2022年8月19日金曜日

ティム・シモンズ作「シャーロック・ホームズとスコットニー城のボーア人の死体」(Sherlock Holmes and the Dead Boer at Scotney Castle by Tim Symonds) - その2

英国の MX Publishing 社から
2012年に出版されたティム・シモンズ作
「シャーロック・ホームズとスコットニー城のボーア人の死体」の裏表紙

1904年5月27日の午前、ハドスン夫人が呼んだ馬車がベーカーストリート221B(221B Baker Street)の前に着くと、シャーロック・ホームズは、ジョン・H・ワトスンを急がせる。困惑するワトスンに対して、ホームズは、「(キップリング連盟(Kipling League)の会長で、本人も詩人 / 小説家 / ジャーナリスト / 評論家 / 歴史家でもあるデイヴィッド・ジョーゼフ・シヴィター(David Joseph Siviter)が指定した)午後3時10分の列車ではなく、午前11時50分発の列車で現地へ向かう。」と言う。


現地へ向かう列車の中で、ワトスンは、グラッドストン(Gladstone)人名録で調べた内容について、ホームズに話して聞かせる。


キップリング連盟の会長であるデイヴィッド・ジョーゼフ・シヴィターは、1865年に英国サリー州(Surrey)に生まれ、1902年にクリックスエンド(Crick’s End)に落ち着く前は、1889年からアフリカのアディスアババ(Addis Ababa)に定住し、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年-1902年)を取材して、新聞に記事を載せている。彼には、詩人 / 小説家 / ジャーナリスト / 評論家 / 歴史家という顔の他に、帝国主義者という側面もあるようだ。

また、スタンリー・ヴァン・ビール子爵(Viscount Stanley Van Beers)は、ドイツ系で、1854年に出生し、オックスフォード大学(Oxford University)を卒業している。1897年に南アフリカ長官(高等弁務官:Commissioner for South Africa)とケープ植民地総督(Governor-General of Cape Colony)に任命され、トランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic)に定住した大英帝国臣民に同等な権利を付与することを求めて、1899年に第二次ボーア戦争の戦端を開いている。

一方、キップリング連盟は、1889年に設立され、当初は、ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年 → 2018年12月16日 / 12月22日 / 12月30日付ブログで紹介済)の著作品を崇拝する読書サークルのような集まりであったが、1902年頃までに、キップリングが唱える「帝国主義による植民地支配(Conservative colonial agenda)」を宣伝する団体へと、その性格を変えていた。


ホームズとワトスンは、今回の招待について、何かキナ臭いものを感じるのであった。


キップリング連盟のメンバー達への犯罪学の講義を終えて、駅に戻ったホームズとワトスンの二人は、ロンドンのチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)へと戻るため、列車を待っていた。

そこへ新聞売りの少年の声が響く。「スコットニー城(Scotney Castle)で死体が見つかった!」と。ホームズが売り子から夕刊「イーヴニングスタンダード(Evening Standard)」を購入する。

ケント州(Kent)とサセックス州(Sussex)の境界にあるランバーハースト村(Lamberhurst)の近くにあるスコットニー城の湖の中に、男性の死体が沈んでいるのが、今日の午後4時頃に発見された、とのこと。男性は50歳位で、身なりの良い服装だったが、身元を示すものは所持していなかった。現場付近には、争ったような跡はなく、自殺の可能性はあるものの、敷地を横切る際に起きた事故だと思われた。


この事件に興味を覚えたホームズは、ロンドンへ戻ることを取り止めて、現場へと向かい、事件を捜査することに決める。


これが、ホームズが先程まで犯罪学の講義をしていたキップリング連盟の暗部を暴くことになるとは…


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