2025年8月26日火曜日

ロンドン 地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)- その2

ディストリトラインとピカデリーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅の入口(その1)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1933年に発表したエルキュール・ポワロシリーズの長編「エッジウェア卿の死」(Lord Edgware Dies → 2025年3月19日 / 3月29日付ブログで紹介済)」において、第4代エッジウェア男爵ジョージ・アルフレッド・セント・ヴィンセント・マーシュ(George Alfred St. Vincent Marsh, 4th Baron Edgware)/ エッジウェア卿(Lord Edgware)が殺された夜、米国出身の舞台女優ジェーン・ウィルキンスン(Jane Wilkinson)は、「テムズ河(River Thames)畔のチジック地区(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)内に邸宅を所有しているサー・モンタギュー・コーナー(Sir Montague Corner)が開催した盛大な晩餐会に出席していた。」と答え、また、その晩餐会に出席していた他の客達も、彼女がその場に居たことを認めた。つまり、妻で、一番疑わしいジェーン・ウィルキンスンには、アリバイがあったのだ。


英国の HarperCollins Publishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「エッジウェア卿の死」の
ペーパーバック版の表紙


エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)の2人がサー・モンタギュー・コーナーの邸宅を訪れた際、問題の晩餐会に出席していたロナルド・ロス(Ronald Ross - 若き俳優)も偶然居た。サー・モンタギュー・コーナー夫妻も、ロナルド・ロスも、ジェーン・ウィルキンスンが問題の晩餐会に出席していたことを証言する。

サー・モンタギュー・コーナーの邸宅を辞したポワロとヘイスティングス大尉に対して、ロナルド・ロスは、「ハマースミス駅からケンジントン(Kensington)のフラットへ帰ります。」と告げた。


英国の HarperCollins Publishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作
「エッジウェア卿の死」のペーパーバック版の表紙


ロナルド・ロスがケンジントンのフラットへ帰るために使用した地下鉄ハマースミス(Hammersmith Tube Station)は、ロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)ハマースミス地区(Hammersmith)内に所在する地下鉄の駅である。


ディストリトラインとピカデリーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅の入口(その2)
<筆者撮影>


地下鉄ハマースミス駅には、以下の3つのラインが乗り入れている。


(1)サークルライン(Circle Line)/ ハマースミス&シティーライン(Hammermisth & City Line)

(2)ディストリクトライン(District Line)

(3)ピカデリーライン(Piccadilly Line)


ディストリトラインとピカデリーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅が入っているショッピングセンタービルを
ハマースミスブロードウェイ越しに見上げたところ
<筆者撮影>


実は、地下鉄ハマースミス駅は2つに分かれていて、ディストリクトラインとピカデリーラインの2線が乗り入れている駅は、ハマースミスブロードウェイ(Hammersmith Broadway)に北側を、バターウィック(Butterwick)に東側を、クイーンキャロラインストリート(Queen Caroline Street)に西側を、そして、タルガースロード(Talgarth Road)に南側を囲まれた環状交差点(roundabout)内に建つショッピングセンタービル内に所在している。


バスターミナルからショッピングセンタービルへの入口
<筆者撮影>

バスターミナルからショッピングセンタービルを向かう通路の壁アート(その1
<筆者撮影>

バスターミナルからショッピングセンタービルを向かう通路の壁アート(その2)
<筆者撮影>

バスターミナルからショッピングセンタービルを向かう通路の床
<筆者撮影>


ディストリクトラインが地下鉄アールズコート駅(Earl’s Court Tube Station)から西進した結果、1874年9月9日、地下鉄ハマースミス駅は、西側の終点駅としてオープン。

1877年、ディストリクトラインは地下鉄ハマースミス駅から更に地下鉄レイヴンズコートパーク駅(Ravenscourt Park Tube Station)まで西進し、ロンドン&サウスウェスタン鉄道(London and South Western Railway)に接続、路線は地下鉄リッチモンド駅(Richmond Tube Station)まで延伸した。

ピカデリーラインは、1906年12月15日、地下鉄ハマースミス駅まで西進。

1990年代初めに、当時の駅ビルが、隣接するバスガレージと一緒に、取り壊され、ショッピングセンタービルとバスターミナルが建設され、ディストリクトラインとピカデリーラインが乗り入れる地下鉄ハマースミス駅は、同ショッピングセンタービル内に入った。


ショッピングセンタービルに隣接するバスターミナル
<筆者撮影>


一方、サークルライン / ハマースミス&シティーラインが乗り入れている駅は、上記の環状交差点から北西へ延びるビードンロード(Beadon Road)の北側に所在している。

同駅は、サークルライン / ハマースミス&シティーラインの西側の終点駅となっている。


サークルライン / ハマースミス&シティーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅の駅舎
<筆者撮影>

サークルライン / ハマースミス&シティーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅の構内から外を見たところ -
画面奥を左右に延びる通りが、ビードンロード。
<筆者撮影>

サークルライン / ハマースミス&シティーラインが乗り入れている
地下鉄ハマースミス駅の改札口とプラットフォーム
<筆者撮影>


地下鉄ハマースミス駅を出たディストリクトラインとピカデリーラインの2線は、サウスケンジントン駅(South Kensington Tube Station)に停車するので、ロナルド・ロスは、ディストリクトラインとピカデリーラインのいずれかの線を使って、自分のフラットへ帰ったものと思われる。


2025年8月25日月曜日

ロンドン ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)- その3


英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年 → 2025年6月24日 / 6月28日 / 7月9日付ブログで紹介済)の自邸(ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウス)だったピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor - 1800年:購入 / 1800年ー1804年:改築工事 / 1810年:売却)は、数名の購入者の手を経た後、1843年に、英国で唯一暗殺された首相であるスペンサー・パーシヴァル(Spencer Perceval:1762年ー1812年)の娘の邸宅となった。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


1900年に、ロンドンの特別区の一つであるイーリング区(London Borough of Ealing)が、ピッツハンガーマナーを購入し、公立図書館への改装に着手。ただし、最後の住民であるフレデリカ・パーシヴァル(Frederika Perceval)がまだ住んでいたため、彼女が1901年5月に亡くなってからの工事着工となった。


ピッツハンガーマナー本館の入口(その1)

ピッツハンガーマナー本館の入口(その2)

ピッツハンガーマナー本館の入口(その3)

ピッツハンガーマナー本館の入口(その4)


英国の建築家であるチャールズ・ジョーンズ(Charles Jones:1830年ー1913年)が、主任監督官として、ピッツハンガーマナーの改装工事を担当。

まず最初に、チャールズ・ジョーンズは、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が設計した南ウィング地階の食堂の西側に増築。ただし、複数の建築様式が衝突し合うことを避けるため、増築部分を元からある隣室と同じ様式で設計。また、本館北側に所在した使用人用の建物と古代ローマ遺跡風のモニュメントは取り壊して、その跡地に本館と棟続きになる新館を新築。この新館が、現在、「PMギャラリー&ハウス(PM Gallery & House)」と呼ばれている。

改装工事が終わった1902年4月、ピッツハンガーマナーは、公立図書館として、一般に公開された。









1938年から1940年にかけて、公立図書館の機能は、本館から棟続きの新館へ移された。

1984年には、ピッツハンガーマナーにおける図書館機能は、同所から近くのイーリングブロードウェイショッピングセンター(Ealing Broadway Shopping Centre)に新設された図書館へ完全に移行。

1985年より、ピッツハンガーマナー修復作業がスタート。







修復作業を終えた新館は、1987年1月より、「PMギャラリー&ハウス」として、現代美術展示場、イベント会場やワークショップ会場等として使用されている。


画面奥に見える建物が、ピッツハンガーマナー新館。

ピッツハンガーマナー新館において開催された
現代美術展の数々。


イーリング区は、建物構造や塗装類の分析を通じて、サー・ジョン・ソーンによるピッツハンガーマナー改築工事当時の外観を復元するプロジェクトを開始し、2015年より工事に着工。その際、チャールズ・ジョーンズによる南ウィング地階の食堂の西側への増築も撤去。


イーリング区による復元作業により、
ジョージ・ダンスが設計した南ウィングは元に復旧(その1)

イーリング区による復元作業により、
ジョージ・ダンスが設計した南ウィングは元に復旧(その2)


復元工事の竣工後、2019年3月19日、「ピッツハンガーマナー&ギャラリー(Pitzhanger Manor & Gallery)」として再オープンを迎える。







「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」は、現在、歴史的な建造物の一つとして、「グレード I(Grade I listed building)」に指定されている。

ピッツハンガーマナーは、サー・ジョン・ソーンが改築を行った当時の外観を保っているため、映画やテレビドラマ等のロケ地として、撮影に使用されている。



ピッツハンガーマナー本館の最上階に設置されている
アテナ像

ピッツハンガーマナー本館の階段の壁に置かれている
サー・ジョン・ソーンの胸像


「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」の西側には、ウォルポールパークが広がっている。

「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」に隣接する
Walled Garden(その1)

「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」に隣接する
Walled Garden(その2)


「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」に隣接する
Walled Garden(その3)

「ピッツハンガーマナー&ギャラリー」に隣接する
Walled Garden(その4)

2025年8月24日日曜日

コナン・ドイル作「技師の親指」<小説版>(The Engineer’s Thumb by Conan Doyle )- その2

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その2)-
ジョン・H・ワトスンと一緒に、ベイカーストリート221B に
事件の相談に訪れた水力技師のヴィクター・ハザリーのために、
シャーロック・ホームズは、ブランデーの水割りが入ったグラスを、
彼の手が届く場所に置いた。
画面左側の人物が、ヴィクター・ハザリーで、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、9番目に発表した作品で、英国の「ストランドマガジン」の1892年3月号に掲載された「技師の親指(The Eingeer's Thumb)」の場合、1889年の夏の午前7時前、水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリーが手を負傷して、「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月2日付ブログで紹介済)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院へ連れて来られるところから、物語が始まる。


通常は、事件の依頼人がベイカーストリート221B(のシャーロック・ホームズの元を相談に訪れるところから話が始まるが、今回は一風変わった展開となっている。

実際、物語の冒頭において、「私達の親交は長きにわたっているが、その間、友人シャーロック・ホームズが解決を依頼された事件のうち、私自身が仲介役となって持ち込んだ事件は、わずか2件だけで、それらは、ハザリー氏の親指事件とウォーバートン大佐の狂乱事件である。(Of all the problems which have been submitted to my friend, Mr Sherlock Holmes, for solution during the years of our intimacy, there were only two which I was the means of introducing to his notice - that of Mr Hatherley’s thumb and that of Colonel Warburton’s madness.)」と、ワトスンは述べている。


メイドに起こされたワトスンが診察室に入ると、25歳を超えていないくらいの若さで、たくましい男性的な顔つきをした一人の紳士がテーブルの側に座っていた。彼は片手にハンカチを巻いており、そのハンカチ全体に血が滲んでいた。更に、彼の顔色は真っ青で、何か強い精神的な動揺を受けたのを、気力を振り絞って耐えているかのようだった。

彼は、ワトスンに対して、朝早くに起こしたことを謝罪した後、「昨夜、酷い災難に遭ったのです。今朝、列車でパディントン駅に着き、どこかにお医者さんは居ないかとそこで尋ねたところ、親切な方が私をここまで連れて来てくれました。私は女中さんに名刺を渡したのですが、彼女はサイドテーブルの上に置き忘れて行ったようですね。」と告げる。ワトスンがその名刺を手に取ってみると、そこには、「ヴィクター・ハザリー、水力工学技師(hydraulic engineer)、ヴィクトリアストリート16A番地(4階)」と書かれていた。


ヴィクター・ハザリーは、手に巻いていた血が滲んだハンカチをを外すと、ワトスンの方へ手を差し出した。4本の指が差し出されたが、親指がある筈の場所が、恐ろしい赤色の海綿状となっており、仕事柄慣れてるワトスンでも、背筋がぞーっとした。

ワトスンが、根元から断ち切られたか、引き千切られた親指があった筈の場所について尋ねると、ヴィクター・ハザリーからは、「大きな肉切り包丁のようなものでやられました。危うく殺されるところでした。(A thing of like a cleaver. Very murderous indeed.)」と言う答えが返ってきたのである。


ワトスンが手の治療を終えると、ヴィクター・ハザリーは、「警察へ行って、話をする必要があるが、非常に突拍子もない話なので、犯人を捕まえることができるかどうか、疑わしい。」と告げたため、ワトスンは、ヴィクター・ハザリーに対して、ホームズへ相談するよう、強く勧めた。

そして、妻(メアリー・モースタン)に事情を簡単に説明すると、ワトスンは、使用人が呼んだ辻馬車で、ヴィクター・ハザリーと一緒に、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)へと向かった。


運が良いことに、ホームズは、まだ朝食前だった。ホームズ、ワトスンとヴィクター・ハザリーの3人で一緒に朝食をとった後、ホームズがヴィクター・ハザリーをソファーに座らせると、彼の頭の後ろに枕をあて、ブランデーの水割りが入ったグラスを彼の手が届くところに置いた。(When it was concluded he settled our new acquaintance upon the sofa, placed a pillow beneath his head and laid a glass of brandy and water within his reach.)


ワトスンの治療を受け、そして、朝食を食べて落ち着いたヴィクター・ハザリーは、ホームズとワトスンの2人に対して、彼が体験した奇妙な出来事について、話し始める。


ヴィクター・ハザリーは、他に身寄りがない独身で、ロンドンの下宿で一人暮らしをしていた。

彼の職業は水力工学技師で、グリニッジ(Greenwich)にある有名なヴェナー&マジソン社(Venner & Matheson)において、7年間、見習いを務めた。

見習い期間を終えた2年前、亡くなった父親から相続した相応の金額を使って、起業することを決め、ヴィクトリアストリート(Victoria Street)の一室で開業。

開業はしたものの、2年間のうち、収入につながった仕事は、相談が3件と小さな仕事が1件だけで、総収入は、僅かに27ポンド10シリングだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その3) -
仕事が全く鳴かず飛ばずの状態だった
水力技師のヴィクター・ハザリーの元へ、
昨日、ライサンダー・スターク大佐と名乗る人物が、
突然、仕事の依頼のために現れたのである。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


ヴィクター・ハザリーは、毎日、朝の9時から夕方の4時まで、事務所で仕事を待ち続けたが、新たな仕事が到来する兆しは全くなかった。

ところが、昨日、彼が帰宅しようとしていたところ、事務員が来客を告げた。その事務員が持って来た名刺には、「ライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)」と書かれていたのである。