2022年8月8日月曜日

ボーア戦争(Anglo-Boer War) - その2

アーサー・コナン・ドイルは、
既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできず、
従軍を諦めたが、その代わりに、戦地の南アフリカへ派遣される医療医師団に
参加することに決め、現地入りした。

(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


(2)第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年10月12日ー1902年5月31日)


第一次ボーア戦争(First Anglo-Boer War:1880年12月16日ー1881年3月23日)後も、大英帝国から再独立を果たしたトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)内に、更に豊富な金の鉱脈が発見されたことに伴い、大英帝国の鉱山技師の流入が、ケープ植民地(Cape Colony)経由で続いた。トランスヴァール共和国は、大英帝国から流入した鉱山技師を含む外国人達に対して、投票権を与えず、更に、金産業に重税を課したため、トランスヴァール共和国内では、英国人を含む外国人によるボーア人政府打倒の気運が高まっていた。


南アフリカ南部に対して、帝国主義的な野心を抱いていた保守党の党首で、当時、第三次内閣を組閣していた首相の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)、植民地大臣(Colonial Secretary)を務めていたジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)と1897年に南アフリカ高等弁務官(High Commissioner for South Africa) / ケープ植民地総督(Governor - General of Cape Colony)に任命された初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner, 1st Viscount Milner:1854年ー1925年)は、これを好機と捉えて、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を行うとともに、トランスヴァール共和国に定住した大英帝国臣民に対して、完全に同等な権利を付与するよう、1899年9月、同国に最後通牒を送付した。

そして、南アフリカ高等弁務官 / ケープ植民地総督の初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナーは、南アフリカにおける大英帝国の代表として、ボーア人政府と対立し、同年10月12日に、トランスヴァール共和国内に対して、先端を開いたのである。


英国出身の推理作家であるステュアート・ダグラス(Stuart Douglas)作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵(The further adventures of Sherlock Holmes / The Counterfeit Detective → 2022年7月20日 / 7月27日 / 7月28日付ブログで紹介済)」(2016年)において、ニューヨークに居た偽者のシャーロック・ホームズの背後に暗い影を落としていた「ボーア戦争(Anglo - Boer War)」とは、上記の第二次ボーア戦争のことである。本物のシャーロック・ホームズが、相棒のジョン・H・ワトスンを伴って、英国からニューヨークへと向かったのが、1899年の夏なので、南アフリカにおいて、第二次ボーア戦争が勃発するための火種が燻っていた時期だと言える。


ボーア軍は民兵部隊で、連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体で、特定の編成や陣形を組まず、茂みや地形の起伏等を利用して、敵を射撃するという柔軟で、かつ、臨機応変な攻撃を行ったため、歩兵が密集の上、横隊陣形を組んで攻撃前進する普通のスタイルを採る英国軍はうまく対処することができず、1899年10月から1900年2月にかけて、ボーア軍は、英国軍に対して、攻勢をかけた。


増大する戦死者を目にして、大英帝国内において、インド人等の英領植民地人を代わりに戦地へ送り、英国人の人的損害を減らすべきであるという意見が、各方面で強まった。

そこに、アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が登場する。彼は、当時、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を発表して、ホームズを、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に葬り去った後で、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を開始するまでの約7年半に及ぶ空白の期間であった。

コナン・ドイルは、「タイムズ」紙において、「英国人が一人も戦地へ赴かないで、その代わりを英領植民地の人達に穴埋めさせるのは、名誉にかかわるのではないか?」という主張を展開するとともに、自分自身も英国軍に従軍する決意を固めた。ただ、彼は既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできなかった。そこで、彼は、従軍を諦めたが、その代わりに、戦地へ派遣される50人の医療奉仕団(コナン・ドイルの友人であるジョン・ラングマンが提唱)に医師の一人として参加することに決めたのである。


コナン・ドイルを含む医療奉仕団を乗せたP・O・ラインのオリエンタル号は、1900年3月に英領ケープ植民地の首都ケープランドに到着し、英国軍司令官である初代ロバーツ伯爵フレデリック・ロバーツ(Frederick Roberts, 1st Earl of Roberts:1832年ー1914年)が率いる英国軍の進軍路を辿りつつ、野戦病院において負傷者等の治療に従事した。傷病兵の数は収容しきれない程に増えていき、医療奉仕団の各人は尽力したものの、十分な治療もままならず、多くの兵士が亡くなった。その上、腸チフスが発生した関係で、現地における状況は、更に絶望的になっていったのであった。


ちょうどその頃、増援部隊が大英帝国の本国から到着すると、ロバーツ卿率いる英国軍はボーア軍を遂に打ち破って、反撃に転じ、同年3月13日にオレンジ自由国(Orange Free State)の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)を、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国の首都プレトリア(Pretoria)を陥落させた。

コナン・ドイルは、プレトリアにおいて、ロバーツ卿と会見して、医療奉仕団の活躍を報告した後、プレトリア陥落により、第二次ボーア戦争の大勢は決したと思われたため、当戦争を総括する執筆を行うべく、同年7月に本国への帰国の途に就いたのである。


オレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンとトランスヴァール共和国の首都プレトリアは陥落したものの、大英帝国の支配は、トランスヴァール共和国の北部までには及ばなかった。しかも、英国軍が物理的に支配できたのは、英国軍の分隊が駐在する町や地区のみであった。

25万人居た英国軍兵士では、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の二国が有した巨大な領域を完全に制圧することは物理的に無理で、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができたので、ボーア人指揮官の下、ゲリラ戦のスタイルを採用して、1900年9月以降、非常に活発に活動した。この後、第二次ボーア戦争は、泥沼のゲリラ戦と化していく。

その結果、コナン・ドイルは、1900年8月に本国に帰国した後、「大ボーア戦争(The Great Boer War)」(→発表自体は、1901年)を執筆したものの、「オレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンとトランスヴァール共和国の首都プレトリアの陥落により、第二次ボーア戦争は終結した」という前提で書かれたため、時流に合わないものになってしまったのである。


その後の経緯については、「コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle <Novel Version>) - その6」(2022年7月29日付ブログで紹介済)と「コナン・ドイル作「空き家の冒険」<小説版>(The Empty House by Conan Doyle <Novel Version>) - その7」(2022年8月3日付ブログで紹介済)を御参照願いたい。


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