2022年5月8日日曜日

コナン・ドイル作「最後の事件」<小説版>(The Final Problem by Conan Doyle ) - その2

英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1893年12月号に掲載された挿絵(その4) -
シャーロック・ホームズの指示通り、
複雑な経路での移動後、ヴィクトリア駅に到着したジョン・H・ワトスンは、
ホームズに指定された列車の客室に入ると、
そこには、ホームズの姿はなく、
代わりに、イタリア人の老神父がいるだけだった。

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)

1891年4月24日の晩、ジョン・H・ワトスンの医院に、突然、姿を現したシャーロック・ホームズは、ワトスンに対して、驚くべき話を始めた。


彼の宿敵で、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)を含めた一味が彼が仕掛けた罠に嵌って、スコットランドヤードが一網打尽にするまでの間、ホームズは、ワトスンと一緒に、欧州大陸へと身を隠すことにしたのである。ホームズは、ヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)から欧州大陸へ向かう計画であった。

ワトスンは、ホームズの頼みを快く引き受けると、今夜は泊まっていくように勧めたが、ホームズは、ワトスン一家に迷惑が及ぶことを懸念して、辞退する。翌日(1891年4月25日)にヴィクトリア駅で合流する方法について、早口で説明すると、ホームズは、庭からモーティマーストリート(Mortimer Street → 2015年6月6日付ブログで紹介済)へと続く塀を乗り越えると、直ぐに笛を吹いて、ハンサム型馬車(二人乗り一頭立て二輪の辻馬車)を呼んだ。庭に居るワトスンには、ホームズが馬車に乗って去って行く音が聞こえた


ホームズの指示通り、ワトスンは、その夜、欧州大陸へ持って行く荷物を、宛先なしでヴィクトリア駅へと発送した。

そして、翌朝、ワトスンは、ハンサム型馬車(hansom:二人乗り一頭立て二輪の辻馬車)を呼び、それに飛び乗ると、ロウザーアーケード(Lowther Arcade → 2015年5月30日付ブログで紹介済)のストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)側へと向かった。勿論、これも、ホームズの指示通り、やって来た馬車のうち、最初と2番目の馬車は避けた。

馬車がロウザーアーケードのストランド通り側に停まると、ワトスンはアーケードを駆け抜けて、午前9時15分にアーケードの反対側に着き、そこに待っていた小型のブルーム型馬車(brougham:一頭立て四輪箱馬車)に乗り込むと、無事、ヴィクトリア駅へと向かうことができた。

実に、複雑な経路での移動であった。


ホームズに指定された列車の客室(=先頭から2番目の一等室)にワトスンが入ると、そこには、ホームズの姿はなく、イタリア人の老神父(Italian priest)が居るだけだった。

発車の寸前、イタリア人の老神父が変装を解くと、それはホームズだった。驚くワトスンに対して、ホームズは、用心のための変装だと説明した。更に驚くことに、動き出した列車の窓から、プラットフォームに立つ人達を掻き分けて、列車を止めようとして追い縋るモリアーティー教授の姿が見えた。ホームズとワトスンは、モリアーティー教授の追跡から、ギリギリで逃れることに成功したのだった。


とりあえず一安心のホームズは、ワトスンに、

(1)昨夜、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)の部屋が、モリアーティー教授の一味に放火されたこと

(2)ロウザーアーケードからヴィクトリア駅までワトスンを乗せたブルーム型馬車の大柄な御者は、兄のマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)であったこと

等を説明した後、ヴィクトリア駅で自分達を捕らえられなかったモリアーティー教授は、特別列車を用意させて、自分達を追跡してくるものと予想した。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1893年12月号に掲載された挿絵(その5) -
ヴィクトリア駅でホームズを捕らえそこなった
ジェイムズ・モリアーティー教授は、
特別列車を用意させて、ホームズを追跡した。
ホームズとワトスンの二人は、荷物を列車内に残したまま、
途中駅のカンタベリーで下車して、
モリアーティー教授を乗せた特別列車を遣り過ごした。

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)

このままでは、港において欧州大陸へと向かう船を待つ間に、モリアーティー教授に追いつかれると考えたホームズは、途中駅で降りて、姿を隠し、モリアーティー教授を遣り過すことに決めた。荷物を列車内に残したまま、ホームズとワトスンは、途中駅のカンタベリー(Canterbury)で下車して、身を隠していると、モリアーティー教授を乗せた特別列車が彼らの前を走り抜けて行ったのである。


モリアーティー教授の追跡を再度逃れたホームズとワトスンの二人は、当日の夜、ブリュッセル(Brussels)に辿り着くと、そこで2日間滞在して、3日後にストラスブール(Strasbourg)へ移動した。

ストラスブールからロンドンのスコットランドヤードに電報で連絡を取ったホームズは、その夜、モリアーティー教授の一味を一網打尽にすることはできたものの、残念ながら、モリアーティー教授を取り逃がしてしまったことを知るのであった。


モリアーティー教授は、全てを投げ打ってでも、自分に対して復讐をすると考えたホームズは、自分への危害がワトスンの身にも及ぶことを案じ、彼に対して、ロンドンへと戻るように勧めるが、ワトスンとしては、ホームズの勧めを受け入れる気は全くなく、最後までホームズに同行するつもりだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1893年12月号に掲載された挿絵(その6) -
モリアーティー教授の追跡を逃れるべく、
ホームズとワトスンの二人は、
ストラスブールを出発して、ジュネーヴへと向かった。

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)

ホームズとワトスンの二人は、旅を再開することにして、ジュネーヴ(Geneva)へと向かうことに決めた。彼らは旅を続け、1891年5月3日にスイスのマイリンゲン(Meiringen)に到着して、そこで一泊する。


そして、翌日の同年5月4日、運命の日を迎えるのであった。


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