストリート221B の給仕のビリー(Billy)経由、ベイカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)のウィギンズ(Wiggins)から聞いた話が気になっていた。

それは、「幽霊少年団(The Pale Boys)」のことだった。

(1)夜間だけ、街角に姿を見せる。

(2)街灯の明かりには決して近付かない。

(3)往来の激しい大通りには、足を踏み入れない。

(4)全員、青白い顔をして、闇に溶け込みそうな黒づくめの服装をしている。

(5)薄暗い道端や人気の無い路地を彷徨く。

(6)何年経っても、歳をとらないし、飲んだり食べたりもしない。

(7)彼らの姿を見た者は、死んでしまう。

(She told me the tale of the Pale Boys. Boys who came onto the street only at night. They never came into the light. They never went onto the Main Street. They had pale faces, and all black clothes, and they melted into the shadows. They walked in dark corners and deserted alleyways. They never grew old, and never ate or drank and if you saw them, you would die.)


セントバーソロミュー病院を退院したハドスン夫人と同席するメアリー・ワトスンは、セントバーソロミュー病院の特別病棟内で発生した殺人事件とロンドン市内姿を現す「幽霊少年団」の2つの謎を追うことになった。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
❤️「ジョン・H・ワトスン(Dr. John H. Watson)」


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
9 ♣️トビアス・グレッグスン警部(Inspector Tobias Gregson)


物語の後半、ハドスン夫人とメアリー・ワトスンの2人は、ジョン・H・ワトスン経由、スコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から、「幽霊少年団」に関係する少年達と思われる死体が、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)において、多数見つかったとの連絡を受けたのである。


リージェンツパーク内に設置されている公園の地図 -
地図の左下に見えるのが、「ボート遊び用湖」である。


ミッキー(=ベーカーストリート不正規隊の一人)が待たせておいた辻馬車で、わたしたちは公園へ向かった。またもやリージェンツ・パークへ。今回の事件ではやたらとあそこへ行かされる。今日はじめじめして霧が出ていた。そぼ降る雨が服を濡らし、肌に浸みこむ。公園内はがらんとしていた。警官が漕ぐ小さなボートに乗せられて運ばれていく先は、広い池の真ん中にある小嶋。あたりは冷気に包まれ、視界が歩く、乳白色の霧の向こうに見えるのは上方から覗く木々の梢だけだった。聞こえるのはオールが立てる規則的な水音と、どこからか響いてくる人の話し声だけ。小島に到着すると、木立を抜けて中央部へ進んだ。そこでは地面にできた複数の穴のまわりに警官たちが集まっていた。全部で五人いる。ジョンも穴のそばに立っていた。ツィードのスーツに厚地のコートを着て、無表情だが落ち着き払っている。彼の隣にはグレグスン警部の姿もあり、低い声でぼそぼそとなにか話している。彼らはこちらに気づくと歩み寄ってきた。


(中略)


「ここでなにがあったのか教えてください。誰が発見したんですか?」わたしは訊いた。

「公園の管理人が、地面にところどころ草が枯れている部分があると気づいたのです」グレグスン警部が説明を始めた。「そこで少しほってみると、土が柔らかい。さらに掘り進めたところ、遺体の一部が見えた。管理人からの通報を受け、われわれは警察犬を連れて出動しました。そして犬たちが次々に遺体を発見していったというわけです。夜を徹して穴掘り作業をやっていましたよ」

(駒月 雅子訳)


リージェンツパークのボート遊び用湖内に点在する小島の一つ(1−2)

リージェンツパークのボート遊び用湖内に点在する小島の一つ(1−3)

He took us to Regent’s Park, yet again. So much of this case led us there. It was damp and misty, the rain hanging in the air and soaking through our clothes, and the park was empty. W got into a small rowing boat with a police constable, and he took it over to the island at the centre of the boating lake. It was cold, and foggy and all we could see were the tops of trees above the white mist. The only sound was the oars dipping in and out of the water, and faint voices, coming from who knows where. It all felt unreal. Once we landed, we made our way through the trees to the centre of the island. There, we found policemen gathered around holes in the ground - five of them. Beside the holes stood John Watson, stolid and reassuring in his tweeds and huge greatcoat. Beside him stood Inspector Gregson, talking in a low voice. When they saw us, they came over.


(中略)


‘What happened? How did you find them?’ I asked.

‘The park keeper noticed a patch of dead grass,’ the inspector explained. ‘He dug down and noticed the soil was loose, and then he found the edge of a body. He called us, and we brought in the dogs. They found more bodies. We’ve been digging all night.’


リージェンツパークのボート遊び用湖内に点在する小島の一つ(2−1)

リージェンツパークのボート遊び用湖内に点在する小島の一つ(2−2)

リージェンツパークの管理人から連絡を受けたスコットランドヤードのグレッグスン警部や警官達が、「幽霊少年団」に関係する少年達の多数の死体を発見した小島は、リージェンツパーク内の「ボート遊び用湖(Boating Lake)」に実在する。


リージェンツパーク内で見られる野鳥の一覧表

湖を滑るように泳ぐカナダガン(Canada Goose)

「ボート遊び用湖」は、リージェンツパークの南側の中間辺りにあるヨークブリッジ(York Bridge)から始まり、クラレンスゲート(Clarence Gate)を潜り、リージェンツパークの西側の中間辺りにあるハノーヴァーゲート(Hanover Gate)まで広がる湖で、リージェンツパークを外周する道路であるアウターサークル(Outer Circle)に沿っている。


公園内の芝生の上を散歩するハイイロガン(Greylag Goose)の親子

公園内の芝生の上を散歩するオオバン(Coot)

ヨークブリッジの近くにある小島は小さいので、スコットランドヤードのグレッグスン警部達が「幽霊少年団」に関係する少年達の多数の死体を発見した小島は、これではないと思われる。

クラレンスゲートとハノーヴァーゲートの間の「ボート遊び用湖」には、割合と大きな小島が複数点在しているので、これらの一つがこれに該当すると考えられる。


湖岸まで近寄って来たコブハクチョウ(Mute Swan)の親子

湖岸から上がって来たハイイロガンの親子

勿論、あくまでも、本件は架空の話であり、現実の「ボート遊び用湖」は、白鳥のつがいが雛達を育てている場所で、他の野鳥達も生息している。

ミシェル・バークビーの原作通り、「ボート遊び用湖」では、ロンドン市民達や観光客達がボート遊び、湖岸の散歩や白鳥 / 野鳥の観察等を楽しんでいる。

白鳥や野鳥も、人間にはかなり慣れており、湖から湖岸に上がり、人間と一緒に、湖岸を歩き回っている。


2025年7月11日金曜日

ロンドン セントパンクラス ガーデンズ(St. Pancras Gardens)

セントパンクラス ガーデンズ内にある
サー・ジョン・ソーンの霊廟(その1)


英国の新古典主義を代表する建築家となったサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)であったが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


サー・ジョン・ソーンは、1784年8月21日に、エリザベス・スミス(Elizabeth Smith:1760年ー1815年 / 通称:エリザ(Eliza))と結婚し、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。


サー・ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。


三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。

その結果、サー・ジョン・ソーンは、妻エリザの死をジョージの責任として、以降、ジョージに対して、冷淡な態度をとり続けた。


三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。


また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


妻エリザの死を三男のジョージの責任と考えるサー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、ジョージへの遺贈は一切考慮せず、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

ジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


セントパンクラス オールド教会の建物側面

サー・ジョン・ソーンは、風邪を拗らせて、1837年1月20日に亡くなり、妻エリザや長男のジョンが永眠するセントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。


セントパンクラス ガーデンズ内の風景(その1)

セントパンクラス ガーデンズ内の風景(その2)

サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」に出てくるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church))のモデルになった教会である。


セントパンクラス ガーデンズ内の風景(その3)

セントパンクラス ガーデンズ内の風景(その4)

「花婿失踪事件(A Case of Identity)」において、メアリー・サザーランド(Mary Sutherland)は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)で知り合ったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)と結婚するため、別々の馬車で教会に到着した。メアリーと彼女の母親は別の馬車からホズマーが出て来るのを待つが、彼は一向に姿を現さない。そこで、御者が降りて馬車の中をみてみると、ホズマーの姿は忽然と消えていて、それ以降、彼の消息がつかめなくなった。

そのため、メアリー・サザーランドはベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズを訪ね、ホズマーの行方を捜してほしいと依頼する。


セントパンクラス ガーデンズ内にある
サー・ジョン・ソーンの霊廟(その2)

メアリー・サザーランドとホズマー・エンジェルが結婚式を行う予定だった教会は、メアリーによると、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross)であった。

確かに、セントサヴィオール教会は実在しているが、それはキングスクロスから北北東の方向にかなり離れたクラウチエンド(Crouch End)という地区内にある。

キングスクロス駅(King's Cross Station)のすぐ西側にあるセントパンクラス駅(St. Pancras Station)を南側からみて左手のミッドランドロード(Midland Road)をやや北上したところに、セントパンクラス ガーデンズ(St. Pancras Gardens)がある。この庭園に面して、セントパンクラス オールド教会が建っている。現在の地図上、キングスクロス駅近辺には、このセントパンクラス オールド教会しか、教会は存在していない。ということは、コナン・ドイルの原作で言及されているセントサヴィオール教会は、このセントパンクラス オールド教会をモデルにしたものと思われる。


セントパンクラスホテルの建物正面を見上げたところ。


コナン・ドイルの原作によれば、予定通り、教会での結婚式が行われていれば、メアリーとホズマーはセントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel → 2014年10月12日付ブログで紹介済)で結婚披露朝食会をする予定であった。セントサヴィオール教会のモデルとなったのが、セントパンクラス オールド教会であれば、セントパンクラスホテルも近かったので、簡単に移動できた筈である。


セントパンクラス ガーデンズ内にある
サー・ジョン・ソーンの霊廟(その3)

セントパンクラス ガーデンズの奥まった場所に、周囲を柵で囲まれたサー・ジョン・ソーンの霊廟(Mausoleum of Sir John Soane)があり、今も保存されている。

セントパンクラス オールド教会やセントパンクラス ガーデンズを訪れる人や通り抜ける人は、それなりに居るが、セントパンクラス ガーデンズ内にサー・ジョン・ソーンの霊廟が所在していることに気付く人は、残念ながら、ほとんど居ない。


2025年7月10日木曜日

ロンドン グラスハウスストリート(Glasshouse Street)

グラスハウスストリートの名を冠した
パブ「The Glassblower」-
グラスハウスストリートの西端に所在。


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、1902年9月4日の午後5時半に、シャーロック・ホームズは、ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者であるシンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson)から紹介されたキティー・ウィンター(Kitty Winter - オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)を連れて、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)とヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)嬢が住むバークリースクエア104番地(104 Berkeley Square → 2014年11月29日付ブログで紹介済)を訪問した。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。


しかしながら、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢は、ホームズによる説得、そして、キティー・ウィンターによる暴露にも、全く聞く耳を持たず、アデルバート・グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込んでいる彼女の態度は非常に頑なで、残念ながら、アデルバート・グルーナー男爵との結婚を思いとどませることは、不調に終わった。


現在の「シンプソンズ」入口


その日の夜、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(シンプソンズだと思われる)において、本業の医師の仕事を終えたジョン・H・ワトスンと一緒に食事をしたホームズは、ワトスンに対して、「こちらが次の一手(を指す前に、向こうが次の一手を打ってくる可能性がありうる。(it is possible that the next move may lie with them rather than with us.)」と告げる。


ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面


2日後の夕方、ホームズの読みは、悪い方に的中した。

ワトスンが、グランドホテル(Grand Hotel)とチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、暫し呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。


「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...


リージェントストリート沿いの
カフェロイヤルの入口


新聞によると、今日の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われたのだった。


グラスハウスストリートの西端から東方面を見たところ。

有名な私立探偵のシャーロック・ホームズ氏が今朝襲撃に遭って重態に陥ったことは非常に遺憾である。今のところ、その詳細は不明なるも、事件は昼の12時頃、リージェントストリート沿いのカフェロイヤルの前で発生した模様。襲撃はステッキで武装した二人の男達によって行われ、ホームズ氏は頭部と身体に打撃を受けて、医師団によると、重傷とのこと。当初、ホームズ氏はチャリングクロス病院へ運ばれたが、その後、本人の希望でベイカーストリートの自宅に移送された。ホームズ氏を襲撃した犯人達は紳士然とした服装の男達で、カフェロイヤルの中を通り、裏側のグラスハウスストリートへと抜けて、目撃者の追及から免れた模様。負傷したホームズ氏の活動と明晰な頭脳に常日頃悩まされてきた犯罪者達の一味と目される。


グラスハウスストリートの西端の建物の外壁。

We learn with regret that Mr Sherlock Holmes, the well-known private detective, was the victim this morning of a murderous assault which has left him in a precarious position. There are no exact details to hand, but the event seems to have occurred about twelve o'clock in Regent Street, outside the Cafe Royal. The attack was made by two men armed with sticks, and Mr Holmes was beaten about the head and body, receiving injuries which the doctors describe as most serious. He was carried to Charing Cross Hospital, and afterwards insisted upon being taken to his rooms in Baker Street. The miscreants who attacked him appear to have been respectably dressed men, who escaped from the bystanders by passing through the Cafe Royal and out into Glasshouse Street behind it. No doubt they belonged to that criminal fraternity which has so often had occasion to bewail the activity and ingenuity of the injured man.)」


グラスハウスストリートの中間辺り。-
左斜め奥へと延びている通りがグラスハウスストリートで、
右奥へと延びている通りがエアーストリート。


元のカフェロイヤルは、フランス人のワイン商人だったダニエル・ニコラス・セヴェノン(Daniel Nicholas Thevenon)によって1865年に創業された。フランスで自己破産した彼は、妻を伴い、1863年に英国に移住した際に、英国風の名前ダニエル・ニコルス(Daniel Nicols)に改名。

彼の息子(名前は父親と同じダニエル・ニコルス)の下でカフェロイヤルは繁盛。1890年代に入ると、ロンドンの人気スポットとなり、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde:1854年ー1900年 / 代表作:「サロメ」や「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray → 2022年9月18日 / 10月8日付ブログで紹介済)」)、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Wolf:1882年ー1941年 / 代表作:「ダロウェイ夫人」、「灯台」、「オーランドー」や「波」)、デイヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Lawrence:1885年ー1930年 / 代表作:「チャタレイ夫人の恋人」や「息子と恋人」)やジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年 / 代表作:「ピグマリオン」や「ウォレン夫人の職業」)等、英国を代表する作家達が多数つめかけた。

大改装のため、カフェロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、約4年間の改装工事を経て、2012年12月に5つ星ホテルに新しく生まれ変わり、現在に至っている。



リージェントストリートとグラスハウスストリートを繋ぐ
エアーストリート沿いにあるホテルの玄関口


現在のカフェロイヤルの場合、


(1)リージェントストリート側:カフェの入口

(2)エアーストリート(Air Street):ホテルの入口

(3)グラスハウスストリート(Glasshouse Street):バーの入口


がある。



現在、カフェロイヤルの裏口は、バーの入り口になっており、
ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、ここからグラスハウスストリートへと抜け出て、
何処かへ逃走したのである。-
左奥へと延びる通りがグラスハウスストリートで、
右斜め奥へと延びる通りがエアーストリート。

ホームズを襲撃した二人組の暴漢(アデルバート・グルーナー男爵が放ったと思われる)は、カフェロイヤルの中を通り、裏のグラスハウスストリートへ抜け出た後、逃走している。

従って、現在のカフェロイヤルの場合、グラスハウスストリート側に面したバーの入口から、彼らは逃走したことになる。


グラスハウスストリートとエアーストリートが交差した地点から、
グラスハウスストリート沿いの建物外壁を見上げたところ(その1)

グラスハウスストリートは、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター(City of Westminster)区内のリージェントストリートの北側に所在する通り(約240m)で、リージェントストリートとピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)を結んでいる。


グラスハウスストリートとエアーストリートが交差した地点から、
グラスハウスストリート沿いの建物外壁を見上げたところ(その2)

グラスハウスストリートは、ガラス工業の店が多数この通り沿いにあったことから、この名前が付けられたものと思われる。


2025年7月9日水曜日

サー・ジョン・ソーン(Sir John Shane)- その3

サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その1)

後に英国の新古典主義を代表する建築家となるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)は、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めた。


イングランド銀行の建物正面


1788年から1833年までの45年間、(サー・)ジョン・ソーンは、イングランド銀行にかかる様々な改修工事を行ったが、その後、イングランド銀行が敷地を拡張する過程で、英国の建築家であるハーバート・ベイカー(Herbert Baker:1862年ー1946年)によって、(サー・)ジョン・ソーンが設計したオリジナル部分はほとんど失われてしまい、「シティーにおける20世紀最大の建築上の罪(the greatest architectural crime, in the City of London, of the twentieth century)」と言われている。


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像


その代わり、イングランド銀行の裏手ではあるが、ロスベリー通り(Lothbury)に面した建物の外壁内に、サー・ジョン・ソーンの像が彼の栄誉を称えるために設置されている。


イングランド銀行の他に、サー・ジョン・ソーンの主要な作品として、


(1)サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum / 住所: 12 - 14 Lincoln’s Inn Fields, London WC2A 3BP → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済):サー・ジョン・ソーンの自邸


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


(2)ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor):ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のっウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスで、サー・ジョン・ソーンの自邸


(3)ダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery):テムズ河(River Thames)の南岸のブリクストン(Brixton)とペッカム(Peckham)の間にあるダリッジヴィレッジ(Dulwich Village)内に所在する美術館


ピッツハンガーマナーとダリッジピクチャーギャラリーについては、後々紹介したい。


サー・ジョン・ソーンは、1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の教授となり、1831年にはナイトの称号(knighthood)を得ている。


上記の通り、サー・ジョン・ソーンは、建築家として、大きな成功を収めたが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。


サー・ジョン・ソーンは、1784年8月21日に、エリザベス・スミス(Elizabeth Smith:1760年ー1815年 / 通称:エリザ(Eliza))と結婚し、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。


サー・ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。


三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。


三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。


また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
サー・ジョン・ソーンの肖像画(その2)


サー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

三男のジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作
シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る
「花婿失踪事件(A Case of Identity)」にも登場する。

サー・ジョン・ソーンは、1837年1月20日に亡くなり、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。