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ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)を見たところ(その1)。 画面左手の建物(南側)は、ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼で、 画面右手の建物(北側)は、現在、ギャラリーとなっている。 <筆者撮影> |
今回は、英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の自邸だったピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)について、紹介したい。
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英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス (Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた 「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」 (1828年ー1829年)の絵葉書 Oil on canvas <筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入> |
ピッツハンガーマナーは、ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスである。
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ピッツハンガーマナー本館の北東側にあるピッツハンガーゲート(Pitzhanger Gate)は、 ウォルポールパークの入口でもある。 <筆者撮影> |
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ピッツハンガーゲートの左側の柵に掛けられている ピッツハンガーマナー&ギャラリーの看板 <筆者撮影> |
ピッツハンガーマナーが現在建っている場所に、少なくとも17世紀後半には、大きな屋敷が建っており、リチャード・スラニー(Richard Slaney)なる人物が、1664年から1674年までの間、暖炉16個分の炉税を納めた記録が残っている。
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ピッツハンガーゲートの右側の塀には、 1800年から1810年までの間、サー・ジョン・ソーンがここに住んでいたことを示す Ealing Civic Society のプラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
18世紀初頭時点で、当地に建っていた屋敷は、ジョン・ウィルマー(John Wilmer)とメアリー・ウィルマー(Mary Wilmer)の夫妻が所有しており、1711年、彼らの長女であるグリゼル・ウィルマー(Grizel Wilmer:1692年ー1756年)が裕福な商人であるジョナサン・ガーネル(Johnathan Gurnell:1684年ー1753年)と結婚するに際して、屋敷はウィルマー夫妻から彼らの長女に譲られた。
その後、屋敷は、ガーネル夫妻の唯一成人した息子であるトマス・ガーネル(Thomas Gurnell)が相続。
1768年に、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が、彼の下で建築を学び始めていたジョン・ソーンと一緒に、当該屋敷の拡張工事を請け負っている。
ジョージ・ダンス(子)は、王立芸術院(Royal Academy of Arts)の創立メンバーの一人であり、1771年10月に弟子のジョン・ソーンを王立芸術院へ入学させ、本格的な建築の勉強をさせている。
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ジョージ・ダンス(子)が住んでいた ガワーストリート91番地(91 Gower Street) <筆者撮影> |
ガワーストリート91番地の建物外壁には、 ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示す Greater London Council のブループラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
トマス・ガーネルの死後、息子であるジョナサン・ガーネル2世(Johnatham Gurnell II)が屋敷を相続。
1791年にジョナサン・ガーネル2世が亡くなった後、屋敷は彼の娘に相続されたが、管理自体はトラストに委託された。
屋敷は1799年まで放置された後、トラストは屋敷の売却に踏み切った。
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第一次世界大戦(1914年ー1918年)における戦没者慰霊のための Ealing War Memorial(1919年)越しに見た ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)。 <筆者撮影> |
ここに、ジョン・ソーンが再度登場する。
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ピッツハンガーマナーの建物正面(東側)を見たところ(その2)。 <筆者撮影> |
ジョン・ソーンは、師匠のジョージ・ダンス(子)が1772年3月24日に結婚したことに伴い、英国の建築家であるヘンリー・ホランド(Henry Holland:1745年ー1806年)の下へ移っていた。そして、王立芸術院において、優れた成績を修めた後、欧州大陸(特に、イタリアのローマ)への留学を経て、1780年6月に英国へ帰国。帰国当初は、様々な案件に関与するものの、大きな案件のうち、実現まで辿り着くものはほとんどなく、師匠であるジョージ・ダンス(子)から、仕事を融通してもらっていた。1783年に入り、ノーフォーク州(Norfolk)にあるレットンホール(Letton Hall)と言う新しいカントリーハウスを建設する仕事を遂に得て、これを機に、1788年にかけて、英国各地で多くの大きな案件を請け負うようになり、次第に建築家としての頭角を現す。そして、1788年10月16日には、サー・ロバート・テイラーの後を継いで、イングランド銀行の建築家に就任し、正に建築家として上り調子にあった時期だった。
