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水力工学技師のヴィクター・ハザリーが、 パディントン駅の近くにあるジョン・H・ワトスンを訪れた場面 - アーサー・コナン・ドイルの原作通り、 ワトスンの机に置かれた本の上に、ヴィクター・ハザリーの帽子が置かれている。 |
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「技師の親指(The Engineer’s Thumb → 2025年8月22日 / 8月24日 / 8月27日 / 8月28日 / 8月29日付ブログで紹介済)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、9番目に発表した作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1892年3月号に掲載された。
同作品は、1892年に発行されたホームズシリーズの第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」に収録されている。
「技師の親指」について言うと、以下のような奇妙な点や矛盾点がある。
(1)
1889年の夏の午前7時前、今回の事件の依頼人である水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)が手を負傷して、「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月2日付ブログで紹介済)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院へ運び込まれるところから、物語が幕を開ける。
メイドに起こされたワトスンが診察室に入ると、テーブルの側に一人の紳士が座っていた。彼は灰色がかった紫のツイード服を着ており、私の本の上に柔らかい布製の帽子が置かれていた。彼は片手にハンカチを巻いていたが、ハンカチ全体に血が滲んでいた。(I entered my consulting-room and found a gentleman seated by the table. He was quietly dressed in a suit of heather tweed with a soft cloth cap which he had laid down upon my books. Round one of his hands he had a handkerchief wrapped, which was mottled all over with blood stains.)
つまり、ヴィクター・ハザリーは、帽子を持っていたことになる。
しかし、彼は、故障した水圧機(hydraulic press)を修理する時には、帽子を冠っておらず、また、屋敷から逃げ出す際にも、帽子を取って来る時間はなかった筈である。
だとすると、ヴィクター・ハザリーが、切断された親指の治療のために、ワトスンの医院を訪れた時に持っていた帽子は、何処から出現したのだろうか?
米国ウィスコンシン州の Eureka Productions 社が2005年に発行した「Graphic Classics : Arthur Conan Doyle (Revised Second Edition)」の中に収録されている「技師の親指」のグラフィックノベル版(米国オクラホマ州(State of Oklahoma)オクラホマシティー(Oklahoma City)にベースを置くフリーランスの作家であるロッド・ロット(Rod Lott)が構成を、そして、英国のバース(Bath)ベースを置くイラストレーターであるサイモン・ゲイン(Simon Gane)が作画を担当)の場合、水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリーが、ライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)の指示通り、パディントン駅から、レディング(Reading)経由、アイフォード駅(Eyford Station)に着いた時点から、帽子を冠っている。そして、故障した水圧機(hydraulic press)を修理する時には、上着の左側のポケットに、帽子を丸めて入れている。以降、ライサンダー・スターク大佐の屋敷から逃げ出した際にも、帽子は上着の左側のポケット内に入っているので、「技師の親指」のグラフィックノベル版は、この疑問点をうまい具合に解消していると言える。
ヴィクター・ハザリーが、シャーロック・ホームズ、ワトスンとスコットランドヤードのブラッドストリート警部(Inspector Bradstreet)と一緒に、アイフォード駅に再度降り立った際にも、引き続き、帽子を冠っている。
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ヴィクター・ハザリーが、ライサンダー・スターク大佐の指示通り、 パディントン駅から、レディング経由、アイフォード駅に着いた場面 |
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ライサンダー・スターク大佐に案内された部屋において、 ヴィクター・ハザリーが一人で待っている場面 |
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ヴィクター・ハザリーは、修理を依頼された水圧機の床の溝に、 活性白土ではなく、金属の沈殿物を見つける。 ライサンダー・スターク大佐が彼に話した内容 (活性白土の掘り出し)は、全くの偽りだったのである。 秘密を知られたライサンダー・スターク大佐は、 ヴィクター・ハザリーを水圧機の中に残したまま、機械を作動させた。 水圧機の中に閉じ込められたヴィクター・ハザリーが、 絶体絶命の危機に陥った場面が描かれている。 |
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屋敷から逃げ出す際、ライサンダー・スターク大佐の肉切り包丁で左手の親指を切り落とされた ヴィクター・ハザリーは、地面に落下して気を失いかけたが、 気力を振り絞って、庭の薔薇の茂みの陰に隠れ、そこで気絶。 暫くして目を覚ますと、彼は、屋敷の庭ではなく、幹線道路近くの生け垣の角に寝かされていた。 そこから少し下りると、そこには、昨夜、彼が下車したアイフォード駅があった と言う場面が描かれている。 |
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ヴィクター・ハザリーが、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスンと スコットランドヤードのブラッドストリート警部と一緒に、 アイフォード駅に再度降り立った際にも、帽子を冠っている場面が描かれている。 |
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屋敷の窓から地面に落下した後、庭の薔薇の茂みの陰に隠れ、そこで気絶したヴィクター・ハザリーが、 暫くして目を覚ますと、屋敷の庭ではなく、幹線道路近くの生け垣の角に寝かされていた訳を、 シャーロック・ホームズが解き明かす際にも、 ヴィクター・ハザリーが帽子を冠っている場面が描かれている。 |
(2)
シドニー・エドワード・パジェットによる挿絵によると、ヴィクター・ハザリーは、左手を負傷しているように描かれているが、コナン・ドイルの原作上、彼が負傷した手が左手なのか、それとも、右手なのかについては、明確に言及されていない。
「技師の親指」のグラフィックノベル版の場合、シドニー・エドワード・パジェットによる挿絵に準拠している。
(3)
ヴィクター・ハザリーが屋敷から逃げ出そうとして、両手で窓枠にぶら下がった際、ライサンダー・スターク大佐が振り下ろした肉切り包丁で、親指を切り落とされている。(I had let myself go, and was hanging by my hands to the sill when his blow fell.)
窓枠から両手でぶら下がっている状態の指の位置から考えると、左手の親指も、また、右手の親指も、空中にあるか、もしくは、窓枠にあったとしても、他の4本の指よりも下の位置にあった筈である。
従って、ライサンダー・スターク大佐が肉切り包丁でヴィクター・ハザリーの左手の親指だけをうまい具合に切り落とすことは、かなり難しいものと思われる。仮にヴィクター・ハザリーの左手の親指を切り落とした場合、左手の他の部分にも、怪我があってもおかしくない。
シドニー・エドワード・パジェットによる挿絵によると、ヴィクター・ハザリーは、左手だけで窓枠からぶら下がっているので、コナン・ドイルの原作の内容とは一致していないと言える。
「技師の親指」のグラフィックノベル版の場合、屋敷から逃げ出す際、ライサンダー・スターク大佐の肉切り包丁により、ヴィクター・ハザリーが左手の親指を切り落とされた場面については、左手の親指だけが切り落とされるように、絵的にうまく処理している。
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屋敷の窓から逃げ出す際、ライサンダー・スターク大佐の肉切り包丁により、 ヴィクター・ハザリーが左手の親指を切り落とされる場面が描かれている。 |
(4)
ヴィクター・ハザリーがライサンダー・スターク大佐に連れて来られた屋敷の火事の原因(ホームズによると、水圧機内で潰されたランプ)や火事の燃え方(未明から日没近くまで燃え続けた)が現実的ではない。
「技師の親指」のグラフィックノベル版の場合、屋敷の火事の原因については、左下のコマで、ホームズがヴィクター・ハザリーに対して言及しているが、火事の燃え方に関しては、全く言及されていない。
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燃えさかる屋敷の炎を消火しようと努力する消防士が、 切り落とされた(左手の)親指が窓枠の上に残されていることを 見つける場面が描かれている。 |
(5)
消防士達は、3階の窓枠の上に、ヴィクター・ハザリーの切り落とされた親指を見つけている。(The firemen had been much perturbed at the strange arrangements which they had found within, and still more so by discovering a newly severed human thumb upon a windowsill of the second floor.)
ヴィクター・ハザリーがライサンダー・スターク大佐に連れてかれた屋敷の焼け跡が完全な廃墟になったにもかかわらず、彼の親指が判別のつく形で見つかっていること自体、疑問である。
「技師の親指」のグラフィックノベル版の場合、消火活動中に、消防士がヴィクター・ハザリーの切り落とされた(左手の)親指が残されていることを見つける経緯に変更されており、コナン・ドイルの原作とは異なり、完全な廃墟となった屋敷の焼け跡から、ヴィクター・ハザリーの切り落とされた(左手の)親指が発見された訳ではない。

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