2022年8月5日金曜日

ボーア戦争(Anglo-Boer War) - その1

大英英国軍に応戦するボーア軍
(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)

英国出身の推理作家であるステュアート・ダグラス(Stuart Douglas)作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 偽者の探偵(The further adventures of Sherlock Holmes / The Counterfeit Detective → 2022年7月20日 / 7月27日 / 7月28日付ブログで紹介済)」(2016年)において、ニューヨークに居た偽者のシャーロック・ホームズの背後に暗い影を落としていた「ボーア戦争(Anglo-Boer War)」とは、19世紀後半から20世紀初めにかけて、大英帝国が、ボーア人(オランダ系移民の子孫)が建国したトランスヴァール共和国(Republic of Transvaal → 正式名:South African Republic) / オレンジ自由国(Orange Free State)との間で、南アフリカの植民地化を争った戦争である。なお、ボーア戦争は、第一次ボーア戦争と第二次ボーア戦争の二度にわたっている。


このボーア戦争を通じて、大英帝国は、積極的に帝国主義を押し進め、自国の強化 / 拡大に成功したが、一方で、英国軍が大損害を蒙ったこと、また、特に、第二次ボーア戦争時に非人道的な焦土作戦や収容所戦略等を実施したことにより、内外から批判を浴びる等、大英帝国が払った代償は非常に大きかった。


(1)第一次ボーア戦争(First Anglo-Boer War:1880年12月16日ー1881年3月23日)


17世紀頃にオランダ系移民が南アフリカのケープ植民地に入植した後、その子孫であるボーア人達は、南アフリカ南部を狙う大英帝国と激しく対立したが、大英帝国がケープ植民地(Cape Colony)を占領したことに伴い、ボーア人達は新天地を求めて、アフリカ大陸の内部へと移動した。


アフリカ大陸の内部へと移動したボーア人達は、1839年にナタール共和国(Natal Republic)を設立するが、1843年に大英帝国の侵攻により潰えた。

その後、彼らは、1852年にトランスヴァール共和国を、そして、1854年にオレンジ自由国を設立した。大英帝国は、両国の設立を一旦は承認していた。


1860年代に入ると、トランスヴァール共和国で金鉱山が、また、オレンジ自由国でダイヤモンド鉱山が発見され、大英帝国等から鉱山技師が大量に流入した。


保守党党首である初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl if Beaconsfield:1804年ー1881年)が組閣した第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)下の大英帝国は、南アフリカにあった英国植民地であるケープ植民地とナタール植民地(Natal Colony)に、上記のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の計4つの白人植民者共同体を南アフリカ連邦としてまとめることで、好戦的なズールー族をはじめとする先住民の黒人部族に対抗することを考えていた。

そのため、大英帝国は、鉱山技師の保護を大義名分に、オレンジ自由国を領有化したことに続き、1876年7月にトランスヴァール共和国と黒人部族ペディ族の間で争いが勃発したことを口実に介入して、1877年4月にトランスヴァール共和国を併合した。


1877年4月にトランスヴァール共和国を大英帝国に併合した
ヴィクトリア女王と初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ


自由党党首であるウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年-1898年)は、自由主義を唱えるとともに、帝国主義に対して批判的だったため、第二次ディズレーリ内閣の後を受けて組閣された第二次グラッドストン内閣(1880年-1885年)下において、トランスヴァール共和国の再独立が認められるだろうと、独立派の期待が高まっていた。ところが、彼らの期待に反して、ウィリアム・グラッドストンは、政権に就くと、「大英帝国によるトランスヴァールへの統治は放棄しない。」と主張して、態度を翻したのである。

ウィリアム・グラッドストンの翻意に失望したトランスヴァール共和国独立派は、武装蜂起の上、トランスヴァール共和国の独立を宣言、1880年12月に大英帝国と戦争状態に突入した。

これが、第一次ボーア戦争(1880年12月16日ー1881年3月23日)に該る。


1880年12月16日、トランスヴァール共和国との間で、
第一次ボーア戦争を始めたウィリアム・ユワート・グラッドストンの銅像 -
ストランド通り(Strand)がフリートストリート(Fleet Street)へと変わる道の中央の浮島にある
セント・クレメント・デーンズ教会(St. Clement Danes Church)の前に、
この銅像は建っている。


ズールー戦争時に派遣されていた英国軍のほとんどが既に帰国済であることに加えて、歩兵が横隊陣形を組んで攻撃前進数英国軍に対して、ボーア軍は民兵部隊が主体で、特定の編制を持たず、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用したライフル銃による狙撃を行ったため、ボーア軍に翻弄され、1881年2月27日の戦いにおいて、英国軍は大惨敗した。

英国軍の大惨敗を受け、ウィリアム・グラッドストンは、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年-1901年 在位期間:1837年ー1901年)、保守党および陸軍省の強硬な姿勢をなんとか抑えて、同年3月23日のプレトリア協定に基づき、ヴィクトリア女王の宗主権付きという条件で、大英帝国はトランスヴァール共和国の再独立をやむを得ず承認することになり、その面目は丸潰れとなった。


その結果、トランスヴァール共和国は、次に勃発する第二次ボーア戦争(1899年10月12日ー1902年5月31日)まで、その独立を保つのである。


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