2023年3月8日水曜日

フランケンシュタインの世界<ジグソーパズル>(The World of Frankenstein )- その2

英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より2022年に出ているジグソーパズル「フランケンシュタインの世界(The World of Frankenstein)」のイラスト内には、英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年)1818年1月に発表したゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」の物語に関して、各場面が散りばめられているので、今回から、順番に紹介していきたい。


<ディオダディ荘(Villa Diodati)での怪奇談議>


スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議 -
画面左側から、
英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー、
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー
(当時は、まだ
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)、
そして、
英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンだと思われる。

(1)

メアリー・シェリーは、1797年8月30日、無神論者でアナーキズムの先駆者である父ウィリアム・ゴドウィンとフェミニズムの先駆者である母メアリー・ウルストンクラフトの元に出生したが、10日程後に母は産褥熱のため死去してしまった。


彼女(当時の名前は、まだメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)は、1813年頃、英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年)と出会い、付き合うようになる。ただ、当時、パーシー・シェリーは妻帯者だったため、彼との恋愛について、彼女の父親であるウィリアム・ゴドウィンは大反対をし、その結果、彼女は、パーシー・シェリーと一緒に、欧州大陸へ駆け落ちをすることになる。


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
パーシー・ビッシュ・シェリーが選ばれている。


彼ら二人は、一旦、欧州大陸から英国に帰国するものの、パーシー・シェリーの友人で、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年)に誘われて、1816年5月、バイロン卿、彼の愛人であるクレア・クレモント(Claire Clairmont:1798年ー1879年 / メアリー・シェリーの義姉妹)、パーシー・シェリーと彼女の4人は、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘に滞在した。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書
(Richard Westall
 / 1813年 / Oil on panel
914 mm x 711 mm) 


同年7月、長く降り続く雨のため、屋内に閉じ込められていた折、バイロン卿は、「皆で一つずつ怪奇譚を書こう。(We will write a ghost story.)」と、他の3人に提案した。このディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに、彼女は、フランケンシュタインの怪物の着想を得て、小説の執筆に取りかかった。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画 -
彼は、アルバニア風の衣装を身に付けている。

020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


同年9月、彼ら4人が英国に帰国した後、同年12月にパーシー・シェリーの妻ハリエット・シェリー(Harriet Shelley:1795年ー1816年)がハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)のサーペンタイン湖(Serpentine → 2015年3月15日付ブログで紹介済)で入水自殺したため、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、パーシー・シェリーと正式に結婚して、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーとなったのである。


メアリー・シェリーは、ディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに着想を得たフランケンシュタインの怪物の話を1817年5月に脱稿し、翌年の1818年1月に匿名で出版した。このゴシック小説の正式なタイトルが、「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス」である。当作品の出版により、後に、彼女は SF の先駆者と見做されるようになる。

1818年3月には、夫であるパーシー・ビッシュ・シェリーの序文を付けて、再度、匿名で同作品を出版した。

現在、一般に流布している版は、1831年に出版された第3版(改訂版)がベースとなっている。


東京創元社から刊行されている
メアリー・シェリー作「フランケンシュタイン」(創元推理文庫)の表紙 -
表紙のデザインは、松野光洋氏が担当 -
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452年 - 1519年)が
1485年 - 1490年頃に描いた「ウィトルウィウス的人体図(Uomo vitruviano)」が、
デザインのベースになっていると思われる。


彼女は、1815年に長女を生後間もなくして亡くした後、1818年9月に次女のクレアラ(1817年ー1818年)を赤痢で、そして、1819年6月に長男のウィリアム(1816年ー1819年)をマラリアで、それぞれを幼少期に亡くす。更に、彼女は、1822年7月には夫のパーシー・ビッシュ・シェリーをイタリアのヴィアレッジョ(Viareggio)沖での突然の暴風雨による帆船沈没事故で亡くすという波瀾の人生を送っている。


また、フランケンシュタインの怪物を生み出す切っ掛けを与えてくれた第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンも、1824年4月、ギリシア独立戦争に参戦中、熱病に罹患して、同地で死去している。


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