2025年8月4日月曜日

アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」<小説版(愛蔵版)>(Cat Among the Pigeons by Agatha Christie )- その2

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の裏表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
表紙側の小説のタイトルの上に留まっていた鳩達の数羽が、
猫の餌食になったものと思われる。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1959年に発表した「鳩のなかの猫(Cat Among the Pigeons)」(1959年)の場合、中東のラマット王国(Ramat)において、国王に対する革命が勃発するところから、物語が始まる。


若き国王であるアリ・ユースフ(Prince Ali Yusuf)は民主化を進めていたが、自身に迫る危機を事前に察した彼は、親友で、お抱え飛行士でもあるボブ・ローリンスン(Bob Rawlinson)に対して、数十万ポンドの価値にもなる王家に伝わる宝石を密かに国外へ運び出すことを依頼。

アリ・ユースフ国王からの依頼を受けたボブ・ローリンスンは、咄嗟に姉のジョアン・サットクリフ(Joan Sutcliffe)と姪のジェニファー・サットクリフ(Jennifer Sutcliffe)が滞在しているホテルの部屋を訪ねたが、生憎と、彼女達は留守だった。そこで、ボブ・ローリンスンは、姪のジェニファーが使っているテニス用のラケットの握り部分に宝石が入った包みを隠すと、ホテルの部屋を出た。ボブ・ローリンスンとしては、自分の行動を誰にも見られていないつもりでいたが、実際には、彼の行動は、何者かに見られていたのである。


母親のジョアン・サットクリフと娘のジェニファーは、数十万ポンドにものぼる宝石が自分達の目と鼻の先にあるとは夢にも思わず、ジェニファーの学校入学に合わせて、ラマット王国から英国へと帰国した。

その後、アリ・ユースフ国王は、ボブ・ローリンスンと一緒に、飛行機でラマット王国を脱出しようと試みたが、途中で事故により墜落した結果、2人とも亡くなってしまう。


英国の Harper Collins Publishers 社から以前に出版されている
アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ
「鳩のなかの猫」のペーパーバック版の表紙


それから3ヶ月後、ボブ・ローリンスンの姪であるジェニファー・サットクリフは、ロンドンにある有名な私立女子校であるメドウバンク校(Meadowbank School)へと通っていた。

メドウバンク校は、英国屈指の名門校で、王族の子女達が学ぶ一方で、革新的な教育システムも採り入れていた。亡くなったアリ・ユースフ国王の従姉妹で、彼の婚約者でもあったラマット王国のシャイスタ王女(Princess Shaista)も、新入生として、メドウバンク校に入学していた。


メドウバンク校の創設者で、校長も務めるオノリア・バルストロード(Honoria Bulstrode)は、夏季学期の始業日の行事を滞りなく進める中、引退と自分の後継者の選定を考えていた。

オノリア・バルストロードにとって、数学の教師であるミス・チャドウィック(Miss Chadwick)は、メドウバンク校創設以来の彼女の盟友であったが、学校を率いるタイプではないと考えており、事実上、彼女の後継者候補からは外されていた。そのため、彼女は、歴史とドイツ語の教師であるエレノア・ヴァンシッタート(Eleanor Vansittart)を、後継者の最有力候補として考えていたのである。


そんな最中、夏季学期が始まる前に完成したばかりの室内競技場(Sports Pavilion)において、深夜、銃声が鳴り響き、体育の教師であるグレイス・スプリンガー(Grace Springer)が殺害される。

後日、ラマット王国のシャイスタ王女が誘拐される事件が発生すると、更に、オノリア・バルストロードの後継者の最有力候補であるエレノア・ヴァンシッタートが、後頭部を砂袋で強打され、第2の被害者となると、続いて、フランス語の教師であるアンジェール・ブランシュ(Angele Blanche)も、後頭部を砂袋で強打され、第3の被害者となった。


こうして、一見関係ないように見えたラマット王国での出来事とメドウバンク校の出来事の2つが、次第に深く絡み合って行くのであった。


なお、本作品の場合、推理小説と言うよりは、サスペンス小説に近く、探偵役を務めるエルキュール・ポワロは、物語の終盤に入ってから(全体の 2/3 辺りを過ぎたあたりから)登場して、事件を解決する役目を担うにとどまっている。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の見返し部分(裏表紙側) -
画面右手から画面左手へ向かって歩いている猫の足跡でデザインされている。


アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」(1959年)の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第59話(第11シリーズ)として、2008年9月21日に放映されている。英国の俳優であるサー・デイヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。ちなみに、日本における最初の放映日は、2010年9月14日である。


英国の TV 会社 ITV 社が制作した TV ドラマ版は、アガサ・クリスティーの原作対比、いろいろと差異が見られるが、それらについては、2023年3月5日 / 3月17日 / 3月19日 / 3月23日付ブログを御参照願います。


2025年8月3日日曜日

アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」<小説版(愛蔵版)>(Cat Among the Pigeons by Agatha Christie )- その1

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
小説のタイトルの上に留まっている鳩達と
床の上に静かに座り、鳩達を狙っている猫が描かれている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が生まれたトーキー(Torquay → 2023年9月1日 / 9月4日付ブログで紹介済)が所在するデヴォン州(Devon)が舞台となったエルキュール・ポワロシリーズの長編作品のうち、「死者のあやまち(Dead Man’s Folly)」(1956年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年8月18日 / 8月22日付ブログで紹介済)と「五匹の子豚(Five Little Pigs)」(1942年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年11月9日 / 11月13日付ブログで紹介済)が2023年に、更に、「白昼の悪魔(Evil Under the Sun)」(1941年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)が刊行されてい「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(1932年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2024年7月13日 / 7月21日 / 7月25日付ブログで紹介済)が2024年に出版されている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「死者のあやまち」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by HarperCollinsPublishers Ltd. /
Cover illustration by Becky Bettesworth) -
アガサ・クリスティーの夏期の住まいである
デヴォン州のグリーンウェイ(Greenway)が、ナス屋敷として描かれている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「五匹の子豚」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by HarperCollinsPublishers Ltd. /
Cover illustration by Becky Bettesworth) -
英国の有名な画家であるアミアス・クレイル(Amyas Crale)が
毒殺される事件現場になった砲台庭園が描かれている。


2024年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「白昼の悪魔」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -

名探偵エルキュール・ポワロは、デヴォン州の密輸業者島(Smugglers’ Island)にある

Jolly Roger Hotel に滞在して、静かな休暇を楽しんでいた。

同ホテルには、美貌の元女優で、実業家ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall)の後妻となった

アリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall)が、

この島で何者かによって殺害されることになる。


2024年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「エンドハウスの怪事件」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
「コーニッシュ リヴィエラ(Cornish Riviera)」と呼ばれる
コンウォール州(Cornwall)のセントルー村(St. Loo - 架空の場所)に近い
マジェスティックホテル(Majestic Hotel)において、
エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉は、優雅な休暇を楽しんでいた。
一方、新聞では、世界一周飛行に挑戦中の飛行家である
マイケル・シートン大尉(Captain Michael Seton)が、
太平洋上で行方不明になっていることを伝えていた。
テラスから庭へと通じる階段でポワロが足を踏み外したところ、
丁度運良くそこに通りかかったニック・バックリー(Nick Buckley -
本名:マグダラ・バックリー(Magdala Buckley))に助けられる。
彼女は、ホテルからほんの目と鼻の先にある岬の突端に立つ
やや古びた屋敷エンドハウス(End House)の若き女主人であった。


また、映画化に先立って、「ハロウィーンパーティー(Hallowe’en Party)」(1969年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年10月6日 / 10月11日付ブログで紹介済)も、HarperCollinsPublishers 社から出ている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「ハロウィーンパーティー」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Sarah Foster / HarperCollinsPublishers Ltd.
Cover images by Shutterstock.com) 


今年(2025年)は、動物をテーマにした「もの言えぬ証人(Dumb Witness → 2025年6月29日 / 7月3日付ブログで紹介済)」(1937年)と「鳩のなかの猫(Cat Among the Pigeons)」(1959年)の愛蔵版(ハードバック版)が出版されたので、今回は、「鳩のなかの猫」について、紹介致したい。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「もの言えぬ証人」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
小緑荘の女主人であるエミリー・アランデルの
飼い犬であるボブ(Bob)と犬の遊び道具のボールが描かれている。
また、
エミリー・アランデルが転落して、
寝込む原因となった階段が、画面右手に描かれている。


本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第51作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第28作目に該っている。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の見返し部分(表紙側) -
画面左手から画面右手へ向かって歩いている猫の足跡でデザインされている。


中東のラマット王国(Ramat)では、若き国王であるアリ・ユースフ(Prince Ali Yusuf)は民主化を進めていたが、国王に対する革命が勃発する。

自身に迫る危機を事前に察したアリ・ユースフ国王は、彼の親友で、彼のお抱え飛行士でもあるボブ・ローリンスン(Bob Rawlinson)に対して、数十万ポンドの価値にもなる王家に伝わる宝石を密かに国外へ運び出すことを依頼した。アリ・ユースフ国王からの依頼を受けたボブ・ローリンスンは、咄嗟に姉のジョアン・サットクリフ(Joan Sutcliffe)と姪のジェニファー・サットクリフ(Jennifer Sutcliffe)が滞在しているホテルの部屋を訪ねたが、生憎と、彼女達は留守だった。そこで、ボブ・ローリンスンは、姪のジェニファーが使っているテニス用のラケットの握り部分に宝石が入った包みを隠すと、ホテルの部屋を出た。ボブ・ローリンスンとしては、自分の行動を誰にも見られていないつもりでいたが、実際には、彼の行動は、何者かに見られていたのである。


2025年8月2日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」(He Who Whispers by John Dickson Carr)- その1

大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から
2023年に出版された
ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の表紙
(Front cover : Mary Evans Picture Library)

「囁く影(He Who Whispers)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る。


1938年にノーベル賞(Nobel Prize)を受賞した歴史学者のマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、陸軍(Army)に入隊したが、戦車部隊(Tank Corps)に所属していたため、ディーゼル油中毒(Diesel-oil-poisoning)に罹患して入院、18ヶ月間、病院のベッドで過ごした。

その間に、彼の叔父に該るサー・チャールズ・ハモンド(Sir Charles Hammond)がデヴォン州(Devon)のホテルにおいて亡くなったので、マイルズ・ハモンドは、妹のマリオン・ハモンド(Marion Hammond)と一緒に、ハンプシャー州(Hampshire)ニューフォレスト(New Forrest)のグレイウッド(Greywood)に所在する土地と屋敷(膨大な蔵書がある図書室を含む)等の全財産を相続した。


1945年5月7日、枢軸国のドイツが連合国側に対して無条件降伏を行ったため、欧州にはやっと平和が訪れていた。

漸く心身の傷が癒えたマイルズ・ハモンドは、同年6月1日(金)の午後9時半頃、ロンドンのソーホー地区(Soho)内を歩いていた。

彼は、5年ぶりにソーホー地区内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会(午後8時半開始)に、友人のギディオン・フェル博士から招待されていたものの、気が進まず、1時間程遅れてしまったのである。



シャフツベリーアベニューの中間辺りから左手奥に入ると、
チャイナタウンがある。
<筆者撮影>


マイルズ・ハモンドは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北東方向へ延びるシャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenue → 2016年5月15日付ブログで紹介済)を左へ折れて、ディーンストリート(Dean Street)へと入った。ディーンストリートを北上すると、直ぐに進行方向右手にロミリーストリート(Romilly Street)が現れ、彼は右折して、ロミリーストリートを進む。ベルトリングレストランは、進行方向左手にある4階建ての建物だった。

「殺人クラブ」の晩餐会に出席する場合、ロミリーストリートに面した表玄関(side door)からではなく、ロミリーストリートを左折したグリークストリート(Greek Street)に面した通用口(side entrance)から入る必要があった。


ディーンストリート26−29番地(26-29 Dean Street → 2014年6月6日付ブログで紹介済)のレストラン
<筆者撮影>


ディーンストリート26−29番地にあるレストランの外壁には、
「1851年から1856年までの約5年間、カール・マルクスがここに住んでいた
(KARL MARX 1818-1883 lived here 1851-1856)」ことを示す
ブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


マイルズ・ハモンドがベルトリングレストランに到着すると、名誉幹事(Honorary secretary)を務めるギディオン・フェル博士が居ないだけでなく、13人の会員(男性9名+女性4名)も、誰一人来ていなかったのである。

何かの手違いにより、「殺人クラブ」の晩餐会はお流れとなったが、ベルトリングレストランには、


(1)バーバラ・モレル(Barbara Morell - 26歳):フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)にある新聞社の記者



(2)ジョルジュ・アントワーヌ・リゴー(Georges Antoine Rigaud):エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授(Professor)


の2人が居た。


今日開催される予定だった「殺人クラブ」の晩餐会に講演者として呼ばれてたジョルジュ・アントワーヌ・リゴー教授は、マイルズ・ハモンドとバーバラ・モレルの2人に対して、約6年前の1939年8月12日に、フランスで実際に起きた「塔の上の殺人事件」と言う不可思議な話を語り始めるのであった。


2025年8月1日金曜日

ロンドン ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)- その1

ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)を見たところ(その1)。
画面左手の建物(南側)は、
ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼で、
画面右手の建物(北側)は、現在、ギャラリーとなっている。
<筆者撮影>


今回は、英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の自邸だったピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)について、紹介したい。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


ピッツハンガーマナーは、ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスである。


ピッツハンガーマナー本館の北東側にあるピッツハンガーゲート(Pitzhanger Gate)は、
ウォルポールパークの入口でもある。
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーへ行くには、地下鉄のセントラルライン(Central Line)とディストリクトライン(District Line)、そして、ナショナルレール(National Rail)のエリザベスライン(Elizabeth Line)の3線が乗り入れているイーリングブロードウェイ駅(Ealing Broadway Station)と地下鉄のピカデリーライン(Piccadilly Line)が停車するサウスイーリング駅(South Ealing)が最寄り駅となっている。


ピッツハンガーゲートの左側の柵に掛けられている
ピッツハンガーマナー&ギャラリーの看板
<筆者撮影>


ピッツハンガーマナーが現在建っている場所に、少なくとも17世紀後半には、大きな屋敷が建っており、リチャード・スラニー(Richard Slaney)なる人物が、1664年から1674年までの間、暖炉16個分の炉税を納めた記録が残っている。


ピッツハンガーゲートの右側の塀には、
1800年から1810年までの間、サー・ジョン・ソーンがここに住んでいたことを示す
Ealing Civic Society のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


18世紀初頭時点で、当地に建っていた屋敷は、ジョン・ウィルマー(John Wilmer)とメアリー・ウィルマー(Mary Wilmer)の夫妻が所有しており、1711年、彼らの長女であるグリゼル・ウィルマー(Grizel Wilmer:1692年ー1756年)が裕福な商人であるジョナサン・ガーネル(Johnathan Gurnell:1684年ー1753年)と結婚するに際して、屋敷はウィルマー夫妻から彼らの長女に譲られた。

その後、屋敷は、ガーネル夫妻の唯一成人した息子であるトマス・ガーネル(Thomas Gurnell)が相続。

1768年に、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が、彼の下で建築を学び始めていたジョン・ソーンと一緒に、当該屋敷の拡張工事を請け負っている。

ジョージ・ダンス(子)は、王立芸術院(Royal Academy of Arts)の創立メンバーの一人であり、1771年10月に弟子のジョン・ソーンを王立芸術院へ入学させ、本格的な建築の勉強をさせている。


ジョージ・ダンス(子)が住んでいた
ガワーストリート91番地(91 Gower Street)
<筆者撮影>


ガワーストリート91番地の建物外壁には、
ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示す
Greater London Council のブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


トマス・ガーネルの死後、息子であるジョナサン・ガーネル2世(Johnatham Gurnell II)が屋敷を相続。

1791年にジョナサン・ガーネル2世が亡くなった後、屋敷は彼の娘に相続されたが、管理自体はトラストに委託された。

屋敷は1799年まで放置された後、トラストは屋敷の売却に踏み切った。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)における戦没者慰霊のための
Ealing War Memorial(1919年)越しに見た
ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)。
<筆者撮影>


ここに、ジョン・ソーンが再度登場する。


ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)を見たところ(その2)。
<筆者撮影>


ジョン・ソーンは、師匠のジョージ・ダンス(子)が1772年3月24日に結婚したことに伴い、英国の建築家であるヘンリー・ホランド(Henry Holland:1745年ー1806年)の下へ移っていた。そして、王立芸術院において、優れた成績を修めた後、欧州大陸(特に、イタリアのローマ)への留学を経て、1780年6月に英国へ帰国。帰国当初は、様々な案件に関与するものの、大きな案件のうち、実現まで辿り着くものはほとんどなく、師匠であるジョージ・ダンス(子)から、仕事を融通してもらっていた。1783年に入り、ノーフォーク州(Norfolk)にあるレットンホール(Letton Hall)と言う新しいカントリーハウスを建設する仕事を遂に得て、これを機に、1788年にかけて、英国各地で多くの大きな案件を請け負うようになり、次第に建築家としての頭角を現す。そして、1788年10月16日には、サー・ロバート・テイラーの後を継いで、イングランド銀行の建築家に就任し、正に建築家として上り調子にあった時期だった。 


2025年7月31日木曜日

ロンドン ピカデリー通り(Piccadilly)

ピカデリー通り(その1)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station / 現在の地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済))のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然再会する。

二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。



‘Not seen you for simply centuries,’ continued the young man. ‘Where are you off to? Come and chew a bun with me. We’re getting a bit unpopular here - blocking the gangway as it were. Let’s get out of it.’

The girl assenting, they started walking down Dover Street towards Piccadilly.


ピカデリー通り(その2)
<筆者撮影>

「まるで何世紀も、きみと会わなかった気がするよ」青年は続けた。「いったいどこに行くんだい?お茶でもどう?立ち話は通行の邪魔だから、どこかに行こうよ」

若い女性のほうが賛成したので、二人はドーヴァー・ストリートをピカデリーにむけて歩きだした。

(嵯峨 静江訳)


ピカデリー通り(その3)
<筆者撮影>

日本の株式会社 早川書房から出ているクリスティー文庫47「秘密機関」における嵯峨 静江氏による訳では、「ピカデリー」と言うやや曖昧な表現になってるが、地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口で偶然再会した昔馴染みのトミーとタペンスの二人が向かったのは、「ピカデリー通り(Piccadilly)」だと考えられる。


ピカデリー通り(その4)
<筆者撮影>

ピカデリー通りは、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路である。


ピカデリー通り(その5)
<筆者撮影>

ピカデリー通りの北側には、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイフェア地区(Mayfair)が、また、ピカデリー通りの南側には、東から同区のセントジェイムズ地区(St. James’s)、そして、グリーンパーク(Green Park)が広がっている。


ピカデリー通り(その6)
<筆者撮影>

ピカデリー通り自体、中世の頃より主要な幹線道路として発展。

1611年ー1612年頃、仕立屋であるロバート・ベイカー(Rober Baker)が、周辺の土地を購入。

ロバート・ベイカーは、「Piccadilly / pickadill」と呼ばれるレース付きのえり(collar)を製造 / 販売して、これが大成功をおさめ、通り沿いに自分の住居や店舗を含む建物を建設。

これに因んで、この通りは「ピカデリー通り」と呼ばれるようになる。


ピカデリー通り(その7)
<筆者撮影>

ピカデリー通り沿いには、


(1)北側 / ル・メリディアン・ピカデリー・ホテル(Le Meridien Piccadilly Hotel → 2014年10月4日付ブログで紹介済)


夕闇に浮かぶル・メリディアン・ピカデリー・ホテル
<筆者撮影>


(2)南側 / セントジェイムズ教会(St. James’s Church → 2018年10月13日付ブログで紹介済)


ピカデリー通りの北側から見たセントジェイムズ教会
<筆者撮影>


(3)南側 / フォートナム&メイソン(Fortnum & Mason)


ピカデリー通りの北側から見たフォートナム&メイソン
<筆者撮影>

(4)北側 / 王立芸術院(Royal Academy of Arts)


正面奥に見える建物が、
王立芸術院が入っているバーリントンハウス(Burlington House)
<筆者撮影>

1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手の1枚


(5)南側 / ピカデリーアーケード(Piccadilly Arcade → 2016年4月10日付ブログで紹介済)


ピカデリー通りの北側から見たピカデリーアーケードの出入口
<筆者撮影>


(6)北側 / バーリントンアーケード(Burlington Arcade → 2016年5月20日付ブログで紹介済)


ピカデリー通りの南側から見たバーリントンアーケードの出入口
<筆者撮影>


(7)南側 / リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)


ピカデリー通りの北側から見たリッツ ロンドン
<筆者撮影>


(8)グリーンパーク(Green Park)


等、数多くの観光名所が点在している。


なお、在英国日本国大使館(Embassy of Japan in the UK)も、ピカデリー通りの北側に、グリーンパークを望む場所に建っている。


2025年7月30日水曜日

ロンドン 地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)

ストラットンストリート沿いにある
地下鉄グリーンパーク駅の出入口(その1)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然再会する。


ジュビリーラインのプラットフォームの壁にある
地下鉄グリーンパーク駅の表示


トミーとタペンスが再会した地下鉄ドーヴァーストリート駅とは、現在の地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)のことで、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。



ピカデリー通りの北側にある
地下鉄グリーンパーク駅の出入口

地下鉄ドーヴァーストリート駅(現地下鉄グリーンパーク駅)は、1906年12月15日に開業。開業当初は、ピカデリーライン(Piccadilly Line)が乗り入れた。

英国の建築家であるレスリー・ウィリアム・グリーン(Lesile William Green:1875年ー1908年)が設計した駅ビルがドーヴァーストリート沿いに建設されたため、地下鉄の駅は、ドーヴァーストリート駅と命名。


ピカデリー通りの南側にある
地下鉄グリーンパーク駅の出入口

ピカデリー通りの南側にある
地下鉄グリーンパーク駅の外壁

1910年代後半になると、地下鉄ドーヴァーストリート駅は、利用者の増加に対応できなくなったため、近代化が図られた。

地上とプラットフォームを結ぶリフトの代わりに、エスカレーターが導入。

また、チケットホールは、ピカデリー通り(Piccadilly - ピカデリーラインベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ通り)の地下に新たに設置され、1933年9月18日にオープン。

チケットホールへの出入口(北側)は、ピカデリー通り側とストラットンストリート(Stratton Street - ドーヴァーストリートよりも2つ西に所在する通り)側に、また、出入口(南側)は、リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月25日付ブログで紹介済)の西側に隣接するグリーンパーク(Green Park)側に設けられた。

その結果、地下鉄の名前は、「ドーヴァーストリート駅」から「グリーンパーク駅」へと改名。

これに伴い、ドーヴァーストリート沿いの駅ビルは、閉鎖の憂き目に遭う。



ストラットンストリート沿いにある
地下鉄グリーンパーク駅の出入口(その2)

地下鉄グリーンパーク駅に乗り入れる路線は、当初、ピカデリーラインだけであったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後、他の路線の乗り入れが図られ、1969年3月7日には、ヴィクトリアライン(Victoria Line)が、更に、1999年11月20日には、ジュビリーライン(Jubilee Line)が、地下鉄グリーンパーク駅に乗り入れるようになった。


ストラットンストリート沿いにある
地下鉄グリーンパーク駅の出入口(その3)

その結果、現在、地下鉄グリーンパーク駅には、ピカデリーライン、ヴィクトリアラインとジュビリーラインの3路線が乗り入れている。

ちなみに、ピカデリーラインの場合、地下鉄グリーンパーク駅は、地下鉄ピカデリーサーカス駅(東側)と地下鉄ハイドパークコーナー駅(西側)の間に、ヴィクトリアラインの場合、地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station - 北側)と地下鉄ヴィクトリア駅(Victoria Tube Station - 南側 → 2017年7月2日付ブログで紹介済)の間に、また、ジュビリーラインの場合、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station - 北側)と地下鉄ウェストミンスター駅(Westminster Tube Station - 南側)の間で所在しており、非常に混雑する駅同士を結んでいる。