2022年8月24日水曜日

ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone) - その2

ウィリアム・ユワート・グラッドストンの銅像 -
ストランド通り(Strand)がフリートストリート(Fleet Street)へと変わる道の中央の浮島にある
セント・クレメント・デーンズ教会(St. Clement Danes Church)の前に、
この銅像は建っている。

英国首相を4回務めたウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年-1898年)であったが、彼にも南アフリカのトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)が関わってくる。


大英帝国によるケープ占領に反発して、アフリカ大陸内陸部へ更なる植民を行なったオランダ系移民の子孫であるボーア人は、1839年にナタール共和国(Natal Republic)を設立するが、1843年に大英帝国の侵攻により潰えてしまう。

その後、ボーア人は、1852年にトランスヴァール共和国を、そして、1854年にオレンジ自由国(Orange Free State)を設立した。大英帝国は、一旦、両国の設立を承認した。



1876年にヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)からビーコンズフィールド伯爵(Earl of Beaconsfield)の爵位を与えられたベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli:1804年-1881年 → 2022年8月14日 / 8月16日付ブログで紹介済)が組閣した第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)下の大英帝国は、南アフリカにあった英国植民地であるケープ植民地(Cape Colony)とナタール植民地(Natal Colony)に、上記のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を加えた計4つの白人植民者共同体を南アフリカ連邦としてまとめることで、好戦的なズールー族をはじめとする先住民の黒人部族に対抗すべく、1876年7月にトランスヴァール共和国と黒人部族ペディ族の間で争いが勃発したことを口実に介入して、1877年4月、(既に領有化していたオレンジ自由国を除くと、残った唯一の)トランスヴァール共和国を併合した。



自由党党首であるウィリアム・ユワート・グラッドストンは、自由主義を唱えるとともに、帝国主義に対して批判的だったため、第二次ディズレーリ内閣の後を受けて組閣された第二次グラッドストン内閣(1880年-1885年)下において、トランスヴァール共和国の再独立が認められるだろうと、独立派の期待が高まっていた。ところが、彼らの期待に反して、ウィリアム・グラッドストンは、政権に就くと、「大英帝国によるトランスヴァールへの統治は放棄しない。」と主張して、態度を翻したのである。

ウィリアム・グラッドストンの翻意に失望したトランスヴァール共和国独立派は、武装蜂起の上、トランスヴァール共和国の独立を宣言、1880年12月に大英帝国と戦争状態に突入した。

これが、第一次ボーア戦争(First Anglo-Boer War:1880年12月16日ー1881年3月23日)に該る。


ズールー戦争時に派遣されていた英国軍のほとんどが既に帰国済であることに加えて、歩兵が横隊陣形を組んで攻撃前進する英国軍に対して、ボーア軍は民兵部隊が主体で、特定の編制を持たず、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用したライフル銃による狙撃を行ったため、ボーア軍に翻弄され、1881年2月27日の戦いにおいて、英国軍は大惨敗した。

英国軍の大惨敗を受け、ウィリアム・グラッドストンは、ヴィクトリア女王、保守党および陸軍省の強硬な姿勢をなんとか抑えて、同年3月23日のプレトリア協定に基づき、ヴィクトリア女王の宗主権付きという条件で、大英帝国はトランスヴァール共和国の再独立をやむを得ず承認することになり、その面目は丸潰れとなった。


その結果、トランスヴァール共和国は、次に勃発する第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日ー1902年5月31日)まで、その独立を保つのである。


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