2023年8月25日金曜日

アガサ・クリスティー作「オリエント急行の殺人」<小説版>(Murder on the Orient Express by Agatha Christie )- その1

2013年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「オリエント急行の殺人」
(ペーパーバック版)の表紙
(Cover design by Claire Ward / HarperCollinsPublishers Ltd.
Background illustration and silhouette Shutterstock.com)


今回は、「アガサ・クリスティーの世界<ジグソーパズル>(The World of Agatha Christie <Jigsaw Puzzle>)- その26(→ 2023年7月21日付ブログで紹介済)」において言及した「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」について、紹介致したい。


「オリエント急行の殺人」は、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1934年に発表した作品で、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第14作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第8作目に該っている。


アガサ・クリスティーは、1920年の推理作家デビュー以降、長編5作と短編集1作を既に発表していたが、推理作家としての彼女の知名度は、今ひとつだった。しかしながら、1926年に発表した長編第6作目「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2022年11月7日付ブログで紹介済)」のフェア・アンフェア論争により、アガサ・クリスティーの知名度は大きく高まり、ベストセラー作家の仲間入りを果たした。


一方で、同年、アガサ・クリスティーは、最愛の母親を亡くしたことに加えて、夫であるアーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)に、別に恋人が居ることが判明して、精神的に不安定な状態にあった。


当時、ロンドン近郊の田園都市であるサニングデール(Sunningdale)の自宅スタイルズ荘(Styles - 「茶色の服の男(The Man in the Brown Suit → グラフィックノベル版については、2021年1月18日付ブログで紹介済)」(1924年)の出版により得たまとまった収入で購入し、処女作に因んで命名)に住んでいたアガサ・クリスティーは、同年(1926年)12月3日、住み込みのメイドに対して、行き先を告げず、「外出する。」と伝えると、当時珍しかった自動車を自分で運転して、自宅を出たまま、行方不明となってしまう。

「アクロイド殺し」がベストセラー化したことにより、有名人となった彼女の失踪事件は、世間の興味を非常に掻き立てた。警察は、彼女の行方を探すとともに、彼女が事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて、捜査を進め、夫のアーチボルドも疑われることになった。マスコミは格好のネタに飛び付き、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-193年)やピーター・デス・ブリードン・ウィムジイ卿(Lord Peter Death Bredon Wimsey)シリーズの作者であるドロシー・L・セイヤーズ(Dorothy Leigh Sayers:1893年ー1957年)等が、マスコミから求められて、コメントを出している。

11日後、彼女は、保養地(Harrogate)のホテル(The Swan Hydropathic Hotel)に別人(夫アーチボルドの愛人であるナンシー・ニール(Nancy Neele)と同じ姓のテレサ・ニール(Teresa Neele))の名義で宿泊していたことが判り、保護された。


上記の通り、1926年に、アガサ・クリスティーは、キャリア面において、ベストセラー作家の仲間入りを果たすとともに、プライベート面においても、失踪事件を起こして、世間からの脚光を浴びてしまう。

上記の失踪事件を経て、1928年に、アガサ・クリスティーは、夫のアーチボルドと離婚することになる。


2016年9月15日に、英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された

アガサ・クリスティーの没後40周年の記念切手の一つである「オリエント急行の殺人」は、

米国人の実業家であるサミュエル・エドワード・ラチェットが殺害された深夜、

オリエント急行列車の廊下を外側から見た場面が描かれている。

画面左手には、フランス人で、車掌のピエール・ポール・ミシェルが立っており、

画面中央には、エルキュール・ポワロの部屋を突然ノックして、

彼の安眠を妨害し、立ち去って行く赤い着物を羽織った女性が描かれている。

そして、積雪による吹き溜まりの中に立ち往生したオリエント急行の煙突から立ち上った煙は、

帽子をかぶったポワロの形となって、ラチェットの殺害現場を見ているのである。

三日月が、ポワロの眼に該っている。

更に、画面の一番下には、ラチェットを殺害したと思われる

容疑者13名(12名の乗客と車掌)の名前が列挙されている。


同年の秋、ディナーパーティーにおいて、他の出席者から勧められたオリエント急行に乗って、アガサ・クリスティーは、中東旅行へと出発して、トリエステ(Trieste)、ベオグラード(Belgrade)、イスタンブール(Istanbul)、アレッポ(Aleppo)、ダマスカス(Damascus)、そして、バグダッド(Baghdad)まで足を伸ばした。その後、メソポタミア文明の首都と見做されていたウル(Ur)の発掘現場(1925年-1931年)も訪問して、考古学者のレオナード・ウーリー(Leonard Woolley)夫妻と知り合う。

この時の経験が、後に「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」(1934年)に結実するのである。 


中東や考古学等に興味を抱いたアガサ・クリスティーは、翌年の1930年に、再度、中東旅行に出かけ、ウルの発掘現場において、レオナード・ウーリーの弟子として働いていた考古学者で、14歳年下のマックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と出会い、彼からプロポーズを受け、同年の9月11日に再婚する。


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