2023年10月1日日曜日

コンウォール州(Cornwall) レストーメル城(Restormel Castle)- その2

レストーメル城のキープを外側から見上げたところ(その1)


昔、戦略上の要所とされていたロストウィジール(Lostwithiel)の町を見下ろす場所に建つレストーメル城(Restormel Castle)が、歴史上、戦いの場所となるのは、一度のみである。


レストーメル城のキープを外側から見上げたところ(その2)


1625年にステュアート朝(House of Stuart)の初代国王である父ジェームズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)の死去に伴い、第2代国王(イングランド、スコットランドとアイルランドの王)となったチャールズ1世( Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年-1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)は、父王と同様に「王権神授説」を信奉して、議会と対立。1628年に議会は「権利の請願(Petition of Right)」を提出し、課税には議会の承認を得ることを求めたが、チャールズ1世は1629年に議会を解散して、議会の指導者を投獄する等、専制政治を実行した。更に、彼は国教統一にも乗り出し、ピューリタン(Puritan)を弾圧したため、各地での反乱を引き起こす引き金となった。


レストーメル城のキープの上から内側を見下ろしたところ(その1)

1642年、チャールズ1世が反国王派の議員を逮捕しようとしたことに伴い、議会派と王党派の内戦が勃発。これが、ピューリタン革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)である。


レストーメル城のキープの上から内側を見下ろしたところ(その2)

1644年にレストーメル城が、そして、1645年に、トトネス城が、王党派軍によって占拠された。その後、王党派軍は、議会派を支持したダートマス(Dartmouth → 2023年9月10日 / 9月12日付ブログを紹介ず)へと進軍して、1646年1月、ダートマス城を含むダートマスを攻撃し、1日で陥落させている。

ピューリタン革命後の1649年に行われた調査によると、レストーメル城は、ほとんど廃墟と化しており、修復が非常に困難な上、取り壊すために、お金をかける程の価値もないとされている。


レストーメル城のキープの上から内側を見下ろしたところ(その3)

その後も、レストーメル城は、廃虚のままとなっていたが、19世紀に入ると、絵画のように美しいとの評判により、トトネス城と同様に、人気の観光名所となる。


レストーメル城のキープの上から内側を見下ろしたところ(その4)

1925年に、コンウォール公爵エドワード王子(Prince Edward, Duke of Cornwall:1894年ー1972年 - 後に、ウィンザー朝(House of Windsor)第2代国王であるエドワード8世(Edward VIII:1932年1月20日ー同年12月11日)として即位)は、英国の建設省(Ministry of Works - 1971年以降は、環境省(Department of the Environment)の一部として編入)に対して、レストーメル城の管理を委ねた。

レストーメル城は、現在、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)により管理され、一般に開放されている。


レストーメル城のキープの上から内側を見下ろしたところ(その5)

レストーメル城は、コンウォール州におけるノルマン様式で築かれた主要な4大城の一つで、他には、(1)ローンストン城(Launceston Castle)、(2)ティンタジェル城(Tintagel Castle → 2022年7月23日付ブログで紹介済)と(3)トレメートン城(Trematon Castle)がある。


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