2023年7月9日日曜日

シェイクスピアの世界<ジグソーパズル>(The World of Shakespeare )- その16

英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2020年に発売されたジグソーパズル「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」には、のイラスト内には、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)や彼が生きた時代の人物、彼の劇が上演されたグローブ座、そして、彼が発表した史劇、悲劇や喜劇に登場するキャラクター等が散りばめられているので、前回に続き、順番に紹介していきたい。


今回は、イングランドの黄金期と言われている「エリザベス朝(Elizabethan era)」に、海賊(私掠船の船長)、航海者、そして、英国海軍提督(中将)として活躍したサー・フランシス・ドレイク(Sir Francis Drake:1543年頃ー1596年)である。


世界一周航海を成し遂げたガレオン船ゴールデンハインド号の舳先に、
サー・フランシス・ドレイクが立っているのが見える。


フランシス・ドレイクは、1543年頃、デヴォン州(Devon)タビストック(Tavistock)に、牧師の父エドマンド・ドレイク(Edmund Drake)と母メアリー・ミルウェイ(Mary Mylwaye)の長男として出生。

幼い頃から、近所に住む老船長の下、航海に従事した。


長じると、従兄弟のジョン・ホーキンス(John Hawkins:1532年ー1595年)の下、奴隷貿易に従事。その後、自ら船を調達の上、船長となり、従兄弟の船団に参加していた際、スペイン海軍による奇襲を受けて、船団はほぼ壊滅し、フランシス・ドレイク自身は、命からがら英国へと戻った。

この時の経験が、フランシス・ドレイクに、生涯にわたり、スペインに対する復讐心を抱かせる要因となったのである


1569年に、フランシス・ドレイクは、メアリー・ニューマン(Mary Newman)と結婚。

スペインに対する復讐心を晴らすべく、1570年以降、彼は、西インド諸島のスペイン船や町を襲い、海賊活動を開始した。


1577年12月13日に、フランシス・ドレイクは、ガレオン船ゴールデンハインド号(Golden Hind)を旗艦とする5隻の艦隊で、デヴォン州プリマス(Plymouth)から世界一周航海へと出航。

マゼラン海峡を経て、大西洋から太平洋へと出ると、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲い、多くの財宝を奪った。

その後、太平洋を横断すると、インド洋、喜望峰を通って、1580年9月に、旗艦ゴールデンハインド号のみが、プリマスに帰港した。

航海の途中、フランシス・ドレイクは、ホーン岬(Cape Horn)とドレイク海峡(Drake Passage)を発見している。


この航海により、フランシス・ドレイクは、ポルトガル出身の航海者であるフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan:1480年ー1521年)に続く史上2番目の世界一周を達成したのである。

厳密に言うと、フェルディナンド・マゼランは、航海の途中、フィリピン諸島において、原住民との戦闘で亡くなっているので、出港から帰港まで生きて世界一周を達成した船長としては、フランシス・ドレイクの方が、史上初と言えるのではないだろうか?勿論、彼は、イングランド人としては、史上初である。


チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲い、多くの財宝を奪ったフランシス・ドレイクは、イングランドとアイルランドの女王で、テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)を含む出資者全員に対して、4700%の配当金を支払ったと言われている。

この功績により、フランシス・ドレイクは、1580年に英国海軍の中将に任命されるとともに、サーの称号を受けた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) 
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エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


フランシス・ドレイクは、1581年にプリマスの市長に選ばれるが、スペインとの国交悪化により、再び英国海軍提督へと復帰して、スペイン領への攻撃を開始する。

最初の妻であるメアリー・ニューマンを亡くしたフランシス・ドレイクは、1585年に、エリザベス・シデナム(Elizabeth Sydenham)と再婚。

再婚した彼は、1585年から1586年にかけて、スペイン領南アメリカへと大規模遠征を指揮。


フランシス・ドレイクの最大の功績は、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)を、1588年7月から8月にかけ、英仏海峡で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」において、大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだことである。

厳密に言うと、彼は英国艦隊副司令官であったが、実際には、艦隊の指揮を執り、火の付いた船をスペイン艦隊へと突撃させると言う海賊戦法を実践して、相手を壊滅状態へと追い込んだ。

アルマダの海戦により、エリザベス1世は、英国史における最も偉大な勝利者として、認識されるようになった。

また、フランシス・ドレイク自身も、イングランド人にとって、英雄と看做されているが、海賊行為やアルマダの海戦の勝利等から、スペイン人には、悪魔の化身であるドラゴンを意味する「ドラコ(Draco)」と呼ばれたのである。


アルマダの海戦の大勝利後も、フランシス・ドレイクは、英国海軍提督として、スペイン領南アメリカを襲い、多くの財宝を奪ったが、植民地と本土を結ぶスペインのインディアス艦隊(Flota de Indias)を追って、パナマのポルトベロ(Portobelo)の近くに停泊していた際、赤痢に罹り、1596年1月28日に亡くなった。彼の遺体は、鉛の棺に入れられて、ポルトベロ付近に水葬された。


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