2022年5月11日水曜日

コナン・ドイル作「最後の事件」<小説版>(The Final Problem by Conan Doyle ) - その3

英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1893年12月号に掲載された挿絵(その7) -
1891年5月4日の午後、
マイリンゲンを出発したシャーロック・ホームズと
ジョン・H・ワトスンの二人は、
宿の主人ピーター・ステイラーの勧めに従って、
ローゼンラウイへの向かう途中、
ライヘンバッハの滝を見物して行くことにした。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)


シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は、旅を再開することにして、ストラスブール(Strasbourg)からジュネーヴ(Geneva)へと向かうことに決めた。彼らは旅を続け、1891年5月3日にスイスのマイリンゲン(Meiringen)に到着して、ピーター・ステイラー(Peter Steiler)という老人が経営する宿「イングリッシュホフ(Englischer Hof)」で一泊した。


そして、翌日の同年5月4日、運命の日を迎える。

その日の午後、ホームズとワトスンの二人は、丘を越えて、ローゼンラウイ(Rosenlaui)の村に泊まる予定で出発した。二人は、ローゼンラウイへ向かう途中、ライヘンバッハの滝(Reichenbach Falls)に寄って行くよう、宿の主人から念を押されていた。

滝を見物する二人の元へ、スイス人の若者が、ピーター・ステイラーからの手紙を携えて、やって来た。手紙によると、末期の結核を患っている英国人女性が宿に到着したが、喀血して非常に危険な状態で、同国人の医師であるワトスンに診察をお願いしたい、とのことだった。

ワトスンとしては、ホームズ一人を残していくことに躊躇したが、人命救助を優先して、マイリンゲンの村へと引き返すことに決めた。ワトスンは、英国人女性の診察後、ホームズを追いかけ、夕方、ローゼンラウイでホームズと合流することにした。

ワトスンがマイリンゲンの村へと引き返す途中で振り返ると、ホームズは、岩に寄り掛かって、腕組みをしながら、滝を眺めているのが見えた。実は、ピーター・ステイラーからワトスンへの手紙は、ホームズの宿敵で、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)が書いた偽物で、ホームズを一人にするためのものであることが、後で判明する。そして、ライヘンバッハの滝を眺める姿が、ワトスンが見たホームズの最後の姿となったのである。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1893年12月号に掲載された挿絵(その8) -
偽の手紙に気付いて、マイリンゲンから
ライヘンバッハの滝へと戻ったワトスンであったが、
そこにホームズの姿はなく、
登山杖が道に突き出した岩に立て掛けられており、
側には、ホームズ愛用の銀の煙草入れと
ノートから破り取られた紙3枚(ワトスンへの手紙)が置かれてあった。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)


1891年7月の「ボへミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を皮切りに、
「ストランドマガジン(Strand Magazine)」にほぼ毎月ホームズ作品を連載していたサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)であったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野において発揮/ 評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。

ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、ドイルは、ホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。

そこで、彼は、1893年12月の「最後の事件(The Final Problem)」において、モリアーティ教授と一緒に、ホームズをライヘンバッハの深い滝壺の中に葬ってしまったのである。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1893年12月号に掲載された挿絵(その9) -
ライヘンバッハの滝の断崖絶壁において、
ホームズが、復讐のために、
彼をここまで追跡して来たジェイムズ・モリアーティー教授と
命を賭けて格闘する場面が描かれている。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット(1860年 - 1908年)


「最後の事件」が「ストランドマガジン」に掲載された際、読者は大いに嘆き悲しみ、ロンドン市民は正式な喪に服すべく、黒い腕章を身につけたとのことである。更に、2万人以上の読者が「ストランドマガジン」の購読を中止した上、何千通もの抗議の手紙が出版社宛に届けられたそうである。更に、ドイルに対しても、抗議、非難や中傷の手紙が多数送り付けられた。

しかしながら、ドイルの決意は固く変わらず、長期間に渡り、読者や出版社からの要望を拒否し続け、ホームズが復活することはなかったのである。


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